かつて渤海を滅亡させたという白頭山噴火と好太王碑にある高句麗 建国神話 始祖 鄒牟王

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近いうちに噴火の恐れがある白頭山 長白山

前回の渤海国を滅亡?させた大噴火

Fig. 1 Index map. Distributions of the Baitoushan-Tomakomai (B-Tm) ash and theTowada-A ash are after Machida and Arai (1992)
『高麗史節要』の該当部分

白頭山噴火と高句麗の始祖 鄒牟王

王臨津言曰我是皇天之子,母河伯女郎 ,鄒牟王。為我連葭 浮龜應聲即為連葭。浮龜然後造渡於沸流,穀忽本西城山上,而建 都焉永樂世位,因遣黃龍來下迎王,王於忽本東岡,黃龍負昇天
國岡上廣開土境平安好太王碑 – Wikisource

高句麗始祖 鄒牟王の昇天

広開土王碑文拓本

王、津に臨みて言ひて曰く、「我は是れ皇天の子、母は河伯の女郎、鄒牟王なり、我が為に葭を連ね、亀を浮ばしめよ」と。声に応じ、即ち為に葭を連ね、亀を浮べ、然る後に造渡せしむ。佛流谷の忽本の西に於て、山上に城づきて、都を建つ。世位を楽しまず。天、黄龍を遣はし、来下して王を迎えしむ。王、忽本の東岡に於て、龍首を履みて、天に昇る。
武田幸男『高句麗史と東アジア』 火山地震56朱蒙の神話と白頭山の噴火: 保立道久の研究雑記

「鄒牟と朱蒙」
広開土王の碑文には、建国は「鄒牟王」と記されているが、なぜか朱蒙の記載がない。
現代の漢語では、鄒牟は「zoumou=ゾウモウ」、朱蒙は「zhumeng=ジュモン」と発音が近似していないが、高句麗語と同じアルタイ諸言語に属す日本語では様子が異なる。
『新撰漢和辞典(三省堂・昭和33年版)』によれば、鄒は「シウ、シュ、スウ」、朱は「ス、シュ」、牟は「ボウ、ム」、蒙は「ボウ、モウ」と記されている。従って、共通の音を選べば、鄒牟も朱蒙も「シュボウ」と同音となる。
ツングース族の概要で述べたように、日本語は扶余語(または高句麗語)の系統に属し、朝鮮語と扶余語も同祖関係だとする学説からも、高句麗語との相関性は日本語のほうが漢語より高い。従って、高句麗語でも鄒牟と朱蒙は同音だったと思われる。衆解の別名もあるとするが、衆解は「zhong jie(ジョンジエ)」であり、鄒牟や朱蒙とは音が異なる。
広開土王の碑文に朱蒙の名がないのは、正式な諱が鄒牟だからではないかと思われる。
高句麗 建国神話 扶余・高句麗・百済

玄雲羃鶻嶺 不見山邐迤 有人數千許 斲木聲髣髴 王曰天爲我 築城於其趾. 忽然雲霧散 宮闕高류嵬.
<<七月 玄雲起鶻嶺 人不見其山 唯聞數千人聲以起土功 王曰 天爲我築城 七日 雲霧自散 城郭宮臺自然成 王拜皇天就居>>

在位十九年 升天不下莅
<<秋九月 王升天不下 時年四十 太子以所遺玉鞭 葬於龍山云云>>
동명왕편 [ 東明王篇 (舊三國史 東明王本記) – 東國李相國集 ]

<< >>が『舊三國史』からの引用

火山神話関係と考えられる史料の中で、もっとも注目したのは、『旧三国史、李奎報文集巻三』にでる高句麗の始祖、朱蒙の死去を伝える伝説であった。この神話は、朱蒙の死去のしばらく前、鶻嶺に山の様子が見えなくなるほどの黒雲が湧き起こり、数千人の人々が土木工事をしているような巨大な音が聞こえた。朱蒙は、これは天が自分のために作った城であると予言し、実際に、七日後、雲霧が晴れると、そこには城郭と宮台ができあがっていた。朱蒙は、そこ居を移し、しばらくして天に昇ったという。
もとより、この史料の成立年代はくだるが、噴火とともに朱蒙が死去したという伝説が存在したと解釈することは許されるだろう。そして、これも偶然の経過で、最近、広開土王碑文の最初の部分の鄒牟=朱蒙の伝説も、火山神話と解釈できると考えるにいたった
地震火山46白頭山の噴火と広開土王碑文: 保立道久の研究雑記

木村氏にうかがったところだと、『旧三国史、李奎報文集巻三』にでる「鶻嶺」という地名が何処を意味するかは説がないということであるが、広開土王碑文の「佛流谷」は、現在の中国遼寧省の桓仁にあたる。つまり、朝鮮半島根本の白頭山のそびえる長白山脈の南端の西である(中国側)。朱蒙神話の位置については李成市氏の充実した仕事があるが、ここに火山神話が存在することは自然であると思う。
火山地震56朱蒙の神話と白頭山の噴火: 保立道久の研究雑記

卵から産まれた高朱蒙

始祖 東明聖王 姓高氏 諱朱蒙 【一云鄒牟 一云衆解】
古代史獺祭 三国史記 巻第十三 高句麗本紀第一 始祖東明聖王 原文

王莽により高句驪侯が斬られたが…

“동명성왕 ‘주몽’ 실존 인물”

노태돈 서울대 교수‘漢書왕망전’인용 주장
“동명성왕 ‘주몽’ 실존 인물” 노태돈 서울대 교수‘漢書왕망전’인용 주장

州郡歸咎於高句驪侯騶。嚴尤奏言:「貉人犯法,不從騶起,正有它心,宜令州郡且尉安之。今猥被以大罪,恐其遂畔,夫餘之屬必有和者。匈奴未克,夫餘、穢貉復起,此大憂也。」莽不尉安,穢貉遂反,詔尤擊之。尤誘高句驪侯騶至而斬焉,傳首長安。莽大說,下書曰:「乃者,命遣猛將,共行天罰,誅滅虜知,分為十二部,或斷其右臂,或斬其左腋,或潰其胸腹,或紬其兩脅。今年刑在東方,誅貉之部先縱焉。捕斬虜騶,平定東域,虜知殄滅,在於漏刻。此乃天地群神、社稷、宗廟佑助之福,公卿、大夫、士民同心將率虓虎之力也。予甚嘉之。其更名高句驪為下句驪,佈告天下,令咸知焉。」
漢書/卷099中  卷九十九中 王莽傳第六十九中  – 维基文库,自由的图书馆

王莽初發高句麗兵以伐胡,不欲行,彊迫遣之,皆亡出塞為寇盜。遼西大尹田譚追撃之,為所殺。州郡縣歸咎于句麗侯騊 ,嚴尤奏言:「貊人犯法,罪不起于騊,且宜安慰。今猥被之大罪,恐其遂反。」莽不聽,詔尤撃之。尤誘期句麗侯騊至而斬之,傳送其首詣長安。莽大悅,布告天下,更名高句麗為下句麗。當此時為侯國,漢光武帝八年,高句麗王遣使朝貢,始見稱王
『三国志魏書』「東夷伝」高句麗伝

集安高句麗碑の鄒牟王

碑文中に「元王始祖鄒牟王」「太王」「先聖」の字句が現れており
集安高句麗碑の発見:中国江南の扉:So-netブログ

日本にも子孫?

16 902 右京 諸蕃 高麗 長背連 連   出自高麗国主鄒牟[一名朱蒙。]也 天国排開広庭天皇[謚欽明。]御世。率衆投化。美体大。其背巾長。仍賜名長背王   304
諸蕃高麗 新撰姓氏録 815年

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2016年10月22日