(随時更新)今日の武将・戦国武将を毎日一人ずつ御紹介

森可成 2017/8/6(日)追加

森可成
森 可成(もり よしなり)は、戦国時代の武将。土岐氏、後に織田氏の家臣。美濃国金山城主。

1523‐70(大永3‐元亀1)
戦国~安土時代の武将。
美濃金山城主。
通称三左衛門。
初め斎藤道三のち織田信長に仕え,1555年(弘治1)清須の織田彦五郎を討った。
翌年林美作守との戦い,58年(永禄1)浮野の戦,68年の上洛戦に従い戦功をたてた。
70年(元亀1)近江の志賀,宇佐山の守将となったが,信長が摂津野田,福島を攻撃中に近江に進撃してきた浅井,朝倉の大軍と戦い,宇佐山城で織田信治とともに9月20日戦死した。
可成には6男3女があったが,うち長可(ながよし),蘭丸ら5名は戦死している。
森可成(もりよしなり)とは – コトバンク

龍造寺隆信 2017/8/5(土)追加

龍造寺隆信
龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
肥前国の戦国大名。
仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信(たねのぶ)を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤(たかたね)、次いで隆信と改めた。
「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。
少弐氏を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、敗死した。

[生]享禄2(1529).肥前
[没]天正12(1584).3.24. 肥前
戦国時代の武将。周家の子。幼名,長法師。初名,隆胤。号,法雲院。幼い頃に出家して僧となったが,天文 16 (1547) 年還俗して隆信と名のり,山城守を称し,初め大内義隆に属し,勢力を伸ばした。
永禄2 (59) 年少弐氏を滅ぼして大友宗麟と対立した。
以来大友氏と連年戦いを続け,天正3 (75) 年には肥前全域を平げ,さらに肥後に侵入,島津氏と対立するにいたった。
この間有馬氏と結んだが,有馬氏はやがて島津氏に走り,同 12年3月島津家久,有馬晴信と戦って敗れ自害した。
龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)とは – コトバンク

井上之房(井上九郎右衛門) 2017/8/4(金)追加

井上之房
井上 之房(いのうえ ゆきふさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
黒田氏の家臣。
黒田二十四騎、黒田八虎の一人。
主な通称は九郎右衛門(くろうえもん)。

1554-1634 織豊-江戸時代前期の武将。
天文(てんぶん)23年生まれ。
黒田職隆(もとたか),孝高(よしたか)(如水),長政,忠之(ただゆき)の4代につかえ,小田原攻め,文禄・慶長の役などで活躍。
筑前福岡藩主となった長政の命で慶長9年黒崎城をきずき,1万6000石を領した。
寛永11年死去。
81歳。
播磨(はりま)(兵庫県)出身。
通称は九郎左衛門。
号は道柏。
井上之房(いのうえ ゆきふさ)とは – コトバンク

之房が石垣原の戦いで討ち取った吉弘統幸は、大友氏の改易後、立花宗茂に仕官するまでの間、之房の元に身を寄せていた。
統幸は豊臣秀吉から「無双の槍使い」と賞讃されて一対の朱柄の槍を許されていた豪傑であったが、敵将・小田九朗左衛門など30~40人を自ら討ち取るも重傷を負い、友の之房に功を挙げさせるため、自刃して討たれたといわれる。
井上之房 – Wikipedia

徳川秀忠 2017/8/3(木)追加

徳川秀忠
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。

没年:寛永9.1.24(1632.3.14)
生年:天正7.4.7(1579.5.2)
江戸幕府第2代将軍。
徳川家康の3男。
母は家康の側室西郷氏於愛の方(宝台院)。
遠江国(静岡県)浜松城に生まれる。
長兄信康が自害,次兄秀康が豊臣秀吉の養子になったため,世子となる。
天正18(1590)年上洛して秀吉に拝謁,文禄4(1595)年9月秀吉の意思で浅井長政の娘於江与(崇源院)と結婚した。
慶長5(1600)年の関ケ原の戦では,東山道を西上した秀忠は,途中信濃上田城の真田昌幸攻めに時間を空費し,決戦に間にあわず,家康の勘気をこうむり,一時次期将軍の座も危うかった。
8年娘千姫が,秀吉の遺児秀頼に入輿。
10年2月,10万の軍勢を率いて上洛,家康から将軍職を譲られた。
駿府に引退した家康は,なお大御所として政治の実権を握り,秀忠はおもに東国を中心とした大名の統率に当たる。
19年大坂冬の陣,翌年の夏の陣に出陣,豊臣家を滅亡させ,元和2(1616)年家康が死ぬと,名実ともに幕府の主権者となった。
徳川秀忠(とくがわ ひでただ)とは – コトバンク

黒田長政 2017/8/2(水)追加

黒田長政
黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。
戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男。九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。

没年:元和9.8.4(1623.8.29)
生年:永禄11.12.3(1568.12.21)
安土桃山・江戸前期の武将。黒田孝高の長男。母は櫛橋伊定の娘。幼名を松寿,通称を吉兵衛といった。天正5(1577)年,父孝高が織田信長に属したため人質として信長のもとに送られ,近江長浜城の羽柴秀吉のもとで少年期をすごした。同10年,秀吉の中国攻めに従軍したのが初陣で,以後,秀吉の主な戦いに従っている。翌年の賤ケ岳の戦のあと,戦功によって河内国丹北郡で450石をあてがわれ,同12年の小牧・長久手の戦のときには和泉の岸和田城に拠って,根来・雑賀一揆を撃退した功により2000石の加増を受けている。同15年の九州攻めの功によって豊前国に移り,同17年,父孝高から家督を継いで豊前中津に12万石の所領を得,従五位下・甲斐守に叙任された。文禄の役,慶長の役,ともに渡海し,碧蹄館の戦,蔚山城の戦で戦功をあげている。石田三成とは折り合いが悪く,秀吉死後は徳川家康に接近し,家康の養女栄姫(保科正直の娘)を継室に迎えていた。
黒田長政(くろだ ながまさ)とは – コトバンク

慶長5(1600)年の関ケ原の戦においては東軍に属し,特に小早川秀秋の内応工作に成果をあげ,それらの功によって筑前一国52万3000余石を与えられ福岡城を築いた。同8年,家康の参内拝賀に供奉し,そのとき従四位下・筑前守に叙任。同19年の大坂冬の陣には江戸城に留められたが,翌元和1(1615)年の夏の陣のときには徳川秀忠隊に属して出陣した。
黒田長政(くろだ ながまさ)とは – コトバンク

小笠原長時 2017/8/1(火)追加

小笠原長時
小笠原 長時(おがさわら ながとき)は、戦国時代の武将。信濃国守護で戦国大名。信濃小笠原氏の当主。信濃林城主。小笠原長棟の長男。小笠原流弓馬術礼法宗家。信濃四大将のひとり。

[生]永正11(1514).松本
[没]天正11(1583).2.25. 会津若松
戦国時代の武将。
信濃守護長棟の子。
府中 (松本) 林城を居城として,安曇,筑摩,伊那3郡に勢力をふるった。
しかし,武田信玄が信濃に進出し,天文 19 (1550) 年諸城を攻めるに及んで林城を捨て,村上義清と同盟して平瀬城に拠った。
翌年,信玄が深志城に進出,平瀬城を落し,さらに長時方の中塔城,小岩岳城,苅屋城などを攻略したため,同 21年 12月,越後の上杉謙信のもとに逃れた。
のち三好長慶を頼って上京し,将軍足利義輝の弓馬の師範となった。
長慶の養子義継が義輝を殺すと再び越後におもむき,さらに会津に移ったのち,家臣に殺された。
小笠原長時(おがさわらながとき)とは – コトバンク

真田信之 2017/7/31(月)追加

真田信之
真田 信之(さなだ のぶゆき)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。信濃上田藩の初代藩主、後に信濃松代藩の初代藩主。

[生]永禄9(1566).上野,沼田
[没]万治1(1658).10.17. 松代
江戸時代初期の武将。
信濃上田城主真田昌幸の長男。
通称は源三郎,初めは信幸といった。
号は一当斎。
慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いで,父昌幸と弟信繁 (幸村) が石田三成方についたのに対し,信之は徳川家康方についた。
父の居城である上田城を攻め,戦後自分の功によって父と弟の助命を乞い許された。
同 19年大坂の陣にも出陣し,夏の陣では天王寺表に戦って功があった。
元和8 (22) 年にそれまで領していた上田から隣接の松代に移り,松代で 10万石と旧領上野沼田を合せて 13万石を与えられた。
真田信之(さなだ のぶゆき)とは – コトバンク

着用していたとされる着物、胴丸等から身長は6尺1寸(約185cm)と推測されている。
温厚な人物であったといわれるが、戦の際は総大将にも関わらず常に先陣を切って進んだと伝わっている。
信之の軍旗は黒地に金色の六文銭だったとされている。
93歳という非常に長命であった信之だが、30代の頃から病気がちであり、40代以降は「手の痛み」「疲れ」「腫れ物」などで病に臥せっていることが多かった。
真田信之 – Wikipedia

板垣信方 2017/7/30(日)追加

板垣信方
板垣 信方(いたがき のぶかた)は、戦国時代の武将。武田信虎、晴信(信玄)の二代に仕えた。武田二十四将、武田四天王の一人。家紋は「花菱(裏花菱)」、馬標は「三日月」。

板垣 信方(いたがき のぶかた)は、戦国時代の武将。
武田信虎、晴信(信玄)の二代に仕えた。武田二十四将、武田四天王の一人。
家紋は「花菱(裏花菱)」、馬標は「三日月」。
武田晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと家臣団の筆頭格となる。
晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代(上原城城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。
村上義清との上田原の戦いで先陣となり緒戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて討死した。
板垣信方 – Wikipedia

村上義清 2017/7/29(土)追加

村上義清
村上 義清(むらかみ よしきよ)は、戦国時代の武将。北信濃の戦国大名。父は左衛門督村上顕国(頼平・頼衝)。母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘。家臣の出浦国則の妻を乳母とする。正室は信濃守護・小笠原長棟の娘。
信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信(のちの信玄)の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ、家督相続時には佐久郡・埴科郡・小県郡・水内郡・高井郡など信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主。信濃四大将のひとり。

没年:天正1.1.1(1573.2.3)
生年:文亀1(1501)
戦国時代の武将。
信濃国埴科郡の葛尾城(長野県坂城町)城主顕国の子(頼平の子とする説も有力)。
幼名武王丸。
左衛門佐,兵部少輔。川中島地方や佐久・小県地方に勢力を拡大しつつあったころ,武田信玄の信濃侵略が始まった。
天文17(1548)年2月に信玄の軍を上田原(上田市)で破り,勢いに乗って勢力を拡大した。
天文19年9月には戸石城で再度武田軍を破るが,翌年5月に同城を真田幸隆に攻め落とされてからは劣勢となる。
天文22年4月武田勢に攻められて葛尾城を脱出し,再起を図ったが成功せず,越後の上杉謙信のもとに走った。
これも永禄4(1561)年に起こった川中島合戦の原因のひとつとなっている。
その後も旧領の回復を目指して戦うが果たせず,永禄8年越後頸城郡根知に移り病死した。
信玄と戦ったことで人気が高いが,彼の出した文書はほとんど伝わっておらず,父親などに関して謎の多い人物である。
村上義清(むらかみ よしきよ)とは – コトバンク

安国寺恵瓊 2017/7/28(金)追加

安国寺恵瓊
安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧で、武将および外交僧。道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶。
“安国寺”は住持した寺の名で、安国寺恵瓊はよく知られた別名であり、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)という。

?-1600 織豊時代の僧。
臨済(りんざい)宗。
安芸(あき)(広島県)の人。
京都東福寺の竺雲慧心(じくうん-えしん)に師事。
安芸安国寺住持などをへて,慶長5年南禅寺住持となる。
この間,外交僧として毛利輝元と豊臣秀吉との講和を成立させ,秀吉の信任をえて大名の待遇をうける。
朝鮮出兵にも従軍。
関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ,慶長5年10月1日京都六条河原できられた。
享年は63歳とも,64歳とも。
俗姓は武田。
別号に瑶甫(ようほ),一任斎。

【格言など】信長の代五年三年は持たるべく候,……左候て後,高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申候(本能寺の変の10年前に送った書状)
安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)とは – コトバンク

本多正信 2017/7/27(木)追加

本多正信
本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。徳川家康の家臣で、江戸幕府の老中。
相模国玉縄藩主。
正信系本多家宗家初代。
本姓は藤原氏。

没年:元和2.6.7(1616.7.20)
生年:天文7(1538)
戦国・江戸前期の武将。
三河松平氏の譜代家臣本多俊正の子。
通称は弥八郎で,名ははじめ正保,正行ともいった。
家康に仕えたが,永禄6(1563)年から翌年にかけての三河一向一揆のとき,一揆方に加担したため追放され,のち同12年ごろ,大久保忠世の取りなしで帰参がかない「帰り新参」などと呼ばれた。天正10(1582)年の家康による甲州平定のころから頭角を現し,次第に家康の帷幄に加わって側近の謀臣として力を振るった。
後年,家康と正信の間柄は「君臣の間,相遇ふこと水魚の如し」などといわれるほどであった。
同14年,従五位下・佐渡守に叙任された。
同18年,相模国玉(甘)縄で1万石。
幕府は成立後,秀忠付の老職として2万2000石を領し初期幕政を担ったが,家康没後49日に当たる日,あとを追って没した。
『本佐録』(1612)は彼の著という。
本多正信(ほんだまさのぶ)とは – コトバンク

松平信康 2017/7/26(水)追加

松平信康
松平 信康(まつだいら のぶやす) / 徳川 信康(とくがわ のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
徳川家康の長男(嫡男)。
母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。
また、後に松平宗家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。

没年:天正7.9.15(1579.10.5)
生年:永禄2.3.6(1559.4.13)
戦国時代の武将。
徳川家康の長男として駿府で生まれる。
母は築山殿。
幼名竹千代,通称は次郎三郎。
永禄3(1560)年の桶狭間の戦ののち,家康が今川氏から自立する動きをしてからも築山殿と共に駿府に抑留され,ようやく同5年,人質交換で岡崎に引き取られた。
同10年織田信長の娘五徳(徳姫)と結婚し,元亀1(1570)年,元服して岡崎次郎三郎信康と称し,家康が浜松城に移ったあとをうけて岡崎城主となっている。
永禄9年末以降家康が徳川姓を称したあとも,岡崎信康,あるいは松平信康と呼ばれた。
岡崎城に残った母築山殿と妻徳姫との折り合いが悪く,また,家臣の中から武田勝頼に通謀する者が出るなどして,徳姫からの手紙でそのことを知った信長は家康に信康の処分を命じ,天正7(1579)年8月4日,岡崎城を出された信康は遠江堀川城,さらに二俣城へと移され,同城で切腹させられた。
松平信康(まつだいらのぶやす)とは – コトバンク

豊臣秀頼 2017/7/25(火)追加

豊臣秀頼
豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、旧字体: 豐臣秀賴)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。

安土桃山時代の武将。
秀吉の次男。
母は浅井氏の長女,淀殿。
幼名,お拾。
秀吉 57歳のときの子。
秀吉は文禄4 (1595) 年養子秀次を自刃させたのち諸将から秀頼に対し異心なき旨の誓書を出させ,秀頼が相続人であることを天下に公示した。
慶長1 (96) 年 12月 17日元服。秀吉の死後,大坂城に入り,徳川家康は伏見城で政務をとった。
同5年関ヶ原の戦い後,家康の権力が確立すると,秀頼は摂津,河内,和泉の3ヵ国六十余万石の一大名格に落された。
同8年家康の孫娘千姫と結婚。
その間同6年権大納言,同8年内大臣,正二位,同 10年右大臣と官位は進んだが,権力は徳川氏の手中にあった。
これに不満をもつ秀頼の周辺は反徳川勢力を結集した。
家康のすすめにより,地震で崩壊した秀吉創建の方広寺を再建して同 19年供養法会を行うにあたり,梵鐘の銘文「国家安康」の文字は家康を呪詛するものと家康に言いがかりをつけられて大坂冬の陣が起った 。
いったんは和睦が成立して大坂城の堀を埋めさせられ,翌年再び家康に攻められ (夏の陣) ,母淀殿とともに自殺した。
豊臣秀頼(とよとみ ひでより)とは – コトバンク

[生]文禄2(1593).8.3. 大坂
[没]慶長20(1615).5.8. 大坂

山県昌景 2017/7/24(月)追加

山県昌景
山県 昌景(やまがた まさかげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。後代には武田四天王の一人に数えられる。

?-1575 戦国-織豊時代の武将。
武田信玄,武田勝頼につかえ,譜代家老衆にすすむ。
兄の飯富虎昌(おぶ-とらまさ)が武田義信の謀反に連座したため,飯富から山県に改姓。
駿河(するが)(静岡県)江尻城代となり,天正(てんしょう)3年5月21日長篠(ながしの)の戦いで戦死した。
初名は源四郎。
山県昌景(やまがた まさかげ)とは – コトバンク

西上野侵攻における箕輪城攻略戦、駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)、甲相同盟の破綻後の相模後北条氏の戦いなどに参加したとされるが、文書上では主に信玄側近として諸役免許や参陣命令、自社支配など武田氏朱印状奏者としての活動が確認されるほか、美濃国の遠山氏、陸奥国(会津)の蘆名氏、三河国徳川氏など遠方国衆や松尾小笠原氏、室賀氏、赤須氏などの信濃国衆や三枝氏、横田氏など甲斐武田家臣との取次を務めている。永禄12年(1569年)には駿河江尻城代に任じられた。
山県昌景 – Wikipedia

甘利昌忠 2017/7/23(日)追加

甘利昌忠
甘利 信忠(あまり のぶただ)は、戦国時代の武将。
甲斐国武田氏の譜代家臣、家老。
後年には武田二十四将に数えられる。

父は武田氏の譜代家老の甘利虎泰。
『甲陽軍鑑』に拠れば虎泰は板垣信方と共に武田家の最高職位とされる「両職」を務めたとされる。
なお、武田家中では甘利氏の一族として甘利信康がおり、信忠の弟もしくは子であると考えられている。
また、兄に天文11年(1542年)の瀬沢の戦いで戦死した甘利信益(のぶます)もいたとされ、これを受けて嫡男となった可能性もある。
信忠も含め「信」の字は武田晴信から賜った偏諱と考えられる。
他方で異説としては、初名を藤蔵とし、晴信から「晴」の字の偏諱を受けて晴吉と名乗ったとするもある。
晴信期の信濃侵攻において、天文17年(1548年)の上田原の戦いで虎泰・信方両名は戦死し、信忠は家督を継承して甘利衆を率い、板垣信憲と共に「両職」になったといわれる。
甘利信忠 – Wikipedia

逸話
米倉重継の子・彦二郎の鉄砲傷を治すために芦毛の馬の馬糞汁を飲ませようとし、彦二郎が嫌がると、自ら馬糞汁を飲んでみせたという。
甘利信忠 – Wikipedia

諏訪頼重 2017/7/22(土)追加

諏訪頼重
戦国時代の武将。

永正13年(1516年)、諏訪頼隆の嫡男として生まれる。
諏訪氏は頼満・頼隆の頃に甲斐の武田氏と抗争し、反武田氏の国人衆と結び甲斐国内へ侵攻していたが、天文4年(1535年)に信虎と頼満は和睦し、天文9年(1540年)11月、武田信虎の三女・禰々を娶り、武田家と婚姻関係を結んでいた(『神使御頭之日記』)。
天文11年(1542年)には嫡男寅王が生まれている。
天文10年(1541年)5月13日には信虎・村上義清らと連携して小県郡に侵攻し海野氏一族と戦い、5月23日には海野平の戦いで海野棟綱を破り上野国へ追放している。
同年6月に甲斐では武田信虎が駿河へ追放され嫡男武田晴信(信玄)が国主となり、晴信は信濃侵攻を本格化させ諏訪郡への侵攻を開始する。
晴信は6月、諏訪惣領を志向する伊那郡の高遠頼継ら反諏訪勢と手を結び諏訪郡への侵攻を行い、上原城を攻められた頼重は7月に桑原城で降伏した後、弟の頼高と共に武田氏の本拠である甲府に連行され、東光寺に幽閉された後に自刃する。
頼高も自刃し、諏訪惣領家は滅亡した。
諏訪頼重 (戦国時代) – Wikipedia

池田恒興 2017/7/21(金)追加

池田恒興
池田 恒興(いけだ つねおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。清洲会議に出席した4人の織田家重臣の1人。池田恒利の子。子に元助、輝政など。

没年:天正12.4.9(1584.5.18)
生年:天文5(1536)
戦国・安土桃山時代の武将。
通称は勝三郎,紀伊守。
勝入と号す。
池田恒利と織田信長の乳母養徳院の子。
信秀・信長父子に仕え,信秀から諱の1字を与えられ信輝と名乗ったとされる。
ただし,信輝という名は確認されていない。
天正8(1580)年荒木村重の属城花熊城(神戸市)を攻略し,摂津に所領を与えられた。
このころ明智光秀の与力となる。
同10年本能寺の変後,羽柴(豊臣)秀吉と共に光秀を討ち,柴田勝家,秀吉,丹羽長秀と並んで織田家宿老に列す。
同11年賤ケ岳の戦には秀吉に味方する。
戦後,美濃大垣13万石を与えられる。
同12年小牧・長久手の戦では,秀吉方として緒戦に犬山城を攻略。
その後,膠着状態の打開策に三河を衝くことを進言。
先陣として三河へ向かうが,徳川家康に見破られ,子の元助らと共に長久手で戦死した。
池田恒興(いけだつねおき)とは – コトバンク

太源雪斎 2017/7/20(木)追加

太源雪斎
太原 雪斎/太原 崇孚は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶で今川家の家臣。諱は崇孚。 父は庵原城主・庵原政盛。母は興津横山城主・興津正信の娘。父方の庵原氏は駿河庵原周辺を治める一族。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊も率いていた。両家とも今川氏の譜代の重臣。

没年:弘治1.閏10.10(1555.11.23)
生年:明応5(1496)
戦国時代の臨済宗妙心寺派の僧。
戦国大名今川義元の軍師。
今川氏の重臣庵原左衛門尉の子。
母も今川氏重臣興津氏の娘。
9歳ごろ出家,駿河国富士郡善得寺の琴渓舜につき九英承菊と称し,今川氏親の5男梅岳承芳の養育を依頼され,承芳を伴って上洛,建仁寺の常庵竜崇,次いで妙心寺の大休宗休の教えを受けた。
妙心寺修行時代,太原崇孚と名を改めている。
天文5(1536)年,承芳が今川家の家督を継ぐことになり還俗して義元と名乗るとともに,その補佐役となった。
義元の兄氏輝の菩提寺として駿府(静岡県)に臨済寺を建ててその住持となった。
今川軍の三河侵攻に当たっては自ら采配をとり,また武田氏・北条氏との講和交渉にも手腕を発揮している。
天文19年には勅を奉じて妙心寺第35世に出世し,帰国後は臨済寺のほか,興津の清見寺,富士の善得寺の住持も兼ねた。
死後,宝珠護国禅師と諡された。
太原崇孚(たいげん そうふ)とは – コトバンク

榊原康政 2017/7/19(水)追加

榊原康政
榊原 康政(さかきばら やすまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。

永禄3(1560)年,徳川家康の小姓として仕え,同6年の三河一向一揆との戦いが初陣で,家康から諱の1字を与えられた。
永禄末年には本多忠勝と共に旗本先手役に取り立てられ,姉川の戦,三方ケ原の戦で戦功をあげている。
康政の武名を高めたのは天正12(1584)年の小牧・長久手の戦で,このとき康政は豊臣秀吉非難の檄文を秀吉陣営の諸将に送りつけ,怒り狂った秀吉が冷静さを失うという一幕を作り出している。
そのため秀吉は「康政の首を取った者に望みのまま褒賞を与えよう」と触れたといわれる。
戦後,妥協によって家康は秀吉に臣従,家康が関東に移封されたとき上野国館林で10万石を与えられ,文禄1(1592)年からは家康の3男秀忠付となった。
慶長5(1600)年の関ケ原の戦のとき,秀忠に従って東山道軍に属し,信州上田城の真田昌幸・幸村父子を攻めあぐみ,関ケ原の決戦に遅参する失態を演じた。
このとき,補佐役としての康政がすべての責任をとる形で家康と秀忠の仲直りにもちこんだ。
その後,本多正信・正純父子らとの対立もあって館林に引き籠もり,そのまま同所で没した。
榊原康政(さかきばらやすまさ)とは – コトバンク

没年:慶長11.5.14(1606.6.19)
生年:天文17(1548)

豊臣秀長 2017/7/18(火)追加

豊臣秀長
豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが) または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
豊臣秀吉の異父弟(同父弟説もある)。豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍を見せ、天下統一に貢献した。

1541‐91(天文10‐天正19)
安土桃山時代の武将。
豊臣秀吉の異父弟。筑阿弥の子。
小一郎,のち美濃守。初め長秀,1585年(天正13)ころより秀長に改めた。
1577年以降秀吉の中国征伐に従って頭角をあらわし,但馬竹田・出石城主などとして但馬・播磨経略に努めた。
本能寺の変後も秀吉の片腕として山崎の戦,賤ヶ岳の戦,小牧・長久手の戦に従軍。
85年には紀州一揆弾圧後の紀伊経略,秀吉の名代として長宗我部氏を下した四国征伐で大役を果たし,その功により同年閏8月大和・紀伊に和泉・伊賀の一部を加えた100万石を領し,大和郡山を居城とした。
豊臣秀長(とよとみ ひでなが)とは – コトバンク

秀長は温厚な資質で、秀吉をよく助け、その偉業を成さしめた。また寛仁大度の人物で、よく秀吉の欠点を補った。そのため諸大名は秀長に依頼をして秀吉にとりなしを頼み、よくその安全を得た者が多くあった。もし寿命が長ければ、よく国家を安泰させ、豊臣の天下を永く継続させることがあるいはできたかもしれないとされる。
豊臣秀長 – Wikipedia

大野治長 2017/7/17(月)追加

大野治長
大野 治長(おおの はるなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。豊臣氏の家臣。兄弟に、治房・治胤・治純、子は大野治徳、治安(弥十郎)ほか。官位は従四位下修理大夫。

1567?‐1615(永禄10?‐元和1)
安土桃山・江戸初期の武将。
従五位下修理亮。
淀君の乳母大蔵卿局の子。
豊臣秀吉に仕え,文禄の役では肥前名護屋に出陣した。
1599年(慶長4),徳川家康暗殺の疑いを受けて下総に流されたが,関ヶ原の戦の後,側近として秀頼に仕え,片桐且元らの退城後は豊臣氏の代表として大坂冬の陣の講和等に当たった。
弟治房とともに主戦派と言われている。
夏の陣で秀頼に殉死。
大野治長(おおのはるなが)とは – コトバンク

淀殿との密通
当時より、治長は淀殿と密通していたと噂があった。
「一、おひろい様之御局をハ大蔵卿と之申し、其の子ニ大野修理と申し御前の能き人に候、おひろい様之御袋様と共に密通之事に候か、共ニ相果てるべし之催にて候処に、彼の修理を宇喜多が拘し置き候、共に相果てるに申し候、高野江逃れ候共に申し候よしに候、(後略)、」
—慶長四年十月一日付内藤元家宛内藤隆春書状

同様の記述は『多聞院日記』や姜沆による『看羊録』にもある。江戸時代の『明良洪範』では秀頼は秀吉の実子ではなく治長と淀殿の子と記している。
大野治長 – Wikipedia

噂話なのか,実話なのかは定かではありません。
あくまでも諸説ありです。

丹羽長秀 2017/7/16(日)追加

丹羽長秀
丹羽 長秀(にわ ながひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の宿老。朝廷より惟住(これずみ)の姓を賜ったので惟住長秀ともいう。羽柴越前守とも称した。

安土桃山時代の武将。
織田氏の老臣。
尾張国児玉(名古屋市西区)に生まれる。
幼名万千代、通称五郎左衛門。
奉行人。
名古屋市北区楠町味鋺の長秀宅跡は現在県史跡。
1571年(元亀2)浅井長政の旧属城近江佐和山(滋賀県彦根市内)を守る。
76年(天正4)惟住(これずみ)の姓を与えられ一時これを称す。
82年信長は、三男神戸信孝に長秀をつけて、四国遠征の軍をおこす。
信孝らは大坂城に集結。
本能寺の変後は、羽柴(豊臣)秀吉に協力し、明智光秀を撃破。信長の孫三法師(のち秀信)を織田氏の後継者とすることに同意。柴田勝家(しばたかついえ)らとともに政務をとる。賤(しず)ヶ岳(たけ)の戦いでは秀吉に従い、勝家の挙兵を攻め自殺させる。越前北庄(えちぜんきたのしょう)(福井市)に鎮し、若狭(わかさ)と加賀半国の大名となる。室は織田信広の女(むすめ)。
丹羽長秀(にわ ながひで)とは – コトバンク

滝川一益 2017/7/15(土)追加

滝川一益
滝川 一益(たきがわ いちます / かずます)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田信長の家臣。織田四天王の一人。

近江(おうみ)(滋賀県)甲賀郡に生まれ、幼年から鉄砲を稽古(けいこ)した。
一族の高安某を殺害し国を離れ、信長が斎藤道三(どうさん)を攻めたとき仕官。
1574年(天正2)、伊勢(いせ)長島の一向一揆(いっこういっき)の平定後に、長島城主となる。
82年甲州遠征の先鋒(せんぽう)となり、その功により上野(こうずけ)国(群馬県)および信濃(しなの)国(長野県)佐久(さく)・小県(ちいさがた)の二郡を与えられ、関(かん)八州を守り、上野厩橋(うまやばし)(前橋市)城主となる。
本能寺の変後に北条(ほうじょう)氏直と神流川(かんながわ)に戦い敗れ、本領伊勢に帰る。
翌年神戸信孝(かんべのぶたか)、柴田勝家(しばたかついえ)と同盟して、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉と争うが、降伏。
84年の小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いで徳川家康に敗れる。越前(えちぜん)大野(福井県大野市)に引退。
茶道の造詣(ぞうけい)が深い。
滝川一益(たきがわかずます)とは – コトバンク

(1525―1586)

安土(あづち)桃山時代の武将。
織田信長の老臣。
左近将監(さこんのしょうげん)。
号は不干。
滝川氏は紀氏の一族、河内高安荘司(かわちたかやすのしょうじ)。

中川清秀 2017/7/14(金)追加

中川清秀
中川 清秀(なかがわ きよひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
幼名は虎之助。通称は瀬兵衛(せびょうえ)。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系摂津源氏の流れを汲む多田行綱の子の明綱(あるいは河内源氏傍系石川源氏)の後裔と称した。父は中川重清、母は中川清村(重利)の娘。子に秀政、秀成、池田輝政先室(池田利隆母)・糸姫。妹は古田重然(織部)室。キリシタン大名である高山右近は従兄弟にあたる。

1542‐83(天文11‐天正11)
安土桃山時代の武将。
瀬兵衛尉と称する。
重清の子。
はじめ池田勝正,のち織田信長に仕え,一族の荒木村重に属して摂津茨木城に拠る。
1578年(天正6)村重が信長に背くと,信長に帰順して村重を攻め功をあげた。
本能寺の変後は豊臣秀吉に属し,山崎の戦では先鋒をつとめ明智勢を破った。
83年4月賤ヶ岳の戦で大岩山の砦に陣したが,柴田勝家の将佐久間盛政の奇襲にあい討死した。
中川清秀(なかがわきよひで)とは – コトバンク

逸話
山崎の戦いの後、陣中見回りを駕籠で行った羽柴秀吉は、清秀の陣で「瀬兵衛、骨折り」と言ったが、清秀は「猿め、はや天下を取った気でおるわ」と大声で言いかえし、秀吉は聞こえぬふりをして通り過ぎた、という。

荒木村重謀反の原因となった石山本願寺への兵糧の横流しをおこなったのは清秀の家臣とされる。
これが事実とすれば、清秀は謀反の原因を作った上に、村重の恭順の意思を説得して翻らせ、にもかかわらず自分は寝返ったことになり、向背めまぐるしい戦国時代としてもかなり特異な例である。
ただ、当時こうした出処が非難された形跡はなく、むしろ人望のある人物であったという。
中川清秀 – Wikipedia

宇喜多秀家 2017/7/13(木)追加

宇喜多秀家
宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣政権下(の末期)の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始秀吉に重用されていた。通称は備前宰相。父直家の代に下克上で戦国大名となった宇喜多氏の、大名としての最後の当主であり、関が原の戦いで西軍について所領を失うまで岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。

[生]天正1(1573).備前,浦上
[没]明暦1(1655).11.20. 八丈島
戦国時代後期の武将。
直家の子で初め家氏。
秀吉に召されて武将となり,四国,九州,小田原攻めに軍功を立て,文禄・慶長の役には朝鮮で活躍した。
秀吉の五大老制の採用では,その1人にあげられ信任は厚かった。
しかし,慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いでは西軍に投じて敗れたため,薩摩に逃れ,島津氏のもとに隠れていたが,島津忠恒の命乞いによって死を免れ,駿河久能に放たれ,同 11年4月には八丈島に流された。
島にあること約50年,配所で没した。
宇喜多秀家(うきたひでいえ)とは – コトバンク

荒木村重 2017/7/12(水)追加

荒木村重
荒木 村重(あらき むらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。利休十哲の1人である。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)。荒木氏は波多野氏の一族とされ、先祖は藤原秀郷である。

没年:天正14.5.4(1586.6.20)
生年:天文4(1535)
戦国時代の武将。丹波国多紀郡(兵庫県)波多野氏の一族の出自という説がある。高村(義村)の子。通称弥介。摂津守。法名道薫。父の代から摂津国人池田勝正に仕えたが,永禄11(1568)年10月,織田信長の来攻に支え切れず勝正に従って降伏。翌年1月,三好三人衆が足利義昭を攻めた本国寺の変では,勝正に従軍してこれを撃退した。その後池田氏が内訌で弱体化すると有力家臣として台頭。天正1(1573)年,茨木城主となって和田惟政を高槻城から追い,摂津東半国を勢力下に置く。同年7月,義昭の槙島城蜂起には織田方として参戦。その功により摂津一国の支配を委ねられた。 天正2年勝正を高野山に放逐し,伊丹城の伊丹忠親を滅ぼし,同城を接収して有岡城と改名。以後山陽方面の軍事を担当し,翌3年播磨浦上氏を攻撃,さらにその翌年には尼崎の海上警備を務めて本願寺に備えた。同5年紀伊雑賀攻めに従軍,翌年羽柴(豊臣)秀吉らと共に播磨上月城主尼子勝久への援軍に加わり毛利氏に対峙した。
荒木村重(あらきむらしげ)とは – コトバンク

しかし,同年10月従兄弟に当たる中川清秀の家人が本願寺へ米を売却したという密告により信長に疑われ,釈明しようとしたが果たさず,ついに反逆を決意したといわれる。こうして本願寺,毛利氏側に寝返って,清秀や高山右近らと共に反信長の兵を挙げたが,滝川一益,明智光秀らの攻撃を受け,籠城10カ月におよんだ。その後村重は,同7年9月,ひそかに有岡城の包囲を逃れて尼崎城に入ったが,有岡城は11月に陥落。信長は村重の妻をはじめ30人余を人質とした。村重の同族久左衛門が尼崎に赴いて降伏を説得したが聞き入れず,信長は妻女36人を京都に斬り,家臣およびその妻女600人余を礫刑,火刑に処した。村重は花隅城に逃れたが,翌年7月攻め落とされて毛利氏分国に逃亡。本能寺の変後は堺に居住,千利休に茶を学び,宗匠として秀吉に起用された。堺で死去。近世初期風俗画の名手,岩佐又兵衛はその遺子という。
荒木村重(あらきむらしげ)とは – コトバンク

真田昌幸 2017/7/11(火)追加

真田昌幸
真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。

没年:慶長16.6.4(1611.7.13)
生年:天文16(1547)
戦国時代の信濃国(長野県)を本拠とした武将。
源五郎,喜兵衛。
安房守と称す。
弾正忠真田幸隆の3男。
天文22(1553)年より人質として武田信玄の下にあり,武田家ゆかりの武藤姓を与えられて武藤喜兵衛と称し,信任が厚かった。
家督を継いだ兄信綱と次兄昌輝が天正3(1575)年の長篠合戦で戦死し,真田姓に復す。
同6年越甲(越後,甲斐)同盟の成立により武田勝頼が東上野に侵攻すると,その力を背景に沼田城を攻略,同8年5月には同地を占領して北上野を武田領とした。
同10年3月の武田氏滅亡後は織田氏に属し,本能寺の変ののちは北条・上杉・徳川氏の間で帰属を変え,上野・信濃両国の4郡を守るべく画策した。
翌年上田城を築き居城とし,上野沼田領については,同17年,豊臣秀吉の裁決により沼田城と利根郡を北条氏に渡した。
翌年,北条氏の滅亡により沼田城を回復するが,慶長5(1600)年の関ケ原の戦で西軍(石田三成方)についたため所領は没収。
東軍にあった長男信之の嘆願で命は助けられ,高野山九度山に蟄居,配所で没した。
真田昌幸(さなだまさゆき)とは – コトバンク

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