あの世での結婚式
大学1年の夏。
東北・遠野郷の方を回るつもりだった。
地図を広げ、ガイドブックと突き合わせながらコースを考えていると、高校2年の
弟が、ひょいとその手元を覗き込んだ。
「いいな兄ちゃん、僕も連れてってよ」
「バイクで夜駆けだぜ、いいのか?」
「うん、いいよ」
昼間コイツと一緒に走った事はあるが、夜走りは一度もない。若葉マークはもう
脱出しているが、さて、どこまで走れるか?
「どこか行きたいとこ、あるのか?」
「うん、山形の立石寺へ行ってみたいんだ」
山形・天童か。東海道回りなら、高速で東京まで約500Km、そこから400Km
足らず。合計900Kmちょい手前程。日本海回りなら、新潟まで高速で600Km、
後は国道伝いでざっと160Km。合計800Kmを少々切る。100Kmの差は大きい。
往きのコースを日本海回りに決め、帰りは千葉の祖父母の所で盆を過ごす事にする。
出発はいつもの通り、午前0時。いつもと違うのは、後に弟が付いてくる事。
自分一人なら高速は使わないが、道路は後続車両を確認しやすいのと、一定時間
あるいは距離ごとに休憩を取りやすいから、こう言う時は便利だ。
また、夜中の高速や、一桁・二桁国道には、とてもペースのいいトラックがいる。
彼らはプロだから無理な事は絶対しない。その後を、最低限度危険回避出来る距離を
空けてついて行けば、かなり楽に走る事が出来る。
夜走りで一番怖いのは、夜明け前。どんな季節でも、気温がぐんと下がり、睡眠不足で
疲労が溜まってきた身体から、判断力と行動力を奪って行く。
夜明け前、北陸自動車道・栄PAで弟の様子を見ると、ヤツはとん汁定食を一生懸命
食っていた。ダメだったら飯は食えない。まあ大丈夫だろう。
3時頃、予約していた民宿についた。
弟はわりあい元気だった。兄としては、弟の成長ぶりが嬉しくもあり、なんとなく
褒めてやりたいような、誇らしげな気分だ。
天童には良い温泉がある。俺たちは近くの有名ホテルまで風呂に入りに行く事にした。
「兄ちゃん、僕、お腹空いたよ。蕎麦でもやらない?」
「蕎麦か、いいな。こっちの方の蕎麦は旨いもんな。」
そうして、ちょっと寄り道しようとしていた時だった。
「…一郎さん?」
背後で優しげな声が聞こえ、振り返ると、20歳ぐらいの清楚な感じの若い女性が、
弟の背中に手を伸ばしかけていたところだった。
「あ、ごめんなさい。人違いでした」
慌てたようにその手を引っ込め、恥ずかしそうにうつむくと、彼女は俺たちに背を
向け、小走りに駆けて行った。
何故か、弟はその後姿をじっと見送っている。???どうした?
別の視線を感じ、そっちを見ると、土産物屋のおばさんが目顔で俺たちを呼んでいる。
親指を立て、(俺たち?)と自分の顔を示すと、うんうんと頷き、手招きをする。
「あの娘はね、この少し先の方の子なんだけど、1年ぐらい前からオカシイのよ」
彼女の名は加奈子さん。去年の今頃からちょくちょく、うちの弟と同じような背格好の
男性に“一郎さん”と呼びかけ、自分の名を“三千子”と名乗るのだと言う。
「親も大変だよ。昔はさんざんグレて暴れまわってさ、今は、なりは清楚になったけど、
見ず知らずの男に声掛けまくるんだもの。時々、トラブルもあるしね。まあ、あんたら
みたいに短時間で離れたのって、ほんと、珍しいよ」
おばさんが話している間中、弟は何故か少し悲しげだった。
夕飯をたらふく食べた後、TVをぼーっと見ていると、弟が立ち上がった。
「コンビニでコーラ買ってくる。兄ちゃん、何か要らない?」
「んー、アイス、有ったらピノ。それとラーク・マイルド、なけりゃセブンスター」
「わかった」頷いて弟は出て行った。珍しい。いつもなら、煙草は程々にしなよとか、
何か一言あるはずなのに、今日はどうしたんだ?
…20分が過ぎた。ヤツは帰って来ない。コンビニが移転しちまったのか?
宿の下駄を突っかけ、表へ出てみると、橋の袂に弟と女の子の姿があった。なんだか、
しんみり話をしている。あれ?もしかして彼女、加奈子=三千子さん?いつの間に発展
してたんだ?これは少々マズイか。でも、ヤツも17だから、ぼちぼちこういう事は
自分で処理出来ないとダメだよなあ。邪魔しないで、様子を見ようか。
そこへ中年配の男性が走って来た。彼女の親父か?こうなると、兄は離れがたい。
よくわからんが、がんばれ弟。オヤジの1匹やそこら、いなせないでどうする。
しかし、弟は一方的に何か言われていて、彼女は弟の後ろでうなだれている。
あー、くそ!歯痒ったらしい!!でしゃばるまいと思ったが、限界だ。
オヤジは顔を真っ赤にして、弟に文句を垂れていた。
「…いいか、おまえみたいな他所者が、金輪際うちの娘に近づく事は許さん!!」
「ちょっと待って下さい」俺は声を張り上げた「そのセリフはお返しします!」
いきなり横から現れた俺に、オヤジは少したじろいだ。その隙に言葉を続ける。
「弟は何もしていません。今日だって、彼女の方から弟に声を掛けて来たんです。
他の人も見ています。変な言いがかりは止めて下さい。迷惑です」
オヤジが次の言葉を捜してもごもご言っている間に、俺はきっぱり「失礼します」と
言い、弟の腕を掴んで、有無を言わさず踵を返した。
弟と加奈子=三千子さんが、ほぼ同時に、あ…と声を上げたが、聞こえない振りをし、
弟を引っ張ってずんずん歩いた。
「…違うんだよ、兄ちゃん。違うんだ。そんなんじゃないんだ、違うんだよ」
俺は何も返事をしなかった。
宿へ戻った弟は一言も口を利かなかった。
翌朝、午前6時に叩き起こされた。
「ごめん、兄ちゃん。今日はいっぱい行かなきゃいけないんだ」
弟はもうちゃんと出発の支度を済ませている。いいけどな、前の晩に言っといてくれ。
7時に朝食が終わると、天気予報さえ見る間もなく出発。俺が料金を精算している
間に、弟は宿の人に何か包んだものを貰っていた。
「今日は僕が先に走る」
言葉は静かだが、こう言う時の弟に何を言っても無駄。おっとりした外見に似合わず、
結構きっぱりしたところがある。
先行させてみると、スピードはそんなに出していないが、信号にひっかからないので
その分速い。信号機が無い訳じゃない。進行方向全て“青”になるのだ。
弟が“視える人”としての能力を発揮し始めていた。
全然知らない町を、弟は旧知の場所の如くスイスイ走りぬけ、気が付くと、山に近く
人家がほとんどないような辺りを走っていた。一体何処へ行く気なのか。そう思った
時、弟はウィンカーを出し、俺に停止の合図を送って寄越した。
路肩にバイクを止め、ヘルメットを取った弟は、俺にここで待つように言い、自分は
すぐ先の家に向かってすたすた歩いて行く。なんだか、人が住んでいなさそうな家だ。
セミの声以外は、音もない。車もほとんど通らない。隣の家は遥か彼方。こう言う
場所にも人は住むんだよなぁ。などとぼんやり考えていると、弟は黙って玄関の戸を
引き開け、ごめんくださいとも言わず、そのまま中へ入って行った。
え?おい、まさか、本当に無人なのか?おまえ、何やってんだ?これで、警察でも
通りかかられた日にゃ、問答無用で俺ら犯罪者だぞ。
ものの5分とかからずに弟が出て来た時、内心焦りまくっていた俺は胸を撫で下ろした。
「おまたせ、行こうか」
唇をきっと引き結んだ弟に、何をしてたか聞いても、きっとこの分では答えるまい。
「次はどこだ」
「立石寺だよ、覚悟しててね」
どう言う意味だ?
立石寺は、清和天皇の勅願によって慈覚大師円仁が開山した寺であり、山寺の別称が
ある通り、麓から頂上までを含めた全てが寺である。古来から奇岩怪石の霊屈が多数
あることで知られ、有名な芭蕉の句「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」は、それらの
連続する風景と音響効果のもたらしたものだと考えられている。
「一番てっぺん、奥の院まで行く」と、弟は言った。
根本中堂から奥の院までは、1015段の石段を上がる。たいしたことなさそうな
距離のようだが、実際には健脚の人でも1時間余りを要する、結構ハードな道だ。
観光客がまだ来ていないせいで、人影はまばらだった。もう1時間もすれば混んで来て、
思うように歩けないんだろうな。そう思いながら、黙って歩く弟の後を付いて行く。
鎌倉末期に創建され、根本中堂と共に幾多の火災を免れてきたと言う、山門に到着
すると、見覚えのある女性が長細い風呂敷包みを持って、そこに佇んでいた。
「三千子さん、来たよ」
弟がそう声をあげると、彼女は嬉しそうに微笑んで、こちらへ駆け寄って来た。
「本当に、来て下さったんですね」
「だって、昨日、約束したでしょう」
加奈子=三千子さんは、まぶしそうに弟を見ている。
「私も、約束は守ります」彼女は風呂敷包みを差し出した。
「兄ちゃん、ごめん。僕、それを持つ訳には行かないんだ。代わりに貰ってくれる?」
そう言われ、その風呂敷包みを受け取った俺は、それを腰に結わえ付けた。
「じゃあ、行って来ます」
「よろしくお願いします」頭を下げかけた彼女の身体がぐらりと傾いだ。
慌てて彼女を支えた俺の背に、何か別の重みがぐぅんと加わる。一体何なんだ?
「大丈夫、気を失っただけだよ。すぐ平気に戻るから、門に寄りかからせてあげて」
そう言いながら、弟はウエストバッグから、朝、宿で貰った包みを開け、真新しい
御飯杓文字を取り出して、そこに顔を書き込むと、門の左下の地面にそれをおいた。
「何だ、それ?」
「ああ、塞の神の代わり。この先、他の人にやたらに入って来られると、ちょっと
困るから、しばらく防いでて貰おうと思って。」
全く意味がわからない。このひと、どうする?と聞くと、大丈夫、事が済んだら気付く
はずだから、と弟は言うが、俺にはなお、意味がわからない。
「行くよ、兄ちゃん」
弟はそう言うと、上を目指して歩き始めた。気を失った彼女の事は気がかりだったが、
ともかく弟がそう言う以上信じるしかない俺は、その後を追うしかない。
軽やかな足取りの弟に比べ、俺は四苦八苦しながら歩を進めていた。昔、一度だけ
歩荷を経験したが、あれに匹敵するほど身体が重い。
「ごめんね、重いでしょ」弟には、この不可解な重量感の原因がわかっているらしい。
「今、兄ちゃんの背中には三千子さんがいるから」ヤツは済まなそうにそう言った。
何だと?俺が何だって?「…ちゃんと、話せ」それだけ言うにも息が切れる。くそ…
「夕べ、僕らが話してたのは」弟が話し始める。「三千子さんは、戦死した一郎
さんのあの世でのお嫁さんで、でも、一郎さんのご両親は彼の戦死を信じてなくて、
毎日彼女に一郎さんの写真を見せながら、息子はいつかきっと帰って来る、だから
おまえの仕事はその帰りを待つ事だって、言ってたんだって。例え、相手が魂のない
物でも、何十年そんな事言われ続けたら、気持ち入っちゃうよね。まして人形だもの。
そのうちにおじいさんが亡くなって、去年おばあさんも亡くなって。こっちで暮らす
人がなくって、家の中の物を処分したらしいんだけど、三千子さんの由来を知ってる
人が誰もいなくて、本当なら一郎さんと一緒にここへ来るはずが、一人古道具屋へ
売られちゃったんだ。加奈子さんは、たまたま波長が合ったっていうのかな、店先で
見かけた三千子さんをつい買って帰って、三千子さんが加奈子さんに憑いちゃった。
…悲しいよね。だから、僕が一郎さんを探してあげるって言ったんだ。その代わり、
加奈子さんの身体を本人に返してあげてって」
正直、俺は呆れ返った。なんて無謀な事を言うヤツだ、コイツは。
「それで、あの家へ、行ったのか」
「うん、家が視えたから、一郎さんにかかわるものが何かあればと思って」
で、何かあったのか?と問うと、あった、と弟はきっぱりした口調で言った。
「これで、二人を送ってあげられると思う」
「って、おまえ視えるだけだろう?」そう。弟には母のような防御・攻撃能力は無い。
「うん。だけど、兄ちゃんがいるから」
「俺がいたって意味なかろう?」視えないし、聞こえないし、感じないのに。
「ううん、そんな事ない。兄ちゃんがいると、余計なヤツらが来ないし、ビジョンが
すごくクリアになるんだ」俺は触媒か。「だから、一緒ならやれると思う」
「勝手にアテにするな」
「そんな事言わないでよ」
脂汗を垂らしながら、奥の院に着いた時は、本当にダウン寸前だった。
「兄ちゃん、お願い。もう一足がんばって」
年少に情けない様は見せられない。へばりそうになりながらも、かろうじて見かけを
取り繕い、千年以上の常火が灯ると言う如法堂へ足を踏み入れた。空気が冷たい。
「…なんだよ、これ」
堂の中央には金色に光る釈迦像が安置されていたが、その両側の壁には一面、結婚
写真や結婚式の絵が飾られていた。それも、まともなものは一つとしてなく、半分
写真と継ぎ合わされた絵だったり、両方絵だったりする。
「結婚前に亡くなった人の為に、親があの世で結婚させてやるんだって。中国の
鬼婚みたいなものなのかな」
そう言いながら、弟は像の後ろへ歩いていく。俺も後を追った。
そこには、十段ぐらいの棚が作ってあり、そのどれもに花嫁人形がびっしりと並べ
られている。これにはさすがにぞっとした。
「兄ちゃん、三千子さんを風呂敷から出して、ここへおいてあげて」
俺が持たされていた包みの中身は、花嫁人形だった。それを弟が示す、棚のわずかに
空いたスペースに乗せると、さっきまでの重量感がウソのように消え去った。
弟はジャケットの内ポケットから、小さな紙切れのようなものを取り出し、俺が置いた
人形に持たせるかのように立てかけた。それはセピア色に変色した、1枚の若い男性の
写った写真だった。
「三千子さん、一郎さんだよ。もう離れなくていいんだ」
ふと、人形が身じろいだかに見えた。
次の瞬間、その一組はオレンジ色の光を放ち、燠火のように燃え始めた。
あっけに取られている俺に、弟が静かに言った。
「ごめんね兄ちゃん、重い目させて、彼女を運んで貰って。だけど、僕は一郎さんの
形代を持っていた。その上、三千子さんの形代を手にしたら、今度は僕に三千子さんが
依ってしまいかねなかったから、波長が僕と全然違ってて、多少の事じゃ変わらない
兄ちゃんに持って貰うしかなかったんだ。ほんとにごめん」
ものの1分とかからず、人形と写真は灰になった。
俺たちはそれを見届けて手をあわせ、堂の外へ出た。
行きのあの苦労がウソのように、らくらくと石段を下り、慶派の名作である仁王像の
安置された仁王門を過ぎた俺たちは、御休石の向かい側の茶店で一休みする事にした。
さっさと山門の塞の杓文字を取らないといけないのはわかっていたが、心も身体も
とても疲れていた。ここで10分やそこら座ったところで、大事ないだろう。そう
タカをくくっての事だったが、いきなり弟が「ダメだ、限界越えちゃった。眠い…」
と言うが早いか、すうすう寝息を立てだした。視えるって事は、見ないでいい事まで見てしまい、知ってしまう事。
今回は何とか行けたものの、この先、辛い思いや哀しい思いをする事もあるだろうな。
可哀想だが、俺はおまえに何にもしてやれん。ただ、そう言う事がなるべく無いように
祈るだけ。頼りにならん兄貴ですまん…
眠る弟の側でそう独りごち、山形の空を眺めた夏だった。
あの世での結婚式
女難の家系
携帯から失礼します。
あんまり怖くはないと思います。
先日まとめサイト?で「コトリバコ」を読んで、私の家系にもあれに似たことがあり、
願わくばここの方々の専門的な知識、助言や考察を賜りたく思います。単刀直入に言いますと「本家の女は四十歳を迎えない」んだそうです。
確かに、私が知る限りですが、祖母、曾祖母は若くして他界しております。
しかし、私は親戚のその言葉を「偶然」の一言で一蹴しました。
と言うよりも、この家系にそれほど長い歴史があるとは聞いていないし、
由緒のある家系だとも聞いていませんでした。私はオカルトも信じていませんでしたし。
事実、本家がある田舎を離れてもう二代も過ぎていますし、去年に本家の家屋を取り壊した際も、
親戚一同は大きな躊躇もなく「まぁ、仕方がない・・・・」と言ったり、中には宴会よろしく酒を呑む人までいました。
そんな人達が云う因習に、信憑性はまったく感じられなかったんです。
それに今はそんな時代でもないじゃないですか。
けれど、何か引っかかったんです。違和感と言いますか、モヤモヤといいますか...
ついでに湧いてきた好奇心や探求心にまかせて、調べることにしたんですよ。件の会議(飲み会?)の明くる朝、取り壊しが決定した本家に向かうことになりました。
私が幼い頃に何度か来たことがあるそうなんですが、記憶にあるのは離れた所にある薄暗い厠と、
兄と二人で散策してこっぴどく叱られた、大きな蔵です。
まぁ幼い頃に見て感じたほどおっきくはなかったんですがw家屋自体はもう半壊していました。
そもそもは半壊した家屋が危険で近所の子供の遊び場になることを懸念した親戚の提案なんですがね。数人が中に入り、遺影や仏壇などを運び出していました。大方片付いたところで親戚のkさんが
「蔵はどうする?やっぱ残すんか?」
と少し神妙な表情で蔵の閂に手をかけました。
「あぁ・・・・・・」
と数人は作業の手を止め、互いに目を合わせて一息。真剣な表情で蔵に向かいました。なにやら空気が変わったので、私も粛々とそちらに向かうことにしました。
鼻をかすめる埃っぽいような、カビのような臭い・・・
凡そ夏の景色には不似合いな、しん・・とした暗い室内に、少し胃の辺りがぎゅうっとしたの覚えています。中ではkさんが率先して、あれは?これは?どうする?と周りに相談しています。
方言のおかげで何が何だかさっぱり分かりません。私は高く積まれた書物に目がとまり、その内の一冊を手にとりまして、ぱらぱらと見ていました。
ミミズのような文字に悪戦苦闘しながらも、漢字や行からどうやらそれが人名であると確認できたんです。
ここにきて表紙を見てみました。
ほとんどがシミに喰われたりでよく読めず、頭に漢字の一部と末尾の漢数字はかろうじて読めました。
他の書物も何冊か見たんですが、やはり同じようなもので私には皆目見当もつきません。
私が「kさん、これってなんの・・・」
と言うなりkさんが
「ああ、いらうないらうな!(触るな触るな)」
と邪険にジェスチャーでしっ!しっ!と出て行くことを促します。本家ではありますが余所者である私はそこにいても何の役にも立たない。
分かってはいますが腑には落ちません。あとでめちゃくちゃしつこく訊いてやろうとか思いながら、蔵を後にしました。
出した荷物も積み終わる頃には日が高くまできており、一行はyさん宅で昼を取るとのこと。
「nくんの分もあるから安心しぃな」
私の顔色をうかがってくれたのか優しい言葉にいやしくも同行することにした。
軽トラの荷台に乗り込み、ガタガタの山道を先ほどのkさんと揺られていた。
「nなぁ・・あれはまた後でゆっくり話しをばするから待ちよ・・・
とりあえずあいつらとも相談せないかんからのぉ」
と目配せをした。
視線の先には先頭を走るyさんや親戚の人。ふるさとと言えど知らない土地で見知らぬ親戚を名乗る人々、本当に親戚か?
(ここはなんてヒナミ○ワか・・・)
そう思った、本当に思った。そんなくだらない勘ぐりをしていたら早くもyさん宅に到着。
荷降ろしは後回しにしようと言うことで、冷たい麦茶とひやむぎをいただいた。
耳をつんざく蝉の声をBGMに縁側でへたり込んでいると、kさんがスイカを持ってこちらにきた。
「食いなぁ・・・」
礼も早々によく冷えたスイカに舌鼓を打つ。スイカのタネをマシンガンのように飛ばしながらkさんがおもむろに語りはじめた・・・・
「あれはなぁ・・・カルテよ、カルテ」
「は?・・え?」
眼前の景色や人からは不釣り合いな単語に困惑した。
「いやぁ、おまん本当になんにも聞いとらんのか!」
「はい・・」
なんだか情けないような不甲斐ないような。
いやしかし、合点がいかない。字や書物の痛みを見るに相当古いのは違いない。その時代にカルテ?
私は素直にその疑問をぶつけた。kさんの方言まじりの言葉を要約するとこうだった。
今から100年くらい前、この家は名家だったらしく、医院を営んでいたそうだ。
その医院の名前は○○院と言ってこの辺り一帯の地名にもなっていた。
その医院の患者の名簿や記録をしていた。それがあの書物なんだそうだ。
にしても多すぎやしませんか?
訊けば書物はそれだけではなく、中には研究書のようなものもあり、
医院に関係しないもっともっと古いものもあるそうだ。それこそ数百年前のもあるとぞ言っていた。私は流れに乗じて気になっていた例の因習について訊いた。あれは事実なのか?きっかけはなんなのか?
「・・・んぅ・・・・・」背中に視線を感じていた。誰とかでなく。今この会話に聞き耳を立て、様子を見守るような視線。
kさんはこの視線に気付いているだろう。この質問にこの状態でどんな反応をするのか。沈黙のあいだに一瞬だけ苦虫を噛んだような、泣きだしそうな、そんな顔をした。
私はできれば信じたくなかった。
先祖の因縁、怨恨、呪い、業、etc..
しかし、それはどうやら本当にあるのかもしれない。
人は物事を鮮明に思い出そうとしてる時、一瞬だがその事柄に纏わる感情が表情となって現れる。
また胃の辺りがぎゅうと締め付けられた・・・・・
「皆よぉー、荷物ば降ろすどぉー」
kさんと私との沈黙を破ったのはs叔父さんだった。
s叔父さんの号令に「ぅおーい」とだらしない返事をしながら皆が軽トラの荷台に群がった。
荷物をあれやない、これやないと言いながら仕分けして家に運んだり、別の車に積んだりしている。
私は手持ち無沙汰が過ぎてs叔父さんに手伝えることはないか?と訊いた。
「そうなぁ・・あ、そうそう!nくんはヒロとかんぬっさんとこ行ってきて!
ヒロは下の川にいるからね」
ヒロは私の従兄弟で、同年代ということもあり幼い頃から仲良しで今でもたまに連絡を取り合う仲。
彼の所へ向かう道中、鬱々としたあの空気をどうにか振り払い、冷静に考えをまとめていた。
信じるだとかは後回しにして、まずそれがあるんだとしっかり受け止めることが重要だと。
具体的な話はまったく見えて来ないが、最悪な話を想定しておく。
それを受け入れる態勢でないとあちらは話せないだろうし、
私も堪えかねない話を聞くことになるかもしれない。(ああ・・・マジなんかな・・・・・・)
「おい!nか!こっちこっち」
声の先には喜々とこちらに手を振るヒロだった。
私もなんだか嬉しくなって、がらにもなく「おーい」だとか言って手を振って応えた。
ヒロはどうやら沢で何かをしているようなんだが、釣り具はなかった。
「nかぁ久しいなあー!あれらの相手はお前にゃ大変ろ?ん?w」
とイタズラな顔をしてみせる。私も素直に「確かにお前の相手の方がよほど楽だな」と嘯き笑った。
そうしてひとしきり互いに懐かしみ笑い合った後、
「叔父さんがお前とかんぬっさんの所へ行けと言ったんだが、何か聞いてるか?」
と訊ねた。
「おーそうか!壊すの決まったか!よしよし、行こう行こう」おおよそ地鎮祭のような、そういった儀式の必要性は感じていたので私も彼の軽いノリに任せた。
彼は草履と上着を羽織ると行くかー!と言って意気揚々と沢を上がった。「ところで、お前あそこで何してたんだ?釣りでもないみたいだし」
「うん、はぁなんにもないよ!まぁまた後で話をばするわね」
少し真剣な目をしたので、探るのは止めた。
大変なのは俺なんかよりも、お前みたいなあいだに立つ奴なんじゃないのか?
今になってそんなこと考えたりするよ・・・・・
まるでその山の玄関のような鳥居と、その斜面に続く恐ろしく長い階段。
両側を木々で挟まれて陰になっていると言っても、真夏日にこの階段はキツい。
「都会で体がなまったかnよぉw」
「っるせぇwにしても長くないか?」
本当にキツくて熱中症にでもなるんじゃないかと。
「んにゃ、ガキの時分はよう登って遊んだろがw」
ヒロも口は軽いが体は重そうだった。・・・着いたか?
ヒロが社内の右手にある小さな詰め所のような社の戸を叩いた。
「やぁ、こん暑い中よぉ来たねぇ。あがりあがり」
そう言って神主さんは私たちを招いた。足が・・・足が酷く笑う。衰えを感じた。
空調で冷えた室内が心地よく、乾いた喉にもきんと冷えた清水がもてなされた。
一息をついて彼と私は神主さんに経緯と、また解体当日の朝に迎えにあがる事を伝えた。
役目は終えたようだが、体はどうも涼みたいようで、彼ともその意見は合致した。
静かな社に移動し、二人でつかの間の休息と、これから慌ただしくなる時間の分をゆったりと過ごしていた。
まどろむ私たちの後ろから神主さんの声がした。
「そういえば、s田さんの家の本家のnくんよなぁ?」「はい、そうですが・・・」
「あの話は聞いてるよね?」
「えっと、どの話でしょうか・・・?」神主さんは静かに頷くと、「また今度になるね」そう含みと余韻を残した。
下りの階段は行きにくらべて楽だった。
陽の加減もあるだろうが、距離と経験のある道は幾らか気分が軽い。私たちはyさん宅へと戻り、
「かんぬっさんとこ行ってきたど」
ヒロがそう言うと、「ああご苦労様」と叔父さんは労ってくれた。
どうやら荷物の整理は終えたようで、先ほどの荷台の面影はない。
陽はいよいよ低くなり、先刻のつんざく声はヒグラシに交代していた。s叔父さんが
「nくん暑い中ありがとうね、あ!そうそう!このあとまた呑むから、中に入ってな
kさんが旨い焼酎持ってくるってさっ!」
「あ・・・はぁ」と生返事をしながらふと隣に目をやるとヒロと目が合った。
表情を見て確かに叔父さんの子だと再度確信した。酒の席、どうやって上手くkさんから話を引き出すか。そして私が飲まされないように交わすか。
そして、
なぜ・・・・なぜ私には母がいないのかを・・・・・
陽が落ちた頃、古民家yさん宅にはぞろぞろ人が集まる。
ヒロはもちろん、昨日は見ない顔がたくさんならび、私もそわそわと落ち着かない。陽と月が交代するころには宴の準備が整ったようで、大きなちゃぶ台には大皿に盛られた美味しそうな料理がでんと並ぶ。
私も空いた座布団にちんまりと座り、乾杯にまじった。料理に満足した人は各々の遊びを楽しんでいるようで、私もヒロに返盃を誘われ。少しくらいならと酒に興じた。
凡そ二人でバカ笑いしながら一升を呑みきった頃、kさんがこちらへ来た。「ちょっとついて来ちゃれ」
そう言うなり二人とも来るようにとジェスチャーし、私たちは素直にkさんの後をついていった。
騒がしい縁側を背に、虫が鳴く夜、月がkさんとヒロと砂利道を照らす。
少し歩くとkさんが口を開いた。
「おいは今酔っとるからのぉ・・えぇか!酔っとるのよ・・・」
「n!お前の話ぞ!・・・・」
その時のkさんの表情と抑揚を今でもはっきり覚えている。
彼の方言と酒を交えた話を要約すると、うっすらではあるが全容が見えて来た。
今から500年ほど前に本家、つまり私の祖先は代々その土地を治めていたそうなんだ。
作物の品種改良や田畑の効率、自然の理(ことわり)や大量生産の先駆けを民に説いたそうだ。
それに神仏に至るまでを語り、今でいう哲学のようなものを伝え広めたんだそうな。
それを良いことに悪政を働きはじめ、私欲に走り出したちょうどその頃、
それに異を唱え反論した勢力や、民がすべからく生まれ。その知恵や知識の根源を問うたそうな。
先祖はそれをひた隠した。なぜならそれは西国や唐国からの知識であり、
それらを寛容に「然り」と受け入れられるような時代ではましてなかったし、
なにより私欲を守る為に知識を分け与えるなんてことは絶対に有り得なかった。
それから人々の信仰からくる不信や異端の意識からの亀裂が生じたらしい。
ちょうどその頃、東からの文化で、呪術を司る賢者が現れ、ここいらの土地の民の話を聞いたんだそうな。
それに心打たれた賢者は民にある呪術を教えたんだ、それが女の血を絶やすという呪術なんだと。
男が百人いても、女が五人なら年に五人しか子はない。
しかし、男は五人でも女が百人なら、年に百人の子を生むことができるからと・・・・。その呪術により、この家系は女が長く生きられないんだそうな。
kさんはついでに語ってくれた。
こんな話をしなければ歴史は打ち消せるんではないのか?
呪いや呪術なんて伝えなければいい。暗い先祖の歴史なんて知らずに生きればいい。
そうしていれば、いつかはなくなるんじゃないか?
だから私の祖父と祖母はこの地を離れ、私と私の両親が育ったその土地選んだのだと。
だから、私も私の両親もこの話を知らないとkさんは語った。「nくんのお母さんが死ぬまではなぁ・・・・」
私はこみ上げる感情を抑えきれなかった。
「ど、どう言う意味ですか?」
「お父さんは知っとるよ、この話・・・」幼い頃の記憶・・・、親父は酒に溺れていた。
いつか、私が訊いた・・・
「なんで母ちゃんいないの?」親父の顔はみるみる真っ赤になって、
「うるさいっ!お前には母さんがいないんだ!それがどうした!!」
その後も叩かれ、罵られてすごく恐ろしかった。
私たち兄弟の聞いてはいけないタブーだった。また胃の辺りがぎゅうと締め付けられて・・目に映る景色が、じわっと滲んだ・・・・。
或る朝、空はどこまでも高くて、空気は澄み切っていた。
私たちは本家に向かい、神主さんの祝詞を聞き、作業を手伝った。いやに清々しい日和に、私の重苦しい心の毒気も、あの綿雲のようにふわふわとたゆたうものに交代した。
労働に汗を流しながら、ヒロと煽り合い、バカみたいに笑い合いながら、少しずつ現実を受け入れた。それまで想像もしえなかった暗い歴史の上にある自分の命。
それは私がこれからも謙虚に生きていく為の糧になるんだろう。皆さんもぜひ家族や親戚に昔話を聞いてみてほしい。
案外、不思議は近くに転がっているもんですよ。けれどね、現実という奴は決して一つじゃないようだ。
この話に後日談があるように、歴史はそう単純に語れない・・・
女難の家系
夏のある日の出来事
あと1週間程で、高校生最後の夏休みも終わろうと言う頃。朝っぱらから、ご機嫌な 梶がやって来た。
そりゃそうだろう、自分の車を手に入れたのだから。
こんな時はやっぱり、ちょっとうらやましいなと思う。
同じ高3でも、7月生まれの 梶は免許が取れるが、2月生まれの俺は、半年先にならないと試験さえ受けられない。ドライブに行こうと言うから、この季節の事、てっきり海だと思っていたら大台ヶ原へ行こうと言う。
海へ行こうと言ってみたが、あっさり却下。
「海へ行くくらいなら、最初から貴美も積んでくる」貴美と言うのは梶の今の彼女。
「峠攻めしたいから、おまえを誘いに来たんじゃないか」まあ、それはわかるが…
道路に停めてあったのはメタリック・インディゴブルーのギャラン。
運転席側のドアと、 反対の後部座席側のドアに、金銀で、斜め後方へ流れる狐火がさりげなくペイントされている。
なんだか走り屋にマークされそうな車だ。梶にそう言うと、さりげなく笑われた。
さては、もう何かやったな。
国道24号線を紀ノ川に沿って、橋本・五条方面へ遡って行く。
吉野とうまく行ってるのか、と梶が聞いて来る。
あー、もうじき消滅だろうなと答えたら、なんで?と聞き返された。
伊吹山でのD・キス中断事件を話すと、爆笑された。
「伊吹童子にヤられたか。は、おまえらしいわ」放っとけ!
国道370号線を下市・大淀と辿り、宮滝で国道169号線へ取って南下する。
この辺から景色は、のどかな田舎町から本格的な山の中へと変わり始め、道路も直線が 減り、カーブが連続するようになって来る。
梶はタイヤを泣かさず、きっちりラインを 取って、きれいに走る。
普通の車だと、きっとリヤタイヤが流れてしまうような所でも、 フロントがぐっと沈み、四輪がちゃんと路面をホールドしているのがわかる。
ナビ席が 女の子でも、楽しくて声を上げる事があっても、恐怖で悲鳴を上げる事はないだろう。
車もいいが、梶の腕もいい。「さすが梶クン、キャリアが違いますな」
「うん?それはどう言う意味かな?ボクは先月、免許を手にしたばかりなんだが…」
よく言うぜ。梶いわく、若人は過ぎた日の事は忘れるんだそうだが。
あっという間に伯母谷トンネルを過ぎ、大台ヶ原ドライブウェイへ入った。
3桁国道 より整備されているから、余計に走りやすい。
バイクで走っても面白い路だが、こう いう車で攻めるのもなかなか楽しいもんだ。休憩も忘れて走ったお陰で、車を降りると少々腰が痛い。しばらく休んで、また走るの かと思っていたら、大台ヶ原を歩こうと梶が言いだした。
「西コースなら初心者向きだから、行けるべさ」
昔は登山靴でないと無理な所もあったようだが、今は西コースだけならそれなりの靴で 十分だ。
俺たちはどっちも、流行だったコンバースのセミバッシュを履いていた。
「おまえと歩くとなぁ、変な目に遭うからなぁ」
「あ、そりゃ俺のせりふだ」
大台ヶ原は、昔の台風のせいで出来たトウヒの白骨樹林が良く知られているが、本来は湿潤な気候による豊かな原生林を保っている山地で、
野生鹿や珍しい四季の植物を観察する事が出来る場所である。
シャクナゲ、ツツジ、シロヤシオなどが咲き誇る5月頃や、 秋の紅葉がたいへん見事なシーズンには、
観光バスもガンガン入り、歩きづらい時が あるが、夏の終わりの今頃はそんなこともない。駐車場から左手の道を、日出ヶ岳へ向かって歩いた。荷物は、お互いウエストポーチ1個だけ。
山頂からは大峰・台高山脈が一望出来る。めったにないが、日の出を背にした富士山のシルエットを見られる事もあるらしい。正木ヶ原ではおなじみの白骨樹林を見る事が出来る。鹿はこの辺で多く見られると言うが、こんな時間では無理。
尾鷲の辻で、駐車場へ戻るショートカットコースがあるがパス。梶はこの先の、牛石ヶ原から大蛇嵓がいいと言う。
笹に蔽われた牛石ヶ原には、昔、高僧の法力で牛妖が封じ込められたと言う石がある。
ただの石じゃないかと思ったが、そう言う事は言わずに通過。いよいよ、大蛇嵓へ。
一目見て嬉しくなった。いい具合に、まるでロウソクのように、尖がっている。
足場は悪くないが、岩稜歩きは慎重にやらないと危ない。でも、それをクリアして、辿り着いた先の絶景は見事。
この岩場の先端は鎖が張られているだけで、一足向こうは高低差800メートル下の東ノ川渓谷。
西には大峰の山々が、北には名瀑100選に選ばれた中の滝が良く見える。誰も来ないのをいい事に、しばらく景色に見惚れる。峰々を吹き渡る風が届ける木々のざわめきと、
滝川の音、街中とは全然違ったセミたちの遠い声。五感が楽しむ時。
夕暮れになれば、ここは金色の光で満たされ、ヒグラシの声が届けられるのだろうか。
そんな事を思っていると、不意にセミの声がぱたりとやんだ。心なしか、流れる水音も、
数段弱まった気がする。夏の日差しだけが、相変わらず燦燦と降り注ぐ。
ざわり…と枝葉の揺らぐ音がした。俺たちは周辺に目を走らせた。
ざわり…ざわり…ざわり…
登って来た道の方から、左回りに大きく、周囲の枝葉が揺れている。鹿や熊ではない。
俺たちはほぼ同時にポーチに手を突っ込み、サバイバルナイフを抜いていた。
ざわり…ざわり…ざわり…ざわり…ざわり…
何かがゆっくり、確かに俺たちの周囲を、左から右へ取り巻いていた。
俺はそのまま登山道に目を据え、梶が俺の背中合わせに断崖の方を確かめる。
ざわ…ざわ…ざわ…ざわ…ざわ…ざわ…ざわ…
速度を上げながら、包囲網が狭まった。腰を落とし、ナイフを両手で持って腹に構える。
………………
耳が痛いような静寂。心臓が脳に来ている。
足元に影が走り、梶が低く呻いた。
振り向きざま、どうした、と言いかけた俺の言葉は途中で凍りついた。
梶の正面、断崖側から、女の顔を持った大蛇が鎌首をもたげた形で、俺たちを見下ろしていた。
顔の大きさはたぶん、通常の人の2倍近くあるだろう。ヒグマ色の赤い髪が左右に広がり、
眉はなく、黒目が小さくて、青紫色の唇は大きくて薄い。鱗に蔽われた
腹側は色白の赤ん坊のような肌色、背側はアオダイショウのような鈍色に光る。
胴の太さは、直径25センチはありそうだ。
それが、俺たちの事を探るような冷たい眼で、じぃっと見つめている。もしも、俺一人だったら、情けないがきっと腰を抜かしていただろう。冷静な友がいてくれる事を感謝しつつ、
この状況からの脱出を考える。こんな足場の悪い所で、通常のような立ち回りは無理。
梶と二人、同時に突っ込んだとして、大蛇に与えるダメージは、おそらくミツバチが刺した程も与えられないだろう。
まして、俺たちの周りをこいつが 何巻きしているか、それさえ分からない。どうする?
隣で梶は、静かに息を整えていた。勝負に出るタイミングを計っている。
そうして、しばらく黙ったままの睨み合いが続く。
風が俺たちの髪をなぶる。
不意に大蛇の目がすっと細められ、唇がきゅっとV字になったかと思うと、不思議な嗄れ声で笑い出した。
…くっくっくっくっくっ
可笑しくてたまらないと言うより、何か気抜けしたような響きが、その声音の中にある。
なんだ?戸惑う俺たち。大蛇は、先程までの冷たい眼ではなく、むしろ興味深げにこちらを見、二言三言何か言うと、
断崖から東ノ川渓谷の方へ、笑いながらそのまま身を翻して降りて行った。
ざわざわざわざわざわ…
枝葉の揺らぐ音が消え、再びセミの声と滝川の音が戻って来るまで、俺たちはナイフを握り締めたまま、そこに立ち尽くしていた。
俺たちがようやくまともに言葉を交わしたのは、関西空港の良く見える海辺の喫茶店に落ち着いてからだった。
そこで話をするうちに、俺たちは意外な事に気が付いた。
大蛇の声については、某女性歌手の声を思いっきり潰したような声、と言う事で二人の意見は一致している。
問題はヤツが姿を消す前に言った言葉だ。
梶は、大蛇が自分の方を見ながら「なんと、おまえらだったとは…また懐かしい顔ぶれを見るものよ」と言ったように聞こえた、と言う。
俺には、大蛇が俺の方を見、大部分は梶と同じだが、懐かしい顔ぶれではなく「珍しい取り合わせ」と言ったように聞こえた。
懐かしい顔ぶれと、珍しい取り合わせ。何とも意味深な言葉だが、同時に聞いたはずの言葉がこうまで違うものか?
俺に言われた“珍しい取り合わせ”はまだわかる。俺自身、妙なものからなんとなく
懐かしげにされたり、霊感の強い人たちから“気配が妙だ”と言われてきたから、そう言うのと普通の人間の組み合わせ、と言う意味だと思う。
だが、梶に言われた“懐かしい顔ぶれ”と言うのは、全く持って見当が付かない。
俺たちはあんなヤツとは初対面だ。
もし、あの場にもう一人いたなら、そいつはどんな言葉を聞いただろう。17歳と18歳。アイスコーヒーを前に悩んでいた、夏のある日の出来事だ。
夏のある日の出来事

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