真田幸村
真田幸村は父・昌幸がまだ武田信玄の家臣であったころ
甲斐国甲府にて生まれた
本名、真田信繁。次男
真田家
父は 武田信玄 に 「我が両目の如し」 と言われ
徳川家康 の 大軍 を少数の兵で完膚なきまでに撃破した戦国の名将 「真田 昌幸」
祖父は 武田信玄 の軍師的な存在として活躍した 「真田 幸隆」
「真田家」 は、戦国時代において正に最強とも言える家系だった
人質生活だった青年時代
当時17歳であった信繁は父・昌幸の命を受けて上杉家へと人質派遣されます
上杉家の軍師 「直江 兼続」 から兵法などを学んだ
そして約3年後に、上杉の人質から豊臣秀吉の人質へと移ったと言われています
昌幸のしたたかな生き残り戦略
なぜ青年時代の信繁は上杉、豊臣と2度の人質生活を経験しなければならなかったのでしょうか
当時の真田家は中小大名であり
うっかりしていると簡単に徳川や豊臣のような大大名に滅ぼされてしまう
そこで昌幸は上杉、北条、豊臣と従属する家を次々変えていきました
そのため、信繁は人質として身を委ねる必要があったのです
秀吉から気に入られていた
信繁は上杉から豊臣に移る際、隙を見て脱走したとされており
豊臣の人質時代には秀吉から気に入られ厚遇を受けていた
信繁の名の由来
「川中島の戦い」で散った信玄の弟・武田信繁
(信玄に匹敵する名将で兄をかばって戦死した)を敬慕して父がつけたもの
「長篠の合戦」
幸村が8歳の時、「長篠の合戦」で武田軍は敗北
この戦で父の2人の兄も討死した
1582年には「天目山の戦」で信玄の子・勝頼も自刃
これで主君の武田家は滅亡する
幸村の策
この戦の帰り、わずか300人で敗走する真田軍は北条軍4万と遭遇
15歳の幸村が
「父上、私に策があります」と昌幸に進言した
無地の旗に北条方の武将の紋(永楽通宝)を描くことだった
味方のフリをして逃れようというもの
そして夜襲を仕掛けた
真田軍は50人ずつ分かれ、6方向から襲撃して人数が多いように見せた
北条側は旗を見て自軍の武将が裏切ったと思い大騒ぎ
混乱に乗じて敵陣を突破した
六文銭
幸村の旗印は「六文銭」の紋
三途の川を渡る船賃は6文とされ
当時は棺の中に六文を入れていた
「真田隊はいつでも死ぬ覚悟が出来ている」
という気概を象徴した
関ヶ原の戦い」
秀吉 の死後、西軍・豊臣側 と 東軍・徳川側 が戦った 「関ヶ原の戦い」
父と共に西軍に味方
関ヶ原に向かう徳川軍の別働隊を 「上田城」 という城で迎撃して足止めした
流罪
東軍の勝利後、紀伊半島にある 「九度山」 というお寺に流罪となった
本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところだったが
信之とその舅である本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるにとどまった
徳川氏と豊臣氏の関係
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに
徳川氏と豊臣氏の関係が悪化
豊臣軍 の大将
徳川家 が 豊臣家 を潰そうとした時
大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り
九度山の信繁の元にも使者を派遣して黄金200枚、銀30貫を贈った
信繁は国許(上田)にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ
九度山を脱出して子の大助幸昌と共に大坂城に入った
豊臣家 の跡継ぎである 「豊臣 秀頼」 に招かれて、豊臣軍 の大将となる
大阪・冬の陣と真田丸
慶長19年(1614年)に開戦した大坂冬の陣
信繁は当初からの大坂城籠城案に真っ向から反対
京都市内を支配下に抑え、近江国瀬田まで積極的に討って出て
徳川家康率いる軍勢を迎え撃つよう主張した
結局、多数決で籠城に決まる
信繁は真っ先に豊臣秀吉が生前
築城の際に悩み込んだ大坂城の唯一の弱点であったとされる三の丸南側
玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き
「大阪・冬の陣」 で大阪城に攻め寄せる 徳川軍 を 「真田丸」 という出城で撃退
鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し、先鋒隊に大打撃を与えた
徳川勢はおびただしい死傷者を出して撤退に至った
大阪城 を落城の危機から救う
豊臣側 が善戦できたのは
まさに 真田幸村 などの浪人たちの活躍があったからこそだった
大阪冬の陣 真田丸攻防戦
大阪・夏の陣
半年後、さらに 徳川家 が攻めてきた 「大阪・夏の陣」
全身赤一色の軍勢を率いて、徳川家康 の本陣に真正面から突っ込む特攻作戦を敢行
破壊力は凄まじく、徳川家 の部隊は次々と撃破され 家康 の本陣も大混乱
3500の兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込んだ
一時は 家康 も切腹する覚悟を決めた程だった
しかし後一歩届かず、彼は戦いの中で討ち死にする
真田幸村はなぜ死を覚悟して突撃したのか?
「真田日本一の兵 古来これほどの人物は無し」
戦後、真田幸村 の武勇は敵味方の双方で絶賛され
「真田日本一の兵 古来これほどの人物は無し」 と称えられた
村正
家康 の本陣に突撃した時
「村正」 という名刀を振るって戦っていた
徳川家康 はこの刀を恐れ、後に 「村正帯刀禁止令」 を出す
日本中の村正を集めてそれを封印したという
「幸村」の名
実名においては「信繁」
夏の陣以後で、寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』がその初出と判明
時代が下るにつれ「幸村」の名が広まっており
江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や
兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正史においても「幸村」が採用されている
