(随時更新)今日の武将・戦国武将を毎日一人ずつ御紹介

1522‐64(大永2‐永禄7)
戦国時代の武将。
はじめ利長,範長と名のる。
伯陽軒と号する。
法号聚光院。
阿波芝生(しぼう)城に生まれる。
幼名千熊丸,孫次郎。
堺公方府の山城守護代で阿波の名族三好元長の嫡男。
32年(天文1)父元長が堺顕本寺で敗北したとき阿波に逃れ,翌年12歳の幼少ながら三好軍を率いて早くも畿内戦線に登場,本願寺と細川晴元の和議を調停したりしている。
34年末には摂津守護細川晴元の被官となり,越水城(現,西宮市)主,摂津守護代の地位を与えられ,40年丹波八上城(現,兵庫県多紀郡篠山町)主波多野秀忠の女をめとった(のち河内守護代遊佐信教の女と再婚)。
三好長慶(みよし ちょうけい)とは – コトバンク

細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立する。
その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。
織田信長に先行する「最初の戦国天下人」とも呼ばれる存在だが、現代での評価は芳しくなく、重臣・松永久秀と共に「下剋上をした悪党」として酷評されたり、「松永久秀の専横、壟断を許した凡庸な大名」と評されている。
三好長慶 – Wikipedia

六角義賢(六角承禎) 2017/6/15(木)

六角義賢(六角承禎)
六角 義賢 / 六角 承禎は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。南近江の守護大名・戦国大名。観音寺城主。

(1521―1598)
南近江(みなみおうみ)の戦国大名。
六角定頼(さだより)(佐々木定頼)の子。
佐々木義賢ともいう。
蒲生(がもう)郡観音寺(かんのんじ)城を居城とした。
父とともに将軍足利義晴(あしかがよしはる)および義輝(よしてる)を奉じて、京都や近国で三好(みよし)氏や長野氏と戦い、戦国期の政争に関与した。
1552年(天文21)に父の死により家督を継いだ。
1558年(永禄1)足利義輝を奉じて、京都白河で三好長慶(ながよし)と戦い、和議が成立して、義輝を二条城に入れることに成功した。
家督を子の義弼(よしすけ)(のち義治(よしはる))に譲り、剃髪(ていはつ)して抜関斎承禎(ばっかんさいじょうてい)と称した。
その後も実権を握り、京都に再三出兵したが、63年(永禄6)の重臣後藤但馬守(たじまのかみ)父子を殺害した観音寺騒動により、家臣団への統制力は弱まった。
また、北近江の浅井氏の勢力が増しており、68年には、足利義昭(よしあき)を奉じて上洛(じょうらく)する織田信長の前に城を去り、甲賀(こうが)山中に退き、以後勢力を回復できなかった。
六角義賢(ろっかくよしかた)とは – コトバンク

黒田孝高(黒田官兵衛・如水) 2017/6/14(水)

黒田孝高(黒田官兵衛・如水)
黒田 孝高は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱は初め祐隆、孝隆、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水として広く知られる。

没年:慶長9.3.20(1604.4.19)
生年:天文15(1546)
戦国・安土桃山時代の武将。
通称の官兵衛および出家剃髪してからの如水の名で知られる。
播磨姫路城主小寺職隆(黒田姓)の子。
母は小寺政職の養女(明石宗和の娘)。
幼名万吉。
織田信長の勢力が播磨におよんできたとき,父と共に主家である御着城城主の小寺政職に信長につくことを勧め,天正5(1577)年,豊臣秀吉を姫路城に迎えた。
翌6年,荒木村重が信長に背いたとき,単身摂津有岡城に乗りこんで説得に当たったが捕らえられ,城中に抑留されるが,翌年,信長により有岡城が落ちたとき救出され,以後,秀吉に重く用いられることになった。
小寺からもとの黒田姓にもどったのもこのころのことである。
黒田孝高(くろだよしたか)とは – コトバンク

秀吉に居城姫路城を譲り,自らは国府山城(姫路市)を居城とした。
天正10年,清水宗治の拠る備中高松城を攻めるとき,地形を見て水攻めが有効であることを秀吉に献策した。
本能寺の変で信長が殺されたことを知って途方にくれる秀吉に,「天下を取る好機」とけしかけたのは孝高だったといわれている。
その後,山崎の戦,賤ケ岳の戦,そして四国攻めと戦功をあげ,同14年には秀吉本隊の出陣を前に軍奉行として九州に渡り,九州の諸大名に対する勧降工作を精力的に行っている。
九州攻め後,豊前中津城12万石を与えられたが,17年には家督を子長政に譲っている。
しかし,まったく隠居したわけではなく,翌18年の小田原攻めにも軍師として従軍し,このときも小田原城に乗りこみ,北条氏政・氏直父子に会って無血開城の説得を行っている。
慶長5(1600)年の関ケ原の戦のときは子の長政と共に東軍に属し,長政は家康に従って関ケ原に出陣していた。
豊後中津城で留守を守っていた孝高は,浪人を傭い入れ,旧領回復に動き出した大友吉統の兵と石垣原で戦い,これを破っている。
黒田孝高(くろだよしたか)とは – コトバンク

なお孝高はドン・シメオンの洗礼名を持つキリシタン大名でもあり,また千利休に茶の湯を学び,利休の茶の湯伝書のひとつ『黒田如水茶湯定書』を著している。

柴田勝家 2017/6/13(火)

柴田勝家
柴田 勝家は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。
生年月日: 1522年
生まれ: 尾張国
死亡: 1583年6月14日, 福井県 福井市
配偶者: お市の方 (1582年 – 1583年)

[生]大永2(1522).尾張
[没]天正11(1583).4.24. 越前,北庄
安土桃山時代の武将。
権六,のち修理亮と称した。
初め織田信長の弟信行に仕え,織田家の老臣林信勝とともに信行の擁立をはかったが失敗し,信長の家臣となった。
たびたび戦功をあげ,信長麾下第1の猛将といわれ,重臣として勢威を保った。
天正3 (1575) 年信長から北陸経営をまかされ,越前北庄 (きたのしょう) に拠って加賀,能登を平定。
同 10年越中に攻め入り越後の上杉景勝と対陣中,本能寺の変が起り,豊臣秀吉に明智光秀討滅の功を譲った。
織田氏の後嗣問題で秀吉と対立,同 11年4月これを除こうとして近江賤ヶ岳で戦ったが,逆に敗れ,居城北庄で妻小谷の方とともに自殺した。
柴田勝家(しばたかついえ)とは – コトバンク

小谷の方=信長の妹=元は浅井長政の妻

朝倉義景 2017/6/12(月)

朝倉義景
朝倉 義景 は、戦国時代の武将。越前国の戦国大名。越前朝倉氏第11代の当主。

[生]天文2(1533).越前
[没]天正1(1573).8.20. 越前
戦国大名。
孝景の子。
初め孫次郎延景と称し,天文 21 (1552) 年将軍足利義輝の偏諱を得て義景。
同 17年父の死により跡を継ぎ一乗谷城主。
加賀,能登,越前の一向一揆と戦ったが,義輝の命によりこれと和し越前を平定。
永禄9 (66) 年,彼を頼った足利義昭を迎えることができなかったことから,以後織田信長を頼った義昭と対立。
義昭は同 11年上洛,将軍職についたが,義景は信長とも対立し,元亀1 (70) 年には浅井氏と連合して,姉川で織田,徳川連合軍と戦ったが大敗を喫し (→姉川の戦い ) ,さらに天正1 (73) 年,信長の攻撃を受け,居城一乗谷に火を放ち,越前大野で自刃。
義景は歌を二条浄光院に学び,また京風文化を一乗谷に移し,ここを小京都たらしめた。
朝倉義景(あさくらよしかげ)とは – コトバンク

今川義元 2017/6/11(日)

今川義元
今川 義元は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。

1519-1560 戦国時代の武将。
永正(えいしょう)16年生まれ。
今川氏親の子。
母は寿桂尼。
兄氏輝の死で駿河(するが)・遠江(とおとうみ)(静岡県)を領国とする家督をつぐ。
太原崇孚(たいげん-そうふ)に補佐され,織田氏を攻め三河(愛知県)も支配,今川家の全盛時代をきずく。
北条氏康,武田信玄と三国同盟をむすんで東方を安定させたのち,永禄(えいろく)3年西へむかい尾張(おわり)(愛知県)に侵入。
織田信長の奇襲をうけ,桶狭間(おけはざま)で同年5月19日討ち死にした。
42歳。
今川義元(いまがわよしもと)とは – コトバンク

[生]永正16(1519)
[没]永禄3(1560).5.19. 尾張,田楽狭間

北条氏政 2017/6/10(土)

北条氏政
北条 氏政は、戦国時代の相模国の戦国大名・武将。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘瑞渓院。子に北条氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。

[生]天文7(1538)
[没]天正18(1590).7.11. 小田原
戦国大名。
後北条氏4代目。
氏康の嫡子。
母は今川氏親の娘。
室は武田信玄の娘。
法号は慈雲院松巌宗傑。
永禄7 (1564) 年1月父氏康に従って安房の里見義弘を下総国府台に破ったのをはじめとして,7月には太田資正を武蔵岩槻城に攻め,同 12年1月上杉輝虎 (謙信) と和を結んで武田信玄と駿河で対戦した。
元亀2 (71) 年にもたびたび武田軍と戦ったが,やがて信玄が三河の徳川家康を攻めると,氏政は兵を常陸,上総などに出し,佐竹氏,簗田氏などと戦った。
天正7 (79) 年9月家康と和を結んだ氏政は武田勝頼と駿河黄瀬川で対陣し,武田氏を滅亡に導いた。
同8年氏政は氏直に家督を譲り,その後見役として権力をふるったが,東国の雄としての自負心から秀吉の上洛勧告に応じず,同 18年の小田原征伐にあい,3ヵ月余の奮戦ののち,ついに開城,子の氏直は助命されたが,氏政は責を負って自刃。
北条氏政(ほうじょう うじまさ)とは – コトバンク

長宗我部元親 2017/6/9(金)

長宗我部元親
長宗我部 元親は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年には正三位が贈られた。 長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。

[生]天文8(1539).土佐
[没]慶長4(1599).5.19. 伏見
戦国時代の大名。
国親の子,幼名,弥三郎。宮内少輔。
永禄3 (1560) 年家督を継ぎ,本山氏をはじめ土佐の諸豪族を倒して勢力を得,国司家一条氏を追放して,天正3 (75) 年土佐を統一した。
さらに阿波三好氏,讃岐香川氏,伊予河野氏などの土豪を次々と滅ぼし,同 11年四国全域を支配した。
しかしその前年からたびたび織田信長に攻撃され,同 13年ついに豊臣秀吉の四国征伐に屈服してその支配下に入り,土佐一国を安堵 (あんど) された。
その後九州征伐,小田原征伐,文禄・慶長の役,朝鮮出兵に従軍して国力を疲弊させた。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)とは – コトバンク

片倉景綱(片倉小十郎) 2017/06/08(木)追加

片倉景綱(片倉小十郎)
片倉 景綱は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。伊達氏の家臣。伊達政宗の近習となり、のち軍師的役割を務めたとされる。仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称「小十郎」は代々の当主が踏襲して名乗るようになった。

没年:元和1.10.14(1615.12.4)
生年:弘治2(1556)
戦国末・江戸前期の伊達家臣。
八幡宮神主片倉景重の次男,母は本沢真直の娘。
出羽国置賜郡下長井宮村(山形県長井市宮)生まれ。
小十郎,備中と称す。
米沢城主伊達輝宗の従小姓から天正3(1575)年嗣君梵天丸(政宗)の傅となって以降,常に政宗に近侍し,政宗の軍略にはいつも伊達城実とこの景綱が関与し,天下の名陪臣と称さる。
摺上原などの諸合戦に功があり,18年には豊臣秀吉の小田原陣に政宗を説いて斬死覚悟で共に参陣。
秀吉の朝鮮出兵にも政宗に従軍。
初め大森城から亘理城へ,慶長7(1602)年に白石城1万3000石を拝領。
墓は宮崎県白石市の片倉家廟所にある。
片倉景綱(かたくらかげつな)とは – コトバンク

片倉と真田とのつながり・・・大阪の夏の陣において真田信繁の次男の大八(真田守信)は片倉家の元で姉達と共に保護され、後に元服し片倉守信となった。これが仙台真田家として現在も続く事となる。また,片倉小十郎の息子の片倉重長は真田信繁の娘を継室にしている。

松永久秀(松永弾正) 2017/06/07(水)追加

松永久秀(松永弾正)
何度も信長を裏切った男

初め三好長慶に仕えたが、奈良に多聞城を築いて主家を滅ぼし、将軍足利義輝を殺して東大寺大仏殿を焼いた。
織田信長の入京に際して降伏したが、のち背いて敗死。
茶道具のコレクターとしても知られ、「つくも茄子」とともに「古天明平蜘蛛」を所持していた。
最期は平蜘蛛を抱いて爆死したともいわれている。

没年:天正5.10.10(1577.11.19)
生年:永正7(1510)
その出自は謎に包まれ,阿波,山城,摂津の各出自説があるが,一族の連歌師松永貞徳の記述などから山城西岡説が有力。
三好長慶の被官になったのは天文10(1541)年以前と推定され,同11年10月三好軍を率いて南山城に進駐,同18年には「内者」と呼ばれ,長慶の重臣であったことがわかる。
しかし軍事は弟長頼のほうが秀で,久秀が三好政権中に重きをなし得たのはむしろ長頼の力によるところが大きい。
同20年7月の洛中相国寺合戦,翌々年3月の梅ケ畑合戦で細川晴元軍を撃破し,弘治2(1556)年6月摂津滝山城主。
長慶の本城芥川城では,訴訟取次など奏者役を務めている。
永禄2(1559)年8月大和信貴山城主となり,長く興福寺の支配下にあった大和の領国経営に着手,翌3年11月には軍事的にほぼ大和を制圧し,多聞山城を築いた。
同5年3月,畠山氏に大敗し三好軍が危機に陥った際には長慶の本拠飯盛山城の守備に奔走。
同年5月に畠山高政軍を河内教興寺,葉引野に大破して三好政権の中心的部将となった。
松永久秀(まつながひさひで)とは – コトバンク

翌6年,長慶の嫡子義興が病死すると長慶の老耄に乗じて,安宅冬康を讒によって死に追い込み,以後三好政権は三好長逸ら三好三人衆と久秀が壟断するようになる。
長慶が病死すると,久秀らは喪を秘したまま,将軍足利義輝を暗殺し同義栄を擁立,直後,久秀と三人衆の対立が表面化する。
同10年に東大寺を焼くなど内訌で消耗,弱体化した三好政権は,翌年9月織田信長の軍事力の前に崩壊。
久秀は信長に款を通じて大和一国を安堵されたが,元亀2(1571)年武田信玄に通じて信長に背き,翌年末いったん信長に降伏して再び大和支配を安堵された。
天正3(1575)年多聞山城と大和守護を失うにおよび,北陸の上杉謙信を頼んで再び信長に背く。
同5年10月ついに抗しきれず名器平蜘蛛の茶釜を抱いて火中に投身した。
松永久秀(まつながひさひで)とは – コトバンク

山本勘助 2017/06/06(火)追加

山本勘助
山本 勘助は、戦国時代の武将。
武田信玄に仕えたといわれている。
『甲陽軍鑑』においては名を勘介、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。

没年:永禄4.9.10(1561.10.18)
生年:明応2(1493)
戦国時代の武将。
『甲陽軍鑑』には,武田信玄に仕えた独眼で片足が不自由な軍事の天才として記されている。
同書によれば幼名は貞幸,のちに勘助,晴幸とする。
しかし武田晴信(信玄)の「晴」の字は将軍足利義晴の諱の1字を与えられたもので,それを家臣に与えることは通常考えられない。
三河牛窪(愛知県豊川市)の出身で,天文12(1543)年板垣信方の推挙によって信玄に仕えるようになり,次第に認められて足軽大将五人衆と称されるに至る。
信玄と上杉謙信が一騎打ちをしたとして有名な永禄4(1561)年の川中島合戦で,作戦を指揮して失敗した責任を取って討ち死にしたといわれる。
『甲陽軍鑑』が広く読まれたうえ,近松門左衛門の浄瑠璃,およびそれを歌舞伎化した「信州川中島合戦」などで取り上げられ,軍師として勘助の名は広く世に知られた。
山本勘助(やまもとかんすけ)とは – コトバンク

竹中半兵衛(竹中重治) 2017/06/05(月)追加

竹中半兵衛(竹中重治)
竹中 重治は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利。 戦国時代を代表する軍師としても知られ、織田氏の家臣である羽柴秀吉の参謀として活躍し、黒田孝高とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。

没年:天正7.6.13(1579.7.6)
生年:天文13(1544)
安土桃山時代の武将。
美濃菩提山城主竹中重元の子。
半兵衛というのは通称。
名は,はじめ重虎といったが,のち重治と改めた。
稲葉山城主斎藤竜興に仕えていた永禄7(1564)年2月,竜興の寵臣政治にたまりかね,わずか十数名で稲葉山城を乗っ取ったことはよく知られている。
その後,城は竜興に返したがそのまま蟄居し,同10年,織田信長が斎藤氏を滅ぼすと,豊臣秀吉の誘いによって信長方となり,元亀1(1570)年の姉川の戦のころから秀吉の与力につけられた。
居城の菩提山城が美濃と近江の国境に近かったことから,近江浅井長政の家臣たちを味方にするという点で大活躍をし,「秀吉の軍師」などと呼ばれるようになる。
中国攻めにも黒田孝高らと手腕を発揮し,知将といわれた。
播磨三木城攻めの最中に発病し,向城の平山の陣中において病没。
36歳の若さであった。
竹中半兵衛(たけなか はんべい)とは – コトバンク

体が弱く見た目は痩身で女性のようであり、出陣するときも静かに馬に乗っているだけだったという。
容貌が婦人のようであったことから、主君の斎藤龍興をはじめとする斎藤家臣団から侮られ、龍興の寵臣である斎藤飛騨守に櫓の上から嘲弄され、小便を顔にかけられたことがあった。
数日後、飛騨守が龍興居室の宿直を務めていたとき、重治は稲葉山城に詰めていた弟・重矩の看病のためと称して武具を隠した箱などをもって入城し、そして重矩の居室で武装して宿直部屋に居た飛騨守を斬殺して稲葉山城を乗っ取ったとされている。
竹中重治 – Wikipedia

斎藤家の家臣の時代にクーデターを起こし,稲葉山城(岐阜城)を乗っ取った話は有名。

島津義弘 2017/06/04(日)追加

島津義弘
島津 義弘は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主。島津氏18代当主・島津忠恒の父。後に剃髪して惟新斎と号しため、惟新公との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く、「鬼島津」の異名で知られ、戦国時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。

1535-1619
戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)4年7月23日生まれ。
島津貴久(たかひさ)の次男。
島津氏17代。
兄義久とともに九州をほぼ平定。
天正(てんしょう)15年(1587)豊臣秀吉に敗れたが,大隅(おおすみ)領有はゆるされる。
文禄(ぶんろく)・慶長の役で朝鮮に出陣,泗川(しせん)の戦いで明(みん)(中国)の大軍を破る。
関ケ原の戦いでは西軍に属し,敵中を縦断して退却した。
元和(げんな)5年7月21日死去。
85歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。
初名は忠平,義珍(よしまさ)。
通称は又四郎。
号は惟新。
島津義弘(しまづよしひろ)とは – コトバンク

井伊直政 2017/06/03(土)追加

井伊直政
井伊 直政は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩の初代藩主。 徳川氏の家臣。遠江国井伊谷の出身。

[生]永禄4(1561).遠江,井伊谷
[没]慶長7(1602).2.1. 近江,佐和山
安土桃山時代の武将。
直親の子。
幼名は万千代,のち兵部少輔と称した。
今川氏真に仕えていた父が謀反容疑で殺されると,逃れて親族に養われた。
のち天正3 (1575) 年徳川家康に仕えて父祖の地井伊谷を領した。
同 10年武田氏が滅んだのち,甲斐経営の功が認められ武田氏の遺領を与えられた。
そののちその旗幟,器杖をみな赤色に統一したので,世人はこれを赤備 (あかぞなえ) と呼んで武名をたたえた。
同 12年小牧・長久手の戦いに従軍。
同 18年家康の関東入国の際,上野箕輪城 12万石を与えられ,さらに慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いのとき,功により近江国佐和山 18万石を加封。
翌年従四位下に叙任。
井伊直政(いいなおまさ)とは – コトバンク

父母
父:井伊直親
母:奥山ひよ
継父:松下清景
養母:井伊直虎
井伊直政 – Wikipedia

伊達政宗 2017/06/02(金)追加

伊達政宗
伊達 政宗は、出羽国と陸奥国の戦国大名・伊達氏の第17代当主。仙台藩初代藩主。 伊達氏第16代当主・伊達輝宗と正室最上義守の娘・義姫の間に生まれた嫡男。幼少時に患った疱瘡により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。

[生]永禄10(1567).米沢
[没]寛永13(1636).5.24. 江戸
安土桃山,江戸時代初期の武将。仙台藩の藩祖。
輝宗の長子。
幼名,梵天丸。
天正 12 (1584) 年 10月家督を継ぎ,同 16年佐竹義重,蘆名義広,相馬義胤らと対戦,翌 17年蘆名義広を破り,黒川城に拠って陸奥,出羽を平定したが,同 18年豊臣秀吉に降伏して,会津,岩瀬,安積 (あさか) 郡などを没収された。
慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いには徳川方に属して上杉景勝と戦い,同8年居城を仙台に移し,仙台藩 62万石の基礎を築いた。
大坂の陣にも徳川方として参戦,秀忠,家光の信任を得た。
同 18年家臣支倉常長をローマに派遣したことは有名である。
隻眼であったため独眼竜といわれた。
伊達政宗(だてまさむね)とは – コトバンク

石田三成 2017/06/01(木)追加

石田三成
石田 三成は、安土桃山時代の武将・大名。佐和山城主。豊臣氏の家臣。五奉行の1人。 豊臣政権の文治派の筆頭で、徳川家康や武断派と対立。豊臣秀吉の死後、家康打倒のために決起して、毛利輝元を盟主に諸大名と西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

[生]永禄3(1560).近江
[没]慶長5(1600).10.1. 京都
安土桃山時代の武将。
豊臣家五奉行の一人。
治部少輔。
初名三也,通称佐吉,本名宗成。
父は正継。
近江坂田郡石田村の人。
13歳のとき豊臣秀吉に仕え,側近として厚い信任を受けた。
天正 11 (1583) 年賤ヶ岳の戦いに軍功があり,同 13年秀吉が関白になると,諸大夫 12人のなかに選ばれ従五位下,治部少輔。これより特に重用され,さらに枢機に参与するようになった。
同 15年の九州征伐の際には長束正家とともに兵站を受持ち,島津義久の降伏後は,博多の復興のために尽力した。
同 18年の小田原征伐の際にも忍城の水攻めなどで活躍し,また文禄・慶長の役にも出陣し,軍需品輸送,占領政策にも才能を発揮した。
太閤検地に際しては長束正家,浅野長政らとともにその中心的な役割を果した。
所領は初め近江国水口4万石であったが,文禄4 (95) 年には同国佐和山 18万石の城主となり,さらに秀吉直轄領7万石の代官となった。
石田三成(いしだ みつなり)とは – コトバンク

秀吉の死後,徳川家康の勢力の増大をおそれ,慶長5 (1600) 年関ヶ原に家康と戦って敗れ (→関ヶ原の戦い ) ,捕われて京都六条河原において斬首された。
石田三成(いしだ みつなり)とは – コトバンク

真田幸村(真田信繁) 2017/05/31(水)追加

真田幸村(真田信繁)
真田 信繁は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎。真田幸村の名で広く知られている。 豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵」と評されるなどした。

1567-1615
安土桃山時代-江戸時代前期の武将。
永禄(えいろく)10年生まれ。
真田昌幸(まさゆき)の次男。
関ケ原の戦いに際しては西軍に属し,父とともに居城の信濃(しなの)(長野県)上田城で徳川秀忠軍を阻止,敗戦後,紀伊(きい)九度山(和歌山県)に蟄居(ちっきよ)した。
慶長19年大坂冬の陣では,大坂城外に出城真田丸をつくり,徳川方をくるしめたが,20年5月7日夏の陣で討ち死にした。
49歳。
幼名は源次郎。
名は信繁。
幸村名の確実な史料はない。
真田幸村(さなだゆきむら)とは – コトバンク

浅井長政 2017/05/30(火)追加

浅井長政
浅井 長政は、戦国時代の武将。北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡した。官位は贈従二位中納言。

1545-1573 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)14年生まれ。
浅井久政(ひさまさ)の子。
淀殿(よどどの)の父。
近江(おうみ)(滋賀県)小谷(おだに)城主。
六角氏をやぶり,近江の大半を領した。
織田信長の妹お市の方を妻とし信長とむすんだが,のち長年同盟関係にあった朝倉義景を支援し,元亀(げんき)元年織田・徳川軍と姉川でたたかって敗れる。
天正(てんしょう)元年信長に小谷城を攻められ,8月28日自害した。
29歳。
初名は賢政。
通称は新九郎。
浅井長政(あさいながまさ)とは – コトバンク

斎藤道三 2017/05/29(月)追加

斎藤道三
斎藤 道三は、戦国時代の武将。美濃の戦国大名。道三流斎藤氏初代当主。 名としては、長井規秀・長井秀龍・斎藤利政・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原規秀・斎藤利政・道三などのみである。 父は松波庄五郎または松波基宗、子に義龍、孫四郎、喜平次、利堯、長龍、日饒、日覚。

[生]明応3(1494).山城,西岡
[没]弘治2(1556).4.20. 美濃
戦国大名。
松波基宗の子といわれる。
幼時,京都妙覚寺に入って法蓮房と号したが,還俗して松波庄九郎と称し,山崎屋と号して油売りを業とした。
美濃守護土岐氏の宿老長井家,斎藤家に出入りしているうちに,長井家の家臣西村三郎左衛門の跡を継いで西村勘九郎と名のった。
享禄3 (1530) 年1月長井利安を殺して天文2 (33) 年名を長井新九郎規秀,同5年利政と改め,次いで同7年守護代斎藤利良が没すると斎藤氏を名のり,のち秀龍と改めた。
翌年稲葉山に築城してここに拠り,同 11年8月土岐頼芸を尾張に追って美濃国を押領し国主となった。
同 18年入道して道三と称した。
弘治2 (56) 年長子義龍と長良川に戦って敗死。
下剋上の典型的な一例とされる。
1女は織田信長に嫁した。
斎藤道三(さいとうどうさん)とは – コトバンク

毛利元就 2017/05/29(月)追加

毛利元就
毛利 元就は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主で、後の戦国大名。本姓は大江氏で、毛利氏の家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。

1497-1571 戦国時代の武将。
明応6年3月14日生まれ。
毛利弘元の次男。
大永(たいえい)3年(1523)家督をつぎ,安芸(あき)(広島県)郡山城主となる。
大内義隆に属し,義隆をたおした陶晴賢(すえ-はるかた)を天文(てんぶん)24年(1555)厳島(いつくしま)の戦いで撃破。
ついで大内義長,尼子(あまこ)氏を討ち,中国全域を支配する戦国大名となった。
隆元ら3人の子にあてた教訓状が有名。
元亀(げんき)2年6月14日死去。
75歳。
【格言など】智,万人に勝(すぐ)れ,天下の治乱盛衰に心を用うる者は,世に真の友は一人もあるべからず
毛利元就(もうり もとなり)とは – コトバンク

足利尊氏 2017/05/29(月)追加

足利尊氏
足利 尊氏は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍。足利将軍家の祖。

[生]嘉元3(1305)
[没]正平13=延文3(1358).4.30. 京都
室町幕府初代将軍 (在職 1338~58) 。
貞氏の子。
母は上杉清子。
初名は高氏。
元弘の乱に際し,元弘3=正慶2 (1333) 年5月六波羅探題を攻め滅ぼし,建武政府が成立すると,高氏は従三位,武蔵守に叙任され,天皇の諱の1字を賜って尊氏と改名した。
しかし建武2 (1335) 年,建武政府にそむき,建武3 (1336) 年光明天皇を擁立して幕府を創設。
後醍醐天皇は吉野に逃れ,南北朝の動乱が始まった。
延元3=暦応1 (1338) 年征夷大将軍,以後累進して正二位権大納言にいたる。
当初は弟直義と二元政治をとったが,正平7=観応3 (1352) 年直義を殺し,将軍への権力集中に成功した。
足利尊氏(あしかが たかうじ)とは – コトバンク

上杉謙信 2017/05/29(月)追加

上杉謙信
上杉 謙信 / 上杉 輝虎は、戦国時代の越後国の武将・戦国大名。後世、越後の虎や越後の龍、越後の獅子、軍神と称される。 上杉家の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、初名の長尾 景虎でもよく知られている。兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。

[生]享禄3(1530).1.21. 高田
[没]天正6(1578).3.13. 高田
戦国大名の雄。越後守護代長尾為景の次男。
母は越後栖吉城主長尾顕吉の娘。幼名は虎千代,元服して長尾平三景虎。
のち政虎,輝虎と改め,入道して謙信,不識庵と号した。
兄晴景は天文5 (1536) 年家督を継いだが次第に対立。
同 17年越後守護上杉定実の仲裁を得て晴景から家督を奪い,春日山城主となる。
以後国内の統一に努力しつつ,周囲の諸大名と大規模な戦闘を展開した。
武田信玄と信濃の覇権をめぐって数度合戦。
特に永禄4 (61) 年の川中島の戦いは有名である。
一方,関東管領上杉憲政を擁して北条氏康と対立,同3年には関東に侵入し,小田原城を包囲して北条氏を脅かしたが成功せず帰還。
憲政から上杉姓を与えられ,同4年関東管領。
しかしその後関東経略は進まず,同9年以後は越中を平定し,加賀,能登に進出。
毛利氏と連合して織田信長と対決しようとしたが,出陣の矢先に脳卒中で没した。
上杉謙信(うえすぎけんしん)とは – コトバンク

武田信玄 2017/05/29(月)追加

武田信玄
武田 信玄 / 武田 晴信は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎。「信玄」とは法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。

1521-1573 戦国-織豊時代の武将。
大永(たいえい)元年11月3日生まれ。
武田信虎の長男。
天文(てんぶん)10年父を駿府(すんぷ)の今川氏のもとへ追放して甲斐(かい)(山梨県)の国主となる。
信濃(しなの)(長野県)の諏訪(すわ),伊那などを攻略,川中島で越後(えちご)(新潟県)の上杉謙信と数度にわたってたたかう。
駿河(するが)(静岡県)をも支配し,北条氏と和議をむすんだのち元亀(げんき)3年京都をめざして軍をすすめ,織田信長の同盟軍徳川家康を三方原(みかたがはら)でやぶったが,翌4年4月12日病没した。
53歳。
幼名は勝千代。
名は晴信。
武田信玄(たけだ しんげん)とは – コトバンク

明智光秀 2017/05/29(月)追加

明智光秀
明智 光秀は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。

1528-1582 戦国-織豊時代の武将。
享禄(きょうろく)元年生まれ。
細川ガラシャの父。
美濃(みの)(岐阜県)の土岐氏の一族とされる。
故実,典礼に通じた教養ゆたかな武将で,はじめ朝倉義景(よしかげ)につかえ,のち織田信長の家臣となって足利義昭の上洛に尽力。
義昭や寺社,公家との交渉役をつとめる。
元亀(げんき)2年近江(おうみ)坂本城主となり,惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)と称した。
丹波攻略などに功をたて,亀山城主となる。
天正(てんしょう)10年信長を本能寺に討つが,羽柴(豊臣)秀吉に山崎の戦いで敗れて逃走中の6月13日農民に殺された。
55歳。
通称は十兵衛。
明智光秀(あけち みつひで)とは – コトバンク

徳川家康 2017/05/29(月)追加

徳川家康
徳川 家康または松平 元康は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。

[生]天文11(1542).12.26. 三河,岡崎
[没]元和2(1616).4.17. 駿府

江戸幕府初代将軍 (在職 1603~05) 。
岡崎城主松平広忠の長男。
母は水野右衛門大夫忠政の娘。
幼名は竹千代,初名を元信,のち元康といった。
院号は安国院。
織田信秀,次いで今川義元の人質となったが,永禄3 (1560) 年義元が桶狭間の戦いで敗死すると,岡崎に帰り,織田信長とも親交を結び戦国大名として成長。
豊臣秀吉の天下統一に協力,五大老の筆頭として重きをなしたが,秀吉の死後,石田三成と反目して慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いに三成を破って,天下の覇権を握った。慶長8 (1603) 年2月 12日征夷大将軍宣下。
同 10年将軍職を子秀忠に譲って大御所として駿河に引退したが,なお幕政を後見した。
大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし,幕府の基礎を築いた。
元和2年3月太政大臣となる。墓所は初め久能山,のち日光山 。
徳川家康(とくがわ いえやす)とは – コトバンク

豊臣秀吉 2017/05/29(月)追加

豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。
三英傑の一人。

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。
三英傑の一人。
初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めた。
尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる。
当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、豊臣姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。
天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。
理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。
豊臣秀吉 – Wikipedia

秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。
慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。
墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが、機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。
豊臣秀吉 – Wikipedia

織田信長 2017/05/29(月)追加

織田信長
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。
尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。
尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。
足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。
しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。
すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。
織田信長 – Wikipedia

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2018年05月04日
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