秋篠宮家の長女・眞子さまとの婚約が延期となっている米国留学中の小室圭さんですが、お父様である敏勝さんは原因不明の死を遂げられています。
これが小室圭さんの闇の一つとして影を落としています。
小室敏勝さんが追い詰められるまで
敏勝さんが亡くなられたのは、圭さんが東京・国立市にある国立音楽大学付属小学校に通っていた10歳のときです。
敏勝さんは、明治大学理工学部建築学科を卒業後、1988年横浜市役所に技術(建築)吏員として入庁します。
最初は瀬谷区建築課に配属されました。
入庁するとすぐに同期数名とともに「都市活性化の核となる文化施策」と題する論文を執筆。
横浜を東京に負けない魅力ある都市にするために、「音楽に焦点を当て、その魅力を活かした幾つかの施策」を提言します。
1990年、敏勝さんは佳代さんと結婚。1991年10月5日、圭さんをもうけます。
1992年には都市整備局都市デザイン室に異動し公営住宅の開発にも携わります。
1998年には、当時造成中だった「みなとみらい21」推進部計画推進課に異動となりました。
1999年、横浜市住宅・教育施設課に異動。

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当時の同僚の方の話では、寡黙だが明るい性格で、一度話し出すと声の大きい方だったと言います。
息子である圭さんが3歳のときからバイオリンを習わせ、練習に付き合い、発表会にも来ていました。バイオリン教室の山内純子さんの話ではとても仲がよさそうな素敵な家族だったそうです。
1994年には横浜市港北区 大倉山に自宅を購入します。
1998年4月、妻の佳代さんは子供の教育を最優先し、圭さんと共に国立市に転居。別居覚悟で息子を国立にある音楽学校の附属小学校に通わせます。
2000年、住宅事業課に異動になった敏勝さんは、徐々に欠勤が増え体調不良の日が目に見えて多くなります。
住宅事業課は、市営住宅の建て替えを担当する部署で、厳しい部署として有名だったそうです。
市営住宅に住む人に立ち退きをお願いしたり、その後の生活についての世話をするような仕事で、低所得者や高齢者など、辛い人の生活を受け止める仕事でした。
ストレスも大きく、敏勝さんはやがて病気になり、仕事も休みがちになります。
また敏勝さんは、後述する圭さんの母方の祖父Kさんと同居するため八王子に二世帯住宅を建てようとしますが、その資金繰りに苦労していたようです。
敏勝さんは休職し、一時的に藤沢市の実家で静養します(小室家本家は藤沢の地主)。
1630年頃、元号でいうと寛永の時代に、小室家の祖先がこのあたりで暮らし始めたそうです。
敏勝さんのお父さん、つまり圭くんの父方のおじいさんもこの地で生まれ育ちました。
代々農家を営む家系で結構広い土地をもっていましたが、おじいさんは長男でなかったこともあって、藤沢市内にあるネジや金属製品を作る鉄工所で働いていました。敏勝さんも、長く藤沢に住んでいたはずですよ
近所の人
藤沢市にある敏勝さんの実家は、地元の大地主の分家にあたります。本家筋の小室家は豪邸で、
親族全体でいくつもアパートや駐車場を所有しており、本来ならば圭さん一家も生活に困るようなことにはならなかったでしょう
知人
その後体調がある程度回復してきた敏勝さんの様子を確認した佳代さんは、横浜市港北区の自宅に無理やり戻し、再び家族で同居を始めます。
しかし職場は依然欠勤が続きます。
敏勝さん自殺当日
2002年3月5日の深夜、佳代さんと圭さんが寝ている間に一人で外に出かけます。佳代さんはしばらくウトウトしていましたが不審に思い、圭さんを抱きかかえ敏勝さんを捜索します。
すると自宅近くの河川敷で、首を吊った敏勝さんの姿を発見します。まだ38歳の若さでした。
病気でもないのに、若くして亡くなった
近所の人
通勤中に倒れられ亡くなってしまったと……。(聞いています)
バイオリンの先生 山内純子さん
ショックを受けた敏勝さんの父親は失意し、息子の死から1週間ほど後の3月12日に後を追ってしまったと言います。
敏勝さんの父親が亡くなると、その財産を巡り圭さんと敏勝さんの弟の間で協議が行われます。
加えて祖母も相次ぐショックで心身を病んでしまい他界してしまいます。
母子で助け合って
佳代さんはこの件で親戚から「あなたが殺したようなもの」と責め立てられます。結果藤沢の小室家との関係は途絶えます。
お父さんが亡くなってからバイオリン教室は辞めることになりました。色々と考えた結果、音楽よりも英語を強みにしようとしたのかもしれませんね
バイオリンの先生 山内純子さん
佳代さんは寝食を惜しんで働き家計を支えます。しかし圭さんの学費だけは敏勝さんの死亡保険金までつぎ込み、惜しむことはありませんでした。
2004年、圭さんを中高一貫のカナディアン・インターナショナルスクールに通わせます。その美男子ぶりから2010年7月には湘南江の島 海の王子になります。
2007年、佳代さんは、現在言われている元婚約者男性と交際を開始。2010年9月に圭さんをICUに入学させると元婚約者男性と結婚します。

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圭さんは国際基督教大学ではサークルに入ることなく、レストランや塾講師のアルバイトに精を出しました。また2011年10月にはアナウンススクール「アスク」に入学します。
強い野心を持ち、2012年眞子さまと大学の留学説明会で出会うと、学生という立場でありながら、知り合って1年後にプロポーズしています。2015年5月にはイギリスに留学中の眞子さまに逢いに行きます。
2014年7月大学卒業後圭さんは、最初の就職先として三菱東京UFJ銀行を選びます。14年入行の同期は500人ほど居ましたが、圭さんはその中でもエリートしか行けない丸の内支店に配属されます。しかし海外で働きたいという夢を我慢できず、1年ほど在籍後、一橋大学大学院国際企業戦略研究科で経営法務を学び直します。
そんな圭さんを佳代さんは応援します。
法科大学院に行かなかったということは、国際弁護士として働く決意は一橋大学大学院国際企業戦略研究科に通っていた際に固めたものと考えられます。
2016年8月、奥野総合法律事務所・外国法共同事業に勤務。
2017年5月、眞子さまと婚約報道がなされ、9月3日に婚約内定会見をしました。
同居の「祖父」と言われてる人
2002年頃から横浜市港北区にあるマンションで三人で暮らします。二人からは「パパ」と呼ばれてますが、圭さんの母方の実の祖父のようです。
勝敏さんが亡くなった後は、おじいさんのKさんが圭さんの父親代わりの存在でした。
1988年に、それまで勤めた東和金型製作所を定年退職しています。
佳代さんの母親Yさんは、元々全身のリュウマチで苦しんでおり、1974年、ある新興宗教Oに入信し光明を見出すようになります。
なおYさんの弟の名前を命名したのは、その宗教関係者だったと言います。
佳代さんはそんな母親を横浜市の社員寮に住み込みずっと看病してきました。
佳代さんはその宗教に没入することはありませんでした。





