新撰組の鉄の規則

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☆芹沢鴨一派☆
芹沢鴨
新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開いた。芹沢は平山五郎、平間重助、土方らと早めに角屋を出て壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。
大雨が降る深夜、突然数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に斬りつけた。驚いた芹沢は飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机につまづいて転び、そこを刺客たちがよってたかってずたずたに斬りつけた。
新見錦
新見は乱暴が甚だしく、法令を犯して芹沢、近藤の説得にも耳を貸さなかったという。新見は遊蕩に耽って隊務を怠り、隊費と称して民家から強請りを繰り返していたという。悪行の数々を握られて切腹せねば法度に照らして斬首すると詰め寄られ、遊蕩先の祇園新地の料亭山緒でついに切腹させられたという。
新見錦 – Wikipedia
野口健司
芹沢と平山は近藤派によって暗殺された。暗殺事件の夜、野口は角屋に残って難を逃れている。これ以前に新見も切腹させられており、事実上水戸派は壊滅した。野口だけは粛清されず、その後も幹部の一人として隊に残留したが、突然切腹を命じられ、安藤早太郎の介錯で切腹した。切腹の原因については明らかではないが、八木源之丞の後年の証言では「ささいなことで詰め腹を切らされたのではないか」とされている。
野口健司 – Wikipedia
平山五郎
島原の角屋で宴会をした芹沢、平山、平間重助は、夜中に屯所の八木家に帰った。平山は玄関で倒れて起き上がれないほど泥酔していた。八木家には各々の愛人が待っており、平山は桔梗屋の芸妓吉栄とかねてから馴染で、奥の十畳間で吉栄と同衾して寝入った。同じ部屋では屏風を置いて芹沢とその愛妾のお梅が寝ていた。深夜、数人の男たちが突然部屋に押し入り、芹沢と平山に斬り付け平山は起きる間もなく即死。芹沢やお梅も殺害されたが、平山と同衾していた吉栄は便所に行っていたため難を逃れている。刺客が立ち去り、八木家の人々が様子を見に行くと部屋は血の海で平山の首は胴から離れていた。
平山五郎 – Wikipedia
平間重助
複数の刺客による夜襲によって芹沢と平山らは惨殺される。惨殺後、騒ぎを聞きつけた平間が大声を上げながら屋内を駆け回る様を、八木家の親子によって目撃されている。一説によれば、刺客は試衛館派の土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助とする説がある。近藤と土方が駆けつけた際、平間はすでに逐電していた。同じく副長助勤の野口健司は同年12月に切腹しているため芹沢の同志の中では唯一の生き残りとなった。
平間重助 – Wikipedia
佐伯 又三郎
芹沢鴨の一派と行動をともにしていたが、京都嶋原で何者かの手で殺害された。
佐伯又三郎 – Wikipedia
☆御陵衛士☆
伊東甲子太郎
近江屋事件から3日後の慶応3年11月18日、伊東は近藤に呼ばれ妾宅にて接待を受ける。酔わされた伊東は、帰途にあった油小路の本光寺門前にて新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺された(油小路事件)。
伊東は「奸賊ばら」と叫んで絶命したと伝わる。酒に酔わせたうえでの暗殺を企んだのは、北辰一刀流の道場主であった伊東の剣技を警戒したためと思料される。伊東の遺体は路上に放置され、御陵衛士を誘い出す囮として使われた。
藤堂平助
永倉によると、近藤から「(藤堂は)まだ若い有為の材であるからできるだけ助けておきたい」との指示があり、平助が逃げられるように道をあけたが、事情を知らぬ隊士三浦常三郎に斬られたとされている。
鈴木三樹三郎
富山弥兵衛
油小路事件では現場を脱出し、薩摩藩に匿われた。のち、伏見街道で阿部十郎ら御陵衛士残党と共に近藤勇を襲撃した。
戊辰戦争では薩摩藩に属した。越後出雲崎にて会津藩の動向探索に従事したが、水戸諸生党に捕らえられ、一時は逃走したものの、失敗して殺害された。
富山弥兵衛 – Wikipedia
毛内有之助
伊東や三木三郎、篠原泰之進らと御陵衛士を拝命して新選組を脱退する。慶応3年(1867年)11月18日、伊東が新選組によって七条油小路にて暗殺されると、三木三郎ら総勢8人で遺体を引き取りに現場に赴き、待ち伏せしていた新選組によって藤堂平助、服部武雄と共にメッタ斬りにされて殺害された。
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清原清
新選組隊士の幕臣取立ての頃には離隊しており、御陵衛士として分離した伊東甲子太郎に合流した。その後、竹川直枝または、武川直江と改名。油小路事件の際には伊勢に出張しており難を逃れている。
清原清 – Wikipedia
田中寅蔵
伊東甲子太郎の御陵衛士に加わろうとするが拒絶され、本満寺に隠れるが見つかり、慶応3年4月15日切腹となった。
田中寅蔵 – Wikipedia
佐野七五三之助・中村 五郎・富川 十郎・茨木司
慶応3年(1867年)3月に伊東甲子太郎らが脱退して御陵衛士を結成した際には、組に残留した(伊東から密命を受けていたともされる)。同年6月、新選組の幕臣取立てに反発し、御陵衛士に合流しようとするが新選組との規定により叶わなかった。その後、京都守護職邸で近藤勇らと脱隊の話し合いをするがこれも叶わず、茨木司、佐野七五三之助、中村五郎と共に同所で自刃した
一説では、佐野は一旦蘇生し、検死にやってきた大石鍬次郎に斬りかかったといわれる。これは、一篇の古文書に書かれていたことが拡大したものとされている。また、切腹ではなく大石ら新選組よって惨殺されたともいわれ、佐野は大石に槍で腹を刺し抜かれたが、抜打ちで大石に手傷を負わせたといわれている。
佐野七五三之助 – Wikipedia
服部武雄
「就中服部氏の死状は最も物美事(もののみごと)である。‥‥手に両刀を握ったままで敵に向かって大の字なりになって斃れて居られた。‥‥其頭額前後左右より肩並びに左右腕腹共に満身二十余創流血淋漓死して後の顔色尚お活けるが如し」
☆暗殺☆
殿内義雄
殿内は近藤に憎まれていたとされ、自前の派閥を形成するために旅に出ようとする際、近藤らにしこたま酒を飲まされ、京都四条大橋にて闇討ちに遭い死去した。殿内は、旅姿で刀は袋にしまった状態であったという。これが壬生浪士組最初の粛清とされる。
殿内義雄 – Wikipedia
家里次郎
殿内と共に浪士組内の壬生村での残留者の取りまとめの責任者の役目を任される。その後主導権争いで殿内は暗殺、根岸友山も脱退し、孤立し出奔した家里は、大坂にいたところを芹沢に切腹させられた。
家里次郎 – Wikipedia
武田観柳斎
京都郊外の鴨川銭取橋にて暗殺された。武田の暗殺には斎藤や篠原泰之進が関与したと伝わるが、当時2人は御陵衛士に参加していたため、別人の可能性もある。翌日、加藤羆が武田に同心した咎により切腹させられ、27日には武田の「応意の者」として善応という僧が松原通で斬られた。
谷三十郎
佐々木愛次郎
楠小十郎
久留米藩・真木保臣の命で間者(スパイ)として入隊したとされる。前川邸の門前でぼんやりしていたところを近藤勇より命を受けた原田左之助に背後から斬りつけられ、水菜畑まで逃れるが倒れて死亡した
楠小十郎 – Wikipedia
荒木田左馬之助
長州藩の桂小五郎の命を受けて、スパイのため新選組へ入隊したといわれているが、真偽は不明。
永倉新八・中村金吾らを襲撃したが失敗し、翌26日屯所内で結髪中、林信太郎らによってスパイ容疑で斬殺された。
荒木田左馬之助 – Wikipedia
☆脱走・除隊☆
山南敬助
尊王攘夷論者として学識も高かった伊東甲子太郎が新選組に入隊。伊東のために山南よりも上席の参謀を新設して迎えるという破格の待遇だったが、これで山南は幹部としての立場を失っていくことになった。
山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませた。近藤と土方は直ちに沖田を追っ手として差し向けた。沖田に追いつかれた山南はそこで捕縛され、新選組屯所に連れ戻された。
元治2年(1865年)2月23日切腹。
馬詰柳太郎
沼尻小文吾
後に伍長を務め、慶応4年(1868年)1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いに参戦。負傷し大阪に撤退した後、江戸に帰還。まもなく脱走した。
市村辰之助
五兵衛新田屯集を最後に新選組を脱走
加藤羆
1867年6月10日の幕府召抱えでは平同士として名を連ねる。同年6月22日に武田観柳斎が暗殺されると、隊を脱走。翌日23日に屯所にて切腹させられたという
伊木八郎
幕府召抱えでは平同士として名を連ねるものの、同年の12月までに脱走したとされる。以降の消息は不明
柳田三二郎
知友の村田左衛門に隊内の機密情報を漏洩。これと関係したのか、同年6月以前に脱走した。
柳田三二郎 – Wikipedia
濱口鬼一
文久三年五月頃に入隊し、同月二十五日の「幕府提出上書署名者一覧」に名前を連ねる。同年の八月十八日の政変に参加。以後、池田屋事件までに脱走
濱口鬼一 – Wikipedia
蟻通七五三之進
池田屋事件の際に名がないことからそれ以前に脱走したと思われる
川島勝司
伍長に就任したが、人間が怯懦という理由で役職を外され、除隊された。生活に困った川島は、大坂で新選組の名を偽り金策し、それがもとで富山弥兵衛らに丸坊主にされた後、斬殺されたと伝わる。死体は二条河原に晒されたという。
川島勝司 (新撰組) – Wikipedia
酒井兵庫
慶応元年(1865年)7月頃に脱走。脱走の理由の諸説あり、酒井は会計方の仕事にある死体埋葬をしているうちに、恐ろしくなり脱走した説が有力とされている。のちに沖田総司らの手で斬殺されたともいわれる。
酒井兵庫 – Wikipedia
☆不祥事☆
浅野薫
浅野は失態を犯し、その後放逐され、最後は市中で金策を行ったため沖田総司に斬られたとされている。
阿部十郎によると、伊東甲子太郎らが新選組を離脱した慶応3年(1867年)3月頃、浅野はまだ新選組に残っており、その後新選組を脱走して御陵衛士に加わろうとしたが伊東甲子太郎に拒絶され、土佐へ逃げる手筈をしてもらう最中に、近藤を説得しようと屯所へ出向くところを沖田に斬られたという。
浅野薫 (新選組) – Wikipedia
松原忠司
河合耆三郎
近藤勇の妾の深雪太夫を身請けする費用の捻出が進まなかったためという説
深雪太夫ではなく、ほかの芸妓の身請け話が進められて、それが原因で経理ミスを起こしたという説。
近藤の度重なる女性関係の浪費に、隊費管理の責任者として難色や苦言を呈したために、排除対象人物とされ粛清されたという説。
何らかの理由で資金を流用していたためという説。
何らかの反乱工作を企てようとして露見したという説。
単に私用で使い込みをしたという説。
柴田彦三郎
一橋家家臣原口某と謀り、勝手に金策をした。人相書を用意した松本喜次郎や近藤芳助など4人の隊士に追われ出雲の宿で役人に捕まり屯所へ戻され、大勢の隊士の前で切腹した。
柴田彦三郎 – Wikipedia
佐野牧太郎
入隊からわずか3ヶ月後、京都市中の商家から金を脅し取ったことが露見して斬罪に処された。
新撰組隊士列伝:佐野牧太郎 ゼリアの雑談室
石川三郎
石川三郎は同じく新入りの施山多喜人とともに町家の婦女と密通した廉で糾弾され、隊規(「士道に背くこと」と思われる)に抵触したとして切腹させられた。
新撰組隊士列伝:石川三郎 ゼリアの雑談室
☆切腹☆
吉村貫一郎
葛山武八郎
局長近藤勇の家臣ではないとして、近藤の非行・増長を5箇条に纏めた建白書を隊長の永倉新八、原田左之助、斎藤一、伍長の島田魁、諸士調役の尾関雅次郎らとともに綴り会津藩に提出。その後、容保の取り計らいにより近藤との和解となったが、葛山は切腹をした。これは、葛山が最後まで頑強に抗議したための憤死とも、反発への見せしめのために血の気の多く首脳陣に怖じない葛山に責任を負わせて手打ちにしたともいわれている。
葛山武八郎 – Wikipedia
田内知
八条村に女を囲っていたが、女は他の男と浮気しており、ある日に押し入れに隠れていた間男に斬りつけられ両足を負傷し、女にも男にも逃げられてしまう。田内は大声で近所に助けを求め、他の隊士によって駕籠で屯所まで運ばれたが、その不甲斐ない行動が士道不覚悟とされて、即日切腹したという。
田内知 – Wikipedia
加納惣三郎
島原通いにはまる。輪違屋の錦木太夫へ通い詰めて金欠に陥ったため、辻斬り強盗をするようになった。新選組より田代某という人物が、密かに加納処分役に任命されたが返り討ちとなる。加納は島原通いを続けていたが、ある日島原へ向かうため屯所の塀を飛び越えたところ、副長土方歳三らが待ちかまえており、即座に斬殺された。
加納惣三郎 – Wikipedia
















一.士道に背きまじきこと
二.局を脱するを許さず
三.勝手に金策いたしべからず
四.勝手に訴訟取り扱うべからず
五.私の闘争を許さず