個々人は、目的であって、単なる手段ではない。各々の個人は、不可侵である。
個々人は、目的(ends)であって、単なる手段(means)ではない。それゆえ個人を、同意なく、他の目的達成のために犠牲にしたり利用したりすることは許されない。各々の個人は不可侵である(ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』48 頁; p.30-31)。
http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/shin-kokusai/philosophy/2013/shiryo0628.pdf
個人が自分のより大きな利益のために、コストを負担することはある。しかし、ある個人が、「社会全体の善」のために、あるいは他の人々の利益のために、犠牲を忍ぶというようなことは、許されない。
個人としてはわれわれは各々時によって、より大きな利益のため、またはより大きな害を避けるため、痛みや犠牲をあえて受けることがある。たとえば、後でもっとひどい目にあうことを避けるために歯医者に行き、その成果を求めて嫌な仕事をし、人によっては健康や美容の向上のために食事制限をし、老後の生活のために貯金をする人もいる。それぞれの場合、全体の善をより大きくするために、何らかのコストを負担するのである。しかし、同じように、「社会全体の善」(overall social good)のために、ある人びとが他の人びとにより多くの利益を与えるような何らかのコストを負担すべきだ、とは主張されない。それ自身の善のためにある犠牲を忍ぶというような、善を伴う社会的実体などというものは存在しない。存在するのは個々の人びと、彼ら自身の個々の命をもった、各々異なった個々の人びとのみである。これらの人びとのうちの一人を他の人びとの利益のために利用するということは、彼を利用すること、そして他に利益を与えることである(ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』51 頁参照; cf.p.32-33)。
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個人は、自分で正当な方法で獲得したものを保有する権利を持つ。また、保有する資格を持つ者の意思により譲渡されたものを保有する権利を持つ。このようにして配分されたものは、正義の原則にかなっている。
1.獲得の正義の原理に従って保有物を獲得する者は、その保有物に対する資格〔権原〕をもつ。
2.ある保有物に対する資格〔権原〕をもつ者から移転の原理に従ってその保有物を得る者は、その保有物に対する資格〔権原〕をもつ。
3. 1 と2 の(反復)適用の場合を除いて、保有物に対する資格〔権原〕をもつ者はいない。
〔この場合〕配分的正義の完全な原則は、単に次のように言うにすぎないであろう。すべての者が、ある配分の下で彼の所有している保有物に対して上記の意味で権原をもつならば、その配分は正しい(ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』255-256 頁; p.150-151)。
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正義の原則にかなっている配分は、多数の個々人の正当な獲得、交換、譲渡の決断の結果によるものであって、それ以外の機関や合議によるものではない。
中央の配分〔機関〕(central distribution)などというものはないのであり、すべての資源がいかに分け与えられるべきかを合議で決定しているような、それら資源を自由にする[支配する](control)資格〔権原〕をもった人またはグループなどはない。各人は自分の得るものを他者から得るのであり、その他者は〔それを〕何かと交換に、または贈り物として、彼に与えるのである。自由社会においては、諸々の人びとは異なった資源を自由に〔支配〕している。そして新たな保有物(holdings)は、人びとの随意的な交換と行為から生じる。全体の結果は、多数の個々の決断によって生まれたものであり、それら個々の決断は、それに関与している個々人が行う資格〔権原〕をもっているのである (ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』254 頁; p.149-150)。
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たとえば、ある人の道徳的価値とか必要とか、労働や功績に応じて分配を行うことが、正義にかなっている分配であるとする考えは、誤りである。なぜなら、個人の正当な権利が、犠牲にされるからである。
権原理論の性格を一層理解するために、ノージックは権原理論が否定する「パタン化された原理」について述べる。パタン化された原理とは、歴史的原理の下に含まれる下位分類である。その原理は、ある人の道徳的価値や必要、労働や功績に応じた分配のように、ある決まった型やパタンに従って分配を求めるものである。つまり、「〜に従って」分配しようとする原理である。ある分配が正義に適っているかどうかは、パタンをどれだけ満たしているかによる。こうして、分配的正義の理論の課題はその分配の型をどのようなものと定めるか、つまり「各人に〜に従って分配せよ」という命題の「〜」をいかにして埋めるかにあると考えられる。しかしこのように分配の問題だけを考えることは、生産と分配を別々の独立した論点として捉えていることになる。ノージックの観点からすると、これは間違っている。つまり、ノージックの観点、権原理論の観点からすれば、生産と分配は別々のものではない。
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/1440764/039_p117.pdf
したがって、強制的再配分や課税は、不正義である。なぜなら、自分の才能や能力、つまり自然資産によって得たものは、自分のものだからである。
こうした立場から、ノージックはいかなる強制的再分配や課税にも反対するのである。というのも、権原理論に従って保有物を有する者はその保有物に対して絶対的な権原が与えられ、彼以外のいかなる人もそれに対する権原を持たない。自分の才能や能力、つまり自然資産によって得たものは、自分のものである。これらを強制的再分配や課税によって、再分配しようとすることは所有権の侵害に当たる。それは人々から労働の成果を奪うことであり、タダ働きあるいは強制労働させることに等しいのである。
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以上のノージックの考えに対するロールズの考え:個人の才能や能力は、偶然によって個人にもたらされたものであり、それから得られた社会的・経済的便益は、社会に帰属し再分配の対象となる。
こうしたロールズに対する批判は、才能や能力といった自然資産が分配されていること対して、それから得られる便益を格差原理によって分配することが妥当なものと認められるかどうかに集約される。すなわち、偶然によって分配された自然資産に対して個人の権原を認めるかどうか、自然資産の位置付けを問題にする。ロールズは、自然資産を共通資産とみなし、各人の才能や能力から得られた便益(社会的・経済的便益)は、社会に帰属するものだとし、再分配の対象になるとする。それに対しノージックは、自分自身の身体の自由と私有財産に関する権利を絶対的に認めており、自然資産から得られた便益はその個人に帰属するものであるとしている。いかなる国家であっても、この権利を侵害することは許されないのである。ロールズとノージック、二人の議論は平行線を辿るのだろうか。
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久保田実生(1975-)
自動車を売り、巨額の富を得たヘンリー・フォードも、偉大なバスケットプレーヤーであったウィルト・チェンバレンも、偶然に分配された自然資産によって、便益を得たのである。そのような自然資産を持たず、または、別の時代・別の環境に生まれてきたなら、それらの便益を得ることは出来なかったであろう。まさにそうした自然の偶然性をロールズは格差原理によって是正しようとしたである。国家あるいは社会の基本構造という、分配を規定する正義の理論は、我々自身で創るものである。自然資産の分配という自然性に人為性を加えることで国家(社会)が成立する。我々自身で創る社会制度によって、我々がどのような社会に生き、どのような人生を送るかが決定されるであろう。
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久保田実生(1975-)


