[生]天文7(1538).肥前
[没]元和4(1618).6.3. 肥前
安土桃山時代の武将。肥前藩の祖。清房の子。初名,信生。初め龍造寺隆信に仕えたが,天正 12 (1584) 年隆信の死後,その子政家を擁して龍造寺家の実権を握り,同 18年政家を隠退させ,政家の子高房の後見となり,佐嘉 (佐賀) 城主となった。豊臣秀吉に仕え,文禄・慶長の役に従軍。関ヶ原の戦いには徳川方に属し,子勝茂とともに柳川の立花宗茂と対戦。なお渡鮮のおり連れ帰った陶工に窯業を学び,陶磁器隆盛の基を築いた。
鍋島直茂(なべしまなおしげ)とは – コトバンク
堀秀治 2018/2/2(金)追加
没年:慶長11.5.26(1606.7.1)
生年:天正4(1576)
安土桃山・江戸時代前期の武将。秀政の嫡子。久太郎,左衛門督。近江国(滋賀県)安土に生まれる。天正18(1590)年,豊臣秀吉の小田原攻めに父と共に参陣。同年11月に家督を継ぐ。慶長3(1598)年には越後国春日山城(上越市)城主となり,43万石を知行した。秀治は移封後,領内の総検地を実施し,また上杉遺民一揆も平定するなど,領地内の治安や経営に邁進した。しかし同11年,31歳の若さで春日山城において死去,林泉寺に葬られた。
堀秀治(ほり ひではる)とは – コトバンク
寺沢広高 2018/2/1(木)追加
没年:寛永10.4.11(1633.5.18)
生年:永禄6(1563)
江戸初期の大名。通称忠次郎,正成,広忠ともいう。志摩守。従四位下。寺沢広正の嫡子。尾張(愛知県)生まれ。豊臣秀吉に仕え,文禄1(1592)年からの朝鮮の役では名護屋城普請,後備衆として 置兵糧,船継などの差配,明の講和使節接待役に当たった。慶長5(1600)年関ケ原の戦では東軍に属し,恩賞として肥前国天草4万石を加増,都合12万石の大名となった。文禄1年から長崎奉行も兼任,朱印船貿易の創始に努めたが,慶長7年ポルトガル船貿易をめぐる対立から同役を解任された。これは秀吉子飼いの外様大名寺沢氏が,徳川政権下で排除されたことを意味していよう。なお,広高がキリスト教へ改宗したという説については,イエズス会の記録などに否定的な見解がみられる。
寺沢広高(てらざわ ひろたか)とは – コトバンク
古田重治 2018/1/31(水)追加
古田 重治(ふるた しげはる)は、江戸時代前期の大名。伊勢松坂藩第2代藩主、石見浜田藩初代藩主。
天正6年(1578年)、羽柴秀吉の家臣だった古田重則の三男として生まれる。父の死後、家督は長兄の重勝が継いでいたが、重勝が慶長11年(1606年)に死去した際、重勝の子である希少丸(後の重恒)が4歳と幼かったことから、重治が跡を継ぐこととなった。名古屋城普請や慶長19年(1614年)からの大坂の陣で功を挙げたため、元和5年(1619年)2月13日に伊勢松坂から石見浜田へ移封された。元和6年(1620年)2月から3年かけて浜田城とその城下町を完成させた。また、浜田川、浅井川の治水工事に務めている。元和9年(1623年)5月、家督を重恒に譲って江戸で隠居した。寛永2年(1625年)11月25日(異説として11月9日)、江戸で死去した。享年48。
古田重治 – Wikipedia
高橋元種 2018/1/30(火)追加
没年:慶長19.10.9(1614.11.10)
生年:元亀2(1571)
安土桃山・江戸初期の大名。筑前(福岡県)の秋月種実の次男。高橋鑑種の養子となり,高橋姓を名乗る。日向(宮崎県)高鍋藩初代藩主秋月種長の実弟。延岡(県)藩5万3000石の初代藩主。天正15(1587)年豊前香春岳から入封。文禄・慶長の役(1592・1597)ともに出兵。関ケ原の戦では,はじめ西軍に属したが,のち徳川家康に降って所領を安堵された。慶長18(1613)年富田信高をめぐる罪人隠匿事件に連座して改易。はじめ筑前柳川の立花宗茂,のち奥州柵倉の丹羽若狭守に預けられて客死。嫡男左京も配流され,延岡の高橋氏は一代で終わった。
高橋元種(たかはし もとたね)とは – コトバンク
小田氏治 2018/1/29(月)追加
没年:慶長6.閏11.13(1602.1.6)
生年:享禄4?(1531)
戦国時代の武将。常陸国小田(つくば市)の城主。越前守。政治の子。常陸の小規模大名のひとりとして,近隣の諸勢力と戦いを繰り返す。弘治2(1556)年には結城氏と戦って敗れ,永禄2(1559)年にも結城氏を攻めてまた敗れた。その後は佐竹氏と対立して相模,武蔵の北条氏と結び,同12年に常陸手這坂で佐竹方の軍と戦って大敗した。天正18(1590)年には豊臣秀吉の小田原参陣の命に従わず所領を没収され,のち越前に移り同地で死去した。
小田氏治(おだ うじはる)とは – コトバンク
成田長親 2018/1/28(日)追加
天文15年(1546年)、成田泰季の嫡男として生まれる。明確な時期は定かでないが、成田長泰の意向により遠山藤九郎の娘(1547年・天文16年生まれと推測される)と結婚し、長男・長季(1567年・永禄10年生まれ)、次男・泰家(1574年・天正2年生まれ)をもうけた。
天正2年(1574年)の羽生城をめぐる上杉勢との戦いの後、同年閏11月に上杉謙信の命により同城が破却され上杉勢が撤退すると、羽生領の支配権は後北条方についた成田氏長に戦功として与えられた。氏長は城を修築した後、家臣を配置したが、『関八州古戦録』によれば「氏長則成田大蔵少輔、桜井隼人佐を以て羽生の警固をなさしめり」とあり、『日本城郭大系』では「成田大蔵少輔」を長親としている。一方、『成田系図』や『士林泝洄』によれば「数々の軍功あり」とのみ記されている。
天正6年(1578年)の『成田御家臣分限帳』(柴崎家文書)には、氏長配下の11人の家門侍の一人として「永三百貫 成田大蔵」と記されている。また、天正10年(1582年)の『成田分限帳』には「永三百貫 成田大内蔵長倫」の名が記されているが、これも長親と推定される。
成田長親 – Wikipedia
成田氏代々の居城であった忍城はその周囲に元荒川・星川が流れていて自然の堀をなし、関東七名城の一つに数えられていた。豊臣秀吉は四国征伐や九州征伐で長宗我部氏や島津氏を配下とすると、天下統一に向け今度は関東平野に広大な領土を獲得していた後北条氏に目を付けた。秀吉は徳川家康を介して上洛を促すが北条氏政は拒否し、小田原攻めが決定した。この報を聞いて成田氏当主・成田氏長と成田泰親は小田原城に籠城していたため、忍城には成田泰季と成田長親、甲斐姫らが籠城することになった。
忍城の戦い – Wikipedia
雑賀孫一 2018/1/25(木)追加
生年:生没年不詳
戦国時代の紀伊一向一揆雑賀衆の指導者。実名は鈴木孫一重秀。雑賀衆は紀ノ川河口を本拠とする鉄砲武装の強力集団で,織田信長が石山本願寺を攻めた際には長期にわたって本願寺を支えた。ルイス・フロイスは雑賀衆について「富裕な農民」で,船の技術にも長けていると記している。永禄5(1562)年の起請文に「十ケ郷鈴木孫一」「十ケ郷孫一」とある。同3年紀伊守護畠山高政の軍勢中に鈴木孫一重意とあるのは誤記か。天正4(1576)年,信長は本願寺を兵糧攻めにするため海陸の要路を封鎖するが,同年7月孫一率いる雑賀衆は毛利水軍と協力して海上からの兵糧搬入に成功。5月に討ち取られた「大坂之左右大将,サイカノ孫一」なる人物は別人であった。翌年信長は宮郷,中郷,南郷の3組を味方にして雑賀荘,十ケ郷を降伏させるが,孫一らは信長帰陣直後に再度蜂起。本願寺と信長の和睦に際し「鈴木孫一重秀」ら雑賀衆5名が誓詞を差し出している。信長の死後は豊臣秀吉に仕え,同13年の紀州攻めでは秀吉の案内役となった。
雑賀孫一(さいか まごいち)とは – コトバンク
真田幸隆 2018/1/23(火)追加
没年:天正2.5.19(1574.6.8)
生年:永正10(1513)
戦国時代の武将。信濃国(長野県)海野の海野棟綱の子。はじめ海野小太郎。同国真田郷に拠り真田弾正忠,一徳斎と号した。天文10(1541)年海野平の戦で村上義清に敗れ,上野国長野氏のもとに逃れたが,同13年武田信玄に属し信州先方衆として活躍。同20年,宿敵の義清を戸石城に破り本領真田郷を回復,上田諏訪形・横田などに1000貫文を与えられている。永禄6(1563)年上野国岩櫃城,同8年岳山城を攻略し信玄の上野国攻略を進めた。元亀3(1572)年同国白井城を攻略したが,天正2(1574)年62歳で病没。
真田幸隆(さなだ ゆきたか)とは – コトバンク
前田利長 2018/1/20(土)追加
安土桃山・江戸前期の大名。利家の長男。幼名は犬千代・孫四郎安土桃山・江戸前期の大名。加賀金沢藩主。前田利家の長男。幼名は犬千代・孫四郎、初名は利勝。父と共に織田信長、次いで豊臣秀吉に仕え、多くの戦功をたてた。関ヶ原の戦には徳川方に参加し、その功により、加賀・能登・越中三国を領した。慶長19年(1614)歿、52才。初名は利勝。関ケ原の戦には徳川方に参加し、その功により、加賀・能登・越中三国にまたがる百十九万石の大大名の地位を築いた。慶長19年(1614)歿、53才。
前田利長(まえだ としなが)とは – コトバンク
加藤貞泰 2018/1/18(木)追加
没年:元和9.5.22(1623.6.19)
生年:天正8(1580)
江戸初期の大名。伊予国(愛媛県)大洲藩藩主。父は光泰,母は一柳藤兵衛尉の娘。近江国磯野村(滋賀県伊香郡高月町)生まれ。光長ともいう。文禄3(1594)年,甲斐国府中24万石を襲封したが,石田三成と父光泰が生前不仲であったため,若年を理由に美濃国黒野4万石に減転封された。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では,東軍に属して西軍の島津氏らと激戦を繰り返した。15年,2万石を加増されて合わせて6万石となり,伯耆国(鳥取県)米子に転封。大坂の陣(1614,15)にも出陣し功をたてた。元和3(1617)年大洲6万石に転封となり,同藩の初代藩主となる。馬術に長じ,連歌を好むなど,風雅の嗜みのある人物であった。江戸で死去。
加藤貞泰(かとう さだやす)とは – コトバンク
松平忠輝 2018/1/17(水)追加
1592‐1683(文禄1‐天和3)
江戸前期の大名。幼名辰千代。上総介,越後少将。徳川家康の六男。母は茶阿方(朝覚院)。長沢松平家を継ぎ,1598年(慶長3)武蔵国深谷1万石を領する。1602年下総国佐倉5万石,03年信濃国川中島14万石に転じ,10年越後国福島城(1614年より高田城)61万石を与えられ,川中島領と合わせ75万石の太守となった。しかし大坂の陣の不功などにより16年(元和2)改易,伊勢朝熊(あさま)に配流された。
松平忠輝(まつだいらただてる)とは – コトバンク
大久保忠世 2018/1/16(火)追加
1532‐94(天文1‐文禄3)
徳川家康の部将。大久保小田原藩祖。通称新十郎。大久保氏の宗家忠俊の弟忠員(ただかず)の嫡男。三河国上和田郷に生まれる。若年より家康の父広忠に仕え,織田氏との合戦に功があった。永禄末年,一手役(ひとてやく)(一軍団を預かる部将)となった。長篠の戦など武田氏との合戦にも戦功多く,遠州二俣城を与えられた。関東入部後,相州小田原で4万5000石の大名となる。
大久保忠世(おおくぼ ただよ)とは – コトバンク
柿崎景家 2018/1/14(日)追加
永正10年(1513年)、越後の国人である柿崎利家の子として生まれたといわれる(生年には異説もある)。
はじめ長尾為景に仕え、為景死後はその子・晴景に仕えた。晴景と長尾景虎(上杉謙信)が家督をめぐって争ったときには、景虎を支持している。
謙信の下では先手組300騎の大将として重用され、永禄元年(1558年)に春日山城の留守居役を務めている。永禄4年(1561年)の小田原の北条氏攻めにも参加し、直後の甲斐武田氏との第四次川中島の戦いでは先鋒を務め、八幡原の武田信玄の本陣を攻め、武田軍本隊を壊滅寸前にまで追い込んだ。
また、斎藤朝信と共に奉行に任命されて上杉領内の諸役免除などの重要な施策に携わり、元亀元年(1570年)の北条氏康との越相同盟締結においても尽力し、子の晴家を人質として小田原城へ送るなど、内政や外交面でも活躍している。謙信からの信頼は絶大で、謙信の関東管領職の就任式の際には、斎藤朝信と共に太刀持ちを務めた。
天正2年(1574年)11月22日、病死。
柿崎景家 – Wikipedia
内藤家長 2018/1/12(金)追加
1546-1600 織豊時代の武将。
天文(てんぶん)15年生まれ。内藤清長(きよなが)の長男。徳川氏の家臣。天正(てんしょう)18年徳川家康の関東入部の際,上総(かずさ)(千葉県)佐貫(さぬき)城主となる。2万石。慶長5年関ケ原の戦いで鳥居元忠(とりい-もとただ)らと山城(京都府)伏見城をまもったが,西軍に敗れて同年8月1日自刃(じじん)。55歳。幼名は金一郎。通称は弥次右衛門。
内藤家長(ないとう いえなが)とは – コトバンク
戸田康光 2018/1/11(木)追加
没年:天文16.9(1547)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。三河田原城主戸田政光の子。通称孫四郎,官途名は弾正少弼。名は宗光ともいった。祖父に当たる憲光のとき,戸田氏は今川氏に仕え,また康光の娘真喜姫が松平広忠の後妻に迎えられるなど,松平氏とは近い関係にあった。しかし次第に尾張の織田信秀に接近しはじめ,天文16(1547)年8月には,今川義元のもとに送られるはずだった松平竹千代(家康)一行をあざむいて織田信秀のもとに届け,織田方としての旗幟を鮮明にした。その結果,同年今川の大軍に田原城を攻められ,子尭光と共に討死した。
戸田康光(とだ やすみつ)とは – コトバンク
酒井忠勝 2018/1/10(水)追加
[生]天正15(1587).三河
[没]寛文2(1662).7.12. 江戸
江戸時代初期の大老。忠利の子。幼名は鍋之助,与七郎。入道して空印と号した。慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いに徳川秀忠に従って出陣。同 14年讃岐守となり,同 19年下総国で 3000石を領し,元和8 (22) 年 7000石を加増されて深谷城主となった。寛永1 (24) 年老中となり,2万石を加え,同3年武蔵国忍 (おし) 5万石に封じられた。翌4年同国川越で8万石,同9年 10万石を領し,従四位下侍従となり,同 11年には若狭国小浜 (おばま) 12万 3000石に封じられた。同 15年大老となり,翌年左少将に昇任,明暦2 (56) 年致仕した。
酒井忠勝(さかいただかつ)とは – コトバンク
大内義隆 2018/1/9(火)追加
周防国の在庁官人・大内氏の第31代当主 。第30代当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。また義隆の時代には大内文化が爛熟して大内家は全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害して、大内家は事実上滅亡した。
1507-1551 戦国時代の武将。
永正(えいしょう)4年11月15日生まれ。大内義興の長男。周防(すおう),長門(ながと),安芸(あき),石見(いわみ),筑前(ちくぜん),豊前(ぶぜん)の守護。大友氏,少弐(しょうに)氏とたたかい九州北部を掌握する。文学・芸能をこのみ,明(みん)(中国)・朝鮮と交易し,またザビエルに布教の許可をあたえる。天文(てんぶん)20年重臣陶晴賢(すえ-はるかた)の謀反にあい,9月1日長門(山口県)大寧寺で自刃(じじん)。45歳。幼名は亀童丸。
大内義隆(おおうち よしたか)とは – コトバンク
源義光(新羅三郎) 2018/1/7(日)追加
没年:大治2.10.20(1127.11.25)
生年:寛徳2(1045)
平安後期の武将。頼義と平直方の娘の子。義家,義綱の同母弟。新羅明神で元服し新羅三郎と号す。後三年の役で寛治1(1087)年,義家の救援に無断で下向,左兵衛尉を解官される。以後,中央での目立った活躍はなく官職も刑部丞にとどまるが,『尊卑分脈』は天仁2(1109)年に発生した源義忠暗殺事件を義光の陰謀とする。一方,嘉承2(1107)年,常陸国で平重幹と共に甥の源義国と争い,長男義業は同国の豪族佐竹氏の祖となる。このほか,武田,小笠原氏など各地の有力豪族も子孫。園城寺とも関係が深く,近江に所領を有す。義光は弓馬とともに笙にも優れ,後三年の役の東下に際し,秘曲の伝授にまつわる逸話を残している。
源義光(みなもとのよしみつ)とは – コトバンク
蜂須賀小六 2018/1/6(土)追加
初名は利政。通称は小六(ころく)もしくは小六郎(ころくろう)で、特に前者は広く知られているが、のちに彦右衛門(ひこえもん)と改名している。官位は従四位下修理大夫。
1526‐86(大永6‐天正14)
戦国期の武将。小六,彦右衛門尉と称する。尾張蜂須賀村(現,愛知県海部郡美和町)の土豪の子として出生。はじめ斎藤道三に仕え,のち岩倉城主織田信賢に従い,転じて犬山城主織田信清に属した。墨俣築塁のとき木下(豊臣)秀吉に付属したと伝える。1573年(天正1)秀吉から近江長浜で所領を与えられ,81年播磨竜野城主となる。秀吉の謀臣として山崎の戦,賤ヶ岳の戦,小牧・長久手の戦,四国征伐に従軍し,毛利氏との講和条件による領地境界決定で活躍した。
蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)とは – コトバンク
増田長盛 2018/1/4(木)追加
1545‐1615(天文14‐元和1)
豊臣家五奉行の一人。仁右衛門,右衛門尉と称した。出身は尾張国中島郡増田村,また近江国浅井郡益田郷ともいう。初め秀吉に仕えて禄200石,1584年(天正12)小牧・長久手の戦の戦功で2万石に加増され,翌年従五位下右衛門尉に叙任。小田原征伐,文禄・慶長の役にも従軍した。91年に長束正家らと近江を検地し,94年(文禄3)伏見城の工事を分担。翌年,大和郡山城主として20万石を領した。97年(慶長2)安房を検地。
増田長盛(ました ながもり)とは – コトバンク
関ケ原の戦いでは西軍につき,高野山に追放される。大坂夏の陣のとき子盛次(もりつぐ)の大坂入城をとがめられ,慶長20年5月27日自害させられた。71歳。通称は仁右衛門。
源義経 2018/1/3(水)追加
[生]平治1(1159)
[没]文治5(1189).閏4.30. 陸奥,衣川館
平安時代末期~鎌倉時代初期の武将。義朝の子。母は常盤御前。頼朝の異母弟。幼名,牛若丸,また遮那王丸。源九郎と称した。平治の乱後母とともに平氏に捕えられたが,許されて鞍馬寺に入り,のち陸奥の藤原秀衡のもとに身を寄せた。治承4 (1180) 年兄頼朝の挙兵に応じて,その陣に加わり,義仲を討ったのをはじめ,平氏を一ノ谷,屋島,壇ノ浦に破るなど,実戦部隊の指揮官として大いに戦功を立てた。しかし頼朝の推挙を経ず検非違使,左衛門尉に任官,後白河上皇に接近したことから頼朝と不和になり,叔父行家と結んで反逆を企てたが失敗し,諸国を潜行したのち再び秀衡の庇護を受けた。しかし秀衡の死後,頼朝の威に屈したその子泰衡に襲われ衣川館で自殺した。
源義経(みなもとのよしつね)とは – コトバンク
徳川義直 2017/12/31(日)追加
徳川義直
没年:慶安3.5.7(1650.6.5)
生年:慶長5.11.28(1601.1.2)
江戸初期の尾張(名古屋)藩主。初代将軍徳川家康の9男,母はお亀の方(相応院)。慶長8(1603)年甲斐国24万石を与えられ,12年尾張清洲に移され,15年名古屋を居城とした。元和1(1615)年信濃の木曾,同5年美濃の一部を加えられ61万9500石となり,御三家の筆頭に数えられた。寛永3(1626)年権大納言に進んだ。領内の治水に努め,新田開発を進めるとともに商工業の保護も行い,瀬戸窯業の発展の基礎を作る。また林羅山に師事し,のち堀杏庵 を招いて儒学を深め,神道にも造詣が深かった。
徳川義直(とくがわ よしなお)とは – コトバンク
織田信広 2017/12/30(土)追加
?-1574 戦国-織豊時代の武将。
織田信秀の子。織田信長の異母兄。三河(愛知県)安祥(あんじょう)城の守将であったが,天文(てんぶん)18年今川軍に敗れて捕虜となり,人質の松平竹千代(徳川家康)と交換される。一時信長とあらそったがゆるされ,京都で室町幕府との連絡役をつとめる。天正(てんしょう)2年9月29日長島一向一揆(いっき)鎮圧の際,討ち死にした。通称は三郎五郎。姓は津田とも。
織田信広(おだ のぶひろ)とは – コトバンク
武田信繁 2017/12/28(木)追加
官職である左馬助の唐名から「典厩(てんきゅう)」と呼ばれ、嫡子・武田信豊も典厩を名乗ったため、後世「古典厩」と記される。武田二十四将においては武田の副大将として位置づけられている。
1525-1561 戦国時代の武将。
大永(たいえい)5年生まれ。武田信虎の次男。父の寵愛(ちょうあい)をうけたが,兄信玄につかえ,父の追放後も信玄を補佐。永禄(えいろく)元年「武田信繁家訓」を嫡子信豊にあたえた。永禄4年9月10日川中島の戦いで戦死。37歳。通称は次郎,左馬助,古典厩。
【格言など】何事につけても,つねに堪忍の二字を忘れてはならぬ(「武田信繁家訓」)
武田信繁(たけだ のぶしげ)とは – コトバンク
結城秀康 2017/12/27(水)追加
[生]天正2(1574).2.8. 三河
[没]慶長12(1607).閏4.8. 越前
江戸時代初期の大名。越前福井藩主。徳川家康の次男。母は側室お万の方。幼名,於義伊 (おぎい) 。天正 12 (1584) 年小牧・長久手の戦いの講和に際して豊臣秀吉の養子となり,さらに同 19年下総の名族結城晴朝の養子となった。慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いに際しては,結城にとどまって上杉景勝の西上を防いだ。その後,越前国と信濃,若狭の一部を合せて 67万石を領し,越前北庄を居城とした。
結城秀康(ゆうきひでやす)とは – コトバンク
斎藤義龍 2017/12/26(火)追加
(1527―1561)
戦国大名。道三(どうさん)の子。俗説では土岐頼芸(ときよりのり)の愛妾(あいしょう)三芳野(みよしの)が、頼芸の種を宿してのち道三に嫁して生んだ子で、後の道三・義龍の不和はこれに起因すると伝える。初め新九郎利尚(としひさ)、のち范可(はんか)と号す。1554年(天文23)道三より家督を譲られたが、56年(弘治2)4月長良(ながら)川畔に道三を討つ。58年(永禄1)治部大輔(じぶだいぶ)に任官、翌59年将軍相伴衆(しょうばんしゅう)に列し、以後たびたび織田信長と争う。60年末伝燈(でんとう)寺の別伝(べつでん)に美濃(みの)禅宗寺院の寺統権を与えたことから、美濃の禅宗界を揺るがす別伝の乱が起こり、その渦中の永禄(えいろく)4年5月11日病死した。
斎藤義龍(さいとうよしたつ)とは – コトバンク
北条高時 2017/12/23(土)追加
1303-1333 鎌倉時代の武将。
嘉元(かげん)元年生まれ。北条貞時(さだとき)の次男。正和(しょうわ)5年14代執権となるが,内管領(うちかんれい)長崎高資(たかすけ)らに実権をにぎられ酒宴,田楽にふけったという。正中(しょうちゅう)3年執権を金沢貞顕(かねざわ-さだあき)にゆずり出家。元弘(げんこう)の乱で後醍醐(ごだいご)天皇を隠岐(おき)に流したが,新田義貞に攻められ,正慶(しょうきょう)2=元弘3年5月22日一族とともに鎌倉東勝寺で自刃(じじん),鎌倉幕府は滅亡した。31歳。法名は崇鑑。
北条高時(ほうじょうたかとき)とは – コトバンク
成瀬正成 2017/12/21(木)追加
1568‐1625(永禄11‐寛永2)
尾張藩家老。1567年出生とも。初名小吉。隼人正。徳川家康の臣成瀬正一の嫡子として幼少より家康側近となり,小牧・長久手の戦以来数次の合戦に参加した。1607年(慶長12)本多正純,安藤直次らとともに駿府で政務をとり,10年徳川義直の補佐,ついで家老となった。大坂の陣に従軍し,本多正純とともに城の総堀埋立てを奉行した。17年(元和3)犬山城を預かり,尾張藩政の基礎を固めた。江戸で没する。日光家康廟の傍らに葬られる。
成瀬正成(なるせ まさなり)とは – コトバンク
斎藤龍興 2017/12/19(火)追加
没年:天正1.8.14(1573.9.10)
生年:天文17(1548)
美濃国(岐阜県)の戦国大名。義竜の子。右兵衛大夫。母は浅井久政の娘という。永禄4(1561)年,父の病死により14歳で家督を継ぎ,稲葉山城主となる。以後,織田信長の美濃侵攻によく抗したが,同10年西美濃三人衆と称された稲葉良通(一鉄),氏家直元(卜全),安藤守就(道足)が信長に内応するにおよび,井ノ口を占領されて稲葉山城を退去した。以後,伊勢長島から畿内に赴き,三好三人衆を頼って信長に抵抗。のち越前一乗谷の朝倉義景のもとにあり,信長の朝倉攻めの際,越前刀禰坂合戦で討死した。
斎藤竜興(さいとう たつおき)とは – コトバンク































