▼洪水によって破壊された都市 – バビロン – イラク
バビロンはメソポタミア地方の古代都市。
貿易の商工業の中心であり、物資集積場であった。紀元前600年代の新バビロニア王国時代になって、その首都となるとイシュタル門や、今でも謎を残す空中庭園などの建造物が作られ、オリエント有数の大都会として栄えた。しかし、新バビロニアがアケメネス朝ペルシア王国に滅ぼされ、ペルシャの一都市となってからはその重要性が低下。度重なる洪水などによって破壊され、やがては大都市の面影をとどめないさびしい土地となってしまった。(wikipedia)
▼度重なる進行んにより放棄された都市 – アンコール遺跡 – カンボジア
アンコール遺跡群は現在のカンボジア王国の淵源となったクメール王朝の首都の跡である。
この地には、9世紀頃から数々の王建設が開始された。この遺跡に特に大きく関わったとされるのはスーリヤヴァルマン2世(1113-45年)とジャヤーヴァルマン7世(1181-1201年)と言われる。スーリヤヴァルマン2世は特にアンコール・ワットの建設を行い、その死後30年ほど後に王に就いたとされるジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムの大部分を築いたとされる。
しかし、ジャヤーヴァルマン7世が崩御した後のアンコールはアユタヤ朝の進入を度々受けその存在を侵され始め、その後ポニャー・ヤット王にはついにアンコールを放棄するに至った。(wikipedia)
▼地図から抹消された町 – ウィッテヌーム – オーストラリア
ウィットヌームは、パースの北北西、ピルバラ地域にある町。1950年代にはピルバラ地域で最大の町だったが、1966年、近くにあるウィットヌーム峡谷にあったアスベスト鉱山の健康被害のため閉鎖されてしまった。
今ではゴースト・タウンと化し、僅かに残った8名の居住者は何らの公共サービスも受けず、地方政府への税金も支払っていない。(http://jonai.net/weblog/2007/06/23/wittenoom/)
▼壊滅的な火山で失われた町 – ヘルクラネウム – イタリア
ヘルクラネウム(Herculaneum)は、古代ローマの町。
壊滅的なヴェスヴィオ火山の噴火は79年8月24日の午後に起きた。ヴェスヴィオ火山から数千メートル上空まで灰と噴石が吹き上がった。
初期の発掘で僅かな人骨しか発見されなかったため住民のほぼ全てが辛くも避難したものと長い間考えられていた。1982年に発掘が海岸のボートハウスの区域に及ぶとこの見解は改められた。考古学者たちは12のボートハウスで体を寄せ合うように群がる250もの人骨を発見した。(wikipedia)
▼虐殺・奴隷により滅びた都市国家 – カルタゴ – チュニジア
現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖東岸にあった古代都市国家。
第三次ポエニ戦争によって、カルタゴは滅亡し、ローマの政治家・軍人であるスキピオ・アエミリアヌスの指示のもと、市民は徹底して虐殺され都市は完全に破壊された。このカルタゴ陥落の際にスキピオは自国ローマの未来を重ねたといわれている。
カルタゴが再び復活することがないように、カルタゴ人は虐殺されるか奴隷にされ、港は焼かれ町は破壊された。陥落時にローマが虐殺した市民は15万人に上り、捕虜とした者も5万人にも上ったとされる。カルタゴの土地には雑草一本すら生えることを許さないという意味で塩がまかれたという。(wikipedia)
▼スカラブラエ – スコットランド
英国スコットランド北岸、オークニー諸島、メーンランド島にある新石器時代の集落跡。1850年に発見され、地主のウィリアム=ワットが1930年頃に発掘を行った。新石器時代の集落遺跡としてはヨーロッパで最も保存状態が良いことで知られる。円墳メイズホウ、環状列石リングオブブロッガー、ストーンズオブステネスなど、近隣の遺跡とともに、1999年に「オークニー諸島の新石器時代遺跡中心地」として世界遺産(文化遺産)に登録された。(コトバンク)
▼タキシラ – パキスタン
タキシラ考古遺跡の北東に位置するジョーリヤーン(Jaulian)は、タキシラを一望することができる丘の上にある考古遺跡である。2世紀のクシャーナ朝時代に建設されたジョーリヤーンにもまたストゥーパと僧院が建設された。メイン・ストゥーパの周囲には小ストゥーパ群が展開していると同時に、様々な彫刻群が施されている。メイン・ストゥーパの東側に僧院が広がっていた。僧院の在りし日の姿は中庭を僧坊が囲む形で建設されていた。ジョーリヤーンで発見された瞑想する仏陀の坐像はグレコ・インド様式からグプタ様式への過渡期に作られたものである。(wikipedia)
▼マヤ文明の古代遺跡 – パレンケ – メキシコ
ユカタン半島の付根にあたるメキシコ南東部のチアパス州に位置し、7世紀に最盛期を迎えた都市。
18世紀の半ば頃にスペイン人の手により発見に至り、その本格的な発掘調査が始まったのが1948年。
メキシコの考古学者アルベルト・ルスが『碑文の神殿』の地下室に辿り着き、室内の壁面にはめ込まれていた巨大な石板を取り外したところ、鍾乳洞の垂れ下がる広い洞窟のような部屋がその向こう側に確認された。そこには殉死者と目される数体の遺体に加え、肖像画やマヤ文字、また生命樹の図柄の浮彫が施された石の蓋、そしてその下に石棺が埋もれており、数多の装飾品を脇にした遺体が内部に発見された。(wikipedia)

