☆服部武雄☆ 新選組最強の剣士
出生や新撰組入隊などの経緯は詳しく分かっていない。
写真や肖像画などもない。

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諸士調役兼監察・撃剣師範として新撰組の中でも指折りの強さを誇る。

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新選組に加盟し、元治元年10月の編成では尾形俊太郎の五番組に属す。慶応元年の春、諸士調役兼監察・撃剣師範。
慶応元年11月、近藤勇の長州出張に随行する。慶応2年9月、三条制札事件では、目付役として活躍する。
めずらしい二刀流の使い手。

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しかし事件は起こる。
油小路事件
新選組脱退。御陵衛士を結成。

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スパイとなって御陵衛士に参加していた斎藤一は近藤勇暗殺計画の陰謀を掴む。

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伊藤甲子太郎暗殺

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伊藤の遺体を奪い返す際、新選組から永倉、原田など多くの隊士が御陵衛士を囲む。

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出動隊士は17名から40~50名まで諸説あるが、出動した可能性のある隊士は、原田左之助、永倉新八、島田魁、大石鍬次郎、岸島芳太郎、横倉甚五郎、宮川信吉、松原幾太郎、相馬主計、三浦恒次郎、芝岡剛三、斎藤一ら。他の局長附も出動したと思われる。
油小路事件では、暗殺された伊東の屍骸を引き取りの際、全員の武装を主張したが受け入れられなかった。鈴木三樹三郎や加納鷲雄、富山弥兵衛、篠原泰之進らが逃走したが、只一人武装していた服部は、塀を背にして多勢の新選組を相手に最期まで孤軍奮闘している。
孤軍奮闘

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油小路で暗殺された伊東の遺体を引き取りに行きますが、御陵衛士側七名に対して、待ち伏せする新選組は約三十名。一人だけ着籠を身につけていた服部は仲間に道を作り敵を一手に引き受け、塀を背にして、三尺五寸という長めの刀と脇差の二刀を振るって最期まで孤軍奮闘。
容易に近づけない中、永倉新八の指示を受けた原田左之介の槍が、服部の刀の射程外から彼の腹を突き刺す、これが致命傷となり服部は死亡。身体を調べたところ、二十数か所にも及ぶ傷を負っていたが、死んでなおも生きているかのような顔色だったという。
享年36歳
斬り合いを実見した桑名藩士・小山正武は、のちにこう語っている。
「当時、新撰組多しといえども、剣術においては服部三郎兵衛氏によく敵するほどのものはいない。敵の伏兵大約四、五十人が前後左右から、たちまち起って攻撃してきたところが、服部両刀をふるい斬っつけ斬っつけやったが、服部三郎兵衛の勇猛なる剣術の妙手には、敵もみなおどろいてしもうたということを、当時、新撰組の一、二の人士から私がのちに確かに聞き得たるところである」「手に両刀を握ったままで敵に向かって大の字なりになって斃れて居られた。‥‥其頭額前後左右より肩並びに左右腕腹共に満身二十余創流血淋漓死して後の顔色尚お活けるが如し」
伊東甲子太郎暗殺を急く、土方歳三に近藤勇が、「服部君が怖いからな」。と嗜めたとも言われている。
以下の新選組最強と言われた隊士よりも実力は数段上!?
新撰組局長 近藤勇

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