1542-1620 織豊-江戸時代前期の武将。
天文(てんぶん)11年生まれ。渡辺高綱(たかつな)の長男。徳川家康の臣。永禄(えいろく)5年今川氏真(うじざね)との戦いで殿(しんがり)をつとめて奮戦,槍(やり)の半蔵の異名をとった。慶長18年尾張(おわり)名古屋藩主徳川義直(よしなお)に配属され,1万4000石を領した。元和(げんな)6年4月9日死去。79歳。三河(愛知県)出身。通称は半蔵,忠右衛門。
渡辺守綱(わたなべ もりつな)とは – コトバンク
織田信孝 2017/10/7(土)追加
1558-1583 織豊時代の武将。
永禄(えいろく)元年生まれ。織田信長の3男。信長の命で伊勢(いせ)(三重県)の神戸具盛(かんべ-とももり)の養子となる。天正(てんしょう)10年本能寺の変の際は四国攻めの総大将であったが,羽柴(豊臣)秀吉と合流,明智(あけち)光秀を討つ。清洲(きよす)会議後,美濃(みの)岐阜城主。のち秀吉と対立,柴田勝家とくんで挙兵するが賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで勝家が敗れたため岐阜を開城,天正11年5月2日自害。26歳。
織田信孝(おだのぶたか)とは – コトバンク
小山田信茂 2017/10/6(金)追加
1539-1582 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)8年生まれ。小山田出羽守(でわのかみ)信有の子。天文21年父の死で甲斐(かい)(山梨県)都留郡(つるぐん)谷村城主をつぐ。武田信玄の談合衆のひとりで,戦い上手でもあった。武田勝頼の滅亡のときうらぎったが,天正(てんしょう)10年3月24日織田信長に甲府善光寺で殺された。44歳。通称は弥三郎。
小山田信茂(おやまだ のぶしげ)とは – コトバンク
鳥居強右衛門 2017/10/5(木)追加
没年:天正3.5.16(1575.6.24)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。名を勝商とする史料もあるが確実とはいえない。
三河の徳川家康方の部将奥平信昌の家臣で,信昌が長篠城(愛知県新城市・鳳来町)に入ったのに従い,天正3(1575)年2月,長篠城に入った。
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)とは – コトバンク
長篠城は同年5月1日から武田勝頼の大軍に囲まれ籠城することになったが,そのとき城中での軍評定で徳川家康のもとに援軍を要請する使者を送ることを提案し,自ら武田軍の包囲網を突破して家康のもとに赴くことになった。
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)とは – コトバンク
14日,強右衛門は長篠城を脱出することに成功し,岡崎城の家康に長篠城の窮状を訴え,それを聞いた家康は信長ともども出陣する決意を固めた。
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)とは – コトバンク
強右衛門は,その返事をすぐ城中の兵たちに伝えたいと長篠城に戻ろうとしたが,包囲の目をかいくぐって潜入することはむずかしく,結局,武田軍の兵に捕らえられた。
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)とは – コトバンク
このとき武田方では捕らえた鳥居強右衛門を城近くに連行し,「援軍はこない。降参した方がよい」といえば命を助けるという約束で強右衛門にその口上をいわせようとしたが,強右衛門は「援軍がすぐ到着する」と叫んだ。そのため強右衛門は篠場野において磔にかけられ殺されたが,結果的にはこの行為が長篠城籠城を継続させ,それが長篠設楽ケ原の織田・徳川連合軍大勝の大きな要因となったのである。
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)とは – コトバンク
森可隆 2017/10/4(水)追加
森 可隆(もり よしたか、天文21年(1552年) – 元亀元年4月25日(1570年6月8日))は、戦国時代の武将。織田信長に仕えた武将森可成の長男。森長可、森成利(蘭丸)らの兄。通称傅兵衛。
1552年、誕生。父は信長にしたがって一族とともに各地を転戦していたため、尾張の森氏の旧領の留守を守っていた。1570年(元亀元年)、父の可成は信長の命で朝倉方の籠もる越前敦賀・手筒山城を攻めた際に可隆も同行した。初陣の可隆は城に一番乗りを果たし、同城は陥落したが、可隆は深入りをし過ぎたため反撃を受けて討死した。享年19。美濃金山・可成寺に供養墓がある。
森可隆 – Wikipedia
服部一忠 2017/10/3(火)追加
桶狭間の戦いにおいて今川義元に一番槍をつける戦功をあげた。しかし、義元の反撃を受けて膝を斬られたので、首級を挙げたのは助太刀に入った毛利良勝であった。
尾張国の出身。はじめ織田信長に馬廻として仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて今川義元に一番槍をつける戦功をあげた。しかし、義元の反撃を受けて膝を斬られたので、首級を挙げたのは助太刀に入った毛利良勝であった。桶狭間の戦い以降は織田氏の配下として目立った活躍は知られていない。
天正10年(1582年)の本能寺の変では弟の小藤太が二条御所で戦死している。信長の死後は、再び馬廻として豊臣秀吉に仕えて黄母衣衆の一員となる。天正13年(1585年)、従五位下采女正の官位に叙せられた。また、小田原征伐の戦功により、天正19年(1591年)に松阪城主に抜擢されて伊勢国一志郡に3万5000石を与えられ、同時に当時、尾張・北伊勢を支配した羽柴秀次に付けられた。文禄元年(1592年)、文禄の役において漢城に進軍。
文禄4年(1595年)、豊臣秀次失脚に連座して所領を没収され、上杉景勝に預けられた後、切腹を命じられた。次男の勝長は大崎長行の養子となり紀伊徳川家に仕えた。
服部一忠 – Wikipedia
浅野長政 2017/10/2(月)追加
1547‐1611(天文16‐慶長16)
安土桃山時代の武将。初名長吉。弾正少弼。初め安井氏。浅野長勝の養子となり織田信長に仕えて羽柴(豊臣)秀吉に付属され,秀吉の大名化とともに領知を増し,1580年(天正8)播磨揖東郡で4600石,その後しばしば加増,秀吉の政権獲得後の83年には京都の奉行となり近江坂本で2万0300石,そしてこれ以後豊臣氏蔵入地の代官を兼ね,87年若狭一国,93年(文禄2)甲斐一国を領し,宇都宮国綱,伊達政宗などを与力とした。
浅野長政(あさの ながまさ)とは – コトバンク
土岐頼遠 2017/10/1(日)追加
ばさら大名。
?-1342 南北朝時代の武将。
土岐頼貞(よりさだ)の子。
美濃(みの)(岐阜県)守護。
足利尊氏(たかうじ),直義(ただよし)にしたがい美濃青野原の戦いなどで活躍。
光厳(こうごん)上皇の牛車(ぎっしゃ)に矢を射かける乱暴をたらき,康永元=興国3年12月1日京都で処刑された。
佐々木道誉(高氏)とならんで婆娑羅(ばさら)大名のひとり。
土岐頼遠(ときよりとお)とは – コトバンク
別所長治 2017/9/30(土)追加
没年:天正8.1.17(1580.2.2)
生年:永禄1(1558)
戦国時代の武将。父は長勝。播磨国(兵庫県)守護赤松氏の一族で,天正3(1575)年織田信長に出仕した。中国毛利攻めの先陣となるつもりでいたところ,羽柴(豊臣)秀吉が総指揮官に任ぜられ同6年播磨入りしたため,三木城に立てこもって信長に背いたという。一説には伯父賀相の讒言とも,協調関係にあった毛利氏に応じたものともいう。秀吉は織田信忠と共に三木城を攻めたが,東播磨の豪族や丹波波多野氏,そして同じく信長に背いた摂津の荒木村重も長治に呼応。当初は毛利軍による兵糧援助もあって2年近く三木城を支えたが,村重が敗れ,次いで秀吉が次第に支城を攻め落として三木城を孤立させつつ兵糧攻めを計ったため,城内では餓死する者が続出した。長治は城兵らの助命を条件に,兄弟と共に自害した。
別所長治(ベッショナガハル)とは – コトバンク
森蘭丸 2017/9/29(金)追加
名前については異説が多く、幼名を乱(らん)とするものや、諱を長定(ながさだ)や長康(ながやす)とするものなど幾つかあるが、本記事においては諱として有力とされる成利で統一する。
安土(あづち)桃山時代の武士。実名は成利(なりとし)。一説に長定(ながさだ)。美濃(みの)国(岐阜県)可児(かに)郡金山(かねやま)城主森可成(よしなり)の三男。15歳で織田信長に仕え小姓(こしょう)となり、奏者(そうじゃ)や奉行(ぶぎょう)を勤めた。才気あり言語動作がりっぱだったので信長に寵愛(ちょうあい)された。1582年(天正10)3月武田氏滅亡ののち恵那(えな)郡岩村(いわむら)城を与えられたが、同年6月2日本能寺(ほんのうじ)の変で弟坊丸(ぼうまる)・力丸(りきまる)とともに信長に殉じた。18歳。墓は京都阿弥陀(あみだ)寺にある。信長の切った爪(つめ)が一指分足りないと捜した話など、奉公ぶりを称賛された逸話が多い。兄長可(ながよし)は84年長久手(ながくて)の戦いで戦死(27歳)、末弟忠政(ただまさ)はのち美作(みまさか)(岡山県)津山(つやま)藩祖となった。
森蘭丸(もりらんまる)とは – コトバンク
本多作左衛門 2017/9/28(木)追加
没年:慶長1.7.26(1596.8.19)
生年:享禄2(1529)
戦国・安土桃山時代の武将。通称八蔵,作十郎といったが,作左衛門の名が有名。剛毅な性格とふるまいから「鬼作左」と恐れられたという。松平氏譜代の本多重正の子で7歳から松平清康,広忠に仕え,家康の重臣として,永禄8(1565)には三河三奉行のひとりとなった。天正3(1575)年の長篠の戦のとき,留守を預かる妻に宛てた「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」という手紙は短文の好例として有名である。のち石川数正出奔後,岡崎城を任されたが,そのとき豊臣秀吉の母大政所を冷遇したということで秀吉の咎めをうけ,家康の関東移封後は上総古井戸3000石に閉居された。
本多重次(ホンダシゲツグ)とは – コトバンク
鬼作左の由来
重次は気性が荒く、家康にも遠慮なく諫言した。また武勇に秀でており、三方ヶ原の戦いでは大敗した徳川軍の中で、自ら敵兵数十人に囲まれて絶体絶命に陥る中、敵兵の繰り出す槍をたぐって1騎を落馬させ、首をかき切ってその馬を奪って浜松城に逃げ込んだという逸話も伝わる
性格に関して新井白石は「重次は恐ろしげに見え、言いたい放題を言い、思慮のあるようではなく、奉行など務まる柄ではないように思えた。だが心正しく、しかも民を用いるのに配慮があり、訴訟をよく聞き事を明らかにした」と評価している。体格
片目に加え、片足や手指も創傷によって欠損していたと伝えられている。
本多重次 – Wikipedia
吉川元春 2017/9/27(水)追加
530-1586 戦国-織豊時代の武将。
享禄(きょうろく)3年生まれ。毛利元就(もとなり)の次男。吉川興経(おきつね)の養子となり天文(てんぶん)19年安芸(あき)(広島県)日野山城主。尼子氏を討つなど山陰で勢力を拡大,山陽で活躍した弟小早川隆景(こばやかわ-たかかげ)とともに毛利の両川(りょうせん)といわれ,毛利氏の中国地方制覇につくす。天正(てんしょう)14年11月15日九州攻めの際,豊前(ぶぜん)小倉城(福岡県)内で病死。57歳。
【格言など】智少なく勇のみある者は,単騎の役にして大将の器にあらず
吉川元春(きっかわ もとはる)とは – コトバンク
織田信雄 2017/9/26(火)追加
1558‐1630(永禄1‐寛永7)
安土桃山・江戸初期の武将。〈のぶお〉とも読む。信長の次子。幼名茶箋丸,のち三介。法名常真。伊勢国司北畠具房の養子となり名を具豊,さらに信意,信雄と改めた。本能寺の変後,清須城を中心に尾張,伊賀,南伊勢を領した。1583年(天正11)羽柴(豊臣)秀吉と絶ち徳川家康と結んで小牧・長久手に戦うが,講和する。小田原征伐後,領地のことで秀吉の怒りに触れ下野烏山に配流されるが,のちにゆるされる。関ヶ原の戦,大坂の陣では家康につき,戦後,大和国宇陀郡ほかで5万石を与えられた。
織田信雄(おだ のぶお(のぶかつ))とは – コトバンク
毛利勝永 2017/9/25(月)追加
?-1615 織豊-江戸時代前期の武将。
毛利勝信の子。関ケ原の戦いで西軍に属し,敗れて父とともに土佐高知藩主山内一豊(かずとよ)にあずけられる。慶長19年子の勝家と脱走して大坂城にはいり,20年5月8日夏の陣で落城のとき自殺。初名は吉政。
毛利勝永(もうり かつなが)とは – コトバンク
大坂の陣が近いと伝え聞いた毛利勝永は、ある日妻子に向かって「自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。しかし自分が大坂に味方すれば、残ったお前たちに難儀がかかるだろう」と嘆息し涙を流した。これを聞いた妻は「君の御為の働き、家の名誉です。残る者が心配ならば、わたくしたちはこの島の波に沈み一命を絶ちましょう」といって勝永を励ました。勝永は喜んで一計を案じ、子・勝家とともに大坂城へ馳せ参じた。のちにこれを聞いた家康は「丈夫の志のある者は、みな、斯くの如しである。彼の妻子を宥恕し、罰してはならない。」と命じ、勝永の妻と次男の太郎兵衛は城内へ招かれ保護されたという。
毛利勝永 – Wikipedia
北条高広 2017/9/24(日)追加
読みは「きたじょう」である。
戦国-織豊時代の武将。
越後(えちご)(新潟県)刈羽郡北条の領主。上杉謙信配下の上野(こうずけ)(群馬県)厩橋(うまやばし)城主として,18年間謙信の関東経略につくす。謙信の死後は厩橋領に土着して,武田勝頼(かつより),滝川一益(かずます),北条氏直(ほうじょう-うじなお)と主をかえた。天正(てんしょう)15年(1587)までは生存したことが確認されている。本姓は毛利。法名は芳林。
北条高広(きたじょう たかひろ)とは – コトバンク
上杉景勝 2017/9/23(土)追加
[生]弘治1(1555)
[没]元和9(1623).3.2. 米沢
安土桃山,江戸時代初期の大名。初名は顕景,のち喜平次,弾正少弼と称する。父は長尾越前守政景。叔父上杉謙信の養子となる。謙信没後の天正6 (1578) 年景虎 (謙信の養子) を打倒して謙信の遺領を継承。同9年以後織田信長の攻撃を受けたが,本能寺の変後は豊臣秀吉に帰参。小田原征伐,朝鮮出兵に従う。文禄3 (94) 年従三位,中納言。大老の列に加わり,慶長3 (98) 年会津 120万石を領する。秀吉死後徳川家康と対立。関ヶ原の戦い後家康にくだり,米沢 30万石に減封。大坂の陣には徳川方に加わった。
上杉景勝(うえすぎかげかつ)とは – コトバンク
毛利良勝 2017/9/22(金)追加
毛利 良勝(もうり よしかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。
尾張国の出身というが、出自については不明。織田信長に馬廻として仕えた。小姓であったとする説もある。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは負傷した服部一忠を助け、今川義元の首を取り名を上げた。この際、指を噛み千切られたといわれる。桶狭間以後は諱を良勝と名乗り、通称は新介から新左衛門に改めた。
母衣衆が選抜されたときに黒母衣衆の一人に名を連ねた。
信長上洛後は、永禄12年(1569年)に大河内城攻めに参加したが、主に吏僚として活躍。信長の側近として尺限廻番衆(さくきわまわりばんしゅう)に属し、判物や書状に署名を残した。
天正10年(1582年)、甲州攻めでも信長に随行して4月の諏訪在陣で興福寺大乗院より贈品を受けている。
本能寺の変の際も信長に従って京に滞在しており、信長の長子信忠を守って二条御新造に籠り、信忠と共に奮戦の末に討死した。
毛利良勝 – Wikipedia
蒲生氏郷 2017/9/21(木)追加
[生]弘治2 (1556). 近江
[没]文禄4 (1595).2.7. 京都
安土桃山時代の武将。幼名鶴千代,初名賦秀,通称忠三郎,受洗名レオ。江州日野音羽城主で,もと佐々木氏に属し,のち織田信長に仕えた蒲生賢秀の子。若年で信長の人質となり,次いで豊臣秀吉に仕え,しばしば戦功をたて,天正12(1584)年,伊勢松ヶ島(→松阪市)12万石の城主となった。同 18年の小田原征伐の功として会津若松へ移封,42万石を領した。文禄2(1593)年,91万9300石に加増。同 4年,文禄の役に際し従軍中罹患して病没。茶を千利休に習い,文武両道に通じた名将と伝えられている。
蒲生氏郷(がもううじさと)とは – コトバンク
春日虎綱(香坂昌信) 2017/9/20(水)追加
1527-1578 戦国-織豊時代の武将。
大永(たいえい)7年生まれ。甲斐(かい)(山梨県)の武田信玄に近習としてつかえ,弘治(こうじ)2年信濃(しなの)(長野県)海津(かいづ)城代となる。川中島一帯を守備,上杉謙信との合戦で功をたてた。信濃の名族高坂(香坂)氏をつぎ,のち春日姓にもどった。天正(てんしょう)6年5月7日死去。52歳。別名に昌信など。通称は源五郎,弾正忠。
春日虎綱 – Wikipedia
一般的に「高坂昌信」の名前で知られるが、姓については「高坂」または「香坂」姓を用いたのは最も長くて弘治2年(1556年)から永禄9年(1566年)9月までの11年間である。この「高坂」または「香坂」姓は信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督を継承していることに由来する。香坂氏は武田領と反武田の北信濃国人・上杉謙信との境目に位置しつつ唯一武田側に属しており、虎綱が養子に入った背景にも香坂氏の川中島地域における政治・軍事的立場が考慮されたと考えられている。
春日虎綱 – Wikipedia
北条氏直 2017/9/19(火)追加
没年:天正19.11.4(1591.12.19)
生年:永禄5(1562)
安土桃山時代の武将。相模小田原城主。氏政と武田晴信(信玄)の娘の子。幼名は国王丸,通称新九郎。左 京大夫。斎号は見性斎。永禄12(1569)年5月,父氏政に身を寄せる今川氏真の養子となり,駿河国を譲られ,のち武田勝頼と駿河黄瀬川で対陣中の天正8(1580)年8月19日,氏政の家督を継いで5代目当主となる。同10年6月の本能寺の変の直後,織田信長の部将で関東管領であった滝川一益を上野厩橋城に攻め,関東から駆逐。さらに信濃小県・佐久地方を平定して甲斐に進出。武田氏旧領の支配を巡って徳川家康と争い,若神子で対陣した。同年10月,上野の領有と家康の娘督姫との婚姻を条件に講和を結び,翌11年8月督姫と結婚。同17年に名胡桃城奪取事件を起こし,翌年の豊臣秀吉による小田原攻めを招く。7月5日に降伏し高野山に追放されたが,翌19年2月に赦免され,1万石を与えられて大坂に移った。同地で死去。これにより嫡流は断絶。頼りにした岳父家康からも見捨てられている。
北条氏直(ほうじょう うじなお)とは – コトバンク
織田信忠 2017/9/18(月)追加
没年:天正10.6.2(1582.6.21)
生年:弘治3(1557)
安土桃山時代の武将。織田信長の長男。母は生駒氏。幼名奇妙丸,通称を菅九郎といった。元亀3(1572)年1月,岐阜城において元服し,7月,父に従って近江小谷城を攻めたのが初陣。天正3(1575)年,長篠の戦ののち,美濃岩村城を攻め,守将秋山信友を虜にした功により秋田城介に任じられた。翌4年,信長が安土城を築いてそこに移ると岐阜城主となり,美濃・尾張2カ国の支配をまかされている。同10年の武田勝頼討伐のときには先鋒の大将として甲斐に攻め入り,戦功をあげ,特に武田残党を匿った恵林寺を攻め,長老快川紹喜ら寺僧百五十余人を焼き殺したことは有名である。その後,豊臣秀吉を応援するため上洛し,妙覚寺に泊まったが,6月2日,本能寺が明智光秀軍に囲まれたことを知って救援に馳せつけようとしたとき,本能寺が焼け落ちたとの報を得て二条御所に入り,誠仁親王を逃がしたあと,同所で自刃した。
織田信忠(おだのぶただ)とは – コトバンク
平忠盛 2017/9/17(日)追加
[生]永長1(1096)
[没]仁平3(1153).1.15.
平安時代末期の武将。正盛の子,清盛の父。永久1 (1113) 年強盗を捕えた功で一躍従五位下に叙せられた。同年の永久の強訴にも父とともに活躍。大治4 (29) 年備前守であった忠盛は,山陽,南海道の海賊追捕を行なった。彼を任用した白河法皇が同年に没し,鳥羽上皇が院政を開始すると正四位下に叙せられ,武名と財力 (国守歴任,および宋との貿易による富) とを背景に,院と密接な関係を結んで昇殿を望んだ。長承1 (32) 年得長寿院造営の賞として待望の内裏昇殿が許され,平氏政権の基盤を築いた。
平忠盛(たいらのただもり)とは – コトバンク
北条時政 2017/9/16(土)追加
家系は桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の土豪出身という説もある。
1138‐1215(保延4‐建保3)
鎌倉幕府の初代執権。時方の子。母は伊豆掾伴為房の娘。伊豆国北条(現,静岡県韮山町)を本拠とする在庁官人で,北条四郎と称した。源頼朝が伊豆に流されていたとき,娘の北条政子が頼朝の妻となるのを許した。1180年(治承4)頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとこれを助け,まず伊豆の目代山木兼隆(やまきかねたか)を討った。しかし相模の石橋山の戦には敗れて安房に逃れた。ついで頼朝の命を受けて甲斐に赴き,同国の武田信義らを味方につけ,甲斐,信濃の源氏を伴って頼朝の本隊に合流し,駿河の富士川の戦で平維盛の東征軍を敗走させた。
北条時政(ほうじょうときまさ)とは – コトバンク
斎藤利三 2017/9/15(金)追加
戦国・安土桃山時代の武将。
明智光秀の家臣。
内蔵助。
生年は天文3(1534)年とも同7年ともいう。
利賢の子。
母は明智光秀の妹とも斎藤親順の娘ともいい,妻についても斎藤道三の娘,稲葉良通(一鉄)の娘あるいは姪など,諸説がある。
初め一鉄に仕えたが,やがて光秀に迎えられ,その家老として丹波に住す。天正10(1582)年,本能寺の変に従軍。
続く山崎合戦で秀吉に敗れ近江堅田に逃れるが,捕らえられ六条河原で斬首される。
その首は光秀の首と共に本能寺にさらされ,屍もともに粟田口で磔に処された。
なお,徳川3代将軍家光の乳母春日局は利三の娘である。
斎藤利三(さいとうとしみつ)とは – コトバンク
宇喜多直家 2017/9/14(木)追加
1529‐81(享禄2‐天正9)
戦国時代の武将。浮田とも書く。三郎右衛門,和泉守。先祖は備前邑久郡の豪族。はじめ備前守護代浦上氏の家臣。備前西部の雄族松田氏を滅ぼし,毛利氏と結んで,備前三村氏,美作三浦氏を討ち,浦上氏を滅ぼして備前,備中,美作に勢力を及ぼしたが,織田信長麾下(きか)の豊臣秀吉の中国進攻にともない秀吉に通じ毛利氏と交戦。岡山に城下町を建設した。死後,翌年まで喪を秘す。
宇喜多直家(うきた なおいえ)とは – コトバンク
古田織部 2017/9/13(水)追加
1544‐1615(天文13‐元和1)
桃山時代の武将であり,茶人として知られる。美濃に生まれ,通称を左介,名を重然といった。また景安,古左,古織とも称した。初め美濃の守護大名土岐氏に属していたが,織田信長の美濃平定の際父重定とともに信長に従った。播州攻略に活躍し,信長の死後は豊臣秀吉に属する。山崎の戦,賤ヶ岳の戦,紀州根来(ねごろ)攻め,四国征伐等に出陣し,1585年秀吉が関白に任ぜられると,織部も年来の戦功により従五位下織部正となり,山城国西ヶ岡に3万5000石の領地を与えられた。
古田織部(ふるた)とは – コトバンク
池田輝政 2017/9/12(火)追加
池田恒興の次男。
美濃池尻城主、同大垣城主、同岐阜城主、三河吉田城主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となる。
姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。
[生]永禄7(1564).12. 尾張,清洲
[没]慶長18(1613).1.25. 播磨,姫路
安土桃山時代の大名。
信輝 (恒興) の次男。
幼名は古新,のち三佐衛門と改名。
織田信長,豊臣秀吉に仕え,天正 12 (1584) 年小牧・長久手の戦いで父と兄を失って遺領 10万石を引継ぎ,美濃大垣城主となった。
同 18年小田原征伐,さらに奥州征伐に功を立て,三河吉田に移封,15万 2000石を領した。
のち慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いには東軍徳川家康方に従って,播磨国 52万石を与えられ,姫路城を築造。
同 17年松平氏を称することを許され,従三位,参議に叙任。秀吉,家康に信任され,世に姫路宰相百万石と称された。
池田輝政(いけだてるまさ)とは – コトバンク
最上義光 2017/9/11(月)追加
1546‐1614(天文15‐慶長19)
戦国~江戸初期の大名。出羽国山形城主。源五郎。右京大夫,出羽守,侍従,少将。父は山形城主最上義守。1558年(永禄1)元服,足利義輝の諱(いみな)の1字を賜り義光と名のる。71年(元亀2)家督を相続したが,父義守,弟中野義時と和せず,74年(天正2)伊達輝宗の干渉侵攻を結果した。翌年義時を殺害し,ついで上山,天童,東根などの一族を討滅し,81年真室城主鮭延秀綱,新庄城主日野左京亮を服属させ,84年谷地城主白鳥長久を謀殺,寒河江城主大江尭元を滅亡させて,最上・村山両郡を掌握した。
最上義光(もがみよしあき)とは – コトバンク





























