学会首脳も認めた、創価学会と暴力団後藤組の深い繋がり

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ここまで大胆に、派手に、見境無く暴力団を利用する組織は、創価学会(公明党)ぐらいではなかろうか。山口組系暴力団の後藤組と創価学会の繋がりは、政治家やマスコミ関係者なら皆知っている事実。暴力団と公明党の密会ビデオ+録音テープが流出し、創価公明の首脳がそれを事実として認めたからだ。

山口組系暴力団の後藤組組長が引退を機に告発本を出し、学会との関係を暴露

1977年11月21日、後藤組幹部が富士宮市内のM宅に12トン用の大型ブルドーザーで突入し、ブロック塀を10メートルにわたって破壊。その後、Mに日本刀で斬りつけ、左腕や背中などに2カ月の怪我を負わせ、翌日、殺人未遂の容疑で逮捕された。

実は日原の後ろにはあの「山崎正友」がいたんだ。日原と山崎は、それこそ二人三脚で富士桜(抗争と地上げ)を進めていたわけだ。
山崎正友は当時、創価学会の顧問弁護士で、池田大作・創価学会会長の。〝お庭番〟であると同時に、「宮本顕治・共産党委員長宅盗聴事件」など、過去に創価学会が行なった数々のダーティーワークの指揮官でもあった。
カルト集団による被害を根絶撲滅する会

あいつら(学会)の依頼で協力してやったのに、その後は知らんぷりだ。それどころか、俺が今まで山崎から相談を受けて、学会のために協力してきたことを、「それは山崎とあんた(後藤)が勝手にやったことであって、ウチ(学会)は一切知りません」という態度になった。市議、県議といった地元の公明党関係者も、みんな。
それは話が違うだろう、と。山崎はあくまで学会とのパイプ役、池田(名誉会長)の使いとして来てたんだ。べつに俺は山崎に使われてたわけじゃない。あくまで大石寺、池田のために協力してやったんだ。
カルト集団による被害を根絶撲滅する会

それで地元の学会や公明党の連中に話をしても埒が明かんから、神奈川の「伏木」(元公明党副委員長)という人間に話をしようとした。ところが、こいつが逃げを打って、門前払いを食らわせた。
ならばしょうがないと、竹入(当時の公明党委員長)さんと、矢野(当時の公明党書記長)さん宛に内容証明郵便を出したんだ。
カルト集団による被害を根絶撲滅する会

ところが、最初の内容証明を出して(83年3月)から3カ月後ぐらいに、富士宮署に突然、後藤組壊滅対策本部ができたんだ。
当時はまだ、山一戦争も始まってなかったし、地元では、それまで散々大暴れしてたのに、そんなもんができたことは一度もなかったんだ。
その時、思ったね。ああ、そうか、お前ら(学会)はいざとなるとこんな汚い手使ってきやがるんだな、と。そりゃ、国会だったら公明党使って、警察庁に圧力かけりゃあいい話だし、池田のお膝元の都議会でも、公明党は昔から与党だったしな。予算握ってるもんで、警視庁に圧力かけるのも造作はないわ。
けど、これには本当に頭にきた。「じゃあ、池田先生に直接、ものを言いに行くしかないわな」と思ったよ。
カルト集団による被害を根絶撲滅する会

そうこうしているうちに、若い衆が、池田が東京女子医大に入院したという話を聞きつけて、俺より先に「池田先生」に会いに行ったらしいわ(笑)。
ところが、それを知った池田が急に退院しちゃったもんで、若い衆は(東京都新宿区)信濃町の学会本部(創価学会文化会館)まで出かけて行ったんだ。

1985(昭和60)年11月12日、新宿区信濃町の創価学会文化会館で、後藤組系幹部ら3人が発砲。銃刀法違反で現行犯逮捕された。

これには池田もビビッただろうな。そりゃそうだわ、行く先々で〝パン〟って音が、するんだから(笑)。
それで慌てて、俺んところに池田の使いのもんが飛んできて、詫びを入れてきたんだ。この人間は山崎と違ってまだ生きてるし、俺はべつにこの使いのもんが心底憎いとか、嫌いというわけじゃないから、本人の名誉のためにも「X」とでもしておこうか(笑)。
このXが、山崎の後の、俺と学会との〝窓口〟になったわけだ。「陸軍中野学校の出身」とか言って、山崎がいなくなった後はこのXが〝裏〟の仕事を担当してたんだ。このXを通じて池田が詫びを入れてきたことで、その後はまた学会に協力してやることになったんだ。
カルト集団による被害を根絶撲滅する会


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暴力団後藤組の組員が創価学会本部で発砲
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暴力団後藤組の組員が創価学会本部で発砲事件を起こした新聞記事

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後藤忠政(著) 「憚りながら」
元後藤組組長が出版した本のスクリーンショット

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創価学会から依頼を受けて後藤組が起こした暴行事件の新聞記事
創価学会、公明党、後藤組、チンピラ集団、市民団体、富士宮市が入り乱れ、大騒動になった地上げと政争事件のなかで起きた「ブルドーザー突入事件」は新聞で詳しく報じられた。

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元後藤組組長の著書「憚りながら」

公明党幹事長 藤井富雄氏が暴力団との関係認める

「週刊現代」(平成9年11/22号)で公明党元都議会幹事長は同誌の取材に後藤組組長との密会を認めた。
(編集部)「後藤組組長に会ったことは?」
(藤井)『去年か一昨年頃に…』
(編集部)「後藤組長と会ってどんな話をしたんですか?」
(藤井)『いう必要ない。会ったら、「やあやあ」だよ。おかしな話をするわけがない』

※藤井富雄氏とは、公明党国会議員が新進党へ合流した時期に、残る地方議員3000名と非改選参院議員を束ねる「公明」の元代表である。なぜ、このような人物を池田大作氏は除名しなかったのか?

この件について、当有志による公明党への聞き取りによると、
「その人物は、もう公明党とは関係ない」
「(暴力団との関係)それについて検証していない」
との返事であった。
創価学会・公明党の暴力団・右翼との関係 | よくわかる創価学会


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公明党都議幹事長 龍年光氏も暴力団との繋がりを認める

「創価学会自体、以前から暴力団と関係があります。池田大作の指示のもと学会の政界や暴力団山関係の交渉の窓口は、当初、私自身が担当していましたからね。 私が担当したのは昭和20~30年代にかけてです。その後、竹入義勝元公明党委員長がその役割を引き継ぎましたが、竹入の片腕だったのが、藤井だった。昭 和30~40年代のことで竹入が一線を退いてからは、藤井が一手に、裏工作を担当するようになった。いわば、学会、つまり池田大作の〃お庭番〃です」
(週刊現代・97/11/22)
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原田稔氏(現創価学会会長)が暴力団との関係を証言

私、(小多仁伯)は、 一九九〇年の少し前(平成元年頃)、創価学会本部に原田稔創価学会事務総長・副会長(当時)を訪ね、懇談したことがありました。
対談の理由は、今話題になっている、指定暴力団山口組系後藤組長の後藤忠政氏に関する内容でした。 当時私は、すでに学会本部を数年以上前に離れ、ある会社の代表取締役に就任していました。 その会社の会長から難しい相談を受けました。 それは、その会長のお母さんから、創価学会に迷惑をかけている後藤忠政氏に注意を行ない、大人しくさせたいという希望でした。  後藤忠政氏に接触する行動をとっても良いか、という相談でした。 理由は、後藤忠政氏が若い頃、その会長のお母さんの家に出入りし、食事の面倒からお小遣いの面倒までかけており、その世界での恩義を感じているから話してみたいというのです。
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私は、その目的を原田氏に伝えたところ、本部に来てくださいということになりました。 私は、すでに創価学会からは〝追放〟の身分でしたから、良い機会と思い、原田氏と会うことにしました。  久しぶりの学会本部は、以前と変わらない雰囲気でした。原田氏に、創価学会と後藤忠政氏との仲介の労を取っても良いかを糾しました。
そうすると、原田氏は、腕組みをしたり、何かを考えるそぶりをしたりして、私の話に聞き入っていました。  暫くたって原田氏は、意を決したように、「せっかくのお話ですが、あなたもご承知のように創価学会は、これまで、そのような方々の助けを借りてきた歴史も正直言ってありました。しかし、この世界の人たちは、 一度頼みごとをすれば、次々に深みに入り込みます」「学会本部では、さんざん検討をしましたが、何を言われようとも、この世界の人たちとの関係を断ち切ろうということになったのです」と話しておりました。
(「カルト創価の終焉」福本潤一・小田仁伯 共著)
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創価学会と暴力団の密会ビデオ+盗聴テープがマスコミと永田町に流出

「池田大作と暴力団」 西岡研介他共著 ……2012年─宝島社

「オウム真理教事件が起こリ,宗教法人法の改正で国会が揺れた1990年代半ば──
永田町であるテープの存在が囁かれた。
山口組の直参、後藤組の後藤忠政組長(2008年引退)と、池田大作名誉会長の〝腹心〟として学会の裹仕事を担ってきた藤井直雄・都議会公明党顧問(当時は都議)の密会テープである
このテープが永田町に流出。藤井顧問は後藤組長に対し、当時、自民党の組織広報本部長として反学会キャンペーンの先頭に立っていた亀井静香議員の口封じなどを依頼したという。
果たしてその真相は?本書では〝盗聴実行犯〟と初めて接触し、生々しい証言の獲得に成功。
池田大作と暴力団…3 – 創価学会・公明党が日本を亡ぼす

◆後藤―藤井会談はこうして〝盗聴〟された
話を冒頭の後藤(組長)─藤井(公明党議員)会談に戻そう。
先述の通り、後藤はいきなり、藤井をこう問い詰めたという。
「なんでウチを飛ばして、中野の会長を通じて、五代目の親分に話を持ってったんだ?」
果たして藤井は中野会長を通じ、渡辺組長に一体、どんな依頼をしたというのか……。
これについては後に明らかにするが、「あんたんちのために、ウチの若いもんが一体、何人捕まったと思つてんだ?」と後藤からさらに責められた藤井は、その後も苦しい言い訳に終始したという。当然のことながら後藤は簡単には納得せず、同じようなやりとりが二度、三度と繰り返されたが、最後は後藤も矛を収め、会談は45~50分ほどで終わったという。
ところが、この会談の模様は何者かによって密かに撮影され、数ヵ月後にはその〝内容〟が永田町に流出。さらにはこの後藤と藤井との「密会ビデオ」の存在はその後、何度かメディアでも報じられたため、ご記憶の読者もおられるだろう。
池田大作と暴力団…3 – 創価学会・公明党が日本を亡ぼす


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書籍「創価学会・公明党 池田王国の落日」で、創価学会と暴力団の関係が暴露される

「創価学会・公明党 池田王国の落日」中川義雄著

福岡市のゴルフ場で白昼に起こったショッキングな事件。このゴルフコンペに公明党の県議、福岡市議、久留米市議らがそろって参加し、権藤代議士(公明党議員)も招待をうけていたことが判明し、大問題となりました。
福岡県の自民党有力者は、「権藤君はなかなかの外交家で、大島(暴力団の元会長)にとり入り、非常にかわいがられていた」といいます。
福岡県の創価学会・公明党の内情に精通した人物は指摘します。
「ピストル射殺事件で大島と権藤の関係が表面化したが、実は県政財界で二人の間柄を知らないものはいなかった。大島の弟も県の学会幹部をしていた。権藤は大島のカネとパイプで公明党の幹部になれたようなものだ」
これを裏付けるように、大橋代議士も「大島から権藤さんにカネが流れていた。彼が国体委員長になれたのは、大島のカネと影響力のおかげだ」と新聞上などで語っています。
暴力団と権藤議員 – 創価学会の没落

さらに権藤氏と大島元会長のただならぬ深い関係を物語る新事実が追跡調査で浮かび上がってきました。
「大島さんが殺される二年前、落選中の権藤君のための激励パーティーが福岡市で盛大にやられた。この音頭をとったのが、おの大島さんだった」(公明党県本部関係者)
暴力団元会長が衆院予定候補者の激励会を公然とやる。—これはまさに大スキャンダルといえます。
実際、八二年四月十二日午後二時から、福岡国際ホールで「権藤恒夫を囲む激励の集い」が約1000人の参加者でひらかれ、党中央からは竹入義勝委員長(当時)が駆けつけました。
暴力団と権藤議員 – 創価学会の没落

暴力団の元会長が開いたゴルフコンペの参加者名簿に公明党議員の名が並ぶ

後藤組組長が、池田大作会長と竹入公明委員長に送った内容証明郵便が公開される

保守系の政治活動家が創価学会と暴力団の関係を非難

公明党の藤井富雄都議 が暴力団組長と密会

ジャーナリスト・魚住昭氏が「現代」2月号で、公明党常任顧問で池田大作の側近でもある藤井富雄東京都議と山口組系後藤忠政組長の「密会ビデオ」の存在をレポートしている。

ビデオテープには、藤井が創価学会に批判的な亀井静香代議士を黙らせて欲しいと後藤組長に依頼する様子が録画されており、両者の仲介は元警視総監だという。

今回後藤忠政氏はこの「密会ビデオ」の存在を認めるような告白をしている。しかし、当然ながらその口は重く殆ど何も語っていないのも同じです。

藤井富雄前公明党都議と料亭で密会した事実関係については認めたものの、「どんな会話をしたかなんて、そんなことは覚えていない。当時はX(注藤井富雄)としょっちゅう“密会”していたもんでな(笑)」としか答えていない。

これではその密会の現場で果たして何が語られていたのか?

明確になっている訳ではありません。後藤氏は自分が国会に呼ばれれば正直に全てを話すと言っているので、それを信じて是非証人喚問をして欲しいものだ。
せと弘幸BLOG『日本よ何処へ』:創価学会と後藤組(11)

創価学会・後藤組に殺害されたといわれる著名人

東村山市議不審死事件”

朝木明代市議転落死事件とは1995年(平成7年)9月1日22時頃、東村山市議会議員の朝木明代が西武鉄道東村山駅の駅前のロックケープビルから転落死した事件。
警察(東村山警察署)は自殺と断定、事件性はないとされたが、朝木が創価学会の脱会者の救済活動をしていたこと、議会において創価学会・公明党を追及していたことから創価学会による関与を示唆する動きがあり、政界、宗教界、マスコミ、遺族等を巻き込んだ一大騒動に発展した。
また、後にマスコミなどが「転落死事件の担当検事、その上司にあたる支部長検事が創価学会員だったことが判明した」と述べている。
朝木明代市議転落死事件 – Wikipedia

自殺説
事件の捜査に当たった東村山署では下記理由より自殺と断定している
・朝木の身長(160cm)なら自力で手すりを越えられたこと。
・転落現場の手すりには外側からつかまったとみられる手の跡がついており、突き落とされた形跡はない。他人が突き落としたとすれば放物線を描いておちたはずで、ビルの真下に落ちることはないこと。
・「大丈夫ですか」と聞かれて「大丈夫です」と答え、第1発見者に「救急車を呼びましょうか」と聞かれて「いいです」と、救急車の要請を断っている。
・衣服や身体に争った跡がない。
朝木明代市議転落死事件 – Wikipedia

他殺説、創価学会による謀殺説

・朝木明代は1992年から創価学会および公明党の批判を展開していた。また、矢野らによると、創価学会からの脱会者の救済もしていた。
・9月3日には高知の創価学会関係のシンポジウムで講演する予定であった
・矢野らによると、明代の性格として自殺はあり得ない
・事務所・自宅に遺書はなく、事務所は照明・エアコンがついたままで、やりかけの仕事が中断した状態だった。財布等の入ったバッグも置いたままだった。
・矢野らによると、事件の2年ほど前から朝木明代や周辺の人物に対する嫌がらせや脅迫(いたずら電話、放火、ポケベルに入った不吉なメッセージと読むことができる数字列、など)があり、一部については創価学会員によることが判明しているという。
・転落現場の手すりには明代のものと思われる指の跡がある。これは、落下に抵抗したことを示している。
朝木明代市議転落死事件 – Wikipedia

週刊新潮 平成8年5月2・9日号
ワイド特集 真相 「風雪の流布」
東村山女性市議怪死の担当検事は創価学会員

創価学会から猛烈な嫌がらせを受けていた東京都東村山市の〃反学会市議〃朝木明代さん(五○)=当時=が謎の転落死をとげて八ヵ月。早々と捜査終了宣言を出した警察に代って、遺族は地検の捜査に望みを託している。が、転落死事件の担当検事が、なんと当の創価学会信者だったことが判明したのである。
「えっ、検事が創極学会員。嘘でしょう?彼は転落死事件の究明にとても熱心に見えたし、てっきり私たちの味方だと思っていたのに・・」
と絶句するのは、故朝木市議と共に創価学会問題を追及していた矢野穂積市議だ。
無理もない。矢野氏や遺族は事件以来、この検事を信用して、ずっと転落死事件や嫌がらせ行為に関する情報提供を続けていたのである。
東村山女性市議怪死の担当検事は創価学会員 H8年

昨年九月一日、朝木市議が東村山駅前のピル六階から転落死した事件は、十二月に警視庁が「事件性なし」とする捜査報告書を東京地検に提出した。朝木氏と対立していた創価学会は、それ見たことかとばかりに聖教新聞などで大大的に書き立てたが、矢野氏や遺族はこれで事件が迷宮入りするとは思わなかった。
「警察ば捜査を放り出しても、東京地検八王子支部の担当検事が、依然として関心を示していたんです。私は深夜に何者かから暴行を受けたり、創価学会員からトラックで轢かれそうになるなどの被書をうけ、この検事に訴えていました」(矢野市議)
その地検検事とは、信田昌男氏(三九)。津地検や横浜地検、そして前橋地検勤務を経て東京地模八王子支部に異動してきた中堅検事だという。信田氏は、咋年来、一連の朝木事件を担当した後、この四月一日に甲府地検へと異動した。その信田氏が、よりによって創価学会員だったというのだ。
東村山女性市議怪死の担当検事は創価学会員 H8年

、ジャーナリストの乙骨正生氏はいう。
「咋年のオウム事件では、警察や防衛庁のなかに信者がいて実際に情報漏洩が問題になりました。こうした前例があるのに、学会関与が焦点となっている事件にわざわざ学会信者の検事をつけるなど、考えられないことです。まして創価大から司法試験合格者を出すことは池田名誉会長にとって〃天下取り〃の重要戦略。司法試験合格者には徹底した宗教教育が施されているのは、知る人ぞ知る事実です。検察は本気で事件を解明する気があったのでしょうか」
実は、もう一つ驚くぺきことにこの朝木市議転落死事件を担当する東京地検八王子支部の吉村弘支部長も、学会信者だった。責任者も担当検事も両方、創価学会員だったというのである。
東村山女性市議怪死の担当検事は創価学会員 H8年


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映画監督 伊丹十三の暗殺疑惑

映画監督の伊丹十三の死もまた然り。現在のように日本映画が全くヒットせず、映画館のほとんどがハリウッド映画で独占されていた時期に、伊丹十三のみが日本人の映画監督として大ヒットを飛ばしていたのですが、その勢いが衰えぬ最中にいきなり自殺。

しかも、ある女性との不倫の潔白を証明するために死ぬ、とワープロで遺書を残していたとのこと。まあ、その話を聞いた時点で私はもうマユに唾をつけていましたけども……。

伊丹十三が死ぬ直前、彼は創価学会と暴力団とのつながりを描いた映画を作ろうとしていたと言われており、今ではその映画の公開を阻止しようとした者の犯行だと疑われています。

実際、彼は過去にも「ミンボーの女」という暴力団の内幕を描いた映画を作っていて、その際に暴力団から暴行を受け、重傷を負っています。

また、尾崎豊にしても伊丹十三にしても、同じく遺書を残しているものの、その遺書の内容があまりに不可解なもので、死を望む人間にあるような切実さ、悲壮感、絶望感が全く伝わってきません。

しかも、彼らは二人とも誰かに殺されたとしか思えないような死に方をしています。
RAPT | 尾崎豊も伊丹十三も、創価学会と関係のある暴力団に殺された。

警察の正式発表は飛び降り自殺の断定であった。
理由は、遺書が残されていたこと、飛び降りたビルの屋上に争った形跡がなかったことだという。
桜田門の怠慢である。師走に起きたどさくさに、こんな弱い物的証拠で自殺と断定したのは許し難い。それどころか少し頭を回せば、他殺の線が濃厚なのだ。殺し屋は最初から自殺と見せかける絵を描いていたはず。だから自殺の証拠だけを残していく。
遺書? 脅かされて時間稼ぎに書いたとしたら。 あるいは、緊迫の状況の中、客観的に殺人劇を楽しむように諦観して書いたとしたら。そして、その遺書には妻・信子にしか分からぬ暗号が書いてあった。伊丹は、身の危険を感じており、何かあった場合、妻にしか分からぬ「暗号」を教えていた。
伊丹十三はこうして殺された。 – 武田じゅうめい 心は孤独な狩人

さて13年前、年の瀬も押し詰まった12月20日、麻布の秀和マンション伊丹事務所に伊丹は一人いた。
佐川急便の配達人によってベルが鳴らされた。伊丹がドアを開けた瞬間、ドアの側に隠れていた男2名を含む3名が押し入り、伊丹の身体をロープで縛り、口には猿ぐつわをかけた。殺気を感じた伊丹は、声を出して相手を鎮めようとしたが、暴漢グループは聴く耳を持たなかった。非人間的な冷酷さを直感した伊丹は、既にその時点で、死を覚悟したのではないか。
最後の時間稼ぎに遺書を書く提案をした。 暴漢もその方が都合が良いと思い許した。
「噂の女性との身の潔白を、死んで証明します」というワープロの遺書が残された。
伊丹は当時、写真週刊誌「フラッシュ」から女性スキャンダルを追いかけられていた。その身の潔白を証明する為の自殺だとする遺書が書かれ、それを持って、警察は覚悟の自殺として発表した。
伊丹十三はこうして殺された。 – 武田じゅうめい 心は孤独な狩人

しかし、その遺書の内容、どう読んでも稀代のインテリであった伊丹らしからぬ、三文歌詞であり、その遺書には殺人を訴えるものが隠されていた。
そもそも女性スキャンダルは伊丹夫婦の間で既に話題になっており、伊丹は、「芸能界だからね、少しは映画の宣伝になるかな」と、笑っていたが、虫の知らせか、もし自分が殺されるようなことになったら、「死をもって身の潔白を証明する」、という暗号を残すシナリオを妻に伝えた。
死後にそのような遺書が出てきたら、自分は自殺ではなく殺されたのだというメッセージであることを妻に示唆した。これは良くできたシナリオだと伊丹自身も気に入っていたのだが、紫煙が揺らぐような少しの不安も同時に覚えていたに違いない。
伊丹十三はこうして殺された。 – 武田じゅうめい 心は孤独な狩人

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2019年07月15日