飯富虎昌 2017/7/10(月)追加
?-1565 戦国時代の武将。
山県昌景(やまがた-まさかげ)の兄。
甲斐(かい)(山梨県)の武田氏の重臣。
武田信虎につかえるが,天文(てんぶん)10年(1541)板垣信形らとともに,武田晴信(信玄)を擁立して信虎を追放。
信玄の信濃(しなの)(長野県)攻めに前線で活躍する。
永禄(えいろく)8年8月信玄の長男義信の謀反計画に連座し自刃(じじん)した。
享年は61,62歳といわれる。
初名は信昌(のぶまさ)。
飯富虎昌(おぶ とらまさ)とは – コトバンク
飯富虎昌が没した後は,弟の山県昌景に引き継がれている。
武田氏では最強軍団といわれたようである。
他に、小田原北条氏にも赤備えがあったとされる。
源義朝 2017/7/9(日)追加
源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。
没年:永暦1.1.3(1160.2.11)
生年:保安4(1123)
平安後期の武士。
源為義の長男。
母は藤原忠清の娘。
坂東に育ち「上総曹司」と称された。
成人ののち,相模国鎌倉を本拠として南関東の武士団の統合をはかった。
なかでも天養1(1144)年の相模国大庭御厨押領事件や康治2(1143)年から久安1(1145)年にかけての下総国相馬御厨の現地支配権紛争への介入によって大庭,千葉氏を服属させたことは史料にも恵まれてよく知られている。
その後,妻の実家である熱田大宮司家(藤原氏)が待賢門院(鳥羽天皇の中宮・藤原璋子)の関係者を輩出していたことから,鳥羽上皇の抜擢を受け,仁平3(1153)年には従五位下下野守に叙任され,翌年にはさらに右馬助を兼ねた。
源義朝(みなもとのよしとも)とは – コトバンク
保元の乱では平清盛と共に後白河天皇方の軍事力の中核として東国の家人たちを率いて活躍。
乱後,左馬頭に任じ,昇殿をゆるされたが,崇徳上皇方についた父為義や多くの弟たちを失った。
こののち後白河院の近臣信西と藤原信頼が対立。
武門としてライバルとなった清盛が信西と姻戚関係を結んだため,義朝は信頼と提携。
さらに二条天皇の親政をはかろうとする藤原経宗らの協力を得て,平治1(1159)年12月,清盛の熊野詣の隙をねらってクーデタを決行した(平治の乱)。
これは一時成功をおさめ,義朝は播磨守,嫡子頼朝は右兵衛権佐に任じたが,清盛が京都に帰還を果たすと情勢は一変。
義朝は上皇・天皇を迎え入れた清盛との合戦に敗退し,再挙を期して東国への脱出を試みたが,途中,尾張国知多郡で長田庄司忠致によって,乳母子の鎌田正清と共に誅殺された。
源義朝(みなもとのよしとも)とは – コトバンク
平清盛 2017/7/8(土)追加
伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。
[生]元永1(1118)
[没]治承5(1181).閏2.5. 京都
平安時代末期の武将。
忠盛の長子。
母は祇園女御の妹という。
仁平3 (1153) 年父が没し,平氏の棟梁となった。
保元1 (56) 年の乱で源義朝とともに後白河天皇側について勝利を得,続く平治1 (59) 年の乱では源義朝らを追討し,源氏一族を政界から追った (→保元・平治の乱 ) 。
仁安2 (67) 年従一位太政大臣,承安1 (71) 年娘徳子を上皇の猶子 (ゆうし) として入内させ,徳子は言仁親王 (のちの安徳天皇) をもうけた。
日宋貿易や三十余国の知行国をもつことによって富を得,栄華をきわめたが,貴族化したため,武士の支持を失い,宮廷内でも多くの反感を買った。
治承4 (80) 年源頼政が以仁王を奉じて挙兵したのに始り,源頼朝,義仲らが挙兵。この間福原への遷都を強行した。
源氏軍との戦いが続き,平氏軍不振のうちに病没。没日については4日説がある。
仁安2年平氏の繁栄を祈願し厳島神社に納めたいわゆる『平家納経』 (33巻,国宝) は装飾経としてもすぐれていて名高い。
平清盛(たいらのきよもり)とは – コトバンク
佐久間信盛 2017/7/7(金)追加
没年:天正9.7.22(1581.8.21)
生年:大永7(1527)
戦国・安土桃山時代の武将。
佐久間信晴の子として尾張に生まれる。
はじめ牛助,次いで出羽介,右衛門尉を称した。
織田信秀に仕え,信長が家督相続をするときこれを支持し,以後,信長の信任を得たといわれる。
永禄11(1568)年の信長の上洛に従い,京都の治安維持に努め,次いで近江永原城を預けられ,柴田勝家と共に,近江から六角承禎(義賢)の勢力を掃討するのに力があった。
元亀3(1572)年12月の遠江三方ケ原の戦に,徳川家康の援軍として浜松城に送られたが,このときは完敗を喫している。
長篠の戦,伊勢長島一向一揆との戦,越前一向一揆との戦など,信長の戦闘のほとんどに参陣しているが,なかでも天正4(1576)年から本格化した石山本願寺包囲戦では,その中心的な位置にあった。
ところが石山本願寺が降服してきた直後の同8年8月,「無為に五カ年間を費した」と信長から問責され,子正勝ともども高野山に追放される。
佐久間信盛(さくまのぶもり)とは – コトバンク
明智光秀の讒によるとも,実際,茶の湯に耽溺して軍務を怠ったからともいわれているが,真相は不明で,信長のいわゆる「捨て殺し」政策の犠牲になったとされる。
剃髪して宗盛と号したが,紀伊国十津川の温泉で病気療養中に病死した。
なお,子正勝はのちに許されて織田信長に仕え,不干斎と号して豊臣秀吉の御咄衆となり,茶人としても名を残している。
佐久間信盛(さくまのぶもり)とは – コトバンク
福島正則 2017/7/6(木)追加
[生]永禄4(1561).尾張
[没]寛永1(1624).7.13. 信濃
安土桃山~江戸時代初期の武将。
正信の子。
幼名,市松。
剃髪して高斎と号した。
幼時から豊臣秀吉に仕え,天正6 (1578) 年播磨三木城攻略に従い,同 11年賤ヶ岳に柴田勝家と戦い,賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた。
同 13年伊予今治城主となり,従五位下,左衛門尉に叙任。
九州征伐,小田原征伐,文禄・慶長の役にも従軍。
文禄4 (95) 年尾張清洲城主となり,慶長2 (97) 年侍従に叙せられ,羽柴の姓を受けた。関ヶ原の戦いには東軍に属し,戦後,安芸広島 49万石余となった。
大坂の陣後,元和3 (1617) 年従四位下,参議に進み,同5年無断で広島城を改築したかどで封を奪われ,信濃川中島に流され,同高井郡に蟄居して死去した。
福島正則(ふくしま まさのり)とは – コトバンク
山内一豊 2017/7/5(水)追加
[生]天文15(1546).尾張
[没]慶長10(1605).9.20. 高知
安土桃山~江戸時代初期の大名。
土佐藩主。
但馬守盛豊の3男。
母は梶原氏。
辰之助,猪右衛門と称した。
織田信長に仕え,元亀1 (1570) 年姉川の戦いで功をあげ,のち豊臣秀吉に属して中国征伐に従い毛利氏と戦った。
天正 13 (85) 年6月若狭国西県1万 9800石を与えられ高浜に居住。
のち秀次に属し長浜2万石を領して,ほかに1万石を加えられたが,同 18年9月には小田原征伐の功によって遠江国掛川5万石に封じられた。
慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いには東軍に属し,戦後土佐高知 24万石に封じられ土佐守に任じられた。
一豊の妻の内助の功の逸話は有名。
山内一豊(やまのうちかずとよ)とは – コトバンク
小早川秀秋 2017/7/4(火)追加
豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなしたが、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。
没年:慶長7.10.18(1602.12.1)
生年:天正10(1582)
安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の正室高台院(北政所)の兄木下家定の5男。母は杉原七郎左衛門家次の娘。近江国(滋賀県)長浜に生まれる。幼名は辰之助。早くより秀吉の養子として高台院のもとで養育され,羽柴秀俊を名乗る。天正19(1591)年右衛門督となり,唐名により「金吾」と呼ばれた。その後,丹波国亀山に10万石を与えられる。文禄2(1593)年,朝鮮出兵(文禄の役)のため肥前国名護屋に出陣。同年8月,秀吉の側室淀が拾丸(秀頼)を生んだことで小早川隆景の養子となり,同3年11月に備後国三原に赴いた。慶長2(1597)年6月に隆景が死去したのちは秀秋を名乗る。同年,朝鮮再出兵(慶長の役)の際には軍の総大将として渡海し,翌年の蔚山の戦いでは自ら刃を交えて奮戦するが,指導力の欠如など大将らしからぬ行動を秀吉に問われ,急遽帰国を命じられた。
小早川秀秋(こばやかわ ひであき)とは – コトバンク
その際筑前国その他の所領を没収され越前国北庄に移されるが,秀吉没後の同4年,再び所領を戻された。その前後から徳川家康との関係を深くし,関ケ原の戦(1600)では当初西軍の石田三成方として松尾山に陣を敷いたものの,戦い途中でにわかに東軍方に転じ,家康軍の勝利に貢献した。戦後,その功により西軍の宇喜多秀家の旧領であった備前・美作57万石を与えられ,岡山に入り,秀詮と名を変えて新領地支配に臨むが,支配は安定せず,同7年21歳で夭逝した。なお近年発見された『足守木下家文書』からは,高台院との近しい人間関係が窺える。
小早川秀秋(こばやかわ ひであき)とは – コトバンク
秋山虎繁(秋山信友) 2017/7/3(月)追加
没年:天正3.11.21(1575.12.23)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。
一説には生年を享禄2(1529)年とする。
甲斐(山梨県)の武田信玄・勝頼父子に仕えた。
信任の子。
伯耆守。
晴近,晴親とも。
秋山氏は武田氏の一族加賀美遠光の後裔と伝える。
信玄による信濃国(長野県)攻略,ことに伊那郡の計略に功があり,高遠城(上伊那郡高遠町),次いで飯田城(飯田市)を預かった。
西方への領国拡張期には,伊那郡の兵を率いて遠江・三河・美濃に転戦した。
秋山信友(あきやま のぶとも)とは – コトバンク
元亀1(1570)年,遠山景任の守る東美濃の岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を攻めるが敗退。
同3年城主の景任が病没すると,再びこれを囲んだ。
織田信長は東の押さえとしてこの城を重視,5男御房丸(勝長)を城に入れ,景任の未亡人おつやの方(信長の叔母)に後見させていたが,信友の攻勢を前に,城方はおつやが信友に嫁すことなどを条件に和議を申し入れた。
信友はこれを受諾。
おつやを妻として以後ここに在城し,御房丸は人質として甲府に送られた。
天正3(1575)年5月の長篠合戦で武田勝頼を破ったのを機に織田氏が攻勢に転ずると,岩村城は翌6月より信長の嫡男信忠の猛攻を受けた。
籠城は5カ月におよんだがついに開城。
信友は捕らえられ,岐阜長良川原で磔刑に処せられた。
妻おつやも信長の手により斬首された。
ところで信友は永禄11(1568)年,武田・織田両氏が和議を結び信忠と信玄の6女松姫の婚約が整った際,使者として岐阜へ赴き信長の歓待を受けている。
その後和談は破れ,信友と信長・信忠父子の再会は悲劇的な形で実現したのであった。
秋山信友(あきやま のぶとも)とは – コトバンク
佐竹義重 2017/7/2(日)追加
(1547―1612)
戦国~安土(あづち)桃山時代の武将。
天文(てんぶん)16年2月16日、常陸(ひたち)国太田城(茨城県常陸太田市)に生まれる。
幼名は徳寿丸(とくじゅまる)、字(あざな)を次郎と称す。
戦国大名として北条氏政(うじまさ)と関東を争い、常陸国以外に下野(しもつけ)国(栃木県)へも進出し、一方、伊達政宗(だてまさむね)と仙道(せんどう)を争い、常陸、下野、奥州南部に分国を形成した。
織豊(しょくほう)政権とは早くから連絡をとり、厩橋(うまやばし)(前橋市)にきていた織田信長の部将滝川一益(かずます)と提携をしたり、豊臣(とよとみ)秀吉の小田原城攻撃にも協力をした。
そのため秀吉から当知行地(ちぎょうち)を安堵(あんど)され、「常州の旗頭」を命じられたが、隠居を理由に子息義宣(よしのぶ)にこれを譲った。
なお佐竹家の秋田転封に際しても、徳川家康父子に政治工作をして、義宣が大名として存続できるよう努力をした。
鬼義重とよばれて、出陣に武者震いがとまらなかったといわれる。
慶長17年4月19日、出羽国仙北郡花館村(秋田県大仙市)で死去。
佐竹義重(さたけよししげ)とは – コトバンク
細川忠興 2017/7/1(土)追加
1563-1646
織豊-江戸時代前期の大名。
永禄(えいろく)6年11月13日生まれ。
細川幽斎の長男。
細川ガラシャの夫。
父とともに織田信長,豊臣秀吉,徳川家康につかえた。
関ケ原の戦いで功をたて豊前(ぶぜん)中津藩(大分県)藩主(30万石)となり,慶長7年豊前小倉藩(福岡県)にうつる。
和歌,有職(ゆうそく)故実に通じ,茶の湯は千利休(せんの-りきゅう)門下七哲のひとり。
元和(げんな)6年隠居。
正保(しょうほ)2年12月2日死去。
83歳。
通称は与一郎。
号は三斎宗立(そうりゅう)。
細川忠興(ほそかわただおき)とは – コトバンク
藤堂高虎 2017/6/30(金)追加
没年:寛永7.10.5(1630.11.9)
生年:弘治2(1556)
安土桃山・江戸時代初期の武将。
伊勢国(三重県)津藩初代藩主。
近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)に生まれる。
15歳のとき,浅井長政に仕え,姉川の戦などで武功をあげる。
のち織田信澄,羽柴秀長などに仕え,賤ケ岳の戦,紀伊雑賀攻め,島津攻めなどに軍功があり,加増を重ねられ2万石を領した。
天正15(1587)年,佐渡守に叙任。
秀長の死後,その子秀俊に仕え,文禄の役では代理として朝鮮に出陣した。
秀俊の没後,高野山にのぼり剃髪したが,豊臣秀吉の懇望によりその直臣となり,文禄4(1595)年,伊予国に7万石を与えられ,宇和島城主となる。
慶長の役でも,水軍を率いて朝鮮に渡海し,巨済島の戦いで朝鮮水軍を全滅させ,1万石を加増された。
徳川家康の 聚楽第内邸地の普請を奉行した縁で,秀吉死後は家康に接近,慶長4年には弟正高を江戸に人質に出した。
翌年,石田三成の動静を家康に報告し,関ケ原の戦では,小早川秀秋を監視し,寝返った秀秋と共に大谷吉継を討った。戦後,12万石を加増され伊予今治城主。
藤堂高虎(とうどう たかとら)とは – コトバンク
城普請の名手として知られ,慶長期に近江膳所城,伏見城,丹波篠山城,丹波亀山城などの普請を任せられた。11年には率先して妻子を江戸にあげ,縄張りを担当した江戸城が落成したため,2万石加増され,和泉守に改める。13年には伊賀1国と伊勢8郡に移され,伊勢国津城に住した。大坂夏の陣では,真田幸村の攻撃を受けて家康の本陣が崩れたとき,馬廻りの兵を率いて側面から救援するなど大きな功績をあげた。家康は臨終の床で,「国家の大事のときには,一の先手は高虎,二の先手は井伊直孝」と申し置いたという。以後,加増を重ねられて,元和3(1617)年,32万3950石。秀忠の娘和子(東福門院)の入内にも奔走,大坂城の縄張りも担当した。このころの高虎は,幕閣と親しく交際し,諸大名の注目の的であったが,晩年は老耄がひどく醜態を演じた。
藤堂高虎(とうどう たかとら)とは – コトバンク
酒井忠次 2017/6/29(木)追加
(1527―1596)
徳川家康の覇業に功績のあった重臣。
本多(ほんだ)、井伊(いい)、榊原(さかきばら)とともに徳川四天王の一人。
徳川氏と同祖だという名門左衛門尉(さえもんのじょう)酒井氏の嫡流に生まれる。
家康より15歳年長の忠次は早くから家康に仕え、家康の駿府(すんぷ)人質時代にも供奉(ぐぶ)して奏者役(そうじゃやく)などを勤めた。
家康が三河(愛知県東部)を支配する過程で、西三河は石川家成(いえなり)、東三河は忠次が旗頭に任命され、よくその責を果たした。
家康の領域が拡大するとともにその役割も大きくなり、1582年(天正10)武田勝頼(かつより)滅亡後には信濃(しなの)(長野県)経略の責任者となるなど活躍している。
86年従(じゅ)四位下、左衛門督(さえもんのかみ)に叙任され、88年62歳で隠居し、一智(いっち)と号した。
妻は家康の父松平広忠(ひろただ)の異母妹である。
酒井忠次(さかいただつぐ)とは – コトバンク
山中幸盛(山中鹿之助) 2017/6/28(水)追加
戦国時代の武将。
尼子(あまご)氏の重臣。
幼名甚次郎(じんじろう)、元服して名を鹿介幸盛(ゆきもり)と改め、富田(とだ)城主尼子義久(よしひさ)の近習(きんじゅ)となる。
後世の軍記物その他の記録では鹿之介あるいは鹿之助と記されている場合が多いが、本人の自署はいずれも鹿介となっている。
鹿介の名が初めて『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』などの軍記物に登場するのは、1563年(永禄6)毛利元就(もうりもとなり)軍に包囲された尼子の拠点白鹿(しらが)城の救援戦であるが、このとき尼子軍は敗退し、以後尼子勢は富田城に籠城(ろうじょう)し、66年11月ついに落城、尼子氏は滅亡した。
落城後出雲(いずも)を去った鹿介は、主家尼子家の再興を画策し、尼子の遺子勝久(かつひさ)を擁して69年島根半島千酌(ちくみ)湾に上陸、尼子の残党を糾合して一時は出雲の大半を奪取したが、翌年2月毛利の援軍と布部山(ふべやま)(安来(やすぎ)市)に戦って大敗し、出雲奪回の夢は断たれた。
山中鹿介(やまなかしかのすけ)とは – コトバンク
しかし、その後も執拗(しつよう)に再興を図って各地に転戦、織田信長を頼って、その西征に望みをつないだ。77年(天正5)信長の部将羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉の麾下(きか)に入って毛利攻めに参加し、上月(こうづき)城(兵庫県佐用(さよう)郡佐用町)に主君勝久とともに籠(こも)ったが、78年4月毛利・宇喜多(うきた)の大軍に包囲され、7月3日勝久は自殺、5日落城し、ついに降伏した。鹿介は備中(びっちゅう)松山城(岡山県高梁(たかはし)市)の毛利輝元(てるもと)のもとに護送される途中、高梁川河畔の阿部(あべ)(阿井ともいう)の渡(わた)しで殺された。
その生涯は、尼子家再興の執念と毛利氏に対する敵愾(てきがい)心に徹したものであった。
山中鹿介(やまなかしかのすけ)とは – コトバンク
武田勝頼 2017/6/27(火)
没年:天正10.3.11(1582.4.3)
生年:天文15(1546)
戦国・安土桃山時代の武将。
信玄の4男。
母は諏訪頼重の娘。
生誕に際し,父信玄は諏訪氏の通字「頼」を入れて勝頼と名付け,頼重の跡目として総領家を継がせ,諏訪支配を堅固にしようとの心積もりであった。
『甲陽軍鑑』によれば永禄5(1562)年に勝頼は,伊那の郡代として高遠城主となっている。
ところが同8年8月,信玄の長男で今川義元の娘を妻とする義信は謀反が発覚し幽閉される。
次男は盲目で3男は早世していたため,勝頼の信玄の後継者としての地位が確定し,同年11月義元に対抗するため武田との同盟関係を求めた織田信長の養女と結婚した。
この女性は翌年信勝を生み亡くなっている。
元亀2(1571)年高遠から甲府に移り,このころから対外的にも信玄後継者としての行動を取り始める。
武田勝頼(たけだ かつより)とは – コトバンク
天正1(1573)年4月,信玄の死により家督を継ぐが,高遠で独自の家臣団を形成していたこともあって,信玄の家臣たちとはややもすると意思の疎通を欠くことになった。
同3年5月に三河の長篠城を攻めるが,5月20日の設楽原での合戦で鉄砲と馬防柵を利用した織田・徳川の連合軍に大敗する。
その後,態勢の立て直しを図り,同5年1月に北条氏政の妹と結婚した。
翌年3月に越後の上杉謙信が死亡し,景勝と景虎の間に家督争いが起きると(御館の乱),初めは氏政の弟景虎に味方したが,軍資金の提供や領地の割譲などを条件に結局景勝についた。
このため北条氏との関係が悪化し,東駿河や西上野を攻撃された。
同9年に新府城を築いて入城するが,翌年1月には木曾義昌が織田信長に寝返り,親族の穴山信君も徳川家康に内通し,2月,伊那谷に織田軍の攻撃を受ける。
3月2日高遠城が落ち,翌日新府城に火を放って岩殿城に向かったが,行く手を阻まれ,11日,一族と共に田野(山梨県東山梨郡大和村)で自害した。
武田勝頼(たけだ かつより)とは – コトバンク
尼子晴久 2017/6/26(月)
没年:永禄3.12.24(1561.1.9)
生年:永正11(1514)
戦国時代の武将。
父は政久,母は山名兵庫頭の娘。
はじめ詮久,天文10(1541)年に室町将軍足利義晴より諱の1字をもらい晴久と改名。
民部少輔,のち修理大夫。
父の早世により,同6年ごろから祖父経久を後継。
同9年,毛利元就を安芸吉田郡山城に攻めて敗れ,同11年には大内義隆の侵攻を許したが,翌年これを撃退。
それを機に家臣団の編成と領国内支配体制を強化し,失地回復に努めた。
同20年に義隆が滅ぶと,翌年,出雲,隠岐,因幡,伯耆,備前,美作,備中,備後8カ国の守護に補される。
しかし同23年,一族の新宮党の尼子国久,誠久らを滅ぼし,自ら衰勢を招いた。
永禄3年,石見に侵入した元就軍と防戦中,富田(月山)城で急死した。
尼子晴久(あまこはるひさ)とは – コトバンク
大友義鎮(大友宗麟) 2017/6/25(日)
(1530―1587)
戦国大名。
大友氏20代義鑑(よしあき)の長子として豊後府内(ぶんごふない)(大分市)に生まれる。
幼名塩法師丸(しおほうしまる)。
元服して義鎮(よししげ)。
1550年(天文19)家督を継ぐ。
62年(永禄5)怡雲(いうん)(宗悦(そうえつ))和尚(おしょう)について剃髪(ていはつ)し瑞峯(ずいほう)宗麟となり、以後三非斎(さんぴさい)、圓斎(えんさい)、府蘭(ふらん)、宗滴(そうてき)と称す。
この間、来日中のフランシスコ・ザビエルと接してキリスト教布教を保護し、自らも78年(天正6)受洗してドン・フランシスコの洗礼名を受けた。
領内にはポルトガル船の来航もあり、朝鮮貿易も行った。
82年には大村氏、有馬氏とともに天正遣欧使節をローマ法王のもとに送った(宗麟の発意であったかについては疑いがもたれている)。
一方、九州6か国(豊後(ぶんご)、豊前(ぶぜん)、筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)、肥前(ひぜん)、肥後(ひご))の守護職を手中に収めて大友氏の最盛期をもたらした。
大友宗麟(おおとも そうりん)とは – コトバンク
しかし、1563年臼杵(うすき)の丹生島(にうじま)城に移り、府内に長子義統(よしむね)を置いて二頭政治となり、78年(天正6)薩摩(さつま)の島津氏と日向(ひゅうが)耳川(みみかわ)で合戦して大敗した。
これ以後家臣団の分裂、動揺が激化し、86年島津勢が豊後に進攻するに及んで、宗麟自ら大坂城に赴き豊臣(とよとみ)秀吉の救援を求めた。
翌87年秀吉の九州平定が行われ、その所領は義統に豊後を、宗麟に日向を与える旨伝えられた。
しかし宗麟はこれを辞退し、同年5月津久見(つくみ)で病死した。
大友宗麟(おおとも そうりん)とは – コトバンク
大谷吉継(大谷刑部) 2017/6/24(土)
没年:慶長5.9.15(1600.10.21)
生年:永禄2(1559)
安土桃山時代の武将。
豊後の戦国大名大友宗麟の家臣大谷盛治の子といわれているが,近江の出身とする説もある。
通称紀之介。
刑部と称し,名は吉隆ともいった。
いつから豊臣秀吉に仕えるようになったかは不明で,はじめ小姓として秀吉の信任を受けたといわれている。
天正11(1583)年の賤ケ岳の戦では七本槍に次ぐ戦功をたて,同13年従五位下・刑部少輔に叙任されている。
しかし武功派タイプではなく吏僚派タイプで,九州攻めには石田三成と共に兵站奉行を務め,のち,やはり三成らと検地奉行などを務めた。
三成とは特に仲がよく,これが後年の伏線となっている。
同17年,越前敦賀城主となり,5万石の大名となった。
その後,小田原攻めとそれに続く奥羽の平定にも力を発揮し,また,文禄の役には石田三成と共に船奉行を務めた。
さらに督戦の奉行として渡海し,明軍との和平交渉にも当たっている。
大谷吉継(おおたによしつぐ)とは – コトバンク
秀吉死後,徳川家康の天下統一事業に協力する姿勢を示し,慶長5(1600)年7月には家康の会津攻めに従うため敦賀を発ち,途中使者を佐和山城の石田三成に遣わし,三成の子重家の同道を求めたが,三成はかえって吉継を佐和山城に招き,はじめて家康を討つ意思を伝えている。
吉継は思いとどまるよう説得したが,三成の意思の固いことを知り,長年の友誼から行動を共にすることを決意し,そのまま兵を敦賀にもどし,家康方の前田利長軍と戦ってこれを破った。
家康が下野小山で三成らの挙兵を知り,会津攻めを中止して西上すると知った吉継は,敦賀から関ケ原に向かい,かねてから疑いを抱いていた小早川秀秋に備えるため松尾山の北麓藤川台に自ら布陣している。
9月15日の戦闘のとき,一度は東軍藤堂高虎,京極高知らの攻撃を退けたが,東軍に内応した小早川秀秋軍に攻められ,奮闘の末,自刃して果てた。
大谷吉継(おおたによしつぐ)とは – コトバンク
高山右近 2017/6/23(金)
ローマ法王が認める「福者」としても有名である。
1552?―1615)
安土(あづち)桃山時代の武将、キリシタン大名。
大和(やまと)国(奈良県)沢城主高山飛騨守(ひだのかみ)の長子。
摂津(大阪府)高山に生まれる。
幼名彦五郎。
友祥(ともなが)、長房と称し、右近允(うこんのじょう)を名のる。
飛騨守は初めキリシタン宗の撲滅を図ったが、かえって入信。右近も1564年(永禄7)受洗。
霊名(れいめい)ジュスト。
68年和田惟政(これまさ)に従い摂津国(大阪府)高槻(たかつき)を預ったが、71年(元亀2)荒木村重(むらしげ)が和田氏を討ち、73年(天正1)右近は村重の下に高槻城主となった。
78年村重が織田信長に叛(はん)した際、右近は和平工作を進めたが、信長はパードレ(伴天連(バテレン))らを軟禁、右近に帰順を迫った。
質を荒木氏に送っていた彼はキリシタン教会の危機を救うため、出家の決意で信長のもとに赴いたが、かえって高槻領を安堵(あんど)され、教会も平穏を保つことができた。
高山右近(たかやまうこん)とは – コトバンク
本能寺の変には山崎合戦に先陣。
その後、豊臣(とよとみ)秀吉に従い各地に転戦、武功をたて、85年明石(あかし)6万石に封ぜられた。
その間、高槻はじめ安土、京都、大坂などの教会を援助。
領内にセミナリオ(神学校)や慈善事業をおこすなど、キリシタンの指導的人物として仰がれた。
小西行長(ゆきなが)、黒田孝高(よしたか)父子などキリシタン大名の過半は、直接間接彼が信仰に導いたものである。
1587年7月、伴天連追放令に伴い、キリシタンの代表的人物として除封されたが、行長ついで前田利家(としいえ)の保護を受け、加賀藩の客老となり藩政にも参与、また金沢城修築、高岡城築造にあたった。
千利休(せんのりきゅう)門下の茶人としても知られ、南坊(みなみのぼう)、等伯(とうはく)と号した。
1614年(慶長19)幕府の禁教発令に伴いマニラに追放されたが、40日ほどで熱病に冒され、15年2月3日(慶長20年正月6日)殉教の死を遂げた。
マニラは市をあげて信仰の勇者をたたえ、9日間にわたり盛大なミサを執行した。
高山右近(たかやまうこん)とは – コトバンク
佐々成政 2017/6/22(木)
没年:天正16.閏5.14(1588.7.7)
生年:天文5(1536)
安土桃山時代の武将。
天文8(1539)年生まれとする説もある。
成宗(盛政)の第5子。
通称は与左衛門,内蔵助,陸奥守。
尾張国(愛知県)出身,織田信長に仕える。
信長が弟信行を攻めた稲生合戦や桶狭間の戦,美濃経略などに戦功をあげ,永禄10(1567)年には黒母衣衆筆頭となる。
佐々成政(さっさなりまさ)とは – コトバンク
天正1(1573)年,朝倉義景攻めの先陣を務め,同3年5月の長篠合戦では鉄砲隊を指揮。
同8月,越前一向一揆平定の功により,越前府中上2郡を与えられる。
同8年,越中に入国して守山城に拠る。
翌9年越中新川・礪波両郡3万石を与えられ,10年,神保長住を追放して富山城に入り越中一国を支配。
そのころ越前の柴田勝家の与力にあったため本能寺の変後は反豊臣秀吉陣営にくみするが,同11年の賤ケ岳の戦後秀吉に降伏。
秀吉より越中一国を安堵され,同12月従五位下陸奥守に叙任。
しかしまもなく織田信雄・徳川家康に接近,同12年の小牧・長久手の戦に際しては,秀吉との和議を不満として,家康に会うため富山から立山連峰・更更越で浜松に赴いたことは有名。
その後,同13年8月に秀吉の征討を受けて降伏,臣従を誓う。
同14年従四位下侍従に叙任。
同15年秀吉の九州征討に従軍,戦後肥後一国を与えられて宇土城,次いで隈本城に入るが,国人一揆の蜂起により失政の咎を受け,翌年摂津尼崎で切腹した。
佐々成政(さっさなりまさ)とは – コトバンク
直江兼続 2017/6/21(水)
没年:元和5.12.19(1620.1.23)
生年:永禄3(1560)
安土桃山・江戸前期の武将。越後国与板城主樋口惣右衛門兼豊の子。
幼名は与六,名は重光ともいった。
はじめ上杉謙信に仕え,その死後,子の景勝に仕え,天正10(1582)年,名門直江の名跡を継いで直江兼続となり,景勝の側近として「執政」などと呼ばれた。
早くから豊臣秀吉に接近し,秀吉と景勝の間をとりもち,同16年,景勝が従三位に進んだとき,兼続も従五位下・山城守に叙任されている。
秀吉の側近たちとも交流があり,慶長3(1598)年の景勝の越後から会津への転封に際しては,石田三成と一緒になってこれを推進した。
主君景勝が会津120万石のとき,兼続は米沢城主として30万石を知行した。
直江兼続(なおえかねつぐ)とは – コトバンク
楠木正成 2017/6/20(火)
[没]延元1=建武3(1336).5.25. 湊川
鎌倉時代末期~南北朝時代の武将。
河内の土豪。
正成以前の楠木氏については不明。
元弘1=元徳3 (1331) 年,後醍醐天皇の召しに応じて笠置山の行在所に参向し,河内赤坂城に挙兵して六波羅勢の攻撃を防いだが落城。
翌年千早城を築いて籠城し,幕府軍の猛攻に耐え,諸国の反幕勢力の挙兵を促した。
建武中興の際その功により,河内,和泉の守護,河内の国守に任命された。
建武2 (35) 年足利尊氏が中興政府に反旗を翻すと,新田義貞らとともにこれを討ち,いったんは撃退した。
翌延元1=建武3 (36) 年尊氏が九州から大軍を率いて攻め上った際,摂津湊川にこれを迎撃して敗死。
明治になって湊川神社に祀られ,正一位を追贈された。
楠木正成(くすのきまさしげ)とは – コトバンク
本多忠勝(本多平八郎) 2017/6/19(月)
徳川家康に仕えた武将。
松平氏発祥のころからの譜代(ふだい)の家柄で、三河(愛知県)の生まれ。
代々平八郎を通称。
父忠高(ただたか)は織田信広(おだのぶひろ)を安城(あんじょう)城に攻めて討ち死に。ときに忠勝は2歳。
13歳のとき1560年(永禄3)松平元康(もとやす)(後の家康)の尾張(おわり)(愛知県)大高(おおたか)城への兵粮(ひょうろう)搬入に従ったのを初陣として、以後57回の戦いに参加しながら一度も手傷を受けなかったが、その勇猛ぶりは、72年(元亀3)武田信玄(しんげん)との合戦のあとで「家康に過ぎたるものが二つあり、唐(から)の頭(かしら)に本多平八」と敵にはやされるほどであった。
84年(天正12)長久手(ながくて)の戦いでの武者ぶりも著名。
「徳川四天王」の一人とされる。
88年従(じゅ)五位下中務大輔(なかつかさたゆう)。
90年上総(かずさ)(千葉県)大多喜(おおたき)城主(10万石)。
1601年(慶長6)伊勢(いせ)(三重県)桑名(くわな)に移封となったが、大多喜城は次男忠朝(ただとも)に与えられた。
慶長(けいちょう)15年10月18日桑名で没。
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E5%8B%9D-15019
加藤清正 2017/6/18(日)
[生]永禄5(1562).尾張,中村
[没]慶長16(1611).6.24. 肥後,熊本
安土桃山~江戸時代初期の武将。
通称虎之助。
豊臣秀吉の荒小姓の一人として常に近仕し,中国征伐に従軍した。
天正9 (1581) 年因幡鳥取城,備中冠城の攻城に功あり,翌 10年には明智光秀の軍と摂津山崎に,また丹波亀山に戦い,これを打破った。
同 11年4月の賤ヶ岳の戦いには「七本槍」の一人として勇名をはせた。
同 13年,従五位下主計頭に叙任され,同 15年に肥後熊本 25万石を領した。
文禄・慶長の役においても,朝鮮南北の征旅は攻城野戦とも大いにふるい,鬼上官の異名をとり,特に蔚山 (ウルサン) の籠城戦は有名 (→蔚山の戦い ) 。
また武断派として石田三成らとは和せず,慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いには東軍に加担し,九州での戦いに終始した。
功により加増されて 52万石を領した。
同 10年4月,従五位上侍従兼肥後守。
加藤清正(かとう きよまさ)とは – コトバンク
また築城,土木,築堤に長じ,熊本城,名古屋城をはじめ,安土桃山~江戸時代初期の名城には彼の関与したものがきわめて多い。
性は豪毅で,『論語』を好んだといわれ,その信義に厚い人柄は,秀吉,秀頼2代に仕えた功績と相まって,江戸時代以降庶民に愛され,その忠勇談は,講談,小説,戯曲などを通して一般庶民に愛好された。
加藤清正(かとう きよまさ)とは – コトバンク
前田利家 2017/6/17(土)
[生]天文7(1538).尾張
[没]慶長4(1599).閏3.3. 大坂
安土桃山時代の武将。
加賀藩前田家の祖。
利昌の子。
幼名は犬千代。
幼少から織田信長に仕え,永禄 12 (1569) 年信長の命で兄利久に代って前田家を継いだ。
元亀1 (70) 年の朝倉征伐,さらに姉川の合戦,長篠の戦いなどに従軍して功をあげた。
信長亡きあと,柴田勝家と豊臣秀吉が天正 11 (83) 年賤ヶ岳で戦った際,利家は当初勝家についていたが,裏切って秀吉に従った。
同 13年秀吉が越中で佐々成政を倒してからは越中の3郡を与えられ,その信任は厚かった。
同 18年参議となり徳川家康,上杉景勝らと五大老の一人として,また秀吉没後は秀頼の後見として徳川氏との調整にあたった。
前田利家(まえだ としいえ)とは – コトバンク































武田信虎の時代から武田家の譜代家老衆として仕え、信濃佐久郡内山城を領した。
「赤備え」を最初に率いた武将ともいわれている。