【歴史】 人は城、人は石垣、人は堀 武田二十四将

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【一期四天王】板垣信方

重臣筆頭
武田信虎を補佐して軍事・外交で活躍し、甲斐国統一に貢献した。
後に他の重臣たちと共謀して信虎を駿河国へ追放し、嫡子晴信(後の信玄)を武田家の当主に迎えた。
晴信政権では甘利虎泰と共に重臣筆頭となった。

武田黎明期の大黒柱

信方は外交でも活躍して武田・今川の同盟を成立させた。

他の重臣たちと共謀して国境を封鎖し、武田晴信を武田家の当主に据えた。
信虎は甲斐への帰還を諦め、今川家に居候した。その後は奈良や京都で第二の人生を送った。

後に武田家を支えた人材の登用など、信方は多くの貢献を行い武田家躍進の基礎固めをした。有名な山本勘助も、板垣信方に見込まれて武田家の家臣になったとされる
板垣信方とは (イタガキノブカタとは) [単語記事] – ニコニコ大百科

統率 79 武勇 66 知略 84 政治 80
信長の野望 創造より

【一期四天王】 甘利虎泰

両翼の一人
若き日の武田信玄を板垣信方とともに支えた両翼の一人と知られている。
「甲陽軍艦」では、「剛の武者」と言われて山本勘助からその采配ぶりを讃えられている。

上田原の戦いにおいて、勢いづく村上軍の攻勢から武田信玄を守って戦死した。

統率 87 武勇 82 知略 67 政治 64
信長の野望 創造より

【五名臣】 横田高松

武篇の者
弓矢巧者で、足軽大将として甘利虎泰の相備えとなり、各地で戦功をあげたという。

砥石崩れ

信玄は、天文19年9月9日(1550年)に信濃村上氏の拠点である砥石城を包囲した。高松も参戦して攻撃を開始するが、難攻不落の様相を呈する天然の要害に手を焼き、武田軍はやむなく退却を始めるが、ここで村上軍が退却する武田軍に襲い掛かり大混乱に陥る。
世に言う砥石崩れであるが、高松は混乱する自軍を殿軍として支えて村上軍を一手に引き受けて戦死する。
横田高松 – Wikipedia

統率 81 武勇 78 知略 62 政治 65
信長の野望 創造より

【道鬼齋】 山本勘助

40歳過ぎの素浪人から軍師へ
武田信玄の軍師として有名である一方、その実像が謎に包まれている戦国時代の武将である。
若い頃は全国各地を放浪しながら、兵法や武芸を習得したが、背が低く片足が不自由で隻眼と風采の上がらない容姿から仕官先に恵まれず、40歳を過ぎても浪人であった。
今川義元への仕官を断られて間もなく、武田家の重臣・板垣信方に見いだされて、武田家当主となったばかりの武田晴信(信玄)に登用される。
低い身分からメキメキと頭角を現し、多くの合戦に出陣。情報収集や城郭建築術に長け、武田家の領土拡大で大いに貢献する。

啄木鳥戦法の失敗

第四回川中島の戦い。戦い前夜、勘助は妻女山に陣を敷く上杉謙信を別働隊が奇襲し、飛び出した上杉軍を待ち構えた本隊と挟み撃ちにして一網打尽にする、いわゆる啄木鳥戦法を献策する。

しかし、この策は謙信に見破られ、別働隊が妻女山に辿り着いた時は、既に陣はもぬけの空。彼らが戻るまで、戦力が半減した本隊だけで上杉軍と戦うこととなる。裏をかかれて武田軍を窮地に追い込んだことを悔やんだ勘助は、責任を感じて上杉軍へ突撃。全身に六十カ所以上の傷を負って壮絶な討ち死にを遂げた。
山本勘助とは (ヤマモトカンスケとは) [単語記事] – ニコニコ大百科

統率 72 武勇 67 知略 95 政治 70
信長の野望 創造より

【五名臣】 小畠虎盛

鬼虎
信虎麾下の足軽大将として甲斐国統一戦や今川氏、後北条氏との戦いで活躍。

今川氏配下の福島正成が甲斐に攻め込んできた際には、先鋒として迎撃の最前線を担ったとされる。それら今川、北条氏との戦功から信虎の偏諱を受けて「虎」の一字を貰い、虎盛と名乗って、その武勇から「鬼虎」と称された。

よく身の程を知れ

遺言の「よく身の程を知れ」は有名。生涯で36回の合戦に参加して貰った感状も36枚、41ヶ所の傷を受けた歴戦の勇将である。
小畠虎盛 – Wikipedia

統率 68 武勇 73 知略 53 政治 33
信長の野望 創造より

【五名臣】 原虎胤

攻城戦の名手
主君・信虎から「虎」の一字を貰い受けて足軽大将として活躍した。

大永元年(1521年)の甲斐飯田河原戦では今川軍の福島正成(北条綱成の実父)を討ち取る功績を挙げる。

攻城戦の名手としても名高く、虎胤の落とした城は補修が最低限で済んだと伝わる。

元祖鬼美濃、夜叉美濃 官位は馬場信春に引き継がれた

武勇名高い猛将で鬼美濃、夜叉美濃と渾名されて畏怖されたが、戦場で負傷した敵将を敵陣まで肩を貸して送り届けたとする逸話が残る、情け深い大将でもあったと伝わる。

死後、虎胤が称した美濃守の官位を馬場信春が引き継いだことも知られている。「(武名の高かった)鬼美濃に肖るべし」という意味もあった。

統率 73 武勇 89 知略 63 政治 23
信長の野望 創造より

飯富虎昌

甲山の猛虎
甲斐・武田氏臣。“甲山の猛虎”と怖れられた勇者。1548年信濃・村上軍らに8千で攻められた時にはわずか8百の兵で撃破した。その後当主信玄嫡男義信の傅役となるが、1565年義信は謀反の罪で捕らえられ、虎昌もこれを示唆したとして処刑された。

元祖赤備え

彼の率いる部隊は全員が赤い軍装で揃えられ、赤備えの先駆けとして名を馳せた。また、精強武田軍団の代名詞ともなった。後に弟・山県昌景や井伊直政、真田信繁(幸村)等が赤備えを倣っている。
飯富虎昌 – Wikipedia

統率 77 武勇 88 知略 62 政治 43
信長の野望 創造より

真田幸隆

真田氏初代
六文銭を旗印に定めてチート一族真田氏のスタートを飾った武将であり、「攻め弾正」の異名で知られる戦国時代の智謀の士。

戦国時代の真田氏といえば、真田幸村の中の人・真田信繁や、徳川家康を手玉にとった真田昌幸が知られているが、そのチート一族初代として弱小の地方豪族から一度は転落した状態から復帰し、最終的には武田二十四将の一人に数え上げられるまでになった真田幸隆の存在があったからこそ、後の真田氏があるといっても過言ではない人物である。

攻め弾正

幸隆の智略と功績は信玄に高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許された。武田家中でも一目置かれていたと言われており、戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。
真田幸隆 – Wikipedia

統率 80 武勇 67 知略 93 政治 73
信長の野望 創造より

【二期四天王】 馬場信春

不死身の鬼美濃
武田傘下の一土豪の立場から、武田信玄の信頼を得て侍大将、家老へと出世していった、まさに現場叩き上げの硬骨な武将といえる。精強な武田軍団の象徴的な人物の一人として現代でも人気は高い。

生涯70度を超える合戦に出陣しながら、長篠の戦いで討死するまでかすり傷一つ負わなかった事から「不死身の鬼美濃」の異名をとる名将である。

長篠の戦いでの殿を務める

長篠の戦い。勝ち目の見えぬ戦に、内藤昌豊・山県昌景と共に撤退すべきだと勝頼を説得するも却下され、3人で最後の盃をかわしたと言われる。

合戦は予想通り武田軍の劣勢となり、戦線が崩壊する中、殿軍を務める(ちなみにこの時点でも相変わらず無傷である)。勝頼が無事戦場を撤退した事を見届けた信春は、踵を返して織田の軍勢に突入。

「ワシを討って手柄とせよ!!」

「不死身の鬼美濃」の壮絶な最期は、信長公記においても「その働き比類なし」と絶賛されている。
馬場信春とは (ババノブハルとは) [単語記事] – ニコニコ大百科

統率 88 武勇 85 知略 88 政治 72
信長の野望 創造より

【二期四天王】 内藤昌豊

流浪の身から侍大将へ
1536年に起きた今川家の内乱「花倉の乱」の戦後処理がもとで、信虎と対立した父が誅殺されてしまう。このため、兄工藤昌祐とともに諸国を流浪したという。

その後、武田信玄によって信虎が追放されると、信玄によって召し出されて工藤氏の旧領に復帰し、50騎持ちの侍大将に。

上野侵攻
「国峰城主の小幡景純は突然のことに対応できない性格」という情報から、夜中に水面下で侵攻し合図とともに一斉に松明や提灯に火を付けて奇襲をかけ、味方の死傷者0で城を落とす。

三方ヶ原の戦い
先陣を任され、本多忠勝隊、小笠原長忠隊を撃破する。

長篠の戦いでの壮絶な死に様

1575年、長篠の戦いで撤退を提案したが、勝頼に退けられる。覚悟を決めた昌豊は、山県、馬場、甘利信康、真田信綱・昌輝兄弟など多くの同僚とともに戦死した。享年54。この時の昌豊の死に様は矢竹が体中に刺さった壮絶な死に様だったという。長篠での大敗以降武田家は滅亡へと向かう。
内藤昌豊とは (ナイトウマサトヨとは) [単語記事] – ニコニコ大百科

統率 82 武勇 74 知略 85 政治 83
信長の野望 創造より

【甲斐武田氏副将】 武田信繁

信玄の弟
甲斐国主・武田信虎の次男として生まれる。初名は次郎。母は、兄・晴信(信玄)と同じ大井夫人で、晴信とは4歳違いだった。
次郎はその容姿と風格、そして器量と従順さを信虎に愛されたとされ、晴信を差し置いて新年の杯を1番目に受けるなど、寵愛されていた。初陣の時期は定かではないが、少なくとも信虎時代には甲斐甲府で留守居を命じられていたため、戦陣へ出る機会はなかったとされている。

その死、惜しみても尚惜しむべし

永禄4年(1561年)9月、第4次川中島の戦いで討死する。享年37。

信玄は、戦死した信繁の遺体を抱くと号泣したと伝えられ、上杉謙信らからもその死は惜しまれたという。武田家臣団からも「惜しみても尚惜しむべし」と評され、もし信繁が生きていたら、後年の信玄と武田義信の対立はなかったといわれるほどである。山県昌景は「古典厩信繁、こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したという(『甲陽軍鑑』)
武田信繁 – Wikipedia

武田信玄の近習として仕えていた真田昌幸は、信繁の武徳にあやかろうと、次男に『信繁』と名付けている。彼が、後に大坂夏の陣で勇名を馳せる真田幸村である。
武田信繁とは (タケダノブシゲとは) [単語記事] – ニコニコ大百科

統率 86 武勇 74 知略 79 政治 80
信長の野望 創造より

https://matome.naver.jp/odai/2152612814624370701
2018年05月14日