上杉謙信女性説
上杉謙信について
昭和43年(1968年)に小説家八切止夫が提唱した越後国の戦国大名上杉謙信が実は女性であったのではないかとする仮説である。
上杉謙信女性説 – Wikipedia
女性説の根拠は以下のとおりです。
〔体調〕
上杉謙信は毎月、10日前後に原因不明の腹痛を発し、合戦中にも拘らず兵を引き部屋に篭もることがしばしばあったようである。
「松平記」という本によると、「北条軍が上杉領に侵攻してきた際に、6月11日から10日間ほど腹痛を訴え、出陣せずに城内にて子守をしていた」とある。
この、毎月10日前後に周期的に発生する腹痛が、月経のことではないかとされている。
〔死因〕
そして、上杉謙信は、更年期障害による婦人病の一種である「大虫」によって死んだと、松平忠明著の「当代記」には書かれている。
その裏づけとして、春日山城の厠で倒れた、その次期が3月9日であった、享年が49歳であるという点が挙げられている。
〔衣類〕
米沢藩が設立した上杉神社というものがある。
そこには、上杉謙信の衣類がいくつか保管されている。
これがまた、真っ赤なものや、パッチワークになっているものなど、男物とは到底思えない物ばかりである。
〔筆跡〕
また、彼の書いた書状などを見てみると、筆跡や表現、気の使い方が柔らかく繊細であり、女性的である。
そして、残されている彼宛の書状の中では、女性的な扱いを受けているものもある。
〔御神体〕
白山神社の御神体は基本的に男女一組であるが、越後の白山神社は馬に乗った女性である。
更に白山神社白山堂には女神像があり「毘」の旗を差し、春日山城と向かい合っている。
〔絵画〕
江戸時代以降の上杉謙信の肖像画は、髯面であるが、存命中に描かれた肖像画には髯が無く、ふっくらとした頬を持っている。
また、上杉謙信が描かせた木盃の絵があるが、杯や盃は女性をあらわす隠し言葉とされている。
〔スペインの報告書〕
スペインのゴンザレスという人物が、日本についての調査報告書を国王フェリペ2世に送ったが、その報告書の中で、上杉謙信のことを「景勝の伯母」と記載している。
因みに、景勝とは、上杉謙信の姉の子である。
〔趣味〕
源氏物語や伊勢物語などの恋愛物を好んで読んでいたとされる。
上洛した際にも、歌会などで見事な恋歌を読み、参加者を驚かせた。
〔女性との交流〕
他国主と会うときにその母や嫁らとの交流が相手本人以上に深かったのに、嫉妬された事もなく、かえって歓迎されている。
妻と仲良くされて、不倫を疑わない相手といえば…
故に、女性であった。
〔京の官女〕
上杉謙信は佐渡を始めとする金山銀山を多数所有する大金持ちであり、若く、勇猛名高かったが、京の官女が熱を上げたという記録がない。
京の貴族や将軍家の人達がたくさんの引き出物を貰って大喜びしている記録から、食事の箸の上げ下げまでさまざまな事が書かれているのにである。
京の官女が容貌や立振舞いに興味を持たない相手といえば…
故に、女性であった。
〔男性として語り継がれた理由〕
戦国時代には、女性の城主は珍しいことではなかったが、徳川家が幕府を開くと、武家諸法度が成立され、女性城主は一切認められなくなった。
とくに外様大名は、いちゃもんを付けられて減封される者が少なくなかった為、上杉家としても上杉謙信が女性という証拠になるものを処分し、男性にする必要があった。
〔その他〕
民衆の間では、「女だてらに、男もおよばぬ大力無双」と歌われていた。
上杉謙信が使用していた面頬ヒゲ付きの鎧が、戦国~江戸時代にかけて女性の嫁入り道具として流行した。
身の丈五尺二寸(約156㌢㍍)であるのに、「大柄」と表現されているのは、「女性にしては」ということである。
筆跡が女性的である。願文も女性的である。
墓相が女性である。(これは意味が分からん)
源義経=チンギス・ハーン(ジンギスカン)説
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殺されたのは実は替え玉で、本物の義経は衣川を脱出、 蝦夷(エゾ=つまり現在の北海道)まで逃れたのち、部下たちと共に大陸へと渡った。
大陸での義経は、自らをジンギスと名乗り、モンゴル民族を従え次々と諸国を征服、蒙古帝国を打ち建てた‥という事になる。
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・記録に残る義経の生まれた年は西暦1159年。
ジンギスカンの生まれた年は、ちゃんとした記録が残っていないため、はっきりしないが、学者の研究によると、1158年~1162年ごろらしい。
つまり、この二人がほぼ同時期に生まれている事は間違いない。
・義経が殺されたとされるのは(つまり歴史上から姿を消したのは)、西暦1189年。
ジンギスカンが初めて歴史上に登場してくるのが1193年~1194年ごろ。
この二人が同一人物だと仮定しても矛盾しない。
・水戸光圀(つまり水戸黄門)編纂の『大日本史』によると、当時からすでに、義経は衣川で死なず蝦夷へ逃れたという言い伝えがあった事がわかる。
また、義経の死に関しての疑問点も記されている。
・義経の首が鎌倉に届けられるのに、百三十里の距離を43日もかかっている。
年中で物の腐敗が一番早い6月後半から8月始めの暑さの中をである。
当然、首は腐敗していたはずで、検視官が見ても、その首が本物であるかどうかの判別など付くはずもなかった。
つまり、わざと首を腐らすために時間をかけて運んだと考えられる。
・東北地方から北海道までの特定のコース上(宮古→八戸→三厩→福山→日高)に、義経ゆかりの遺跡といわれるものがいくつも存在している。
衣川を脱出した義経一行がたどった経路だと考えられる。
・ジンギスカンは旧名をテムジンといった。
日本では偉い人を天神様というが、テムジンとは、日本語の天神(テンジン)がなまったものでは?
・源義経を音読みすればゲンギケイとなる。
それがなまってゲンギス→ジンギスとなったのでは? また、汗(カン)という称号も上(カミ)が変化したものと考えられる。
つまり、ゲンギケイカミ→ジンギスカン。
・蒙古史の中でも、伝説的なジンギスカンの前半生に関する部分に現れる挿話には、日本の源平合戦の各場面とそっくりな話がいくつも登場する。
・蒙古語は日本語と文法がほとんど同じで、言葉ごとに訳語をあてていけば、そのまま日本語になる。
また、食物、着物、相撲、巻狩りなど、蒙古人の風俗習慣は、日本の鎌倉時代の風習によく似ている。
・ジンギスカンは、その生涯を通じて「九」という数字にこだわった。
義経の別名は「九郎」である。
・ジンギスカンの孫、フビライの代になって、モンゴル帝国は完全に中国を征服。
国号を元とした。
この「元(ゲン)」という国号は、源氏の「源(ゲン)」に別の文字をあてたものと思われる。
・時代が下って、中国王朝の清(シン)の皇帝は、自らをジンギスカンの子孫と称した。
清の歴史書の中には、六代皇帝、 乾隆帝自身が筆をとって書き記した部分があるのだが、「私の姓は源といい、義経の末裔である。先祖は清和源氏から出ており、そのため、国号を清と定めた。」と記されているのだ。
つまり、中国の皇帝も源義経=ジンギスカン説を認めていた事になる。
南公坊天海=明智光秀説
光秀=天海説
明智光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れた後、敗走中、土民の竹槍で突かれて死んだとされていますが、実は死なずに落ちのび、生き残り、比叡山でしばらく過ごした後、南公坊天海として歴史の舞台に舞い戻ったという、非常に興味深い説であります。
光秀=天海説
1.光秀の木像と位牌のある慈眼寺の寺号と、天海の諡名が同じ「慈眼」であること
2.比叡山・松禅寺には、光秀寄進の石灯籠が現在でもあり、その寄進日は慶長20年(1615年)つまり光秀はすでに死んでしまってるはずの年代に寄進されていること。
3.日光東照宮の近くの中禅寺湖や華厳の滝が見える平らな場所を明知平といい、天海が命名している点。(天海本人は「明智の名を残すため」といっていたとか)
4.日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。
5.光秀の家老斎藤利三の娘於福(春日局)が天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけ、3代将軍徳川家光の乳母になったこと。
6.テレビ東京が特別番組で天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ていること。
出典:明智光秀ー謎多き人物と南光坊天海説 – Kyojiのよろずひとりごと
武将の男色関係の話
本では、男性同士による恋愛は衆道や男色と呼ばれ、鎌倉時代に端を発しているとされる。
初期の男色の世界は仏教界に広がっていた。
年上の僧と稚児と呼ばれる童子との精神的な恋愛であった。室町時代に入ると、その文化(?)が京の上流階級に広がっていく。
公家や将軍家などに受け入れられ、戦国期に入ると地方武士にまで広がっていった。
以後、西洋文化が爆発的に導入された明治まで、男色の文化は連綿と続いていった。
【歴史ミステリー】戦国武将の男色の凄まじさ – エキサイトニュース(1/3)
戦国武将に男色文化が根付いた要因
① 戦場には女性がおらず、性的な相手が男性しかいなかった。
② 男色は「風流の花」と呼ばれた崇高な趣味と捉えられていた。
③ 男色により出世のきっかけとなる。
【歴史ミステリー】戦国武将の男色の凄まじさ – エキサイトニュース(1/3)
上杉謙信 男色説
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・男色説その1
京都関白の娘である絶姫が男装した義経の舞を観せたことにより、絶姫に惹かれたという説がある。
この舞が終わって、義経に扮していたのが絶姫だとわかると、とたんに興味を失いさっさと帰った。
・男色説その2
謙信が30歳の時に、12歳から14歳までの少年親衛隊が誕生しました。
ここに美少年が多かったため男色家と言われるように
・男色説その3
謙信が可愛がっていた少年として「諏訪虎王丸」というのがいました。
虎王丸は父を武田信玄に殺され、姉を信玄の妾にされていました。
ある日信玄を殺そうとするが逆に捕まり、姉の助命によって助けられ僧侶となったのです。
で、寺を抜け出し、謙信を頼ってやってきた。
この虎王丸がすごい美少年だったので寵愛したらしいです。
織田信長 男色説
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・前田利家
ヤンキー時代のお相手。
個人的な疑問なんだけど、利家の方がでかくてごついから、相手としてはどうなの?状態。
ちなみに大きくなってから、家臣団の前で信長が利家に向かい、「おぬしはワシの秘蔵っ子だからのー」と言って、周囲をざわめかせた。
・森蘭丸
晩年の一番のお気に入り小姓。
信長のお気に入りグッズベスト3の一つとして選ばれた。
信長と蘭丸というカップルは超有名だけど、資料には手がついたというのは一言もないらしい。
・長谷川秀一
女性を呼ぶように「お竹」という名前で呼んでいた。
どうやら荒木村重と仲が悪かったらしく、村重が謀反したのもこやつが原因らしい。
ちなみに本能寺の変の時は徳川家康を案内する係りだったので、死を免れた。
で、のちに秀吉に仕えて城主まで上り詰めた。
・万見仙千代
戦国時代を代表する美少年。
絶世の美少年だったらしいが謎が多すぎ。
荒木村重と信長が仙千代を取り合ったという噂もある。
・黒母衣衆と赤母衣衆
信長の親衛隊のような部隊。
信長がチョイスした小姓たちがのちにこの部隊となった。
たぶんここにいたメンバーたちは、ほとんどが信長のお手つきかと思われます。
ちなみにメンバーの中で有名どころは、川尻秀隆・佐々成政・中川重政・前田利家。
男色を好んだと、はっきりと文献に残っている武将として特に知られているのが、武田信玄だ。
なんと信玄は20代の頃、恋人の春日源助に他の男と浮気をしたと疑われ、慌てて詫び状を出した。
「浮気をしたと誤解しているみたいだけど、手は出してないから。浮気心は起こったけど本当に潔白だよ。神仏に誓うから許して」(意訳)
という内容。
春日源助は高坂弾正昌信の初名だといわれているが、山本勘助では? という説もある。
大内義隆 男色説
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・お気に入りその1 陶晴賢
デート中のこと、どーやら晴賢が寝ちゃったそうです。
義隆は起こすのはカワイソーだなってことで、挨拶なしで帰り、歌を送ってあげました。
そんなラブラブな二人でしたが、義隆の寵愛は相良武任へとうつって行きました。
晴賢は武断派(戦い専門)で、相良武任は文治派(インテリ)でめちゃ仲が悪かった。
でもって、愛情も移っていったもんだから、晴賢ムカついてやっちゃいました!
そーです「下克上」しちゃいました。
義隆は寵愛しまくっていた晴隆にクーデターを起こされ、自害したのでした。
・お気に入りその2 小早川隆景
当時、毛利家は大内家の家臣みたいな家でした。
で、義隆が元就のとこに行った時、三男の徳寿丸にヒトメボレ!!これが小早川隆景であります。
でもって、めっちゃ寵愛し、元服の時に自分の「義隆」の「隆」をプレゼント!
肝心の隆景はというと、「大内家ってもう長くないと思うヨ」とお父さんの元就に言ったそうです。
・お気に入りその3 毛利隆元
毛利元就の長男・隆元も義隆のとこに人質に行ってた時に寵愛されました。
でもってこちらも「隆」の名前をもらいました。
隆景とちがうとこは、隆元のほうは案外義隆のことを気に入っていたようです。
ちなみにお父さんの元就は、長男・三男が寵愛されてることを苦々しく思っていたそーです。
・お気に入りその4 相良武任
義隆の運命を変えた人。
武任をあまりにも気に入ってしまったため、陶晴賢をはじめとする家臣からブーイングがあがりました。
でもって、とうとう陶晴賢にクーデターを起こされてしまうのであります。
・お気に入りその5 陶義清
陶晴賢のお兄ちゃん。
美少年だったので、義隆のお気に入りに。
で、夜のお相手をしておうちに帰ってきて、
「義隆ってさ、武人の気持ちがわかってないよ。はっきりいって馬鹿だよ。このままじゃ大内家は滅びるんじゃねーの」
と、みーんなに言いまくり。
こんなことベラベラみんなに喋って義隆ににらまれたら陶家の一大事!!ってことで、暗殺されてしまいました。
正宗の相手になったと記録に残っているのが、二代目片倉小十郎を名乗った片倉重長。
父の初代片倉小十郎は、正宗の傅役として幼い正宗の教育をし、政宗が家督を相続した後はその右腕として辣腕を振るい、豊臣秀吉に「日本三大陪臣のひとり」とまで呼ばれた有能な武将。
その嫡男である重長に政宗は手を付けていたのだ。
このふたりの逸話として伝わるのが、大坂の陣出陣前の出来事。重長にとっては病に臥している父に代わり出陣する大坂の陣が初陣となる。
片倉の名を汚さぬためにも、先鋒となることを望んだ。
出陣の準備に大忙しの政宗を廊下で捕まえ、先陣を賜ることを願い出た。
それを聞いた政宗は、重長に濃厚なキスをし、
「お前以外の者に誰が先陣をやらせるものか」
と涙を流しながら語ったという。
47歳の政宗と31歳の重政、立派なオトナ同士が人目もはばからずにキスをしたのである。
徳川家康は、男色にあまり興味を持たなかったとされているが、そんな家康が唯一愛した男が井伊直政であった。
直政といえば、徳川四天王のひとりで「鬼」とまで評された勇将。
井伊家はもともと今川家に属していたが、桶狭間合戦で直政の父が戦死。
一時は所領も没収されたが、嫡男の直政が家康に見出され小姓として仕えるようになる。
「容顔美麗にして、心優にやさしき」と記録が残るほどの美少年で、それまで男色にまったく興味のなかった家康がメロメロになってしまったほど。
その寵愛ぶりはすさまじく、直政は22歳になるまで、前髪を落とすことを許されなかった。
豊臣秀頼・出生のヒミツ
豊臣秀頼・出生のヒミツ: 今日は何の日?徒然日記
そもそもは、無類の女好きとして知られる豊臣秀吉・・・
あまりの激しさに正室のおねさんがグチをこぼし、主君の信長が慰めの手紙を送ったという有名な逸話も、ご存知の事と思います。
あの宣教師のルイス・フロイスも、著書『日本史』の中で、「宮殿を遊郭にしている」と、通説で言うところの15人の側室以外にも、一夜限りの相手としての多くの女性が、秀吉のもとに出入りしていた事を書き残しています。
しかし、そのいずれにも子供はいない・・・
そんな中で、淀殿だけが2回も出産・・・しかも、その時の秀吉はすでに50歳を過ぎた、当時としては、すっかり老人の部類に入る高齢ですし・・・
さらに、側室のうち、松の丸殿は前夫との間に子供がおり、加賀殿という女性も秀吉の死後に他家に嫁いで出産していますし、伊達政宗に下げ渡されたお種殿という人も、政宗との間に子供ができている・・・
当然の事ながら、おそらく、「秀吉のほうに子供を作る能力がなかったのだろう」と判断しますし、そうなると「その中で、淀殿だけが2度も妊娠するのはオカシイ」と、後世の誰しもが疑ってしまうわけです。
・・・で、もし、そうなら、
秀頼の本当の父親は誰なのか???
実は、後世だけではありません。
当時、すでに、そのウワサは囁かれていました。
毛利家に残る『萩藩閥閲録(ばつえつろく)』の中にも、朝鮮出兵の際に日本に連れて来られた姜沆(カンハン)の『睡陰看羊録(すいいんかんようろく)』にも、淀殿不倫の話が登場します。
その内容の真偽はともかく、少なくとも、周りでそんなウワサが囁かれているという事は確認できます。
・・・で、その不倫の相手として一番にあげられるのは・・・
淀殿の乳母・大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)の息子=大野治長(はるなが)です。
彼は、淀殿が生まれ育った故郷・近江ゆかりの人物ですし、後に秀頼の側近となって、あの大坂の陣では、中心人物となって采配を揮う人・・・
しかも・・・
小柄で「猿」や「禿ねずみ」に例えられた秀吉とは、その容姿がまったく似ていなかったとされる身長190cm・体重130kg(あくまで噂ですが…)の巨漢に成長した秀頼ですが、この大野治長は、まさに長身で色白のイケメンだったとの事で、その風貌のそっくりさから、ますます、ウワサがウワサを呼ぶ事に・・・
また、そこには、父だけでなく、母をも死に追いやった秀吉を、淀殿が怨んでいないはずはなく、近江ゆかりの人物の子供を、わが子として秀吉に抱かせる事で、その怨みを晴らしたなんて、昼ドラまがいのドロドロ感満載の裏テーマも相まって、今もなお、取りざたされる一大スキャンダルとなっているわけです。
治長のほかにも、あの関ヶ原を引き起こした石田三成や、歌舞伎役者の名古屋山三(さんざ)などの名前もあがってはいますが、治長の比じゃありません。











