生者が死者を裁く ーフォルモススとステファヌス7世、2人の教皇ー

ユミアンヌ
『法王フォルモススとステファヌス7世』
ジャン=ポール・ローランス作、1870年、ナント美術館蔵

椅子に座る人物を激しく糾弾する左側の人物。
しかし、椅子に座るのは煌びやかな服を着せられた骸骨。
この異様な裁判、9世紀おわりに実際に行われた「死体裁判」を題材にしたもの。

死体裁判(Cadaver trial)または死体会議(Cadaver synod, ラテン語: Synodus Horrenda)とは、教皇フォルモススがその死後にかけられたカトリック教会による裁判のことである。この裁判はフォルモススの後継者であるボニファティウス6世の後を継いだステファヌス7世が起こしたもので、897年1月にローマのラテラン教会で開かれた[1]。フォルモススの死体はこの裁判のために掘り起こされ、法廷に運び込まれた。彼の罪とされたのは、偽証および不正に教皇の地位に就いたことであった。裁判の最後にフォルモススは有罪を宣告され、遡及して彼の教皇位は無効とされた。
死体裁判 – Wikipedia

フォルモススとは?

ローマ出身とされる第111代教皇(在位 891~896)。登位前はポルトの司教枢機卿(→カーディナル)として,ブルガリアでの布教に努めた。891年10月,教皇ステファヌス5世(6世。在位 885~891)の後継者に選出された。西ローマの共同皇帝,グィード2世とランベルト父子と対立し,東フランク王アルヌルフ(在位 887~899)に助力を求めた。896年,西ローマ皇帝としてアルヌルフに戴冠したが,まもなくフォルモススは死去した。
フォルモススとは – コトバンク

ステファヌス7世とは?

ステファヌス7世(Stephanus VII、生年不詳 – 897年8月)は第113代ローマ教皇(在位:896年 – 897年)。

教皇フォルモススに恨みを抱いていたため、896年、フォルモススの遺体を掘り起こして遺体に教皇の衣服を着させ模擬裁判をかけた後、祝福を与える指を切り落とした上で遺体を川に流した。このことに反発した民衆は暴動を起こし、ステファヌス7世を捕らえ殺害した。
ステファヌス7世 (ローマ教皇) – Wikipedia

そもそものきっかけ、「教皇との不和」

フォルモススは、864年にポルト-サンタ・ルフィナの司教になった。このときの教皇はニコラウス1世であった。彼はブルガリア人に布教活動を行い、そこで司教となることを求められるほどの成功をおさめた。しかしブルガリアを監督することはフォルモススがすでに持つポルトの教区を離れることを意味するため、ニコラウス1世はそれを認めなかった。第2ニカイア公会議で定められたカノン第15条では、司教が他の教区を任じられて自分の教区を離れることが禁じられていたのである。
死体裁判 – Wikipedia

875年、シャルル2世が皇帝として即位した直後に、フォルモススは当時の教皇ヨハネス8世の動向を恐れてローマに急いだ。数か月後の876年、サンタ・マリア・ロタンダで教会会議が開かれ、ヨハネス8世によってフォルモススとその同僚たちの告発が行われた。それによると、フォルモススはブルガリア人を堕落させ「たがために、〔フォルモススが〕存命である限り〔彼らは〕ローマカトリックの教区からきた司教は誰だろうと受け入れはしないだろう」[3]。そしてフォルモススと仲間は共謀してヨハネス8世から教皇の地位を簒奪しようとしたばかりか、ついにはポルトの教区を見捨てて、国家と我らが愛すべきシャルル〔2世〕の救済[要検証 – ノート]」を妨げることをくわだてた、というのが彼らの罪状だった[4]。フォルモススたちは破門となった。
死体裁判 – Wikipedia

882年12月にヨハネス8世が没すると、フォルモススの災難も終わりを迎えた。彼はふたたびポルトの司教となり、891年10月6日に教皇に選出されるまでこの地を監督した[8]。しかしこのヨハネス8世との不和が、後の死体裁判における告発の根拠となった。
死体裁判 – Wikipedia

裁判の概要

教皇ステファヌス6世(7世。在位 896~897)のもと,フォルモススの遺体を教皇座に置き,形式上の裁判が行なわれた。
フォルモススとは – コトバンク

フォルモススは、教会法違反となる教区の移動、偽証、実際には平信徒であるのに司教の任務についたことで起訴された。
死体裁判 – Wikipedia

フォルモススは当然ながら弁明できないので、全ての嫌疑について有罪が言い渡され、
このあと死体は切り刻まれて川に投げ込まれます
怖い絵展日記⑤ 歴史は血塗られているよ。 | 神聖さばみそ帝国

祭服を脱がされて、首を切られ、祝福に使う右手の3本の指を切断されて、遺体をテヴェレ川に投げ込まれた。
怖い絵選6 フォルモススの審判 : Art & Bell by Tora

裁判のその後

死体裁判が生み出したおぞましい光景はローマの世論を反ステファヌスに傾けた。フォルモススの死体は、ティベレの川岸で洗われてから奇跡を起こし始めた、という噂も広まった。ついには民衆が蜂起したため、ステファヌスは退位を迫られただけでなく投獄されてしまった。彼は捕らえられたまま897年7月か8月に絞殺された。
死体裁判 – Wikipedia

第114代ローマ教皇・ロマヌス
ステファヌス7世が殺害されたのち、教皇となった人物。
フォルモススの名誉回復を行う。
第115代ローマ教皇・テオドルス2世
ロマヌスが在位わずか4ヶ月で没した後、教皇に選出。
ティベレ川から遺体を引き揚げ、再び埋葬する。
第116代ローマ教皇・ヨハネス9世
死体裁判の記録を破棄することを命じる。

897年12月、教皇テオドルス2世は死体会議を無効とするための会議を招集し、フォルモススの名誉回復を図るとともに、死体を川から引き揚げて法衣の姿でサン・ピエトロ大聖堂にあらためて埋葬するように命じた。898年にはヨハネス9世もまた死体裁判を無効化し、ローマとラヴェンナで2度の教会会議を開いて、テオドルス2世の開いた会議の結果を承認するとともに死体裁判の記録を廃棄することを命じた。死体裁判にかかわったかどで7人の枢機卿が破門され、今後は死者を裁判に召喚することが禁じられた。
死体裁判 – Wikipedia

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2019年09月08日