◆慰安婦問題の本質
従軍慰安婦の本質とは、
1.女性に対する暴力の組織化であり、重大な人権侵害
2.人種差別・民族差別
3.経済的階層差別
4.国際法違反行為であり、戦争犯罪
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 pp.231-233
また1.については、兵士が料金を払うという形式であったために、人権侵害に加担している事実を見えなくさせたと指摘しています。
女を知らない男は男ではない、あるいは生きている甲斐がないといった男性本位の論理が、国内や植民地では公娼制度を支え、戦地では軍慰安所制度を支えていたのである。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 pp.223-224
女性に対する差別意識が根底にあるという指摘。「慰安婦とされた女性は、将兵の性欲処理の道具としてしかみられておらず、その人権はおろか、人格さえ無視されていた」(同書p.222-223)。
問題解決のために必要なこと
1.従軍慰安婦に関する政府所管資料の全面公開と、すべての被害国の証人からのヒアリングによる真相解明
2.国際法違反行為・戦争犯罪を日本国家がおこなったことの承認と謝罪
3.責任者を処罰してこなかった責任の承認
4.被害者の更生(リハビリテーション)の実行
5.被害者の名誉回復と個人賠償
6.再発防止措置の実行
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 pp.234
6.は具体的には、「なにが過ちであったのかを明確にとらえ、過ちをくりかえさないための歴史教育・人権教育の実施、被害者を追悼するための記念碑の設置、史実をあきらかにするための資料センターの設置、歴史を記憶する記念館の設置、あるいはそれへの援助など」
◆河野談話 日本政府が認めたことと、3つの問題点
政府は軍や官憲の関与と慰安婦の徴集・使役での強制を認め、問題の本質が重大な人権侵害であったことを承認したことになる。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 pp.6-7
いわゆる「河野談話」で何を認めたかについて。
同じ日に発表された内閣官房内閣外政審議室「いわゆる従軍慰安婦問題について」という文書には、「慰安婦たちは戦地においては常時軍の管理下において軍と共に行動させられており、自由もない、痛ましい生活を強いられたことは明らかである」と明記されています。
しかし、この官房長官談話については、……慰安婦の徴集、軍慰安所制度の運用の主体は業者であるかのように読める余地を残している。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.7
他方で、政府は何を認めていないかについて。問題点その1。
前述の「いわゆる従軍慰安婦問題について」にある文言とは異なり、軍の関与は「間接」的だった場合があるとするニュアンスになっています。
「日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていた」として、中国人・台湾人や東南アジア・太平洋地域の住民についてほとんど言及していない。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.8
問題点その2。
「お詫びと反省の気持ち」を言明したにとどまっている。ことは国際法に違反し、戦争犯罪を犯したのではないかという問題のはずである。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.8
問題点その3。
「徹底した真相の解明、罪の承認と謝罪、賠償、再発防止措置などが当然言及されるべきであり、それが欠けている」という主張。「実際、日本政府は公式に謝罪したとはいえ、国と国との間の請求権は結着ずみとし、個人の補償はおこなえないという態度を変更していない」と。
◆参考資料: 河野談話
◆慰安所設置 4つの目的と結果
何より重要なのは、軍慰安所設置は軍人による強姦事件を防止するためだという論理である。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.17
一見「正論」に思えるかもしれませんが、強姦事件をなくすことはできず失敗におわったようです。「一方で性暴力を公認しておきながら、他方で強姦を防止するということは不可能であり、当然ながら、強姦事件を防止する本質的解決に結びつくはずもなかった。」(同書p.43)
日本軍は、性病の蔓延を防ぐために、民間の売春宿を利用させず、軍管理の慰安所をつくるのが適当と考えていたのである。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.48
ところが「軍慰安所を設置しても性病感染は防げなかった。それどころかむしろ軍慰安所の存在が性病を蔓延させているのではないか、との指摘もあった。」(同書p.50)以下がその理由のひとつ「慰安婦の性病検査は定期的におこなっても、将兵の性病検査はあまり厳密にはおこなわれなかった。」(同書p.55)
軍医たちはしばしば、健全な慰安・娯楽施設(音楽・映画・図書・スポーツ)が必要だと提言していた。…しかし、これはほとんど実現されなかった。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.53
戦場で劣悪な状況に置かれている兵士たちの不満を解消するべく「慰安」の提供が必要と考えられたようです。さまざまな娯楽の提案がなされながらも、酒と買春以外の方法はほとんど実現されませんでした。
地元の売春婦を通じて将兵から軍事上の機密が漏れるおそれが大きくなる。そこで、みずから慰安所をつくり、それを常時、監督・統制することが得策だと日本軍は考えた。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.55
ただじっさいには、「スパイ防止のためには、慰安婦は「邦人」(日本人・朝鮮人・台湾人)であることが望ましかった。だが、人数もたりないし、日本や朝鮮・台湾から女性たちを輸送してくるには、時間と手間がかかるので、てっとりばやく占領地の女性も徴集し」ていたようです。(同書p.56)
◆慰安所設置箇所と慰安婦の総数
軍慰安所の存在が確認されている地域は、つぎのとおり
中国、香港、マカオ、フランス領インドシナ、フィリピン、マレー、シンガポール、英領ボルネオ、オランダ領東インド、ビルマ、タイ、太平洋地域の東部ニューギニア地区、日本の沖縄諸島、小笠原諸島、北海道、千島列島、樺太。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.77
日本・アメリカ・オランダの公文書によって判明しているもの。ただし、「だが、以上にとどまらないことはあきらかである」とも著者は付言しています。なお、1994年2月時点でもっとも調査が進んでいた沖縄の場合、少なくとも、126ヶ所の軍慰安所が存在したことが当時指摘されていたようです。
慰安婦の総数は、下限は約5万、上限は約20万。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 pp.78-80
兵員数、兵員にたいする慰安婦動員の比率(たとえば、兵員50人あたりに慰安婦1人など)、交代率をもとにした推計値。
◆元慰安婦の証言
もちろん、50年もまえの出来事の階層なので、記憶違いがないとはいえない。実際、……証言内容が矛盾したり、年代などがあいまいだったりする。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 pp.86-87
元慰安婦へのヒアリングによる記録。その過程での困惑を語っています。「しかし、その証言は、記憶ちがいや、事実をかくしている場合をのぞけば、大変重要である。」「ここでは、様々な証言のうち、信頼性が高いと判断される証言を検討しながら、徴集の実態を再現してみよう。」(同書p.87)
慰安婦は「特殊看護婦」と呼ばれ、軍属扱いだった。契約は一年半で、働いたお金は四割が自分のもの、六割が海軍のものとなり、死ねば靖国神社にいれてもらえるといわれたという。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.89
日本人の元慰安婦による証言。彼女は当時18歳だったそう。
宋は、数え歳一六歳で、母のきめた男と結婚したが、いやでたまらなくて、トイレに行くふりをして逃げ出したという。大田(テジヨン)で数ヶ月子守などをしていたとき、「戦地へ行って御国のために働かないか」と、美しい身なりの朝鮮人女性に誘われた。慰安婦集めの周旋人である。どのような仕事なのかいう説明はなかった。平壌に連れて行かれ、そこで朝鮮人の男に売られた。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 pp.92-93
朝鮮人の元慰安婦の証言。「詐欺による勧誘・誘引の典型的な事例」とのこと。
彼女は勉強にあこがれていたので、朝鮮人の男から「勉強もできてお金も儲かる所に行かせてあげる」といわれて、承諾したのだった。村を出るときにトラックに乗ったが、村の人気のないところに止まっており、そばに村の派出所に勤務する日本人巡査が立っていたという記憶は重要である。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.94
朝鮮人の元慰安婦の証言。儒教道徳のもとでの女性差別(「彼女の父は「女が勉強すると狐になる」といって、…教科書を全部焼いてしまった」(同書p.94))に加え、日本では朝鮮人に義務教育制度を保障していなかったという背景があります。
「ハルコの家を出て自分の家に帰りかけました。まだいくらも歩かないうちに、軍服を着た日本人が私に近寄って来ました。彼は突然、私の腕を引っ張って、日本語で何か言いました。その頃は、巡査という言葉を聞くことさえ恐ろしい時代だったので、私は何も言えず彼に引っ張られるまま連れて行かれました。……連れていかれた先は、憲兵隊ではないかと思われます。」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.98
朝鮮からの暴力的連行のケース。
「さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、なかなかクーツ〔ズボン〕をぬがない。通訳と〔治安〕維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。見ると泣いている。部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。
次の姑娘(クーニャン)も同様でこっちも泣きたいくらいである。みんなもこんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.116-117
ある軍医の日記。1940年、湖北省薫市に近い揚子江沿岸の村でおこなわれた性病検査の様子。(溝部一人編『独山二』所収)
中国の元慰安婦の証言は、この本の出版当時ほとんど出ていないものの、元軍人の回想から当時の様子をうかがい知ることができます。
「保長や維持会長たちから、村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣くきたのであろうか?
なかには、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、戦に敗れると惨めなものである。検診している自分も楽しくてやっているのではない。こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が、念頭から離れない。」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.116-117
前掲の軍医の日記より。この引用にコメントして吉見氏は、「この軍医は「〔大隊長は〕保長や治安維持会長に諮って現地に於ける慰安婦の徴募を依頼した」が、「何ら強制的要請はなく、すべて彼らの自由的意思にまかせた」と回想している。しかし、軍からの要請は、地元の住民にとっては、ほとんど命令と同じではなかっただろうか」と述べています。
フィリピンでは、多くの元慰安婦が名乗り出ているが、……日本軍に対するゲリラ活動が活発であり、日本軍が住民を敵視していたフィリピンでは、とくに軍による暴力的な女性の連行が多かった
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 pp.124-125
◆徴集の経緯など
「この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに楽な仕事と新天地──シンガポール──における新生活という将来性であった。」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.96
捕虜となった慰安婦業者を尋問したアメリカ軍のアレックス依地(よりち)軍曹の報告より
私娼が慰安婦になる場合もなかったとはいえないが、多くはなかっただろう。なぜなら、その多くは性病にかかっていたからである。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.103
日本軍は当時、性病の蔓延を非常に警戒しており、「将兵が朝鮮人私娼と接触することを厳禁すると、宿舎に入る部隊に指示してい」た(同書p.103)。「慰安婦の多くはもともと売春婦だった」とする主張への疑義。
たとえ、本人が自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果なのだ。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.103
ここは吉見氏の主張のなかでも重要な論点のひとつでしょう。
「貸座敷という事実上の性的奴隷制度のもとで、そのような生き方しかできなくされたという点を重視しなければならない。その女性の前に労働者、専門職、自営業など自由な職業選択の道が開かれているとすれば、慰安婦となる道を選ぶ女性がいるはずはないからである。」(同書p.103)
「『軍』慰安婦急募」という募集広告は、女性の自由応募を示すものだろうか。……貧しい女性たちが新聞を読んでいたとは思えないので、広告の対象は女性たちを抱えている業者とみるべきだと思う。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.103-104
名古屋の高校教諭高橋信らが発見した新聞募集広告(『毎日新報』1944年10月27日・11月1日)から被害女性の自由意思を読みとる論者への反論箇所。
先に触れたとおり、日本の植民地支配、女性差別のもとで、彼女たちは十分な学校教育をうけられませんでした。1930年の朝鮮国政調査によれば、朝鮮人の識字率は男性で36%、女性はわずか8%とのこと(同書p.94。姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』が参照元)。「むしろ、新聞に広告がのせられたというこの事実から読み取るべきことは、総督府が慰安婦の送出を認めていたということであろう。」(同書p.104)
◆慰安婦の生活の様子
「部屋は個室になっていて、扉を開けると狭い土間がちょっとあるだけで、座が設けられていた。慰安婦はそこで生活をしているので、身の回りの品や家財道具が所狭しと置いてあった。そして、一様異様な臭いが、狭い部屋にしみついていた」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 pp.134-135
野砲兵第一一〇連隊副官の回想。1941年頃の中国石家荘の軍慰安所の部屋内部について。(佐藤寛二『赤いチューリップの兵隊』より)
「将校が部屋に入って来て、私を布で仕切った隣の部屋へ連れて行きました。……行くまいともがきましたが、力づくで引っぱられて隣の部屋に連れて行かれました。……服はみな引き裂かれてしまい、結局その将校に私は処女を奪われてしまったのです。その夜、私はその将校に二回も犯されました」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.141
1991年にただひとり本名で名乗り出た金学順(キムハクスン)が語った証言。トラックで軍慰安所に連れて行かれた最初の夜について。
「かねがねうわさには聞いていたピー屋だが、…白昼堂々立ち並んで順番を待つ者の鼻先へ、コトを済ませ、半袴〔半スボン〕の紐も締め終わらぬままつぎつぎ出てくる姿の生々しさ。はしゃぐわけでもなく、ある種の緊張の中に、コンベヤーシステム然と進行する儀式は、禁断の木の実を知らぬ私をたじろがせた」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.142
ベトナム・ナトランの軍慰安所の様子に関するある将校の証言。(南原幸夫『遥かなる仏印』より)
軍人でさえ動揺する慰安所で、「慰安婦がおそれをなすのは当然」であり、「刀をタタミにつき立てて性行為をする〔酔っぱらった〕軍人がたくさんいた」(同書pp.142-143)。なお、ピー屋=慰安所。
将兵は、通常、料金を支払っている。そのため兵士は、内地や植民地の公娼を買うのと同じような気分で軍慰安所に通っていた。しかし、慰安婦の境遇は、劣悪な状況にある娼妓よりもはるかに悪かった。また、このお金が慰安婦に渡るとは限らなかった
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.145
「多くの場合、衣装代・化粧品代など日用品が法外な値段で借金に繰り入れられ、四割の取り分のほとんどすべては借金返済にあてられた」(同書p.145)、また証言によれば、「料金を業者に渡したが、後で生産してもらえなかった者」(同書p.146)をはじめ、その多くが報酬を得ていなかったとのこと。
「彼女たちは大きな荷物を背負っていた。…中身は、ビルマ軍票の大きな札束であった。彼女たちは、それを、誰にも託せぬ自分だけの荷物にして、体をかがめ、重さに耐えて、地面をはうようにして運んでいた」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.147
ビルマ戦場の将兵の回想記にでてくる日本軍のあとを追って、山野をさまよう慰安婦の姿。(浜田芳久『ビルマ敗戦記』より)
「軍票を抱えさせられた女性たちは、日本の敗戦とともにそれが無価値となった」(同書p.148)、また貯金できた慰安婦たちは「戦後のインフレと新円切替で大損をしただけでなく、…植民地出身者は戦後は引き出せなかった」(同頁)
「それからは自棄糞である。…忙しい時は仰向けになって握飯を喰いながら、足を開いていると、兵隊さんは次々に来て、乗っては帰り、乗っては帰る。痛いとか何とかは通り越してしまって、下半身が痺れて全然、分からなくなる。起き上がるのもヤッとである」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.153
朝鮮人慰安婦の証言。(川崎正美『患者輸送第八十九小隊』より)
「肉体的な苦痛や精神的な苦しみから逃れるために、麻薬(モルヒネ)にたよるようになる慰安婦も少なくなかった」(同書pp.152-153)
多くの慰安婦が、軍慰安所の生活に絶望して自殺を図った。…絶望した軍人が、慰安婦に心中をせまることも少なくなかった。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 pp.157-158
「必死になって抵抗し、蹴ったり、引っかいたりしましたが、相手はあまりにも強すぎます。レイプされるわたしの目から涙がとめどなく流れてきました。まるでずっとこれが続くように思えました。……やっと男が部屋から出て行ったとき、わたしは全身震えていました。その辺にある服をまとい、体からすべての汚れと恥辱と傷を洗い流そうと、浴室に走りました。浴室には、他の少女たちもいました。みなショックで泣いていましたが、どうしてよいのかわからず、ただお互いに慰めあるだけでした。今起きたすべてを洗い落とすかのように、わたしたちはごしごし体を洗いました」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.180
オランダ人の元慰安婦ジャンヌ・オフェルネによる証言(オフェルネ「レイプされた女の叫び」より)
◆敗戦後の状況
降伏直後に起きた日本人の大きな心配のひとつは、日本に上陸してくる連合国軍兵士が大規模な強姦事件をおこすのではないか、ということだった。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.194
だが、何より問題なのは、「完全かつ大規模なる慰安娯楽施設(特に接待婦)の確立」を要望する者が多かったとのべていることであった。「米兵暴行」に対する憶測・流言が流れ、とくに「婦女子に此の要望多し」と報告されている。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.195
粟屋・川島高峰編『敗戦時全国治安情報』第五巻より。
「一部の女性を「人身御供」とすることで身の安全をはかろうとする発想であった」と著者は問題視しています。そのうえで、「このような発想に根拠を与えていたのは、何よりも日本政府の対連合国軍政策であった」「日本政府はみずから進んで連合国軍用の慰安所の設置を指示している。軍慰安所制度をもっていただけに動きはすばやかった」と指摘。
(連合国軍用慰安所の設定にあたって、)府県・警察の指導・援助を受けて、売春業者関係の他に、右翼が資金源として積極的に介入しているのが注目される。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.198
船舶振興会の笹川グループ、元大日本赤誠会岩手支部長の菱谷敏夫などが関わったことが明らかにされています。
連合国軍による強姦事件は、日本軍ほどひどくはなかったが、それでもかなり起きているから、決してゆえない心配ではなかった。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.199-200
神奈川県での最初の強姦事件は8月30日で、三件。強姦事件は9月末までに44件(うち未遂30件)に達した。
連合国軍幹部がみずから女性を要求した例があった。…日本人も連合国軍も、戦争中の従軍慰安婦制度を人権侵害問題として捉えるという意識が希薄なまま
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.201-202
各国軍隊の周辺でも、日本軍の慰安所にある程度まで類似した施設がつくられた。しかし、軍の中央が計画し、推進したという点で、イギリス軍やアメリカ軍と日本軍では、決定的に異なっていた。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.203-205
ただし、「他人が悪いことをやったから自分の悪行も許されるという論法はなりたたない」(同書p.202)ということを大前提にしていることに注意。
軍隊生活の嫌悪、批判精神、将校への軽蔑、総じて軍隊内秩序への反抗が生まれ、軍隊内犯罪、とくに対上官犯(上官に対する反抗)が増えていった。このようななかで、占領地の住民に対する不法行為を追及することは、「野暮だ」「大目に見よ」「厳格にすると逆効果だ」とする態度が生まれていった
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.209
日本軍の体質問題について。こうした背景が、性的慰安施設拡充への下地をつくっていました。
「婦女売買に関する国際条約」…には、これを植民地などには適用しなくてもよいとの規定があった。日本政府はこの規定を利用して、この条約を朝鮮・台湾などには適用しないこととしたのである。
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 pp.164-167
しかし、ICJ(国際司法裁判所)の見解では、「植民地などへの適用除外をみとめている1921年条約第14条の規定は、植民地などに残っている持参金・花嫁料の支払いなどの観光を直ちに一掃するわけにはいかないので挿入されたものであ」り、「朝鮮女性に加えられた処遇について、その責任を逃れるためにこの条文を適用することはできない」とされています。(同書p.169)
沖縄の渡嘉敷島に連行されたペ・ポンギは、故郷に帰る機会が与えられなかった。彼女は収容所を出たとき「だまされて日本軍に連れられて来て、知らん国に棄てられた」という思いにうちのめされたという
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.212
川田文子『赤瓦の家』より
送還計画からとりのこされ、本国に帰れなかった慰安婦も少なくなかったようです。
慰安婦にされたことによって女性たちは、戦後、後遺症・トラウマ(精神的外傷)に悩み、社会的差別に苦しまなければならなかった
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.213
戦後の病歴で目立つのは、慰安婦生活のために生じた性病・子宮疾患・子宮摘出・不妊などの身体の病気と、神経症・鬱病・言語障害などの心の病気。
「まだ社会は私たちを蔑んでいます。補償を受けても屈辱的なことなのに、補償も受けられなかったら、あまりにも悔しくて気のおさめようがありません。昔のことを考えると心臓がどきどきして体中がだるくなります」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.219
『証言』より
このような状況から、「みずからの過去を隠すことをやめ、名乗りでること自体が、精神的抑圧からの一定の解放につながることになった」(同書pp.218-219)というケースも少なくないそう。
◆当時の様子をうかがうことができる文書あれこれ
「満州へ来て、ことに承徳に来て、しみじみと娘子軍は実は文字の遊戯ではなく、実際に軍隊の一部であり、事実上の「軍」である事が分った。錦州の司令官から「女は必需品だから飛行機にのせるが」と云われた言葉を真に知ったのである。日本軍が進軍すると、幹部の第一に心配する事は、娘子軍の輸出である。ーー日本軍が支那婦人を冒さぬのは、娘子軍あればこそで、彼らは決して単なる淫売ではない!」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.21
皇漢医学中山研究所長 中山忠直「満蒙の旅(3)」より。
娘子軍(しょうしぐん)とは一般には娼妓の集団、とくに海外に出て行った娼妓の集団のこと。これは慰安婦が例外的なものでなく、まさに日本軍と切り離せないものとして存在させられていたことを示す文章とされる。
「それでも地方的には強姦の数は相当にあり、……内地では到底許されぬことが敵の女だから自由になるという考が非常に働いて居るために、支那娘を見たら憑かれた様にひきつけられていく。従って検挙された者こそ不幸なんで、蔭にはどれ程あるか解らぬと思う。……しかのみならず部隊長は兵の元気をつくるに却って必要とし、見て知らぬ振りに過したのさえあった位である。」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 pp.45-46
精神科医師、早尾乕雄軍医中尉「戦場に於ける特殊現象と其対策」項目「性欲と強姦」より。
「将校は率先して慰安所へ行き兵にも是をすすめ、慰安所は公用と定められた。心ある兵は慰安所の内容を知って軍当局を冷笑して居った位である。然るに、慰安所へ行けぬ位の兵は気違いだと罵った将校もあった。」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 pp.45-46
精神科医師、早尾乕雄軍医中尉「戦場に於ける特殊現象と其対策」項目「性欲と強姦」より。
「戦地での私たちが、欣喜雀躍、股間を押さえて女性のもとにすっ飛んだのは、何んといっても長い作戦から帰った直後の外出だったでしょう。彼女たちの屯する房に着くと、行列して順番を待つ兵士たちは、生死の境を通ってきた異常なまでの緊張感から解放されたい一心で、Mボタン〔ズボンのボタン〕を外し、鼠色になった越中〔ふんどし〕をちらつかせて、まだかまだかと気忙しく待っていたものです。……最高に燃えてこれほどの充実感はほかになかったように思いました。」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 pp.54-55
中国での慰安所体験について、ある兵士の回想。(衣第三〇四〇部隊記念事業実行委員会編『黄土』より)
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.72
戦後に首相となった中曽根康弘の回想記「二十三歳で三千人の総指揮官」に記されたもの。当時中曽根は、主計将校(中尉)として軍慰安所設営に関係していました。(松浦敬紀編『終わりなき海軍』より)
「慰安施設を数多く設けたるが、内地輸入のものは評判悪し。現地養成のもの評判良し」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.84
日本内地から送ったプロフェッショナルの芸娼妓の評判が悪く、占領地で徴集した売春婦ではない女性の方が軍人に人気があったということか、と著者は解釈しています。
1943年1月7日の課長会報で、倉本恩賞課長。陸軍省によってつくられた軍慰安所について。(「金原摘録」より)
「同伴せる芸妓四名中下記三名はいずれも二十一年未満にして、かつ店主の営業より考うるに、いずれも醜業を目的として渡来せるは極めて明白なるにも拘わらず、旭川警察署長発給の身分証明書を所持し居りたる為、余儀なく通過せしめたるが、他にも此れに類するもの、二、三ありたり。……本件事情一応御取調の上、何分の御回示相仰度(あいあおぎたし)。」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 pp.90
1938年5月12日、中国山海関の副領事佐々木高義から外務大臣への報告。(「支那渡航婦女の取扱に関する件」より)
未成年の売春を禁止した国際条約、および警察の制限により、日本内地からは二一歳以上の売春婦の中から集めることとする規定があったものの、実際には無視されていたことを示す文書。なお、このとき旭川から連れていかれた少女は満15歳、16歳、17歳だったとのこと。
「家郷を出発する送別宴の席上などで、既に戦地の務めを終えて帰郷した先輩たちから、中国戦線では良いことがあるぞと強姦を示唆されていたので、ついムラムラとその気がおきた」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.210
「戦時利得」として強姦をひそかに肯定する考え方。強姦事件をおこして起訴された複数の若い兵隊からは、同様の陳述内容が聞かれたとされています。(『岡村憲次大将資料』戦場回想編より)
「血気盛んな若者たちが、軍隊という非人間的な世界に呻吟(しんぎん)していたのだから、「太く短く」主義で、時折、性欲のはけ口をそこに求めたのは、やむをえないことである」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.210
慰安婦制度必要悪論 その1(草度寥太郎『征服の果て』より)
「戦場で「ものの用に立つ」働きをするためには、常に健全な肉体条件と猛りたつ精神とを併せ保つ必要がある。性欲の処理は肉体と精神の調和剤で、戦争の潤滑油である。軍部が慰安所を必需品としたのも、戦争担当者としては当然と言える」
従軍慰安婦 (岩波新書): 吉見 義明 p.211
慰安婦制度必要悪論 その2(直井正武『戦魂』より)
なお、著者は「もちろん、すべての将兵が軍慰安所に通ったわけではない。軍慰安所に行くことを軽蔑し、性病の感染を恐れて行かなかった者もすくなくなかった」としたうえで、「しかし、軍慰安所は必要悪だと考える将兵が多数派であったことは否定できないだろう」と述べています。
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