戦国武将を毎日一人ずつ紹介中
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀、武田信玄、
上杉謙信、足利尊氏、毛利元就、斎藤道三、浅井長政、
真田信繁、石田三成、伊達政宗、井伊直政、島津義弘、
竹中半兵衛、山本勘助、松永久秀、片倉小十郎、長宗我部元親、
北条氏政、今川義元、朝倉義景、柴田勝家、黒田孝高、
六角承禎、三好長慶、前田利家、加藤清正、本多忠勝、
楠木正成、直江兼続、佐々成政、高山右近、大谷吉継、
大友義鎮、尼子晴久、武田勝頼、山中鹿之助、酒井忠次、
藤堂高虎、細川忠興、佐竹義重、秋山虎繁、小早川秀秋、
山内一豊、福島正則、佐久間信盛、平清盛、源義朝、
飯富虎昌、真田昌幸、荒木村重、宇喜多秀家、中川清秀、
滝川一益、丹羽長秀、大野治長、豊臣秀長、榊原康政、
太源雪斎、池田恒興、諏訪頼重、甘利昌忠、山県昌景、
豊臣秀頼、松平信康、本多正信、安国寺恵瓊、村上義清、
板垣信方、真田信之、小笠原長時、黒田長政、徳川秀忠、
井上之房、龍造寺隆信、森可成、大久保忠教、穴山梅雪、
北畠具教、島左近、九鬼嘉隆、源義仲、足利義政、
服部半蔵、後藤又兵衛、織田信行、前野長康、母里太兵衛、
足利義満、土井利勝、佐々木道誉、源範頼、太田道灌、
北条氏直、細川藤孝、柳生宗厳、足利義昭、高師直、
小西行長、織田有楽斎、吉川広家、筒井順慶、仙石秀久、
足利義詮、源行家、最上義光、池田輝政、古田織部、
宇喜多直家、斎藤利三、北条時政、平忠盛、織田信忠、
北条氏直、春日虎綱、蒲生氏郷、毛利良勝、上杉景勝、
北条高広、毛利勝永、織田信雄、吉川元春、本多作左衛門、
森蘭丸、別所長治、土岐頼遠、浅野長政、服部一忠、
森可隆、北条高広、鳥居強右衛門、小山田信茂、織田信孝、
渡辺半蔵、森坊丸、馬場信春、明石全登、上杉景虎、
長宗我部盛親、北条早雲、京極高次、内藤昌豊、塙団右衛門、
加藤嘉明、北条氏綱、来島通総、木村重成、織田信包、
森忠政、宗義智、陶晴賢、浅野幸長、今川氏真、
片桐且元、村井貞勝、林通勝、北条氏康、森力丸、
石川数正、津軽為信、平手政秀、南部信直、宗義智、
可児才蔵、九戸政実、菅屋長頼、板倉勝重、河尻秀隆、
斯波義銀、北条綱成、塙直政、金森長近、源経基、
平高望、溝口秀勝、兼松正吉、森長可、蜂須賀家政、
平正盛、源為義、毛利輝元、有馬晴信、秋田実季、
堀尾吉晴、中村一氏、足利貞氏、小早川隆景、長束正家、
松平広忠、武田信虎、足利直義、竹中重門、斎藤龍興、
成瀬正成、北条高時、斎藤義龍、結城秀康、武田信繁、
織田信広、徳川義直、源義経、増田長盛、蜂須賀小六、
源義光、大内義隆、戸田康光、内藤家長、落合左兵次、
大久保忠世、松平忠輝、加藤貞泰、前田利長、真田幸隆、
雑賀孫一、成田長親、小田氏治、高橋元種、古田重治、
寺沢広高、堀秀治、鍋島直茂、安東愛季、田中吉政、
源頼義、有馬豊氏、山名宗全、松平忠吉、佐久間盛重、
堀尾忠晴、斎村政広、相馬隆胤、戸沢政盛、浅井久政、
小笠原吉次、武田信吉、今川氏親、豊嶋泰経、京極高知、
筒井定次、清水宗治、相馬義胤、神保長職、島津貴久、
立花宗茂、小山田虎満、毛受勝照、横井時泰、黒田熊之助、
伊達輝宗、佐久間盛政、土岐頼芸、小笠原貞慶、一条信龍、
小畠虎盛、小幡昌盛、三枝昌貞
三枝昌貞 2018/4/24(火)追加
三枝守友(さいぐさ もりとも) ????~1575
○宗四郎?宗次郎? 勘解由 左衛門尉 善右衛門 山県氏
◇父:三枝土佐守虎吉 養父:山県昌景 子:三枝守吉 弟:三枝源左衛門守義、平右衛門昌吉
三枝氏は古代の姓”三枝の連”よりその存在が確認されている名族。甲斐・武田氏臣。武功を重ね、その勇猛さに感じ入った山県昌景は、愛蔵の吉光の名刀を与え猶子にしたといわれる。長篠合戦では前当主信玄の弟兵庫介信実副将として参陣したが、三河・松平氏臣酒井忠次の夜襲を受けて共に戦死した。38歳。
三枝守友とは – 戦国武将辞典 Weblio辞書
小幡昌盛 2018/4/16(月)追加
1534-1582 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)3年生まれ。小幡虎盛の子。小幡景憲(かげのり)の父。武田信玄・勝頼2代につかえ,旗本足軽大将衆となる。川中島,三方原,長篠の戦いなどに出陣。武田氏滅亡5日前の天正(てんしょう)10年3月6日病死した。49歳。幼名は孫次郎。通称は又兵衛。
小幡昌盛(おばた まさもり)とは – コトバンク
小畠虎盛 2018/4/12(木)追加
元々は遠江国の出身で、父親が武田信虎に仕官したのに伴い1500年(明応9年)に甲斐国に入る。1504年(永正元年)に父が今井信是の叛乱鎮圧に出陣して討死すると14歳で家督を継いだ。信虎麾下の足軽大将として甲斐国統一戦や今川氏、後北条氏との戦いで活躍。大永元年に今川氏配下の福島正成が甲斐に攻め込んできた際には、原虎胤と共に先鋒として迎撃の最前線を担ったとされる。それら今川、北条氏との戦功から信虎の偏諱を受けて「虎」の一字を貰い、虎盛と名乗って、その武勇から「鬼虎」と称された。
1541年(天文10年)信虎追放後は信玄に従って活躍、1551年(天文20年)に信玄が入道すると原虎胤や真田幸隆らとともに剃髪して日意と号す。永禄年間には高坂昌信の副将として海津城に入り対上杉氏の抑えとして活躍、1561年(永禄4年)6月に病死。享年71。遺言の「よくみのほどをしれ」は有名。生涯で36回の合戦に参加して貰った感状も36枚、41ヶ所の傷を受けた歴戦の勇将である。
小畠虎盛 – Wikipedia
一条信龍 2018/4/6(金)追加
信虎の末子とされる。系図類では河窪信実の弟とされているが、天正10年(1582年)に信龍の子・信就が右衛門大夫の官途を称し、信実の子・河窪信俊が新十郎の仮名しか称していないため、信龍の方が実は年長ではないかとも推定されている。
一条信龍 – Wikipedia
戦闘時には、主に後衛を担当していたためか武名は伝わっていないが、『甲陽軍鑑』では、山県昌景、馬場信春など重鎮7人の武将のうちに数えられている。信玄の駿河国侵攻後、駿河田中城代を務めた。天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参戦し、『甲陽軍鑑』によると佐久間勢に攻撃を加えて二重の柵を破るまでの活躍を見せ、敗走する友軍の中で馬場信春勢と戦場に留まり、勝頼の戦線離脱を見極めた後で退却している。後に田中城代を子信就に譲り、武田信堯(信友の子)と共に駿府城代に転じたという。
天正10年(1582年)の織田信長による甲州征伐では、2月に徳川軍の駿河侵攻を受け、3月2日に駿河を撤退して上野城に戻る。『甲陽軍鑑』によれば勝頼は3月3日に新府城(韮崎市)を焼き払うと郡内へ向かい、途中甲府の信龍屋敷で休息を取ったという。信龍は同方面より侵攻した徳川家康の三河勢に上野城を包囲され、3月10日、三河勢1万に対し手勢3百で突撃して信就と共に討死にした。
一条信龍 – Wikipedia
小笠原貞慶 2018/4/4(水)追加
没年:文禄4.5.10(1595.6.17)
生年:天文15.8.12(1546.9.6)
安土桃山時代の武将。長時の3男。幼名小僧丸,通称喜三郎。右近大夫。父が武田信玄によって信濃(長野県)を追われると上京して三好長慶を頼り,のち織田信長に従う。天正10(1582)年に信長が死ぬと徳川家康の後ろ盾で深志城に入り,旧領を回復して同地を松本と改称した。同13年に豊臣秀吉に属すが,2年後再び家康の配下に戻る。同17年,子の秀政に家督を譲り,翌年秀政が下総国葛飾郡古河に移封されるとこれに伴い,同地で死去した。小笠原氏の近世大名としての基礎を築いた策略家であった。
小笠原貞慶(おがさわらさだよし)とは – コトバンク
土岐頼芸 2018/4/1(日)追加
土岐氏当主で兄の頼武及びその子・頼純の嫡流と対立、美濃国とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、土岐氏当主、美濃守護となった。しかし、後に重臣の斎藤道三に追放された。
土岐頼芸 とき-よりなり
1501-1582 戦国-織豊時代の武将。
文亀(ぶんき)元年生まれ。土岐政房(まさふさ)の次男。斎藤道三に擁立され,兄土岐頼純(よりずみ)を越前(えちぜん)(福井県)に追放して美濃(みの)(岐阜県)守護となる。天文(てんぶん)21年道三とあらそって敗れ,のち尾張(おわり)(愛知県)の織田信長をたよったとされる。鷹(たか)の絵が得意で,土岐洞文と同一人物との説もある。天正(てんしょう)10年12月4日死去。82歳。
土岐頼芸(とき よりなり)とは – コトバンク
佐久間盛政 2018/3/31(土)追加
佐久間盛次の子。佐久間安政、柴田勝政、佐久間勝之の兄。佐久間信盛は従叔父にあたる。
1554‐83(天文23‐天正11)
織豊期の武将。尾張の出身で父盛次とともに織田信長に仕える。母は柴田勝家の姉。初め修理といい,のちに玄蕃允と称する。加賀一向一揆に対処するため同国の守護に任ぜられ,一揆を鎮圧する。1580年(天正8)伯父佐久間信盛の失脚に連座して蟄居(ちつきよ)したが,許されて柴田勝家に属する。83年の賤ヶ岳の戦では勝家方として活躍したが,敗戦により捕らえられて斬首された。
佐久間盛政(さくまもりまさ)とは – コトバンク
伊達輝宗 2018/3/29(木)追加
1544-1585 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)13年9月生まれ。伊達晴宗の次男。永禄(えいろく)8年家督をついで出羽(でわ)米沢城(山形県)城主となる。天正(てんしょう)12年家督を長男の政宗にゆずって隠退。翌13年二本松義継に捕らえられ,救出にむかった伊達勢の銃撃で,10月8日義継とともに最期をとげた。42歳。幼名は彦太郎,総次郎。
伊達輝宗(だててるむね)とは – コトバンク
黒田熊之助 2018/3/26(月)追加
天正10年(1582年)、黒田孝高と正室光の次男として播磨国姫路にて生まれる。兄に黒田長政がいる。
慶長2年(1597年)7月、豊前中津城で留守中、兄、長政の朝鮮出兵(慶長の役)に加われなかったことを嘆き、中津城から抜け出し秘密裏に朝鮮へ渡る途中、船が嵐にあい転覆、16歳で死去した。その時、一緒に船出した家臣の子、母里吉太夫(母里友信嫡男)、加藤吉松(黒田一成弟)、木山紹宅の3人も一緒に溺死した。死後、母の光は自身が創建した圓應寺(福岡市中央区)に熊之助の霊を弔った。のち崇福寺(福岡市博多区)にも墓碑が建立された。
黒田熊之助 – Wikipedia
横井時泰 2018/3/22(木)追加
天正2年(1574年)6月7日、岐阜城に忍んで侵入した敵を退けたことにより織田信長に褒められた。本能寺の変後は織田信雄に仕えた。小牧・長久手の戦いでは徳川家康に味方し、その後家康に仕えた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに東軍に組し福島正則の配下に属した。福束城の丸毛兼利の家老・丸毛六兵衛に東軍につくように促したが拒否され、8月17日に徳永寿昌・市橋長勝らと福束城を攻略した。関ヶ原の本戦では長宗我部盛親隊を福島正則の別働隊として子の時家、時安、徳永寿昌、市橋長勝と共に監視。南宮山を退いた西軍の長束正家や安国寺恵瓊の兵を追撃した。
後に尾張徳川家に仕え、同じく旧領赤目5,800余石を拝領している。戦功により弟の時朝(藤ヶ瀬横井家・1,200石)、時久(祖父江横井家・1,900石)も尾張家に仕えた。
家督は時泰の子・時家、時安と引き継がれ、幕末まで代々尾張徳川家に仕えた。
横井時泰 – Wikipedia
毛受勝照 2018/3/21(水)追加
諱は初名を照景、後に家照、勝照と改めた。異説として吉親とするものもある。通称は初めは庄助、荘介(荘助)で、後に勝介(勝助)となった。
1559-1583 織豊時代の武将。
永禄(えいろく)2年生まれ。柴田勝家の小姓頭で,禄(ろく)1万石。賤ケ岳(しずがたけ)の戦いに敗れたとき,勝家の身代わりとなってその退却をたすけ,天正(てんしょう)11年4月21日討ち死に。25歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。通称は荘介,勝介
毛受家照(めんじょう いえてる)とは – コトバンク
小山田虎満 2018/3/20(火)追加
1539-1582 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)8年生まれ。小山田出羽守(でわのかみ)信有の子。天文21年父の死で甲斐(かい)(山梨県)都留郡(つるぐん)谷村城主をつぐ。武田信玄の談合衆のひとりで,戦い上手でもあった。武田勝頼の滅亡のときうらぎったが,天正(てんしょう)10年3月24日織田信長に甲府善光寺で殺された。44歳。通称は弥三郎。
小山田信茂(おやまだ のぶしげ)とは – コトバンク
立花宗茂 2018/3/17(土)追加
1568‐1642(永禄11‐寛永19)
豊臣期・江戸初期の武将。筑後柳河藩主。初名は宗虎,統虎。剃髪後,立斎と号した。父は高橋紹運。立花鑑連(あきつら)(戸次道雪(べつきどうせつ))の養子となり,1585年(天正13)立花城主。87年豊臣秀吉の九州平定に功をたて,筑後山門(やまと)郡等4郡13万2000石を与えられ柳河城主。朝鮮の役では碧蹄館の戦で名を挙げた。関ヶ原の戦では西軍に属したため所領没収,のち奥州棚倉に移封されたが,大坂の陣の功で1620年(元和6)旧領5郡10万9600石に復領した。
立花宗茂(たちばな むねしげ)とは – コトバンク
島津貴久 2018/3/16(金)追加
1514-1571 戦国-織豊時代の武将。
永正(えいしょう)11年生まれ。島津忠良の子。島津氏15代。大永(たいえい)6年宗家島津勝久の養子となる。父忠良とともに勝久を追放し,薩州家の島津実久(さねひさ)を破り,天文(てんぶん)14年(1545)薩摩(さつま)・大隅(おおすみ)・日向(ひゅうが)守護となる。居城を伊集院から鹿児島にうつし,戦国大名としての基礎をきずいた。元亀(げんき)2年6月23日死去。58歳。通称は又三郎。号は伯囿。
島津貴久(しまづたかひさ)とは – コトバンク
神保長職 2018/3/15(木)追加
永正17年(1520年)、越中守護・尚長(尚順の改名後)と越後守護代・長尾為景の連合軍に敗れて自刃した神保慶宗の子とされる。仮名は不明ながら、神保氏嫡流が称する官途である宗右衛門尉を継承していることから、その後継者を自認していたことは確かである。慶宗には小法師という嫡子がいたことから、これが後の長職である可能性がある。慶宗が畠山尚慶(尚順(尚長)の初名)より偏諱を賜ったのに倣い、長職も同じく畠山尚長より「長」の一字を受けたものとみられる。
神保長職 – Wikipedia
長職は没落していた神保家の再興に努め、享禄4年(1531年)加賀国における享禄の錯乱に守護方連合軍の一員として出兵するまでに勢力を回復させた。もっともこの時、神保勢は一揆勢に大敗を喫している。さらに長職は天文12年(1543年)頃、神通川を越えて新川郡に東進して富山城を築き、椎名長常と国人衆を巻き込み越中を二分した越中大乱と呼ばれる大戦を引き起こした。長職は更に南進して城生城主斎藤氏を一年余に渡って包囲するなど猛威を奮い、天文13年(1544年)、能登畠山氏の仲裁により大乱は集結したものの、常願寺川以西を併呑し、神保家を越中最大の勢力に築き上げた。
神保長職 – Wikipedia
相馬義胤 2018/3/13(火)追加
没年:寛永12.11.16(1635.12.25)
生年:天文17(1548)
江戸前期の大名。陸奥国中村(福島県)藩の初代藩主。小高(福島県相馬郡)城に生まれる。父は小高城主盛胤,母は掛田義宗の娘。通称孫次郎。長門守。天正年中(1573~92)伊達政宗と争い滅亡の危機に瀕したが,豊臣秀吉による天正18(1590)年の奥羽仕置によって危機を脱した。同年,豊臣政権から本領4万8000石余を安堵された。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では,参陣せず家康の勘気をこうむったが,7年6万石を拝領,子の利胤を名代とした。16年中村城に移る。寛永2(1625)年利胤の死去により,孫虎之助を後見。中村城で死去。戦国末期から相馬家の危機を何度も乗り切った人物。
相馬義胤(そうま・よしたね)とは – コトバンク
清水宗治 2018/3/12(月)追加
[生]天文6(1537)
[没]天正10(1582).6.4. 備中,高松
戦国時代の武将。出自は未詳。字は長左衛門。初め備中清水城主であったが,長谷川掃部を殺して同国高松城主となり,小早川隆景に属した。天正5 (1577) 年豊臣秀吉の中国征伐が始り,同 10年岡山まで進攻した秀吉から織田方につくようすすめられたが応じなかったため,秀吉得意の戦法である水攻めにあった。同年6月本能寺の変の報に接した秀吉が毛利氏と親しい安国寺恵瓊をつかわし,宗治の自害を条件に毛利氏との講和を進めたため,兄月清入道とともに自刃した。
清水宗治(しみずむねはる)とは – コトバンク
筒井定次 2018/3/9(金)追加
1562-1615 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
永禄(えいろく)5年生まれ。従兄筒井順慶の養子となり,天正(てんしょう)12年その遺領をつぎ大和(奈良県)郡山城主。翌年伊賀(いが)(三重県)上野にうつり20万石の領主となる。文禄(ぶんろく)元年長崎でバリニャーノから受洗。関ケ原の戦いでは徳川家康にしたがい所領を安堵(あんど)されるが,慶長13年改易(かいえき)され,さらに豊臣方に通じていた疑いで死を命じられ,慶長20年3月5日自害した。54歳。本姓は慈明寺。
筒井定次(つつい さだつぐ)とは – コトバンク
京極高知 2018/3/8(木)追加
近江守護の名門京極高吉の次男として生まれる。早くから豊臣秀吉に仕え、その功により羽柴姓を許されて羽柴伊奈侍従と称す。文禄2年(1593年)、義父毛利秀頼の遺領を(秀頼の実子秀秋を差し置いて)任され、信濃飯田城主として6万石を領し、従四位下侍従に任ぜられた。また、領内にキリスト教の布教を許可し、のちに自身もキリシタンとなっている。文禄3年(1594年)、10万石に加増される。
秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)には岐阜城攻めに参戦し、関ヶ原の戦いでは大谷吉継隊と戦うなどの戦功を挙げた。戦後は丹後12万3000石を与えられ、国持大名として京極丹後守を称した。田辺城に入城後、宮津城に拠点を移す。
京極高知 – Wikipedia
その後、領地は嫡男・高広、三男・高三、甥で婿養子の高通の3人に分封し、宮津藩・田辺藩・峰山藩の3つに分割された。嫡流は宮津7万8200石の領主となったが、3代で改易となる。その後、子孫が高家として取り立てられ、幕末まで続く。田辺藩京極家は3代で但馬豊岡へ転封となった。峰山藩京極家は幕末まで転封もなく、幾人もの若年寄を出すなど譜代格の大名として幕政にも参画した。
京極高知 – Wikipedia
豊嶋泰経 2018/3/7(水)追加
泰経は石神井城、練馬城で挙兵し、泰明も平塚城(東京都北区)で挙兵、この3城で東西に連ね戦備を固くして、太田道灌の江戸城と扇谷上杉家本拠の河越城、岩槻城の連絡を遮断し危機に陥れた。太田道灌は江戸城から出兵してまず平塚城を攻撃し、城下に火を放っていったん引き上げた。この報に接した泰経は石神井城、練馬城の兵を率いて平塚城の後詰として進撃してきた。4月13日太田道灌は三浦義同、上杉朝昌、千葉自胤らと泰経勢を迎えうち、両軍は江古田川と妙正寺川の合流地点、現在の東京都中野区江古田、沼袋あたりで遭遇、激戦となった。
豊島泰経 – Wikipedia
泰経は武運つたなくこの戦に大敗、弟の泰明以下板橋氏、赤塚氏らの一族はじめ150人の戦死者を出すに至った(江古田原・沼袋の戦い)。石神井城は落城、泰経は夜陰にまぎれて脱出した。
文明10年(1478年)正月に泰経は平塚城で再挙するが、25日、太田道灌に攻められて落城。泰経は足立郡へ逃れる。泰経は丸子(神奈川県川崎市)に陣を敷くが、27日に太田道灌が迫ると陣を捨てて小机城(神奈川県横浜市)へ逃げ込んだ。太田道灌がこれを包囲ししたため城は落城、泰経は行方知れずとなり、豊島本宗家は歴史上から姿を消した。
豊島泰経 – Wikipedia
今川氏親 2018/3/5(月)追加
1473‐1526(文明5‐大永6)
戦国時代の武将。幼名竜王丸。修理大夫。法名紹僖。1476年(文明8)父義忠が遠江出征中に不慮の死を遂げると,家中に内訌が起き堀越公方(くぼう)足利政知の干渉を招いたが,母北川殿の兄伊勢新九郎(北条早雲)の調停により,家督を相続し79年駿河守護となる。伯父新九郎の援助を得て,94年(明応3)より遠江に侵入を開始して守護の斯波氏と戦い,さらに1506年(永正3)には三河に出兵して松平長親と戦うなど勢力を伸ばし,08年遠江守護となる。
今川氏親(いまがわうじちか)とは – コトバンク
武田信吉(松平信吉) 2018/3/3(土)追加
1583‐1603(天正11‐慶長8)
江戸初期の大名。幼名は万千代。徳川家康の五男として浜松で生まれた。母の下山殿(於都摩(おつま)の方)は戦国大名武田氏の一族穴山梅雪(信君)の養女。信君の死後,家康は名家武田氏の断絶を嘆き,万千代に名跡を継がせた。1590年(天正18)8歳で下総国小金3万石,92年(文禄1)同国佐倉4万石に移封,1602年(慶長7)水戸15万石の領主となったが,無嗣のため断絶した。
武田信吉(たけだ のぶよし)とは – コトバンク
小笠原吉次 2018/3/2(金)追加
松平家忠の家臣小笠原長隆の長男。母は小笠原重広の娘。正室は加々爪政豊の娘。子は吉光(忠重、長男)、長光(次男)。官途は伊予守、のちに和泉守。初名宗忠。
父の長隆が天正3年(1575年)に没すると、引き続き松平家忠に仕え、関ヶ原の戦い後に家忠の跡を継いだ松平忠吉(徳川家康四男)が尾張国清洲城52万石に入部されると、家康の命でその付家老となり、犬山に所領を与えられた。このとき、吉次は犬山城を近世城郭にまで成長させ、城下町も整備した。慶長12年、忠吉が没すると江戸に召し返される。なお、長男の吉光は忠吉の死去に従って増上寺で殉死した。
吉次はその後、下総国佐倉2万2000石を経て常陸国笠間3万石に移封されたが、慶長14年(1609年)3月26日に私曲連座によって改易された。これは江戸に召し返されるとき、忠吉付で自らが支配していた甲州武川衆の与力給を自身の家臣にしようと領地高に組み入れ、このことに反発した武川衆が家康に直訴したことが露見したためという。また、忠吉の後に尾張に入った徳川義直の付家老平岩親吉と不和になったことも不正発覚の発端となったという。姫路藩池田氏に仕えていた次男の長光も同時に追放された。
その後、武蔵国都筑郡池辺村(現・神奈川県横浜市都筑区池辺町)にて余生を送り、1616年に69歳で死去した。
小笠原吉次 – Wikipedia
浅井久政 2018/2/27(火)追加
?‐1573(天正1)
戦国時代の大名。小谷(おだに)城主で江北を支配。通称新九郎,のち左兵衛尉,下野守を称す。父は亮政(すけまさ),母は側室尼子氏。1542年(天文11)家督を継ぐ。亮政の死を契機として再挙した京極高広に攻められ,和を結び危機を回避。江南の六角氏との戦いでも終始劣勢であり,軍事的・対外的にふるわなかった。60年(永禄3)家督を賢政(長政)に譲り隠退。73年織田信長軍に攻撃されて落城し,8月27日自刃。
浅井久政(あさい ひさまさ)とは – コトバンク
戸沢政盛 2018/2/24(土)追加
没年:慶安1.閏1.22(1648.3.16)
生年:天正13(1585)
安土桃山・江戸前期の出羽国新庄藩(山形県)初代藩主。角館(秋田県)城主盛安の子。幼名九郎五郎。文禄2(1593)年1月家督を継ぐ。慶長5(1600)年の上杉・最上両軍の合戦には,最上義光と起請文を交わして同盟し,東軍に味方して戦った。慶長7年,常陸国(茨城県)茨城郡小川城(4万石)に入り,11年多賀郡松岡城に移った。松岡在城20年余ののち,山形藩最上氏の改易で,元和8(1622)年最上氏領の一部に移封。初め真室城に入り,まもなく新庄城に移って新庄藩6万8000石の領国造りが始まる。城下町の拡張整備,新田や鉱山の開発を進め,以後幕末まで11代にわたり定着する新庄藩の基礎がつくられた。
戸沢政盛(とざわ まさもり)とは – コトバンク
相馬隆胤 2018/2/23(金)追加
1563年に前任の中村城代であった草野直清が謀反を起こし滅ぼされた後、後任の中村城代となって父・盛胤や兄・相馬義胤を補佐する。武勇に優れた猛将だったが、血気盛んで慎重さに乏しい性格だったらしい。それが災いし、1590年、伊達氏との戦いで乱戦に劣勢を顧みず突撃して孤立、戦死した。
相馬隆胤 – Wikipedia
斎村政広 2018/2/21(水)追加
1562-1600 織豊時代の武将。
永禄(えいろく)5年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)竜野(たつの)城主。豊臣秀吉にしたがい,天正13年但馬(たじま)(兵庫県)竹田城主となる。儒者藤原惺窩(せいか)に敬服し援助をおこない,慶長の役で捕虜になった朝鮮の学者姜沆(きょう-こう)の帰国につくす。関ケ原の戦いではじめ石田方に味方し,のち徳川方につくがゆるされず,家康の命により慶長5年10月28日自害した。39歳。姓はのち斎村。別名に広秀,広英。
赤松広通(あかまつ ひろみち)とは – コトバンク
堀尾忠晴 2018/2/17(土)追加
1599-1633 江戸時代前期の大名。
慶長4年生まれ。堀尾吉晴の孫。堀尾忠氏の長男。慶長9年6歳で出雲(いずも)松江藩主堀尾家2代となる。祖父吉晴が補佐した。松江城の築城をすすめ,16年富田(とだ)城から移転。大坂冬・夏の陣で活躍した。寛永10年9月20日死去。35歳。嗣子がなく家はたえた。幼名は三之助。
堀尾忠晴(ほりお ただはる)とは – コトバンク
佐久間盛重 2018/2/15(木)追加
五器所城主。はじめ、織田信長の弟・信行(信勝)付きの家老で、天文20年(1551年)の信秀の葬儀では、信行に供奉している(『信長公記』)。
弘治2年(1556年)、信長と信行の兄弟が対立した際、盛重は信行付きの家老という立場であったが、織田家臣の多くが信行方に走る中、同族の佐久間信盛らとともに信長方に味方した。信長が信行方の柴田勝家や林秀貞と合戦(稲生の戦い)を行った際は名塚砦を堅持した。その際、信行方の橋本十蔵を討ち取った。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、その前哨戦において丸根砦を守備し、近隣の鷲津砦と連携して今川方の尾張侵攻の拠点である大高城を牽制する任を担ったが、大高城救援のため出陣した今川方の部将の松平元康(後の徳川家康)勢の攻撃により丸根砦は陥落、盛重は戦死した。
佐久間盛重 – Wikipedia
松平忠吉 2018/2/14(水)追加
徳川家康の四男。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の同母弟。徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿にあたる。
没年:慶長12.3.5(1607.4.1)
生年:天正8(1580)
江戸初期の武将。名は甚太郎,福松,忠康。下野守,薩摩守と称す。徳川家康の第4子で母は西郷局,東条松平家忠の養子となり,文禄1(1592)年2月に従五位下下野守に叙し,武蔵忍城の10万石に封ぜられる。その妻が井伊直政の娘であった関係から,慶長5(1600)年の関ケ原の戦に際しては,舅の井伊直政と共に徳川隊の先鋒の大役を務めた。ことに徳川秀忠率いる軍勢の到着が遅れたことから,関ケ原における徳川将兵の軍事力は劣弱であったが,直政と忠吉の徳川勢は力戦して島津義弘隊ほかと戦ってこれを破り,忠吉は初陣ながら自ら敵の首級をあげるなど軍功著しく,父家康を大いに喜ばせた。戦後は尾張清洲城を賜り,52万石を領し薩摩守と改める。10年に従三位左近衛権中将となり,28歳で没した。嗣子なくして家は絶えた。
松平忠吉(まつだいら ただよし)とは – コトバンク
細川勝元 2018/2/13(火)追加
没年:文明5.5.11(1473.6.6)
生年:永享2(1430)
室町時代の武将,室町幕府管領。聡明丸,六郎。右京大夫,武蔵守。持之の子。摂津・丹波・讃岐・土佐国守護。嘉吉2(1442)年8月,父の病死により13歳で家督を継ぐが,幼少のため叔父細川持賢がこれを後見。文安2(1445)年3月,畠山持国のあとを受けて管領となり,宝徳1(1449)年退任して持国に替わったが,享徳1(1452)年から寛正5(1464)年まで再任,3度目は応仁2(1468)年から文明5(1473)年の死去まで,通算21年間同職に在任した。軍事よりも謀略,駆け引きに長じ,嘉吉の変ののち強大化した山名持豊(宗全)の女婿となってこれと結ぶ一方,寛正1(1460)年畠山義就を失脚させたのも彼の手腕とみられる。 しかし,赤松家再興を支持したことにより次第に持豊と対立するようになり,寛正6年,やはり持豊の女婿であった斯波義廉を退けて同義敏を立てたことで,両者の対立は決定的となる。
細川勝元(ほそかわ かつもと)とは – コトバンク
将軍家の跡目を巡って勝元が足利義視を,持豊が足利義尚を支援したことは,応仁1年に応仁の乱が勃発する一因となった。勝元は東軍総帥として畠山,斯波,将軍家の後継者としてそれぞれ,政長,義敏,義視を支援し,義就,義廉および日野富子・義尚母子を支援する持豊と抗争を繰り返した。しかし膠着状態が続くなか,戦争の主導権は漸次,赤松政則,斎藤妙椿ら有力守護・守護代層の手に移っていき,文明5年3月持豊が病死したのに続いて勝元も同年5月病死する。
細川勝元(ほそかわ かつもと)とは – コトバンク
山名宗全 2018/2/11(日)追加
室町中期の武将。守護大名。右衛門佐(うえもんのすけ)、弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)。法号の宗全(そうぜん)の名で知られる。時煕(ときひろ)の子。1433年(永享5)父の隠退により家督を継ぎ、但馬(たじま)、備後(びんご)、安芸(あき)、伊賀の守護を兼ね、一時侍所別当(さむらいどころべっとう)となる。41年(嘉吉1)将軍義教(よしのり)を殺した赤松満祐(みつすけ)を播磨城(木)山(はりまきのやま)城(兵庫県たつの市)に攻め滅ぼし、功により播磨守護を兼ね、一族教之(のりゆき)は備前(びぜん)、教清(のりきよ)は美作(みまさか)の各守護となる。これにより山名氏は赤松氏の分国を全部あわせて、明徳(めいとく)の乱以前の勢力を回復した。50年(宝徳2)家督を子教豊(のりとよ)に譲り、剃髪(ていはつ)して宗峰(そうほう)、ついで宗全と号した。女(むすめ)を細川勝元(ほそかわかつもと)の妻とし、勝元と組んで畠山(はたけやま)氏の内紛に介入したが、勝元が赤松氏再興を助けたのを怒って対立する。
山名持豊(やまなもちとよ)とは – コトバンク
勝元が伊勢貞親(いせさだちか)と組んで畠山政長(まさなが)を支持すると宗全は同義就(よしなり)を助け、斯波(しば)家の内紛にも勝元らが斯波義敏(よしとし)を支持したのに抗して同義廉(よしかど)を助けた。さらに将軍家の継嗣(けいし)問題についても、日野富子(とみこ)の産んだ足利義尚(よしひさ)を助けて、将軍義政の弟義視(よしみ)を支持する勝元らに対抗した。その結果ついに67年(応仁1)山名・細川両将とも与党を京都に集めて戦端を開き、応仁(おうにん)の乱となった。宗全を主将とする西軍には大内政弘(おおうちまさひろ)さらに足利義視も加わったが、宗全の子の山城(やましろ)守護是豊(これとよ)は東軍に参加しており、山名一族も内紛を露呈した。この大乱のさなかに宗全は文明(ぶんめい)5年3月19日西陣の邸内で病没した。平生犬追物(いぬおうもの)を得意とし、勇猛な武将で、赤入道と綽名(あだな)された。
山名持豊(やまなもちとよ)とは – コトバンク
有馬豊氏 2018/2/9(金)追加
没年:寛永19.閏9.29(1642.11.21)
生年:永禄12(1569)
江戸初期の大名,筑後国久留米藩(福岡県)藩主。播磨国(兵庫県)三木に有馬則頼の次男として生まれる。母は別所志摩守忠治の娘お振。幼名万助。従五位下玄蕃頭,従四位下侍従。初め豊臣秀吉に仕え3000石,その後加増され3万石を領す。秀吉死後は徳川家康に仕え,慶長5(1600)年家康の養女連姫(松平康直の娘)を妻とし,同年関ケ原の戦では東軍に属し,丹波国福知山6万石を得る。同7年には父の遺領摂津国有馬2万石を加えられ,元和6(1620)年筑後国久留米21万石に移封された。戦乱にあけくれた生涯であったが,茶人としても有名で,利休七哲のひとりである。
有馬豊氏(ありま とようじ)とは – コトバンク
利休七哲については諸説がいろいろあります
源頼義 2018/2/8(木)追加
没年:承保2(1075)
生年:永延2(988)
平安後期の武将。河内源氏の祖頼信の子。没年には異説がある。一時期,小一条院(敦明親王)に仕え都での生活を送ったが,地方での働きが大きい。平忠常の乱(1028)では父に従って追討し,前九年の役(1051~62)では陸奥守兼鎮守府将軍として子義家と共に「俘囚」の長安倍頼時の反乱を長年月にわたる苦戦のすえ鎮定し,勇名をとどろかせた。このときの精鋭は父以来の,また自ら相模,武蔵守などを務めた際結びつきを深めた坂東武士たちであった。冷静沈着にして武略に長け将の器という評や武勇談は『陸奥話記』に詳しい。父と共に11世紀中期に菩提寺通法寺(羽曵野市)を開く。国史跡に指定されたその寺跡に墓がある。
源頼義(みなもとのよりよし)とは – コトバンク
田中吉政 2018/2/7(水)追加
没年:慶長14.2.18(1609.3.23)
生年:天文17(1548)
安土桃山・江戸前期の武将。近江の田中重政の子。幼名宇竹,久次,久兵衛を称し,名は宗政,長政,吉政と変えている。官途は兵部大輔で,関ケ原の戦後,従四位下・侍従に叙任された。はじめ宮部継潤に仕え,のち豊臣秀吉に仕えて豊臣秀次の傅役となり,天正18(1590)年には,三河岡崎城主として5万7000余石を与えられた。秀次失脚事件後,秀次に対する諫言などが評価されて10万石に加増され,関ケ原の戦では東軍に属し,石田三成を捕らえた功により筑後柳川城主32万石を与えられた。河川改修や領内の産業振興に成果をあげている。パルトロメヨの洗礼名を持つキリシタン大名でもあり,領内のキリスト教徒が迫害されたとき保護したという。
田中吉政(たなかよしまさ)とは – コトバンク
安東愛季 2018/2/5(日)追加
?-1587 織豊時代の武将。
秋田実季(さねすえ)の父。出羽(でわ)檜山城(秋田県)城主。下国(しものくに)安東家。湊と檜山にわかれていた安東家を統合し秋田城介と称す。周囲の浅利,南部,戸沢,小野寺氏らとたたかった。その間織田信長,豊臣秀吉に信を通じた。天正(てんしょう)15年9月1日死去。通称は安東太郎。名は「ちかすえ」ともよむ。
秋田愛季(あきた よしすえ)とは – コトバンク






































諱は「守友(もりとも)」とされてきたが、近年は確実な文書上の表記から「昌貞」であることが指摘される。