南部信直 2017/11/10(金)追加
1546‐99(天文15‐慶長4)
戦国末期の武将。陸奥国三戸(さんのへ)城主(現,青森県三戸町)。南部氏一族高信の子。1582年(天正10)本家をつぎ三戸城主となる。90年豊臣秀吉より南部の内7郡を安堵される。翌年,九戸政実の乱平定にさいして和賀,稗貫(ひえぬき),志和3郡を加増され,都合10郡,10万石を領す。その後盛岡城(現,岩手県盛岡市)築城に着手するなど近世における盛岡藩の基礎を築く。
南部信直(なんぶ のぶなお)とは – コトバンク
平手政秀 2017/11/9(木)追加
織田信秀の重臣として主に外交面で活躍、茶道や和歌などに通じた文化人で、天文2年(1533年)に尾張国を訪れた山科言継から賞賛を受けるほどであった。天文12年(1543年)5月には、信秀の名代として上洛し、朝廷に内裏築地修理料4,000貫を献上するなど、朝廷との交渉活動も担当していた。
天文3年(1534年)、信長が誕生すると傅役となり、次席家老を務めた。天文16年(1547年)には後見役として信長の初陣を滞りなく済ませるとともに、翌17年(1548年)には争い中であった美濃の斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約を取り纏めた。また三河の安城合戦においては織田信広への援軍を率いた。
信秀が死去して織田家中が不穏となる中で、天文22年閏1月13日(1553年2月25日)に自刃した。享年62。
平手政秀 – Wikipedia
津軽為信 2017/11/8(水)追加
没年:慶長12.12.5(1608.1.22)
生年:天文19.1.1(1550.1.18)
戦国末・近世初頭の武将。堀越城主(青森県弘前市)武田守信の子。右京大夫。南部の一族大浦氏が光信のとき大浦城(青森県岩木町)を築き津軽中央進出の足がかりとした。為信は18歳のとき,この伯父大浦城主為則の養子となって就封という。南部氏は郡代を置いて津軽を統治,その郡代補佐であった為信が天正16(1588)年までに南部氏内紛に乗じて津軽を統一。18年小田原に参陣し,豊臣秀吉より津軽領有の承認を得て南部氏より独立。九戸政実の討伐にも参陣。朝鮮出兵のため肥前名護屋にいた秀吉のもとへ軍勢を派遣。文禄2(1593)年上洛し,正式に津軽4万石の安堵状を得,また近衛家からも牡丹の家紋と藤原姓を名乗ることを許可された。3年大浦城より堀越城へ移る。慶長5(1600)年関ケ原の戦の功により上州大館に2000石を加増,総高4万7000石となる。12年病気で京都滞留中の長男信建を見舞おうとしたが到着前に信建は死去。自らも京都で死没。弘前市華秀寺に葬る。
津軽為信(つがるためのぶ)とは – コトバンク
石川数正 2017/11/7(火)追加
徳川家康の片腕として酒井忠次と共に活躍したが、小牧・長久手の戦いの後に出奔して豊臣秀吉に臣従した。深志城主10万石となり、信濃松本藩の初代藩主と見なすことが通説となっている。
[生]? 美濃
[没]文禄2(1593).12. 名護屋
戦国時代の武将。伯耆守と称した。庸正の子。徳川氏に幼少から仕えて家康に非常にかわいがられた。そのうえ石瀬合戦や姉川の戦い,三方ヶ原の戦い,長篠の戦いで功を立て,重臣として徳川氏家臣団内部に重きをなした。しかし,天正 12 (1584) 年の小牧・長久手の戦いのとき,豊臣秀吉と対陣してその勢力の隆盛なのをみて,翌 13年 11月家康のもとを去って大坂に走り秀吉に仕え,そこで出雲守と称した。同 14年和泉に封じられ,さらに同 18年小田原征伐後,信濃松本 (8万~10万石) に転封,子康長と松本城の構築に努めた。文禄2 (93) 年 12月,名護屋在陣中病死。
石川数正(いしかわかずまさ)とは – コトバンク
森力丸 2017/11/6(月)追加
森可成の五男で、森長可、森長定(乱、蘭丸)、森長隆(坊丸)らの弟。幼名の力丸(りきまる)の名で知られる。
兄の成利(長定)らと同様に織田信長に仕え、小々姓の一人であった。
天正10年(1582年)の本能寺の変に際し、信長に最後まで従って明智軍相手に奮戦したが、討ち死にした。享年15。
墓所は阿弥陀寺と大徳寺三玄院、可成寺(岐阜県可児市)などにある。法名は阿弥陀寺では花月宗泉信士、大徳寺で一渓宗榮禅定門、本源寺(森氏菩提寺)では法雲宗心信士とされている。
森長氏 – Wikipedia
北条氏康 2017/11/5(日)追加
関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。
1515-1571 戦国時代の武将。
永正(えいしょう)12年生まれ。北条氏綱の長男。天文(てんぶん)10年,小田原城主北条氏3代となる。15年扇谷(おうぎがやつ)上杉氏を武蔵(むさし)河越(かわごえ)(埼玉県)にやぶり,23年今川義元,武田信玄と三国同盟をむすぶ。永禄(えいろく)4年上杉謙信の進攻をしりぞけ,伊豆(いず)・相模(さがみ)・武蔵・上野(こうずけ)を領有,検地の実施,軍役の制定,税制の改革など領国支配の基礎をかためた。元亀(げんき)2年10月3日死去。57歳。通称は新九郎。
北条氏康(ほうじょう うじやす)とは – コトバンク
林秀貞 2017/11/4(土)追加
長年「通勝(みちかつ)」と伝えられてきたが、正しくは秀貞であり(『言継卿記』等)、松永久秀の家臣の林通勝と混同されたと考えられている。ただ、子の林勝吉(のちの林一吉)、孫の林勝久と、「勝」を通字としている事から、初めは通勝で後に主君・織田信秀の秀の字を与えられ、秀貞と改名した可能性も考えられる。
戦国-織豊時代の武将。
美濃(みの)(岐阜県)の人。織田信秀につかえ,その嫡男信長を補佐。弘治(こうじ)2年(1556)信長を廃してその弟信行をたてようと柴田勝家らとともに信長とたたかうが敗退。のち信長につかえ,桶狭間(おけはざま)の戦いなどに功をたてるが,天正(てんしょう)8年追放された。名は通勝として知られているが,秀貞が正しい。
林秀貞(はやし ひでさだ)とは – コトバンク
村井貞勝 2017/11/2(木)追加
没年:天正10.6.2(1582.6.21)
生年:生年不詳
安土桃山時代の武将。通称吉兵衛,次いで民部丞を称した。織田信長に仕え,永禄11(1568)年,信長が足利義昭を擁して上洛してからは,京都の民政に携わった。同年11月,民部少輔に任じられ,その後,足利義昭が信長と不和になったとき,義昭を諫めたことがある。また,禁裏御所の修築など,朝廷との折衝にも当たっている。天正1(1573)年7月からは京都所司代の要職にあり,同3年,長門守に任ぜられた。合戦では,同4年の石山本願寺攻めに加わったこともあるが,むしろ,安土城の築城や,京都南蛮寺の建設,さらに四条の橋の架橋など,奉行としての業績にみるべきものがあった。剃髪して 春長軒 を称した。同7年9月には人買いの女を捕らえている。本能寺の変のとき,信長の嫡子信忠に殉じ二条御所で討死した。
村井貞勝(むらい さだかつ)とは – コトバンク
脇坂安治 2017/11/1(水)追加
没年:寛永3.8.6(1626.9.26)
生年:天文23(1554)
安土桃山・江戸前期の武将。近江国に出生。初名は甚内,通称は中務少輔。田付孫左衛門と田付景治の妹の子。母の再嫁に従い脇坂安明の嗣子となる。妻は西洞院宰相某の娘。初陣は永禄12(1569)年の丹波国黒井城攻め。同年羽柴秀吉に謁見し食禄3石を与えられる。播磨国三木城の戦をはじめすこぶる戦功があり,ことに賤ケ岳では七本槍のひとりとして奮戦した。その功により3000石を給された。天正13(1585)年5月摂津国能勢郡に1万石,同8月に大和国高取城2万石,10月に淡路国洲本城3万石に転じた。関ケ原の戦でははじめ西軍についたが,家康に通じて東軍に寝返った。慶長14(1609)年9月伊予国大洲城主となり5万3500石に加増。元和1(1615)年致仕。武功で知られるが,和漢の学に通じ,特に和歌を嗜んだ。
脇坂安治(わきざかやすはる)とは – コトバンク
片桐且元 2017/10/31(火)追加
豊臣家の直参家臣で、豊臣姓を許される。関ヶ原の戦い以降も、傅役として豊臣秀頼に仕えていたが、徳川家康に協力的な立場で、方広寺鐘銘事件で大坂城を退出して徳川方に転じた。且元系片桐家初代で、大和国竜田藩初代藩主となる。弟に同国小泉藩主となった片桐貞隆がいる。
[生]弘治2(1556).近江
[没]元和1(1615).5.28. 駿府
安土桃山~江戸時代初期の武将。直貞の子。初名は直盛,通称は助作 (助佐) ,市正ともいう。若いときから荒小姓として豊臣秀吉に仕え,天正 11 (1583) 年の賤ヶ岳の戦いに功があり,「七本槍」の一人として1万石を与えられた。文禄1 (92) 年の文禄の役に従軍,のち秀吉没後は秀頼の後見となり,関ヶ原の戦い後,徳川家康に秀頼の罪なきことを説き,終始豊臣家のために尽力した。しかし慶長 19 (1614) 年,大仏鐘銘事件が起り,以後,淀君らと不和になり,大坂城を退いて居城茨木に帰った。翌元和1 (15) 年の大坂冬の陣には徳川方として参陣,翌年の夏の陣では,大坂城落城に際して淀君,秀頼の助命を家康に懇願したが入れられなかった。且元は大和竜田の4万石を安堵されたが,まもなく死去した。
片桐且元(かたぎりかつもと)とは – コトバンク
今川氏真 2017/10/30(月)追加
戦国大名。今川義元(よしもと)と、武田信虎(のぶとら)の女(むすめ)との間に生まれた。幼名五郎。上総介(かずさのすけ)。1560年(永禄3)、桶狭間(おけはざま)における父義元の敗死後、家督を継承し領国経営を行った。しかしその後、短期間のうちに領国駿河(するが)、遠江(とおとうみ)、三河は武田、徳川、北条氏によって奪われることとなり、氏真は北条、徳川氏のもとに寄寓(きぐう)した。やがて剃髪(ていはつ)し宗(そうぎん)と号した。和歌、蹴鞠(けまり)などに秀(すぐ)れ、一時上洛(じょうらく)していた。その後、徳川家康のもとで武蔵(むさし)品川に屋敷を与えられ、慶長(けいちょう)19年12月28日、77歳で没した。暗愚な戦国大名として多くの逸話を伝えている。また、氏真以後は江戸期を通じて今川氏、品川氏と称して、代々高家(こうけ)として存続した。
今川氏真(いまがわうじざね)とは – コトバンク
浅野幸長 2017/10/29(日)
(1576―1613)
桃山時代・江戸初期の武将。幼名長満、左京大夫(さきょうのだゆう)のち紀伊守(きいのかみ)を称す。父長政(ながまさ)とともに豊臣(とよとみ)秀吉に仕え、1589年(天正17)の小田原攻めに従軍、秀吉の朝鮮出兵には再三朝鮮に渡り、1597年(慶長2)の蔚山(うるさん)城攻防には明(みん)の大軍に包囲され苦戦した。1598年秀吉の死により帰国した。この間、1593年(文禄2)に父とともに甲斐(かい)(山梨県)一国を与えられ、1595年石田三成(みつなり)の讒言(ざんげん)で一時能登(のと)(石川県)に流された。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いには徳川家康の先鋒(せんぽう)として岐阜城を攻め、功により家康から紀伊国(和歌山県)37万6000余石を与えられた。慶長(けいちょう)18年8月25日和歌山で没したが、子がないため弟長晟(ながあきら)が封を襲(つ)いだ。1620年(元和6)安芸(あき)広島に転封され、以後相伝して廃藩置県に至る。
浅野幸長(あさのよしなが)とは – コトバンク
陶晴賢 2017/10/28(土)
晴賢と名乗ったのは、天文20年(1551年)に主君・大内義隆を討ち大友晴英(後の大内義長)を当主に据えてから厳島の戦い前に出家するまでの数年間だけであり、それまでは初名の隆房を名乗っていた(以下、本項ではその当時の名乗りに合わせて記述する)。
[生]大永1(1521)
[没]天文24(1555).10.1. 安芸,厳島
戦国時代の武将。興房の子。初名は隆房。幼名は五郎。法名は呂翁全薑 (ぜんきょう) 。戦国大名大内義隆に仕えて重用され,美しい容姿を主人に愛されたと伝えられる。天文6 (1537) 年従五位下,中務権大輔。同 14年尾張守,同 17年従五位上。同 20年8月周防国山口に主人義隆を攻めて,その9月自害させた。同 21年剃髪して全薑と称した。この年大内義長 (旧名大内晴英) を迎えて義隆の後嗣とし,政務は晴賢がとった。同 23年以来毛利元就と対抗し,同 24年安芸国厳島の戦いに敗れて逃走,自害した。
陶晴賢(すえはるかた)とは – コトバンク
宗義智 2017/10/27(金)
1568-1615 織豊-江戸時代前期の大名。
永禄(えいろく)11年生まれ。宗将盛(まさもり)の5男。天正(てんしょう)7年12歳で兄宗義純(よしずみ)の跡をつぎ対馬(つしま)(長崎県)の守護となる。宗義調(よししげ)が後見。16年守護に復帰していた義調の死により再任。豊臣秀吉の朝鮮出兵には小西行長軍の先陣をつとめた。戦後は,徳川家康の命により朝鮮との国交修復につとめ,慶長10年講和を成立させた。対馬府中藩主宗家初代。慶長20年1月3日死去。48歳。初名は昭景。通称は彦三。
宗義智(そうよしとし)とは – コトバンク
森忠政 2017/10/26(木)
没年:寛永11.7.7(1634.7.31)
生年:元亀1(1570)
安土桃山時代の武将,江戸時代前期の大名。可成の6男。母は林通安の娘,妙向尼。幼名千丸。豊臣秀吉に仕える。天正12(1584)年兄長可の遺領美濃国(岐阜県)金山城7万石を継ぐ。同15年2月6日従四位下侍従に叙任,羽柴姓を授けられ,文禄1(1592)年には肥前名護屋城の警護に当たる。秀吉死後は徳川家康に仕え,慶長5(1600)年2月,信濃更科・水内・埴科・高井4郡に移封,海津城主となり13万7500石を領した。同年の関ケ原の戦では徳川方東軍に属し所領を安堵される。同8年美作津山に移封,藩祖となり18万6000石余を領す。3代将軍徳川家光の上洛に際し京都に赴くが,その際,食事が原因で急死。葬地は京都大徳寺三玄院。
森忠政(もり ただまさ)とは – コトバンク
織田信包 2017/10/24(火)
没年:慶長19.7.17(1614.8.22)
生年:天文12(1543)
戦国・江戸前期の大名。織田信秀の子で,信長の弟。通称は三十郎,名ははじめ信良。信兼とも書かれる。永禄12(1569)年の信長による北伊勢進攻後,伊勢上野城の城主となり,以後,信長に従って各地に転戦した。本能寺の変後,豊臣秀吉に属し,伊勢安濃津城主となったが,小田原攻めのとき,秀吉の機嫌をそこねて所領を没収され,出家して老犬斎と号し,京都慈雲寺に入っている。のち,秀吉の御咄衆として召し出され,慶長3(1598)年,丹波柏原3万6000石を与えられた。関ケ原の戦では西軍に属し丹後田辺城攻めに加わったが,幸いにも旧領を安堵された。
織田信包(おだ のぶかね)とは – コトバンク
木村重成 2017/10/23(月)
没年:元和1.5.6(1615.6.2)
生年:生年不詳
江戸初期の武将。木村常陸介の子と伝えられる。豊臣秀頼に仕え,長門守を称す。慶長19(1614)年,大坂冬の陣で籠城。12月21日,講和の使者として徳川秀忠の本陣岡山に赴き,秀忠の誓紙を受けとる。翌元和1(1615)年の夏の陣でも籠城。5月6日,重成勢は早朝から若江に出陣,藤堂高虎,井伊直孝勢と昼まで数回攻防,疲れたところを直孝の新手に突かれ敗走した。重成自身は踏みとどまって奮戦したが,安藤長三郎某に首を取られた。弱冠23歳の美貌の若武者だったと伝えられる。
木村重成(きむらしげなり)とは – コトバンク
来島通総 2017/10/22(日)
没年:慶長2.9.16(1597.10.26)
生年:永禄4(1561)
安土桃山時代の武将。伊予国(愛媛県)来島城主村上通康の第4子。母は湯築城主河野通直の娘。永禄10(1567)年家督を継ぎ,通総の代から来島氏を名乗る。天正10(1582)年に主家河野氏を離反し,豊臣秀吉の水軍として活躍。同13年秀吉の四国攻めの戦功で,野間,風早両郡中1万4000石を与えられる。秀吉の九州攻め,小田原攻めにも従軍。文禄1(1592)年の朝鮮出兵に際し,兄通之と共に四国勢5番手に編成されて渡海(文禄の役)。慶長2(1597)年朝鮮再出兵の際には四国勢6番手に編成されて渡海し(慶長の役),全羅道鳴梁で戦死。法名節巌院天臾常清。瀬戸内水軍を率い,秀吉方の武将として活躍した。
来島通総(くるしま みちふさ)とは – コトバンク
北条氏綱 2017/10/21(土)
伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。
生]文明18(1486)
[没]天文10(1541).7.19. 小田原
戦国時代の大名。後北条氏2代目。宗瑞の子。号は春松院。法名は快翁宗活。永正 15 (1518) 年父の跡を継ぎ小田原城主。大永4 (24) 年1月 13日上杉朝興を攻めてこれを破り,江戸城を攻略。同6年 12月 15日鎌倉で里見実堯を破った。次いで天文6 (37) 年7月 15日上杉朝定と戦って松山城を攻略し,翌7年2月2日太田資正を武蔵岩槻城に攻め,相模,武蔵を掌握。同年 10月7日子の氏康とともに足利義明,里見義堯らを下総国府台に破って着々と関東南部を制圧し,後北条氏の基礎を固めた。
北条氏綱(ほうじょううじつな)とは – コトバンク
加藤嘉明 2017/10/20(金)
通称は孫六、後に官位と同じ左馬助と改める。諱の嘉明も後の名乗りで、初めは茂勝(繁勝)と名乗っていた。
没年:寛永8.9.12(1631.10.7)
生年:永禄6(1563)
安土桃山・江戸時代前期の武将。近江水口藩(滋賀県水口町)加藤家の祖。初名茂勝,通称は孫六,左馬助。13歳で羽柴(豊臣)秀吉に仕え羽柴(豊臣)秀勝付き,次いで秀吉直属となる。天正11(1583)年の賤ケ岳の戦で七本槍のひとりとして功あり3000石を与えられ,翌年には淡路1万5000石志智城主となる。以後は船手の将として九州征討,小田原攻め,文禄・慶長の役に参加。この間の文禄4(1595)年,伊予松前6万石に転封。関ケ原の戦では東軍に属し,戦後伊予松前20万石となる。徳川政権下では江戸城,駿府城,篠山城,名古屋城などの修築を分担。慶長19(1614)年の大坂冬の陣では江戸城留守居となったが,翌年の夏の陣には自ら参陣。元和8(1622)年,徳川家光鎧着初の介添役を務め,翌年従四位下。寛永3(1626)年,徳川秀忠・家光の上洛に供奉,その際侍従に任ぜられた。翌年会津若松城主40万石に封ぜられたが,同8年江戸で病死。
加藤嘉明(かとう よしあき)とは – コトバンク
塙団右衛門 2017/10/19(木)
後世、『難波戦記』などの軍記物や岩見重太郎の講談などで有名になったため、塙 団右衛門(ばん だんえもん)の名でも知られる。
没年:元和1(1615)
生年:永禄10(1567)
安土桃山時代の武将。初名は長八,団右衛門と称する。尾張葉栗の出身。はじめ織田信長に仕え,次いで豊臣秀吉の武将加藤嘉明に召し抱えられて鉄砲大将となり知行1000石を得た。文禄の役でも軍功をあげたが,関ケ原の戦ののち軍令違反問題で嘉明と争い,加藤家を去って小早川秀秋,松平忠吉,福島正則に歴仕し,のち出家して京都妙心寺に入り法名を鉄牛と号した。慶長19(1614)年の大坂の陣に際しては牢人募集に応じて入城し,大野治房の隊に属した。冬の陣では池田忠雄の陣を夜襲するなど活躍したが,夏の陣において和泉樫井畷で戦死した。
塙直之(ばんなおゆき)とは – コトバンク
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの時に、鉄砲大将を任されながら、命令を無視して勝手に足軽を出撃させたため嘉明の勘気を被り、「将帥の職を勤め得べからず(=お前には将の役目を勤める能力がない)」と叱責された。これに憤慨した直之は、「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎(=小さな水に留まることなく、カモメは天高く飛ぶ)」との漢詩を、書院の大床に張りつけると、禄を捨てて出奔した。一方、漢詩を見た嘉明も激怒し、奉公構を出して、諸侯が直之を雇うのを妨害した。
塙直之 – Wikipedia
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が始まると、直之は還俗。山縣三郎右衛門なるものを家来としてまずは近江路へと進んだが、関東方(徳川方)は多勢で功をあげても禄は期待できないが豊臣方ならば大功上げれば大名にもなれると相談し、決心して引き返して豊臣方に参加することになった。浪人衆の1人として大将・大野治房の組に預けられ、和議が迫った頃、志願して夜襲の許可を得て、11月17日、直之は米田監物と共に蜂須賀至鎮の陣に夜襲をし、その家臣・中村右近を討ち取るなど戦果をあげた。その際、直之は本町橋の上に床几を置いて腰かけて動かず、士卒に下知を飛ばして戦い、「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせた。これは嘉明に対して自分には将帥の才もあることを示すためだったと言われる。
塙直之 – Wikipedia
内藤昌豊 2017/10/17(火)
?-1575 戦国-織豊時代の武将。
甲斐(かい)(山梨県)の人。武田信玄につかえ,天文(てんぶん)15年50騎をかかえる侍大将となり内藤を名のった。のち上野(こうずけ)(群馬県)の箕輪(みのわ)城代,小荷駄(こにだ)奉行。天正(てんしょう)3年5月21日三河(愛知県)長篠(ながしの)の戦いで討ち死にした。本姓は工藤。通称は源左衛門。
内藤昌豊(ないとう まさとよ)とは – コトバンク
京極高次 2017/10/16(月)
生]永禄6(1563).近江,小谷
[没]慶長14(1609).5.3. 若狭,小浜
安土桃山時代の武将。本姓は佐々木。もとは近江半国の守護。浅井氏に領土を奪われてからこれに服属し,浅井氏滅亡後,織田信長に仕え,本能寺の変後,明智光秀にくみしたため,豊臣秀吉に追われたが,妹を秀吉の側室に差出すことで許された。関ヶ原の戦いでは徳川軍に味方。大津城にこもったが,西軍の立花宗茂らに攻められて降伏,剃髪して高野山に入った。しかし,妻が徳川秀忠の義姉であった関係などで,戦後若狭国に8万 5000石を与えられ,のちには加増されて9万 2000石となった。
京極高次(きょうごくたかつぐ)とは – コトバンク
北条早雲 2017/10/15(日)
1432-1519 室町-戦国時代の武将。
永享4年生まれ。駿河(するが)(静岡県)の今川氏の食客となり,延徳3年堀越公方(くぼう)足利茶々丸を攻めて伊豆(いず)を制圧。明応4年大森藤頼の小田原城を攻略して本拠とし,永正(えいしょう)13年相模(さがみ)(神奈川県)を平定,北条氏の関東制覇の基礎を確立した。家訓に「早雲寺殿廿一箇条」がある。出身地は伊勢(いせ),京都,備中(びっちゅう)説など。永正16年8月15日死去。88歳。本姓は伊勢。名は長氏。通称は新九郎。法名は早雲庵宗瑞。
北条早雲(ほうじょうそううん)とは – コトバンク
長宗我部盛親 2017/10/13(金)
没年:元和1.5.15(1615.6.11)
生年:天正3(1575)
安土桃山時代の武将。土佐国(高知県)を領す。元親の4男。母は斎藤氏。幼名千熊丸。右衛門太郎,土佐守。長岡郡岡豊城に生まれる。天正14(1586)年後嗣に決定。豊臣秀吉の小田原攻め,朝鮮出兵に参加。慶長2(1597)年3月,元親と連署で掟書を発布している。同4年,元親の死により家督を継承し,長浜の慶雲寺を菩提寺とし,元親の法号にちなんでこれを雪蹊寺と改称した。同5年の関ケ原の戦では石田三成方の西軍に属したが,敗色が濃厚になると戦わずして帰国。戦後,領国を没収された。その後,同19年に豊臣秀頼の招きで大坂冬の陣に参陣するまでは,大岩祐夢の名で京都において寺子屋の師匠として生活。元和1(1615)年,夏の陣に出陣し敗走。大坂落城後,山城国で捕らえられ,京を引き回されたのち六条河原で斬殺された。
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)とは – コトバンク
上杉景虎 2017/10/12(木)
[生]天文22(1553).小田原
[没]天正7(1579).3.24. 越後
戦国時代の武将。北条氏康の子。幼名は国増丸。初名は氏秀。武田信玄の養子となったが,武田,北条の不和により帰国。次いで永禄 12 (1569) 年,北条氏康と越後上杉謙信和睦のとき,謙信の養子となり,謙信の幼名を受けて景虎と改名。天正6 (78) 年謙信の死後,同じく謙信の養子景勝と家督を争い,景虎は上杉憲政の北河館に拠り,北条氏政に援軍を求めた。氏政は武田勝頼に出兵を求めたが,景勝が勝頼に通じ,勝頼は景虎援助を中止したため,景虎は孤立して敗退し,越後鮫ヶ尾城に逃れて自害した。
上杉景虎(うえすぎかげとら)とは – コトバンク
明石全登 2017/10/11(水)追加
江戸初期のキリシタン武将。生没年不詳。名は守重。全登,全薑と号す。洗礼名ジョアン。宇喜多秀家の姉を妻とし,家臣中最大の領地を有した。1600年(慶長5)関ヶ原の戦で西軍に属した宇喜多家滅亡後,黒田家にむかえられ,筑前秋月に住した。15年,豊臣秀頼の招きに応じ,大坂の陣にキリシタン部隊を率いて活躍した。大坂落城後,戦死とも,逃亡潜伏後病死したともいわれている。
明石掃部(あかし かもん)とは – コトバンク
馬場信春 2017/10/10(火)追加
1513‐75(永正10‐天正3)
戦国時代の甲斐の武将。民部少輔,美濃守。旧名教来石(きようらいし)景政。馬場氏は甲斐の名族であったが,虎貞が武田信虎の怒りに触れ切腹して家が絶えたので,晴信(信玄)の命で信春が家を継いだ。彼は信虎,晴信,勝頼の3代に仕えて軍功多く,後に武田の四臣に数えられた。長篠の戦では勝頼に退却を進言したがいれられず,結局敗軍のしんがりをつとめ,本隊の脱出を見届けてから討死した。
馬場信春(ばばのぶはる)とは – コトバンク
森坊丸 2017/10/9(月)追加
信長の小姓の一人で、1582年の本能寺の変に際し、信長に最後まで付き従って本能寺で戦死した(『信長公記』)。
享年17。
法号:祐月宗徳居士、夏山清凉信士。
墓所:阿弥陀寺、可成寺(岐阜県可児市)。
森長隆 – Wikipedia






























