竹中重門 2017/12/18(月)追加
天正元年(1573年)、誕生。
父・重治の死後、従叔父(父の従弟)の竹中重利の後見を受けて、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕える。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐などに従軍する。天正16年(1588年)に従五位下丹後守、翌天正17年(1589年)には美濃国不破郡に5,000石を授けられた。文禄の役では名護屋城に駐屯し、慶長の役では軍目付として朝鮮へ渡海した。戦後、戦功によって河内国内に1,000石を加増される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初西軍に属して犬山城主・石川貞清を援助するが、井伊直政の仲介によって東軍に鞍替えする。そして他の主たる東軍の武将同様、みずからの居城である菩提山城を徳川家康に提供している。本戦では、幼なじみでもある黒田長政軍に合力して激戦地で奮戦し、さらに戦後まもない9月19日(10月25日)、伊吹山で、西軍の武将・小西行長を捕縛するなどの大功を挙げ、家康から直筆の感状を受けた。
竹中重門 – Wikipedia
足利直義 2017/12/16(土)追加
将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。
1306‐52(徳治1‐正平7∥文和1)
初期室町幕府の執政者,武将。足利尊氏の弟。父貞氏,母は尊氏と同じ上杉頼重の女清子。兵部大輔,左馬頭を経て相模守,左兵衛督となり,住宅のあった京都の地名から三条殿,錦小路禅門などと呼ばれた。元弘の乱当時にはすでに壮年に達していたが,鎌倉幕府の中枢に登用された形跡はない。1333年(元弘3)尊氏とともに北条氏に反旗を掲げ六波羅を攻撃した。建武政府成立後まもない同年12月,成良親王を奉じて鎌倉に入り関東10ヵ国を管領したが,これは新政府内で冷遇されていた足利氏にとって有力な地域的拠点となった。
足利直義(あしかが ただよし)とは – コトバンク
尊氏の幕府創設に協力し、実権を握ったが、尊氏の執事高師直こうのもろなおと対立、尊氏とも不和になり毒殺されたとの説がある。
武田信虎 2017/12/15(金)追加
1494-1574 戦国-織豊時代の武将。
明応3年1月6日生まれ。武田信縄(のぶつな)の長男。甲斐(かい)(山梨県)の守護。一族間の抗争をおさえ甲斐国内を統一,府中(甲府市)に城下町を建設,今川氏や北条氏などの近隣諸国へ侵攻した。天文(てんぶん)10年嫡子信玄により娘婿今川義元のもとへ追放され,放浪ののち天正(てんしょう)2年3月5日信濃(しなの)(長野県)高遠で没した。81歳。幼名は五郎。初名は信直。
武田信虎(たけだのぶとら)とは – コトバンク
松平広忠 2017/12/14(木)追加
没年:天文18.3.6(1549.4.3)
生年:大永6(1526)
戦国時代の武将。三河岡崎城主松平清康の子。母は青木貞景の娘。幼名千松丸および仙千代。通称は次郎三郎。「守山崩れ」で父清康が横死したときわずか10歳で,老臣阿部定吉に擁せられて伊勢,遠江に逃れ,天文6(1537)年,今川義元の支援で岡崎城への帰還を果たす。以後,今川方部将としての扱いをうけ,尾張の織田信秀による三河への侵略と戦うことになった。同10年,水野忠政の女於大と結婚し,翌年12月には竹千代(家康)が誕生した。同16年8月,義元の要請で家康を駿府に送ることになったとき,途中,田原城の戸田康光に奪われ,織田信秀の手に引き渡されてしまった。信秀は広忠に味方するよう迫ったが,広忠はそれを拒絶している。翌17年の小豆坂の戦で今川軍が織田軍を破り,状況は好転しはじめたが,その矢先,家臣の岩松八弥に殺された。24歳だった。
松平広忠(まつだいらひろただ)とは – コトバンク
長束正家 2017/12/13(水)追加
[生]?
[没]慶長5(1600).9.30. 近江,日野
安土桃山時代の大名。初め丹羽長秀に仕えたが,理財に長じているところから天正 13 (1585) 年に豊臣秀吉に召しかかえられた。同 17年の小田原征伐に際し兵站を担当。以後各地の検地奉行をつとめ,伏見城や肥前名護屋城などの工事を分担。文禄4 (95) 年近江水口5万石の城主となり,のち 12万石に加増。官位も大蔵少輔から従四位下侍従に進んだ。秀吉五奉行の一人となり財政を担当した。秀吉の没後,関ヶ原の戦いでは石田三成軍に属し,池田輝政に攻められて自決。
長束正家(なつか まさいえ)とは – コトバンク
小早川隆景 2017/12/12(火)追加
1533‐97(天文2‐慶長2)
安土桃山時代の武将。幼名徳寿丸,のち又四郎隆景と称す。毛利元就の三男。1544年(天文13)竹原小早川家,さらに50年沼田小早川家を継ぐ。兄吉川元春とともに毛利両川(りようせん)といわれ,宗家毛利氏(父の元就,兄の隆元,甥の輝元)をたすけて中国および四国・九州の一部を経略した。おもに山陽地域の統治を担当,三原を中心に瀬戸内海に強力な水軍を編成した。開明的な性格を有し,82年(天正10)豊臣秀吉来攻の際には,毛利氏外交の責任者として講和を進めた。
小早川隆景(こばやかわ たかかげ)とは – コトバンク
足利貞氏 2017/12/9(土)追加
没年:元徳3/元弘1.9.6(1331.10.8)
生年:文永10(1273)
鎌倉時代後期の武将。家時の子,尊氏,直義の父。妻は上杉清子。従五位下讃岐守。応長1(1311)年出家して,義観と称し,浄妙寺殿と号す。貞氏関係の文書は「倉持文書」に多い。貞氏が家督を継いだのは13世紀末ごろのこととみられ,貞氏の文書は永仁ごろ(1293~99)以後のものである。没年月日は『常楽記』によるが『尊卑分脈』では5日死去とある。
足利貞氏(あしかが さだうじ)とは – コトバンク
中村一氏 2017/12/8(金)追加
没年:慶長5.7.17(1600.8.25)
生年:生年不詳
安土桃山時代の武将。一政の子。通称は孫平次。豊臣秀吉子飼いの家臣のひとりで,天正1(1573)年,近江長浜の内で200石を与えられた。同12年,和泉岸和田城主となり,翌年,従五位下,式部少輔に叙任される。同年,近江・伊賀の内で6万石を与えられ,近江水口城主となる。同18年の小田原攻めのときには山中城攻めに参加し,戦後,駿府城主14万5000石となった。豊臣秀次付きの年寄衆のひとりだったが,秀次失脚事件の連座はまぬかれている。関ケ原の戦には東軍に属したところ,突如発病し死去。子一忠が代わって参陣した。
中村一氏(なかむら かずうじ)とは – コトバンク
堀尾吉晴 2017/12/7(木)追加
没年:慶長16.6.17(1611.7.26)
生年:天文12(1543)
安土桃山・江戸前期の武将。尾張丹羽郡の土豪堀尾泰晴(吉久)の長男。幼名仁王丸,通称を小太郎,茂助といった。名は吉定,吉直といったときもあり,可晴とも書いた。はじめ織田信長に仕えたが,早くに豊臣秀吉に仕え,天正1(1573)年,近江長浜のうちで100万石を与えられ,同13年には近江佐和山城主4万石となった。同15年の九州攻めののち,従五位下・帯刀先生に任じられ,同18年の小田原攻め後,遠江浜松城(12万石)に移った。秀吉の信任厚く,いわゆる三中老のひとりに任じられたが,秀吉死後の慶長4(1599)年,越前府中で5万石を与えられたとき家督を子忠氏に譲り,越前府中に隠居することになった。翌5年7月に新領地へ赴く途中,三河の池鯉鮒(知立市)で加賀井重望(秀望とも)に切られ傷つき,9月の関ケ原の戦には参戦できなかった。戦後,子忠氏が出雲に転封されたのに従い,忠氏早世後は孫忠晴を補佐し,松江城を築いている。
堀尾吉晴(ほりおよしはる)とは – コトバンク
秋田実季 2017/12/6(水)追加
江戸前期の常陸宍戸藩主。出羽秋田の秋田城介の子孫。愛季の子。幼名は安東太郎。天正18年(1590)豊臣秀吉に服し、関ヶ原の戦では徳川家康方に加わり、戦功を以て慶長7年(1602)宍戸藩五万石を与えられた。同10年秋田城介に任じられ、寛永8年(1631)致仕、のち伊勢の永松寺に蟄居する。薙髪して凍蚓と号した。万治2年(1659)歿、84才。
秋田実季(あきた さねすえ)とは – コトバンク
有馬晴信 2017/12/5(火)追加
[生]永禄10(1567).肥前
[没]慶長17(1612).5.6. 甲斐
安土桃山時代のキリシタン大名。義貞の次男。肥前有馬城主。鎮純,鎮貴,久貴,久賢,正純とも名のり,十郎,左衛門大夫,修理大夫とも称した。天正4 (1576) 年父の遺領を継ぎ,国原城,日野江城 (原城) 両城主。同7年,洗礼を受けてキリスト教徒となり (洗礼名ジョアン・プロタシオ) ,同 10年には大友義鎮,大村純忠らとともに天正遣欧使節をローマ教皇のもとに派遣した。同 15年,豊臣秀吉に従って九州平定に参加。また朝鮮の役 (→文禄・慶長の役 ) の際にも活躍して功があった。関ヶ原の戦いのときは徳川方に属し小西行長の領地を攻略している。慶長 14 (1609) 年長崎でポルトガル船『マードレ・デ・デウス』号の焼打ちに功を立てたが,同 17年鍋島氏領内の旧領回復をはかって本多正純の家臣岡本大八の甘言に陥って罪を得,甲斐に流罪のうえ,斬殺された。
有馬晴信(ありまはるのぶ)とは – コトバンク
毛利輝元 2017/12/4(月)追加
安土・桃山時代の中国地方の大名。隆元の子で、元就の孫。幼名は幸鶴丸、法名を宗瑞。父の急死によって家督を相続。織田信長と対立したが、備中高松城で羽柴秀吉と講和を結び、本願寺の変後は秀吉に属す。文禄・慶長の役に大将として出動。五大老の一人として重きをなした。関ヶ原の戦後、減封されたが一族家臣の協和につとめ、毛利家存続の礎を築いた。寛永2年(1625)歿、73才。
毛利輝元(もうり てるもと)とは – コトバンク
源為義 2017/12/3(日)追加
[生]嘉保3(1096)
[没]保元1(1156).7.30.
平安時代後期の武将。義親の子。祖父義家の養子となり,家督を継いだ。天仁2 (1109) 年朝命により源義綱を攻めて降伏出家させ,その功により左衛門尉に任じられた。その後京都警備にあたり,摂関家に臣従した。久安2 (46) 年検非違使になり,京都の六条堀川に住んだので六条判官と呼ばれた。久寿1 (54) 年子為朝の乱行によって解官され,家督を嫡子義朝に譲った。保元の乱に際して崇徳上皇から召されて白河殿を守ったが,子義朝や平清盛らの属した後白河天皇方に敗れた。東国に逃れようとして失敗,義朝を頼って降伏した。義朝は父の助命を朝廷に願ったが許されず,為義は斬罪に処せられた。
源為義(みなもとのためよし)とは – コトバンク
平正盛 2017/12/2(土)追加
白河上皇の院政に伊賀の所領を寄進するなどして重用され、検非違使・追捕使として諸国の盗賊を討伐するなどして活動した。
反乱を起こした源義親を討つ命令が父親の源義家に下るが、義家が死去したため、その後継者である義忠に義親討伐の命令が下る。しかし義忠は兄を討てないと躊躇したため、義忠の舅である正盛が代わりに討伐に向かい、天仁元年(1108年)に乱を鎮圧したとの知らせがもたらされた。その功績により但馬守に叙任。後、天永元年(1110年)丹後守、永久元年(1113年)備前守を勤めた。ただし、義親の討伐において、実際に義親を討つことに成功したのかは不明。この事件後も義親を名乗る人物が何度も登場し、史上に痕跡を残した。当時も勇猛な義親をそれほど武に優れているとは認知されていなかった正盛が討ったのかについて疑問があったことは中御門宗忠の日記『中右記』などにも記されている。保安元年(1120年)讃岐守。
平正盛 – Wikipedia
蜂須賀家政 2017/12/1(金)追加
1558-1639* 織豊-江戸時代前期の武将。
永禄(えいろく)元年生まれ。蜂須賀正勝の長男。天正(てんしょう)13年(1585)豊臣秀吉の四国攻めで軍功をたて阿波(あわ)徳島17万6000石を領した。関ケ原の戦いでは西軍に属したが出陣せず,長男至鎮(よししげ)を東軍につかせ,本領をたもった。徳島藩藩祖。寛永15年12月30日死去。81歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。幼名は小六。号は蓬庵(ほうあん)。
蜂須賀家政(はちすかいえまさ)とは – コトバンク
森長可 2017/11/30(木)追加
没年:天正12.4.9(1584.5.18)
生年:永禄1(1558)
安土桃山時代の武将。可成の次男。母は林通安の娘,妙向尼。勝蔵(勝三)。武蔵守と称した。美濃国(岐阜県)金山に生まれる。織田信長に仕え,天正2(1574)年長島一向一揆の鎮圧に従軍したのをはじめ,各地を歴戦。同10年の甲州征討の功により,信濃高井・水内・更科・埴科4郡を与えられる。その後,信濃海津に在城し越後の上杉景勝に備えたが,同年6月本能寺の変により撤収。本領の金山に帰り織田信孝に属すも,翌年これに背いて羽柴(豊臣)秀吉に仕え,同12年小牧・長久手の戦にも秀吉方として参加。同年徳川家康の本拠三河を攻めようとし,長久手で戦死。27歳。勇猛で鬼武蔵の異名をとった。
森長可(もりながよし)とは – コトバンク
兼松正吉 2017/11/29(水)追加
織田信長に仕え、桶狭間の戦いで初陣を飾る。最初は下級武士であったが、戦功を挙げて信長の馬廻衆として活躍。本能寺の変後は、尾張に戻り織田信雄に仕えて、小牧・長久手の戦いでも信雄に属して戦っている。信雄の没落後は、羽柴秀吉の黄母衣衆として活躍、豊臣秀次に一時属するが、秀次の死後は再び秀吉に仕え、秀吉の没後は徳川家康に仕えた。慶長5年(1600年)、会津征伐に家康に従い、西に転じて岐阜城攻め、関ヶ原の戦いに従軍した。戦後、家康の子の松平忠吉の与力となり2600石を知行。忠吉が早世したのち、徳川義直に仕え、尾張藩士となった。墓所は政秀寺。
兼松正吉 – Wikipedia
溝口秀勝 2017/11/28(火)追加
没年:慶長15.9.28(1610.11.13)
生年:天文17(1548)
越後国(新潟県)新発田藩初代藩主。勝政の長男。幼名竹丸。金右衛門尉定勝。尾張国中島郡溝口村(愛知県稲沢市)に生まれる。丹羽長秀に仕え,天正9(1581)年4月,織田信長より若狭国高浜城5000石を与えられる。同14年長秀の死後,羽柴(豊臣)秀吉の命で堀秀政の与力となる。翌年11月従五位下,伯耆守に任ぜられ,秀勝と改名。その後,秀吉のもとで歴戦に参加。慶長3(1598)年4月,秀政の子秀治の越後移封に伴い新発田城6万石を与えられる。同5年の関ケ原の戦では徳川方に属して,所領を安堵されている。
溝口秀勝(みぞぐち ひでかつ)とは – コトバンク
平高望 2017/11/26(日)追加
生年:生没年不詳
桓武天皇の孫高見王の子。寛平1(889)年に平朝臣の姓を賜って臣籍に下った,賜姓平氏。反乱を企てた民部卿宗章なるものを追討した功により,上総介(上総国は親王任国ゆえ実質上は守)に任じられたという。これを契機に京に帰らずに東国に土着して武士化したと考えられる。子の常陸大掾国香(貞盛の父),下総介良兼,鎮守府将軍良将(将門の父)らは東国諸国の国衙官人となって勢力をやしない武門平氏の基礎をきずいた。坂東八平氏や平氏の黄金期を作った平清盛の一流もこの系統から出ている。
平高望(タイラノタカモチ)とは – コトバンク
源経基 2017/11/25(土)追加
『保元物語』によれば、父は清和天皇の第 6皇子・貞純親王で、母は右大臣・源能有の娘。皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされるが、当時の文献には見られない。居館は六宮とも八条御所ともいう。
[生]延喜17(917)
[没]応和1(961).11.4.
平安時代中期の武将。清和源氏の祖。清和天皇の第6皇子貞純親王の長子。六孫王 (ろくそんおう) と称した。正四位上,右馬頭。平将門の乱に際し天慶3 (940) 年征夷副将軍となり,藤原純友の乱に追捕南海凶賊使次官となった。以後,各地の国守を歴任し,鎮守府将軍となり,応和1 (961) 年賜姓,源朝臣と称した。子孫は諸国に分れて有力な武士を多数輩出した。
源経基 – Wikipedia
金森長近 2017/11/24(金)追加
没年:慶長13.8.12(1608.9.20)
生年:大永4(1524)
安土桃山・江戸時代前期の武将。飛騨国高山藩(岐阜県)藩主。大畑定近の子。幼名五郎八。初め可近,のちに織田信長から諱の1字をもらい長近とし,剃髪して兵部卿法印素玄と号した。信長が加賀,越前を攻めた際これに従って活躍し,越前国大野郡に所領を得る。その後,豊臣秀吉の命で天正13(1585)年飛騨国を平定し,翌年同国をあてがわれる。同18年には高山の天神山古城に城を築く。慶長5(1600)年関ケ原の戦で軍功を立て,新たに美濃国上有知・関2万石,河内国金田3000石を得る。茶の湯,蹴鞠などに堪能で,茶は養子可重,さらにはその長男宗和に受け継がれ,宗和は茶の湯金森流の祖となった。古田織部との親交もみられ,この時代を代表する文化人のひとりといえよう。
金森長近(かなもりながちか)とは – コトバンク
塙直政(原田直政) 2017/11/23(木)追加
名字については『寛政重修諸家譜』などは「はなわ」と訓があるが、一次史料である『多聞院日記』は「ハン」、『言継卿記』は「伴」が当て字されているため、本項でも「ばん」とする。
没年:天正4.5.3(1576.5.30)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。塙右近大夫の子。通称九郎。左衛門尉,備中守。はじめ重友と名乗る。織田信長の重臣で,天正1(1573)年2月足利義昭が蜂起したとき松井友閑らと共に京都で和平交渉を行い,翌年5月には山城守護に任ぜられ槙嶋城(宇治市)城主となる。同3年3月には柴田勝家の跡を襲って大和多聞山城(奈良市)城主となり,大和守護をも兼ねた。この年末信長の命で原田と改姓。翌年4月より大坂の石山本願寺を包囲攻撃した。しかし5月3日,三津寺荘において門徒軍の砲撃にあい戦死。直政の山城大和守護就任は,信長が室町幕府の継承を明らかにしたことを証するものとして重要。
塙直政(はなわ・なおまさ)とは – コトバンク
北条綱成 2017/11/22(水)追加
相模国鎌倉郡玉縄城主。北条家の主力部隊五色備えの内、黄備え隊を率いた。綱成与力衆は組織上、玉縄衆とも呼ばれた。
1515-1587 戦国-織豊時代の武将。
永正(えいしょう)12年生まれ。今川氏家臣の父福島(くしま)正成の死後,北条氏をたよる。北条氏綱の娘婿となり,相模(さがみ)(神奈川県)玉縄城主となり,のち武蔵(むさし)河越(埼玉県)城主をかねる。武勇にすぐれ,北条軍団五色備(ごしきぞな)えの黄備えを担当,地黄八幡旗をひるがえして各地を転戦。天正(てんしょう)15年5月6日死去。73歳。幼名は勝千代。通称は左衛門大夫。
北条綱成(ほうじょう つなしげ)とは – コトバンク
斯波義銀 2017/11/20(月)追加
1540-1600 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)9年生まれ。斯波義統(よしむね)の子。天文23年父が尾張(おわり)守護代の織田広信に殺害されたあと,織田信長に擁立され,斯波家当主となり,清洲(きよす)城にはいる。のち三河の吉良(きら)氏,石橋氏とむすんで信長に敵対したため,尾張をおわれた。放浪のうちに慶長5年8月16日死去。61歳。
斯波義銀(しば よしかね)とは – コトバンク
河尻秀隆 2017/11/17(金)追加
没年:天正10.6(1582)
生年:大永7(1527)
戦国・安土桃山時代の武将。父は親重,母は織田信敏の娘。通称与兵衛。重遠,鎮吉とも称す。織田信長に仕えた。美濃攻略の諸戦,伊勢長島の一向一揆鎮圧などに功を立て,天正3(1575)年美濃国岩村城(岐阜県岩村町)の守備を命じられた。同10年の甲斐武田氏攻略では織田信忠の軍に属し,信長との連絡調整に当たった。戦後この功績により,穴山氏の所領を除く甲斐一国および信濃国諏訪郡を与えられ甲府に移るが,同年6月,本能寺の変以後の領国の混乱のなか,武田氏の旧臣により殺された。背後には追い落としを狙う徳川家康の策謀があったともいわれる。なお死没の日については15日,18日の両説がある。
河尻秀隆(かわじり ひでたか)とは – コトバンク
板倉勝重 2017/11/16(木)追加
[生]天文14(1545).三河,額田
[没]寛永1(1624).4.29. 京都
江戸時代初頭の幕臣。伊賀守。幼少の頃は僧であったが,肉親の戦死のため還俗して家を継いだ。天正 14 (1586) 年,徳川家康が駿府に入ってから駿府町奉行を命じられ,治績を認められて関東入部に際しては江戸町奉行になり,関東代官を兼ねた。また慶長6 (1601) 年には京都町奉行,さらに京都所司代に起用され,約 20年間その職をつとめた。裁判におけるその裁量にはみるべきものがあり,京都の人心を徳川氏にひきつけるのに役立った。その間,金地院崇伝とともに寺社関係の仕事も行い,家康の信頼は非常に高かった。同8年伊賀守,元和6 (20) 年辞職。
板倉勝重(いたくらかつしげ)とは – コトバンク
菅屋長頼 2017/11/15(水)追加
?-1582 織豊時代の武将。
織田信房の子。織田信長の側近。天正(てんしょう)2年(1574)東大寺正倉院御物の名香蘭奢待(らんじゃたい)の切り取りの奉行,7年安土(あづち)宗論(浄土宗と日蓮(にちれん)宗の論争)の監督などをつとめ,9年能登(のと)(石川県)七尾城代となる。10年6月2日本能寺の変のとき二条城で討ち死にした。通称は九右衛門。姓は菅谷ともかく。
菅屋長頼(すがや ながより)とは – コトバンク
九戸政実 2017/11/14(火)追加
没年:天正19(1591)
生年:生年不詳
戦国時代の武将。信仲の子,左近将監。南部氏の支族で陸奥国九戸地方を領有し,九戸城(岩手県二戸市)に居城。当時,南部家の統制はゆるく九戸家は同族の八戸家や津軽大浦氏と共に半独立状況にあった。しかも,南部家では晴政,晴継が相次いで死去したため,政実はそのあとを継ごうとしたが同族の石川家から信直が入嗣して南部家(三戸氏)の当主となり,両者は対立。天正19(1591)年3月政実は公然と信直に反乱(九戸の乱)。これに対し豊臣秀吉は浅野,蒲生各氏らを向かわせ,信直軍と九戸城を包囲した結果,9月に落城。政実は二本松の豊臣秀次の本陣に送られて斬首された。
九戸政実(くのへ まさざね)とは – コトバンク
可児才蔵 2017/11/13(月)追加
笹の才蔵
サムライたちが戦いの時に「背旗」の代わりに「笹」を指物として使ったと言われている可児才蔵のニックネームだ。
彼の本名は、可児吉長。
13歳のころ、斎藤龍興に仕えた後は、柴田勝家、明智光秀、前田利家、織田信孝、豊臣秀次、佐々成政、福島正則と渡り歩くこととなる。「関ヶ原の合戦」の時には、才蔵は福島正則軍の先鋒隊長をつとめ、もちろん、このときも「背旗」の代わりに「笹」を使用していた。
普通サムライたちは、敵の首をとったら、腰にぶら下げて戦いを続けるか自分の陣へ持ち帰るのだが、才蔵は、ここで必殺技の「笹」を使う。
とった首の切り口や耳の穴、鼻の穴、口の中に、目印として「笹」を入れておき、時間の無駄を省いて、すぐに次の敵へと挑むのだ。
そのおかげもあってか、才蔵は17の首をとり(実際には、22の首をとったが見つからなかったという話もある)、関ヶ原の合戦で一番、敵の首をとった武将となる。
関ヶ原で最も首を獲った男「笹の才蔵」 | SAMURAIファイル
宗義智 2017/11/12(日)追加
1568-1615 織豊-江戸時代前期の大名。
永禄(えいろく)11年生まれ。宗将盛(まさもり)の5男。天正(てんしょう)7年12歳で兄宗義純(よしずみ)の跡をつぎ対馬(つしま)(長崎県)の守護となる。宗義調(よししげ)が後見。16年守護に復帰していた義調の死により再任。豊臣秀吉の朝鮮出兵には小西行長軍の先陣をつとめた。戦後は,徳川家康の命により朝鮮との国交修復につとめ,慶長10年講和を成立させた。対馬府中藩主宗家初代。慶長20年1月3日死去。48歳。初名は昭景。通称は彦三。
宗義智(そうよしとし)とは – コトバンク































