2014年8月6日
Nippon.com@nippon_en

TheJournal.ie@thejournal_ie

Yahoo News@YahooNews

布施 祐仁@yujinfuse
city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0…
核兵器は決して存在してはならない「絶対悪」であると確信できます。その「絶対悪」による非人道的な脅しで国を守ることを止め、信頼と対話による新たな安全保障の仕組みづくりに全力で取り組んでください。
The Japan Times@japantimes
石川梵 Bon Ishikawa@bonlamafa

Greg Mitchell@GregMitch
グレッグ・ミッチェルさんはアメリカのジャーナリスト。米国政府による「核」の被害の隠蔽についての調査報道のお仕事もあります。

Tim Hitchens@UKAmbTim
Irish Embassy Japan@IrishEmbJapan

Irish Embassy Japan@IrishEmbJapan

jesper thomsen@JsegelckeT

https://twitter.com/JsegelckeT/status/496629223327428609
Prasanto K Roy@prasanto

そんな日にRTで流れてきた、1本のツイート
Wildfire_@Wildfire_v

URLをクリックすると、核兵器廃絶の呼びかけをしている団体だということはすぐに誰にでも確認できます。
しかし、この写真は「広島」ではなく「長崎」だし、この少年たちの写真に「助けなど来ない」なんてメッセージをかぶせる……? ちょっと意味わかんないです。
こういう「キャンペーン団体や抗議行動参加者の《善意》での無神経さ」というのは、しばしば見られるものです。
例えば今の「イスラエルはガザ地区への攻撃をやめろ」というキャンペーンでも、まったくの《善意》から、「こんなひどい目に合わされて、希望もつぶされて、身近な人たちを殺されて、理不尽な暴力のもとにおかれた人たちが、『自爆テロに走る』のもわかる」ということを述べる人がいます。
ハマス(に限らず、パレスチナの武装組織)が、民間人を標的として(←ここ重要。戦闘員の戦闘員に対する戦闘中の攻撃は「テロ」ではありません)「自爆テロ」をしていたのは、何年も前のことです。今の抗議行動でそれを持ち出す理由はかけらもない。
http://twitter.com/nofrills/status/496212688750395392
http://twitter.com/nofrills/status/496213789277044736
でも「ハマスといえば自爆テロ」みたいなことが刷り込まれている人たちは、それを引き合いに出さずにはいられないのでしょう。そこには(今というタイミングでそれを出すということに関して)《作為的な何か》はかけらもなく、単に「私は彼らに同情を禁じえない」という一種の「連帯」の表明があるのみ。
情報化した社会の個人は、多かれ少なかれそうだと思います。なぜなら情報はたくさんあるけど、個人はそうそう全部は追いきれていないので、最初に頭に入った「イメージ」に引きずられてしまうということは、珍しくないので。正直なところ私も、例えばエチオピアといえば何より「飢餓」が思い浮かびます(もう少し上の世代では「裸足の王者アベベ」だそうです)。子供のころに刷り込まれた記憶です。でも、それをいちいち「今」、引き合いに出そうとは思いません。同じようなバックグラウンドの人たちの多くは同じだろうと思います。けれども、例えば私が「飢餓撲滅」のキャンペーンをやってて、同世代の多くの人にアピールしたいと思ったら、まったくの《善意》で、「80年代のエチオピアの飢餓」のことを繰り返し語るかもしれません。それはきっと効果的なスローガンになるでしょう。でもそれは、現在のエチオピアの人々にとっては、「部外者が無神経に振舞っている」ことにほかならないのです。
何をするにせよ、そういう「誰かにとって無神経に思われるかもしれないこと」を完全になくすわけにはいかないのですが、ともあれ。
上記の核兵器廃絶団体のツイートが、被爆者の写真に「助けなど来ない」なんていうメッセージをかぶせていることは、私は非常に「無神経」だと思います。
しかしそれ以上に、「広島の日」に「長崎」の写真を使うのは、どうなのかと……。というわけで……。
nofrills@nofrills
(余談ながら、「Google検索でひっかからない」と相談される事例の多くで、検索結果を1ページか、せいぜい2ページしか見ていない。映画のスケジュールとか、冷蔵庫の残り野菜を使ったレシピとか、天気予報とかならそれでいいんだけど、「調べもの」をするつもりなら最低10ページは見ないと…)
nofrills@nofrills
Wildfire_@Wildfire_v
Google画像検索で見つけることのできた、長崎の方のブログ。このブログを知ることができたのは、思ってもいない幸運でした。すごい情報量。
私、この写真で背中に背負われている子供(弟)は顔をやけどしてしまっているんだと思っていたんです。そしておんぶしてるおにいちゃんは13歳~15歳くらいだろうと……どちらも違っていました。
モノクロでわかりにくいのですが、幼い弟の頭にはべっとりと血のりがこびりついています。誰もが「この男の子が重傷を負った時の出血だろう」と思うでしょう。
被爆直後の写真 「さまよえる兄弟」のこと : アトリエ隼 仕事日記
小さな子供の顔にあるのは、「やけど」ではなく、「血のり」でした。
写真の兄は井上教通さん(当時18歳)。背負われているのは弟の正喜さん(当時7歳)。
被爆直後の写真 「さまよえる兄弟」のこと : アトリエ隼 仕事日記
弟を背負っているおにいちゃんは、13歳でも15歳でもなく、18歳でした。
▼写真を撮影したのは、陸軍のカメラマン、山端庸介
現に写真を撮った山端庸介自身もメモに 「長崎駅付近8月10日朝7時頃。両親を見失った少年兄弟、弟の方は頭部の負傷による出血で、それも暑さのせいでヒカラビている。もちろん顔を洗う余裕とてないのであろう」 と書いています。しかし実はこの血のりの多くは、男の子の母親のものでした・・・
被爆直後の写真 「さまよえる兄弟」のこと : アトリエ隼 仕事日記
山端は陸軍のカメラマンとして、(「連合国の非道」をつまびらかにする)「被害」を記録するため、原爆投下翌日の8月10日に長崎に入りました。
山端は1945年7月、福岡県福岡市にある陸軍西部軍報道部に徴用され、8月6日に赴任したばかりだった。
8月9日、長崎への新型爆弾(原子爆弾)投下の一報を受け、軍の命令により同じ報道部員である作家の東潤、画家の山田栄二ら5人で長崎県長崎市に向う(彼に下された命は「対敵宣伝に役立つ、悲惨な状況を撮影する」ことだったという)。
8月10日午前3時ごろ、長崎市郊外の長崎本線道ノ尾駅に到着、その地点で列車は不通になっていたため、焦土と化した被災地を徒歩にて縦断し、大きな被害を免れた長崎市中心部の地区憲兵隊本部に赴いた。その後再び被災地にとって返し滞在14時間で爆心地周辺など100コマを越える写真を撮影した。
8月12日、フィルムを現像。当時、従軍作家だった同僚の火野葦平の勧めで写真の内容を上司に報告しなかったという。
終戦後、写真の一部が『毎日新聞』など掲載されるが、9月以降はGHQによるプレスコードにより、原爆に関するすべての報道が規制された。
山端庸介 – Wikipedia
※引用に際し、読みやすさを考えて改行を補った。
山端庸介については、以前作成したこのページでまとめています。詳細はそちらをご参照ください。
▼URLを紹介した「アトリエ隼」さんのブログに何が書かれているかを、@Wildfire_Vに少しだけ説明することにした。
nofrills@nofrills
nofrills@nofrills
nofrills@nofrills
nofrills@nofrills
この写真は、「イメージ写真 stock photo」ではないのです。
この写真に撮影されている少年2人は、「何十年も経ってからどこかの反核団体のポスターに使われる写真の子供」である以前に、それぞれ尊厳を有する人間です。
それぞれに名前があり、経験があり、思いがあった。それぞれの人生があった。「ポスターの子供たち poster children」ではない。私はそのことを明確に言語化して伝えるべきだと思ったのです。ただし名前は、Twitterの140字におさめるために、お兄ちゃんの井上教通(のりみち、と読むのだと思う)さんのしか書けませんでした。彼ら兄弟とお母さんがどこに住んでいて、なぜこの日長崎市にいたかも書けませんでした。(いずれも、「アトリエ隼」さんのブログにあります。)
http://hayabusa-3.dreamlog.jp/archives/51269056.html
nofrills@nofrills
「長崎」ではなく「広島」のハッシュタグをつけられて、そのうえで「助けなど来ない。われわれはこれをわれわれ自身でやらねばならない」という(悪いけど)独りよがりなスローガンを貼り付けられたこの兄弟の写真がTwitter上を流れているのを見るのは、快いものではありませんでした。といってもこれを見たときは私もまだ彼らの名前も年齢も知らなかったのだけど。(だから調べた。)
他者の被災の写真に、その人の被災を語る言葉ではなく、自分たちのスローガンを貼り付けることに、私は大いに違和感をおぼえます。しかも「助けなんかこない」なんて、あまりに無神経にすぎる。
スーダン南部で撮影された、「骨と皮の子供をじっと見つめるハゲワシ(かハゲタカ)」の写真は、「報道写真」だから許容された面が大きかったと思います(それでもあれを撮影した写真家は「写真なんか撮ってないで助けろよ」といった声においこまれて、最悪の選択をしたのですが)。もしあの写真に「飢餓撲滅」とか「野生の厳しさ」といったテーマでのスローガンが貼り付けられていたら。。。
あるいは、シリア内戦で政権側による兵糧攻めの対象となったヤルムーク難民キャンプにようやく国連の支援が入ったときの、通りをどこまでも埋め尽くす人々の写真が、「シリアで、人々は危機的状況にあります。ご支援を!」という呼びかけに使われていたら……。
(スーダン南部の写真の例は私の想像ですが、ヤルムーク難民キャンプのは実際に、うんざりするほど見ました。国連のUNRWAの写真で、UNRWAがキャンペーンに使っていたんです)
単に「活動家とはそりが合わない」ということかもしれません。それでも、彼らは誰かのポスターになるために苦難を強いられているのではない、ということは強調しておきたいし、そうしなければならないと思うのです。
純粋に《言葉》についてそういうことを感じることもままあるのですが(例えば「福島の子供たちはbeing trappedだ」などと書かれているのを見ると、正直、「え?」と思います。いや、言いたいことはわかるんですが、limited encouragement to move to other placeくらいで言えるんじゃないでしょうか)、やはり《写真+スローガン》で感じることがずっと多いです。
▼山端庸介の写真の著作権について。
nofrills@nofrills
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Wildfire_@Wildfire_v
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原爆投下直後の長崎を撮影した写真の「著作権」をめぐる議論について、2001年の長崎新聞の記事。端的に法解釈でいえば「長崎原爆の写真にはすでに著作権はない」(”写真が撮影された一九四五年も、写真が公表された五二年も、一八九九年に施行された旧著作権法の適用下にあり、旧法では写真の著作権は製作または発行後十年で切れた”)のですが……
長崎市のリストによると、長崎原爆の惨状の撮影者は、合わせて十数人。うち、旧陸軍の西部軍報道部カメラマンとして原爆投下翌日の一九四五年八月十日に撮影した故・山端庸介氏、原爆災害学術調査団に同行した日本映画社の撮影班で、同年十月に撮影した林重男氏(83)=東京=らには印象的な写真が多く、原爆の悲惨さ、破壊力を伝える記録として、見る人の胸に焼き付いて離れない。
忘れてならないのは、これらの写真家が貴重な写真ネガを、旧陸軍や連合国軍総司令部(GHQ)の手から守り抜き、適切に保管し続けたという事実である。山端氏の場合、終戦直後、軍が焼却処分のため、同報道部にネガ提出を命じた際、ひそかに保管。GHQのプレスコード(報道管制)が解除されるのを待って五二年、写真集「原爆の長崎」として出版。原爆の実相を初めて世に伝え、衝撃を与えた。
原爆・平和関連記事2001/09/0401
山端祥吾氏は「あの時、父が、言われるままにネガを提出していたら、全部、焼却されていた。写真を個人でも守り抜こうとする父の決意と努力があったからこそ、守ることができた。その功績の認識が、被爆写真を考える原点にあるべき」。
林重男氏も「当時の上司の写真家、木村伊兵衛が、押し掛けたGHQの兵隊と渡り合って、ネガ押収をまぬがれた。写真家個々人の情熱がなければ、被爆惨状写真が世に残ることはなかった」と語る。
……
それでも問題は残る。そもそも被爆惨状写真に著作権が存在するのかという点である。荒木正人氏は「この疑問は長い間、くすぶり続けてきた。いつか、きちんと議論して決着をつけるべきと考えていた」と話す。
原爆・平和関連記事2001/09/0401
著作権をめぐる議論について、山端祥吾氏は「そのような問題提起自体を、だれからも受けたことはない。疑問を抱くのなら、表立って、きちんと議論すべきではなかったか」と問い返す。
さらに、祥吾氏は「写真の価値は、ひとえに撮影した個人の能力で決まる。父、庸介はプロの写真家として独自のテーマ性を持って被爆の惨状を記録した。だからこそ、数多くの貴重な写真が残った。そうした写真の特質を考えれば、撮影者個人の権利を尊重するのは当然のことではないか」と強調する。
林重男氏は「四七年の会社解散の際、カメラマン全員が集まり、それぞれ自分の作品を持って別れた。その時、“著作権は君らのものだ”と言われた」と語る。「その後は、原爆写真を反核平和運動に役立てたい一心で、管理、活用に努めてきた」と言う。
原爆・平和関連記事2001/09/0401
(著作権に関してあれこれこじれまくった例といえば、ジェイムズ・ジョイスの例がありますね。)
▼「アトリエ隼」さんのブログをもっと読んでいきたい。
nofrills@nofrills
See also:
2003年に日本語化してオンラインにアップしたジョン・ピルジャーの記事です。冒頭に、原爆投下後の広島について「伝える」ということがいかに不可能だったかが端的にまとめられています。
2013年の広島原爆忌での「まとめ」。
こちらも昨年、2013年の、長崎の原爆忌。
作成: 2013年8月12日
作成: 2013年8月12日





