絵描こうとしたんすが…どーも上手く遺憾w
なんで今回は絵面なしになりやす(泣)御免なさいまし<(_ _*)>
大怪力の猛将武田光和。六~七人しても張り難き大弓を放ち大内勢を恐怖させる。
舞台は大永四年(1524年)に行われた第一次佐東銀山城の戦いになります。
詳しくは↓下のリンクをご覧あれ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%9D%B1%E9%8A%80%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
陰徳太平記. 合本巻之一 巻之五「武田光和合戦之事」より私訳
①「安芸への大内勢の侵攻。大内義興の嫡子大内義隆と陶道麒率いる二万余の大内勢による佐東銀山城包囲と、対する武田勢の軍議」
先に前フリ。
(大永四年(1524年)、大内義興が防長豊筑の軍勢を率い山口から出陣。岩国の永興寺(現在の山口県岩国市横山)へ陣を取り、ここから二手に分かれて安芸へ侵攻。
大内義興の嫡子大内義隆と陶道麒(陶興房。陶晴賢の父)率いる二萬餘騎は、安芸武田勢が籠る険阻な佐東銀山城を十重二十重に包囲し、義興本人が率いる一萬餘騎は、草津(草津城:現在の広島市西区田方)、二保ノ島(仁保城:現在の広島市南区黄金山町の黄金山緑地)の両城を攻め落とし、三方を海に囲まれた要害の廿日市の櫻尾城(桜尾城:現在の廿日市市桜尾本町。当時の城主は佐伯興藤(友田興藤))を取り囲み息をも継がせず攻め戦う。
この時、毛利元就は尼子方であったので、同じ尼子方の佐藤銀山城に籠る武田光和と桜尾城に籠る佐伯興藤への援軍を尼子氏へ要請するが、尼子経久は伯耆国へ侵攻し山名方の諸城を攻略中だったため、芸州への援軍が遅れる事態となってしまう。
陰徳太平記 合本巻之一 巻之五「武田光和合戦之事」
だが、安芸武田恩顧の熊谷兵庫助、山中佐渡守、香川美作守、香川式部少輔、久村、飯田、山縣、遠藤、福島等の佐藤郡の諸将が、佐東銀山城に入るような挙動を見せつつ坂の上(ここが不明。八木城の香川氏とかの位置関係を考えると、佐東銀山城から川を北に越えた毘沙門台あたりが気になるw)に陣取り、ここでの合戦で大内方の杉一族を破ったため、大内軍による佐東銀山城の包囲も再び膠着状態に陥る)
陰徳太平記 合本巻之一 巻之五「武田光和合戦之事」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E4%BF%9D%E5%9F%8E

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E5%B0%BE%E5%9F%8E
↓ここから原文私訳
武田太郎判官光和は伴五郎(伴繁清さんかな?)、品川左京亮(安芸品川氏は代々左京亮)、小河内左京亮(小河内清信)、同大膳、内藤修理亮、其(その)子彌四郎(内藤繁勝)、其(その)外家の子郎等を召し集め、評定して云(いわ)く
「大内當城を圍(囲)む事、既に月日を經(経)る。
然るに、吾一戰(戦)もせず守城してのみ在(あら)んこと、敵の嘲りを受くる所と云い、又、(父の仇の)元就の思うであろう様も
「光和がこうも臆しているからこそ、父を討たせながら弔い合戰(戦)もせんで年月を經(経)る事よ。(光和は)勇なく義なく孝もなし(笑)」
などと、爪弾きにせられるのも無念である。
いざ(原文:イザトヨ)!敵に挑み一戰(戦)を勵(励む)べし!!」
と、「手分け手配りの次第、各(おのおの)意見を遺さず申されたまえ」と有ったため、
陰徳太平記 合本巻之一 巻之五「武田光和合戦之事」
各(おのおの)は
「御諚(おおおせ)の趣き餘儀無くございます。去り乍(なが)ら、城中は僅かに三千の勢にてございまする。此(こ)の寡を以って敵兵二萬の衆に懸け合わせ、どのようにして勝利を得給うのでよしょうか?」
「さりとて、又一戰(戦)し給ざらんも無下に云い甲斐無くございます乎(かな)」
「…戦わんと欲すれば勝敗の理闇(くらき)に似たり。戰(戦)わざれば勇義少なき所也(なり)」
と衆議左右に分かれて決せざる所に(原文:未レ決所ニ)、内藤彌四郎進み出て、
「用捨(ようしゃ ※1)何れも理有り(原文:有レ理)。只だ先ず足輕(軽)をかけ敵を呼引(おび)き、時宜(よろし)に因って一戰(戦)を遂げられるのも有りだと思いまする(原文:べうもや候はん)。
假令(たとひ)豫(あらかじ)め戰(戦)を遮幾(そき ※2)す共(とも)、敵の備えは堅固にありますれば(原文:候ハバ)、一戰(戦)を擱(さしを)き、勢を打ち入れてしまいましょうぞ(原文:候ナンズ)。
陰徳太平記 合本巻之一 巻之五「武田光和合戦之事」
※1用捨 この場合「(おのおのの)判断」って意味だと思う。リンク貼っておきます。
※2 遮幾 辞書で出ないが、意味を考えるに遮る+幾(いくつ)なので、「(敵に打入らずに)幾つか防戦しようとも」ってとこだと思う。
又(また)、戰(戦)を好まず共(とも)、敵は餌兵に就いて城下近く泛々(うかうか)と働き、「味方勝利也(なり)」と見る所あらば、懸(かか)りて力戰(戦)を遂げられる可(べ)し。
兎角は敵の模様に因り是非拾捨(しゅうしゃ)を決せられよ(原文:候ハン乎(や))」
と申したところ、
光和は
「「變(変)動に常無し。敵に依って轉化(転化 てんか)す(原文:變動無レ常、依レ敵(二)轉化ス ※3)」
と云う(原文:云ヘリ)。
「内藤が申す所、其の理に適當(適当)せり」
と同ぜられたが故、諸士は又(また)異議にばず。
陰徳太平記 合本巻之一 巻之五「武田光和合戦之事」
※3 探してみても似たような諺や故事成語とかは見つからなかったのですが、アホな自分が思い返す限りでは孫子の虚実篇の「無形」からの言葉かな?w
こうして大内勢の大軍に囲まれた佐東銀山城に籠る安芸武田勢は、内藤彌四郎の意見により意を決し、城外へ打って出る事になったといったところでしょうか。
陰徳太平記では光和さんえらいカッコよく書かれてますw
②「佐東銀山城より打って出る」
こうして(原文:カクテ)、同(大永四年(1524年))七月三日、武田光和指麾(指揮)を執って諸士に一禮(礼)し、軍の手分けをせられる。
先ず總(総)軍三千餘騎を五隊に分けられて、内藤修理亮、伴入道、毛木民部太輔は、二百~三百づつ(原文:宛テ)を領して、三隊に分かれて三所(三箇所)に備える。
是(これ)は
「麓の合戦に利を失った場合(原文:失ハバ)、敵が勝ちに乗って北(にげる)を逐(おって)攻め上る事もあるであろう。其(その)時に節所を堅め中に挟んで討つ可(べ)し」
との謀なり。
陰徳太平記 合本巻之一 巻之五「武田光和合戦之事」
偖(さ)て。光和の先陣は伴五郎、品川左京亮、靑(青)木十郎太郎、山縣彦九郎、内藤彌四郎、已下(以下)八百餘騎。
二陣は光和旗本に一條彌三郎、板垣小三郎、壬生次郎四郎、栗屋兵庫助、山下半太夫、佐藤源八、毛木小五郎、已下(以下)一千五百騎、城を出て(佐東銀山城の)南の方へ流れている尾崎に暫く控えられる。
先陣既に麓に下り降って、楯を一面に突き幷(並)べ
「敵かかれ!」
と招いたところ、
大内勢は是(これ)を見て
「すはや!城中より討って出たるは!!あれ追い拂(払)え!!」
という事で、杉伯耆守(次の段を見るとお名前は杉伯耆守重政。おそらくマイナー19の杉興政さんの次男かと。経緯を考えるとこの人=杉重矩さんとなるのか?)、右田左馬助(右田興安)、門田掃部助、同紀伊守、仁保右衛門太夫(時制的には仁保興真さんぽい)、已下(以下)三千騎にて打ってかかる。
陰徳太平記 合本巻之一 巻之五「武田光和合戦之事」
陶安房守(陶弘詮こと右田弘詮はこの戦いの前年に亡くなってるので、この陶安房守は陶隆満かと)、豊田美濃守は二千餘騎にて二陣に進み、先陣引かば入れ替えんとす。
此外(このほか)の諸士一萬許りは、佐藤(佐東)の郷中に充(み)ち萬(み)ちていれば
「さしもの勇将の光和も、此(この)猛勢に蒐(か)け合わせては、いくらなんでも一戰(戦)はせられぬだろう(原文:ヨモ一戰ハセラレジ」
と見えていた。
一番に杉、右田、門田、仁保等、兵鼓を撾(原文フリガナ:カツ 訓読み:うつ)って足幷(あしなみ)を揃え静々と進みたれば、武田勢は楯の陰より鏃(やじり)を揃え散々に射かけるので、寄手は敢えて進み得ざる所に(原文:寄手不レ(ル)得2敢(テ)進1所ニ)、
門田掃部助が手の者、森、坂、谷村(※4)已下(以下)五百許り眞先(まっさき)に進んで鑓を入れたところ、杉、仁保が勢三千騎、押し續(続)いて突いてかかる。
陰徳太平記 合本巻之一 巻之五「武田光和合戦之事」
※4 ここちょっと不思議なのですが、森=毛利、坂=まんま毛利支族の坂氏に見えます。それ考えると谷村氏は伏谷村(今の広島市佐伯区湯来町付近)にいたのかな?この時の毛利元就は尼子方ですが、ひょっとしたら大内氏に近い方の一族は大内氏方についていたのか?疑問が残りますw
武田勢も合わせて懸り(原文:相懸リ)、一懸って(※5)戰(戦)ったのだが、敵は多勢、味方は小勢なれば、少々突き立てられてしまった所に、
内藤彌四郎。日輪の卓物(たてもの 意味:馬印の事かと)に御弊(ごへい ※6)の腰(こちらが旗指物か?)刺して、唯一人踏み止まって戦うのを見て、靑(青)木十郎太郎、横瀬、篠村已下(以下)取って返し、鎗を抛(な)げ入れ散々に防戦す。
内藤は敵四人を突き伏せ、吾身も薄手數(数)箇所を負ったため、已(すで)に討たれるべく見えていた所に、光和が(城内に)千騎をば殘(残)し置きて、自ら五百餘騎を帥(そっ)して、横直違(よこすじかい)に懸けられたので、杉、右田等は忽ち突き崩されて引き退けば、二陣に控えたる陶、豊田が(これに)入れ替える(原文:入リ替ヘタリ)。
陰徳太平記 合本巻之一 巻之五「武田光和合戦之事」
※5 一懸だと思うが一愚にも見えるんだよなぁ…多分「一懸」。読みは「ひとかかって」?おそらく「一」所「懸」命とかと同義かと。
※6 いわゆる神社でよく見るヤツですw詳しくは↓リンクでどうぞ。
言い出しっぺの内藤彌四郎さん大活躍ですのw
そのまま↓光和さんがバケモノっぷりを示すシーンへ続きマスw
③大怪力の猛将武田光和の脅威の弓勢。「千鈞の弩(ゆみ)を易々と放つ大力量」「六~七人しても張り難き大弓を放ち大内勢を恐怖させる」
「音に聞く鎮西の八郎爲朝、保元の古、白川殿へ敵の寄せて来た時猛威を振るわれし形状、能登守教経の八島の磯の挙動もかくはあらじ」
武田光和は千鈞(非常に大きな重さの表現だがw後世判明した一鈞=6800gで計算すると6800㎏つまり6.8tという事になるw)の弩(ユミ ※原文フリガナです)をも易々と放つ大力量なれば、普通の人六~七人しても張り難き大弓に、大矢取って番い、能く引いて兵(ひゃう)と放ちたりければ、
陶安房守が若黨(党)、花坂源左衛門が馬の肩先を横筋違いに射徹(とお)し、後ろに立っていた虗虜者(すはだもの ※7)の真中を「寸(すん)」と抜けてしまった(※8)。
これを見て、あたりに在り合わせていた兵共が舌を巻き恐怖する所に、二の矢には陶道麒が若黨(党)、厚東左吉左衛門が胸板を「究(くつ)」と抽(ぬ)け、後ろに續(続)いていた武者の馬の頸(くび)を射切り、鞍の前輪を草摺(くさずり)かけて射徹(とお)してしまえば、
「音に聞く鎮西の八郎爲(為)朝(源為朝)が保元の古(いにしえ)、白川殿へ敵の寄せて来た時に猛威を振るわれし形状(ありさま)も、能登守教経(平教経)の八島の磯の挙動(ふるまい)もこうはあらんぞ!!(原文:カクハアラジ)」
といって諸人(もろびと)肝を消し、一陣破れて颯(さっ)と引く。
陰徳太平記 合本巻之一 巻之五「武田光和合戦之事」
※7「すはだもの」の言葉の如く、身を守る武具を身に着けていない身分の低い雑兵の事かと。
※8 ここちょっと訳疑問w「真ん中を寸(スン)と抜けてしまった」と音をあらわしている感じにしましたが、 原文は「眞中(まなか)寸ド抜ケタリケリ」寸胴?とも一応取れる。
安房守是(これ)を見て「膩(きた)なし返せ!!」と下知し、頻(しきり)に押し立てて懸ったので、後(のち)には弓箙(ゆみやなぐい)を抛(な)げ捨て、鎗を入れて攻め戦う。
鬨(とき)の聲(こえ)、矢叫びの音、盡(じん)天地(「盡(つきる)天地」という感じかと)も動揺し、須彌山(しゅみせん ※9)も崩れ出でるであろう馬烟(うまけむり)、武者坌(埃 ほこり)、空中に迸散(ひょうさん?orほうさん? ※10)して、日月も光を失い霧中の看(かん)をなしてしまえば、何(いず)れを敵味方とも分かち難し。
武田光和は、己が勇に誇って動きもすれば、小勢にて大勢にかけ向かい戦われた程に、薄手三箇所を負ったのだが(これを)事ともせず、陶が若黨(党)木賊(とぐさ)四郎三郎、浦野小太郎、杉大八、宮野某を先として五度のせり合いに九人迄(まで)突き伏せられた。
内藤彌四郎も戰(戦)い毎に敵を討たずと云うことなし。
中にも小河内左京、同大膳が一族、二百餘人が一手に成り身命を捨てて振舞うので、陶が勢は忽ち崩れて引き退く。
陰徳太平記 合本巻之一 巻之五「武田光和合戦之事」
※9 須彌山 インド神話に出て来るお山。日本だと仏教における世界観において、頂上に帝釈天が住んでいる極楽とか天国を具現化させた現世の遥か上空に位置する神々が住む山みたいなもんw高天原みたいなもんと言った方がいいか?詳しくは↓リンクで。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%BC%A5%E5%B1%B1
※10 迸散 辞書に出てこないのでいまいち読みが分からないwおそらく「ひょうさん」か「ほうさん」かと。意味は「迸」が「ほとばしる」と読めるので「ほとばしるかのように散る」ってとこかと。
是(これ)を見て大内勢陶小太郎を始めとして、防長豊築(筑)の軍兵一萬五千騎入れ代えて戦う。
武田勢は小勢なる故、突き立てられれば後ろの山へ引き籠り、敵續(続)いて攻め上(のぼ)れば岑々(峰々)の尾の上尾の上より散々に射立て、疼(ひる)む所を撞(つ)いてかかる程に、寄せ手は眞(真)っ逆さまに眞(真)繰(まく)り落されて引き退けば、後陣又(また)入れ代えて、
終日の戰(戦)に、大内勢は豊田中務少輔、湯田孫次郎、三浦平太郎、栗原入道、山田、栗田を先として、究竟の兵三百餘を討たれてしまえば、
武田勢にも板垣兵部丞、淺宇津新右衛門、戸谷孫八郎、栗屋小平太、小河内徳阿彌を宗徒(むねと)として、百七十餘人を亡(うしな)ってしまった。
陰徳太平記 合本巻之一 巻之五「武田光和合戦之事」
已(すで)に其(その)日も暮れてしまったので「合戦は是(これ)迄也」ということで、寄せ手が勢を引き擧(挙)げれば、武田勢も進むに及ばず城中へと帰った。
陰徳太平記 合本巻之一 巻之五「武田光和合戦之事」
弓で一発目は馬+人を軽く貫通。二発目は人(胸)+人(首射切る)+馬の鞍の前輪&人の足(草摺)にぶっ刺さるwその超絶な弓勢にビビった大内勢の一陣は崩壊w
更には五度の競り合いで総大将なのに自ら九人討ち取るとw完璧にバケモノですのw
んで、「安西軍記」にも同じシーンの記載があるのでそのまま下へどうぞw
史籍集覧. 第7冊 安西軍策 巻第一「大内藝州銀山櫻尾圍2兩城1事」より抜粋私訳(内容ほぼ被るんでチョットだけw)
(上↑と同じく内藤彌四郎さんの単騎奮戦のあと、討たれそうになった内藤さんを武田光和自らが五百騎で横槍を入れ救い、大内勢は武田さんにやられて崩れた杉、右田勢に入れ替えて陶安房守等を進ませたところ…)
↓ここから本文私訳。
~武田は六七人にても張りかねたる大弓にて、楯も鎧もたまらず一矢に馬人三重計(みかさねばかり)。(それを)二筋三筋射貫くを見て、敵怖畏(ふい 意味:畏怖と一緒)して「颯(さっ)」と引く。
安房守押し返し、太刀、鑓(槍)入れ違えて稠(おおい)に戰ったところ、武田も薄手を負ったが、五度の懸合(かけあい)に陶が若者を七人まで突き伏せなさる。
こうして(原文:カクテ)日も暮れてしまえば(両勢)相引きに(自陣に)打ち入る。
大内方では(原文:ニハ)豊田、湯田を先として能(よき)兵三百餘騎打たれれば、城兵も百七十餘人討死してしまった。
史籍集覧. 第7冊 安西軍策 巻第一「大内藝州銀山櫻尾圍2兩城1事」
安西軍記も大体内容一緒です。出てくる人物がちょっと違い細かい登場人物が居ないぐらいかな?
原文は「楯も鎧もたまらず」の後「一矢ニ馬人三重計二筋三筋射貫ヲ見敵怖畏テ颯ト引」なのですがwまあその超威力が分かり易い一文ですw
やはり武田光和さんはバケモノですのwww死後に大魔王になっただけはあるw
リンク集。
安芸武田勢
豪傑すぎるボスw
一応時制的には合ってるので、文中の伴五郎はこの人じゃあないかとw
今回大活躍のお人w
大内勢
陶道麒さん。
陶安房守さん。父ちゃんも「安房守」。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E7%94%B0%E6%B0%8F
右田さん無くて貼れないんで右田氏でw
仁保氏もw

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B0%8F
杉氏まででいいかw
その他リンク。

https://matome.eternalcollegest.com/post-2143466031530055601
武田光和さんはこちらに先に記載してあります。

https://matome.eternalcollegest.com/post-2143687468298574301
一覧。


