【閲覧注意】世界で行われた恐ろしい大量虐殺

ぎん猫

魔女狩り

推定死者数:4万~6万人
魔女または妖術の被疑者に対する訴追、裁判、刑罰、あるいは法的手続を経ない私刑等の一連の迫害を指す。

かつて魔女狩りといえば、「12世紀以降キリスト教会の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」というように言われることが多かった。このような見方は1970年代以降の魔女狩りの学術的研究の進展によって修正されており、「近世の魔女迫害の主たる原動力は教会や世俗権力ではなく民衆の側にあり、15世紀から18世紀までに全ヨーロッパで推定4万人から6万人が処刑された」と考えられている。日本語では「魔女」と称されるため誤解されやすいが、犠牲者の全てが女性だったわけではなく、男性も多数含まれていた。
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毛沢東政権の虐殺

■大躍進政策

推定死者数:2千万~5千万人
1958年から1961年までの間、中華人民共和国が施行した農業・工業の大増産政策である。

毛沢東は数年間で経済的にアメリカ合衆国・イギリスを追い越すことを夢見て実施した。しかし結果は、過大なノルマによる中国経済の大混乱と、推計1,000万人から4,000万人の餓死者を出す大失敗に終わり、毛沢東は生涯でただ一度の自己批判を行って、国家主席を辞任した。その後は中国共産党中央委員会主席毛沢東に代わって劉少奇国家主席・鄧小平総書記などが修正主義的路線による経済再建を目指すが、権力奪還を企図する毛沢東の動きがこの後の文化大革命を引き起こすことになる。
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■文化大革命

推定死者数:数百万~1千万人
中華人民共和国で1966年から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた社会的騒乱である。全称はプロレタリア文化大革命、略称は文革(ぶんかく)。

名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治・社会・思想・文化の改革運動だった。しかし実際は、大躍進政策の失敗によって国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲った毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、民衆を扇動して政敵を攻撃させ失脚に追い込むための、中国共産党の権力闘争であった。
文化大革命 – Wikipedia

これにより1億人近くが何らかの損害を被り、国内の大混乱と経済の深刻な停滞をもたらした。
文化大革命 – Wikipedia

ポル・ポト政権の虐殺

推定死者数:80万~200万人

ポル・ポト政権は、「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と唱えて、政治的反対者を虐殺した。国民は「旧人民」と「新人民」に区分され、長期間クメール・ルージュの構成員だった「旧人民」は1976年まで共同体で配給を受け自ら食料を栽培できたが、プノンペン陥落後に都市から強制移住された新参者の「新人民」はたえず反革命の嫌疑をかけられ、大量殺戮の犠牲となった。
民主カンプチア – Wikipedia

1977年からは「新人民」全てが全面的に虐殺の対象になり、当初こそ特権的な暮らしを享受した「旧人民」も1978年から全面的に虐殺の対象になった。同時にポルポトの幹部も大量虐殺の対象になった。
民主カンプチア – Wikipedia

インディアンの虐殺

推定死者数:200万人

■サンドクリークの虐殺

推定死者数:400~500人
1864年11月29日にアメリカのコロラド地方で、米軍が無抵抗のシャイアン族とアラパホー族インディアンの村に対して行った、無差別虐殺。

ブラックケトルは自分のティーピーに星条旗を掲げ、その下に白旗を掲げた。しかし米兵は突然、インディアンたちの馬を蹴散らし、発砲した。ブラックケトルはインディアン戦士と白人の間で小競り合いがあったので、見せしめでこのような示威行為に出ているものと思い、部族民に平静にするよう呼びかけた。しかし、米軍は川向こうから大砲を、彼らの野営に向けて撃ち始めたのである。
サンドクリークの虐殺 – Wikipedia

■涙の道

推定死者数:4000人
1838年にアメリカ合衆国のチェロキー族インディアンを、後にオクラホマ州となる地域のインディアン居留地に強制移動(Population transfer)させたときのことをいう。このとき、15,000名いたチェロキー族のうちおよそ4,000名が途上で亡くなった。

チェロキー族の「涙の道」は、1830年の「インディアン移住法」の規定に基づいて署名されたニュー・エコタ条約の実践として起こった。条約は東部のインディアンの土地とミシシッピ川以西の土地との交換を取り決めたものであったが、インディアンの選ばれた指導者達にもチェロキー族の大多数の人々にも受け入れられてはいなかった。
涙の道 – Wikipedia

それにもかかわらず、条約は時のアメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンによって実行に移され、西部に出発する前に合衆国軍が17,000名のチェロキー族インディアンを宿営地にかり集めた。死者の多くはこの宿営地での病気で倒れた。最初の集合の後は、合衆国軍の役目は限られたものになり、チェロキー族が移動の大半の監督を担当した。
涙の道 – Wikipedia

剣闘士

推定死者数:350万人
古代ローマにおいて見世物として闘技会で戦った剣士。名前の由来は、剣闘士の一部がローマ軍団の主要な武器でもあったグラディウスと呼ばれる剣を使用していたことから来ている。日本では英音に基づくグラディエイターも用いられる。

剣闘士となる者の大半は戦争捕虜や奴隷市場で買い集められた者たちで、反抗的なために主人に売り飛ばされた奴隷が多かった。何らかの理由により自由民が志願するケースもあり、研究者の試算によると剣闘士10人中2人が自由民であった。
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また、犯罪者も剣闘士として闘技場に送られた。剣闘士は勝ち続ければ富と名声を得ることもできたが、一方でローマ人たちからは「堕落した者」「野蛮人」「恥ずべき者」(インファーミス)と見なされており、その社会的地位は低く売春婦と同類と見なされ、奴隷の中でも最下等の者たちとされ蔑まれた。
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ホロコースト

推定死者数:510万~650万人
第二次世界大戦中のナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺を指す。元来はユダヤ教の宗教用語にあたる「燔祭」(獣を丸焼きにして神前に供える犠牲)を意味するギリシア語で、のち転じて火災による大虐殺、大破壊、全滅を意味するようになった。

1933年のナチ党の権力掌握以降、反ユダヤ主義が国是となったナチス・ドイツにおいては様々なユダヤ人、共産主義者に対する迫害が行われていた。第二次世界大戦の勃発後、ナチス内部には「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決」を行おうとする動きが強まり、ドイツ国内や占領地のユダヤ人を拘束し、強制収容所に送った。
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収容所では強制労働を課すことで労働を通じた絶滅を行い、また、占領地に設置された絶滅収容所においては銃殺、人体実験、ガス室などの直接的な殺害も行われ、1943年以降は絶滅収容所の導入など、殺害の手段を次第にエスカレートさせていったとされる。親衛隊は強制収容所の管理を担うとともに各地でユダヤ人狩りを行い、東部戦線ではアインザッツグルッペンが活動した。
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ホロドモール

推定死者数:400万~1650万人
1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた各地域でおきた人工的な大飢饉である。

この大飢饉が当時のソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンによる計画的な飢餓ではないかとする議論が長年続いていた。2006年にウクライナ議会は、「ウクライナ人に対するジェノサイド」であると認定した。また、米英など西側諸国においても同様の見解が示されており、ソビエト連邦による犯罪行為であるとしている。
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十字軍

推定死者数:300万人
中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。

十字軍はキリスト教圏の諸侯からなる大規模な連合軍であった。宗教的な情熱が強かったはずの第1回十字軍ですら、エデッサ伯国やアンティオキア公国などの領土の確立に走る者が出ており、第4回十字軍に至っては、キリスト教正教会国家である東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現イスタンブール)を攻め落としてラテン帝国を築くなど、動機の不純さを露呈している。のみならず、同じカトリックの国であるハンガリーまで攻撃し、教皇に破門宣告されている。
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ドイツ人追放

推定死者数:50万~200万人
第二次世界大戦末期およびその後に、ナチス・ドイツの領土および占領地に以前から居住もしくは移住したドイツ人が、ソビエト連邦および東欧・中欧の反枢軸国政府によって国外追放された一連の出来事を指す。

ソ連当局の命令による「死の行進」と、戦後の混乱状況で発生した山賊行為、飢餓、伝染病によって多数の人々が亡くなった。また、強制移住措置を待つ人々を待機させるための強制収容所での過酷な環境で死亡した者も多い。 ポーランドでは1960年までにドイツ人のほとんどは去り、国外追放前に20万人のポーランドのドイツ人は共産主義の収容所で強制労働をしいられた。ドイツ連邦公文書館は、1974年にポーランド強制労働収容所でのドイツ人死亡率は20–50%、6万人以上が死去と推定している。
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アルメニア人虐殺

推定死者数:100万人
19世紀末から20世紀初頭に、オスマン帝国の少数民族であったアルメニア人の多くが、強制移住、虐殺などにより死亡した事件。ヨーロッパ諸国では、特に第一次世界大戦に起きたものをオスマン帝国政府による計画的で組織的な虐殺と見る意見が大勢である。

アルメニア人たちは徒歩で乾燥した山地を越えてシリアの砂漠へと向かう強制移住に駆り立てられた。ユーフラテス川沿いのシリア砂漠の町デリゾールへと向かう厳しい移動の中で少なからぬアルメニア人が命を落としたことはおそらく間違いない事実であり、トルコ共和国もそれは否定していない。また無防備なところを現地のトルコ人・クルド人部族の民兵による「報復」にさらされたりしたこともあったと見られる。
アルメニア人虐殺 – Wikipedia

奴隷貿易

推定死者数:900万~1100万人
国際間の奴隷の取引を指す。

アフリカにとって奴隷貿易の開始は、現代までに続く外部勢力による大規模な搾取・略奪そのものと言われるが、現実には奴隷狩りを行い、ヨーロッパ人に売却したのは現地アフリカの勢力である。奴隷貿易によりアフリカは社会構造そのものが破壊されてしまった。これに貢献したコンゴ王国、ンドンゴ王国、モノモタパ王国などは衰退の運命を辿った。
奴隷貿易 – Wikipedia

チベット動乱

推定死者数:120万人
中華人民共和国政府のチベット統治、支配に対し、アムド地方、カム地方における「民主改革」「社会主義改造」の強要をきっかけとして1956年に勃発し、1959年に頂点に達したチベット人の抗中独立運動のことである。中国政府はチベット反乱と呼ぶ。

2006年には、この大量虐殺、人道に反する罪、国家テロ、拷問の嫌疑は、スペインの法廷によって取り調べられた。2006年9月30日に起きたナンパラ峠襲撃事件をきっかけにチベット系スペイン人の活動団体 Tibet Support Committee of Spain (CAT) と Fundacion Casa Del Tibet(チベットハウスファンデーション)が提訴、スペイン最高裁判所は普遍的管轄権(普遍的司法権の原則)に基づき「チベット人ジェノサイド事件」として受理した。
チベット動乱 – Wikipedia

アボリジニ狩り

推定死者数:100万人
1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。

虐殺の手段は、同じくスポーツハンティングや毒殺、組織的なアボリジニー襲撃隊も編成されたという。数千の集団を離島に置き去りにして餓死させたり、水場に毒を流したりするといったことなども行われた。
アボリジニ – Wikipedia

これによりアボリジニ人口は90%以上減少し、ヴィクトリアとニューサウスウェールズのアボリジナルの人口は、10分の1以下になった。さらに1876年には、タスマニア・アボリジナル最後の生存者である女性のトルガニニが死亡して、多い時期で約3万7千人ほどいた純血のタスマニアン・アボリジニが絶滅した。
アボリジニ – Wikipedia

ルワンダ虐殺

推定死者数:50万~100万人
1994年にルワンダで発生したジェノサイドである。1994年4月6日に発生したルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の暗殺からルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧するまでの約100日間に、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派によって、多数のツチとフツ穏健派が殺害された。

1994年4月7日に開始されたジェノサイドでは、ルワンダ軍やインテラハムウェ、インプザムガンビといったフツ民兵グループが、組織的行動として捕らえたツチを年齢や性別にかかわらず全て殺害した。また、フツ穏健派は裏切り者として真っ先に殺害された。フツの市民は虐殺に協力することを強いられ、ツチの隣人を殺害するよう命令された。この命令を拒んだものはフツの裏切り者として殺害された。
ルワンダ虐殺 – Wikipedia

大粛清

推定死者数:68万人~
ソビエト連邦(ソ連)の最高指導者ヨシフ・スターリンが1930年代にソ連邦および衛星国のモンゴル人民共和国等でおこなった大規模な政治弾圧を指す。

ソビエト連邦共産党内における幹部政治家の粛清に留まらず、一般党員や民衆にまで及んだ大規模な政治的抑圧として悪名高い出来事である。ロシア連邦国立文書館にある統計資料によれば、最盛期であった1937年から1938年までに、134万4923人が即決裁判で有罪に処され、半数強の68万1692人が死刑判決を受け、63万4820人が強制収容所や刑務所へ送られた。ただしこの人数は反革命罪で裁かれた者に限る。
大粛清 – Wikipedia

しかしながらこのロシア連邦国立文書館の公表した統計報告書の数だけがソ連の粛清の犠牲者のすべてではない。過酷な取調べ・尋問の過程で死亡した者や、有罪判決を受けて劣悪な環境下で服役中に死亡した者の人数については正確な統計が残されていないため、その人数を合わせれば死亡者数は増大するはずである。
大粛清 – Wikipedia

9月30日事件

推定死者数:50万人
通称9・30事件とは、1965年9月30日にインドネシアで発生した軍事クーデターである。

スカルノから治安秩序回復の全権委任を得たスハルトの主導のもと、クーデター首謀者とされたウントゥンや事件に関与したとして共産主義者、約50万の人々、特に40万人の華僑に対する集団虐殺が起きた(華語教育や文化活動も同時に禁止された)。
9月30日事件 – Wikipedia

20世紀最大の虐殺の一つとも言われ、50万人前後とも、最大推計では300万人とも言われるその数は、今日でも正確には把握されていないが、こうした残虐な大虐殺は、1965年10月から1966年3月ごろまでスマトラ、ジャワ、バリで続いたと見られる。インドネシアの国民的作家プラムディヤ・アナンタ・トゥールもこのとき拘束され、以後長い獄中生活を強いられることになった。
9月30日事件 – Wikipedia

ダルフール紛争

推定死者数:30万人
スーダン西部のダルフール地方で継続中の紛争。特に近年のものはダルフール地方の反政府勢力の反乱を契機に、スーダン政府軍とスーダン政府に支援されたアラブ系の「ジャンジャウィード」(Janjaweed, Janjawid, Jingaweit)と呼ばれる民兵の反撃が、地域の非アラブ系住民の大規模な虐殺や村落の破壊にまで発展したものである。

双方が民間人に対する大量虐殺・略奪・強姦を含む人権侵害に関与したとして非難されている。しかしながら、直ちに優勢を得たのは武装で上回るジャンジャウィードの方だった。
ダルフール紛争 – Wikipedia

2004年の春までに(ほとんど非アラブ人口の)数千人が殺され、100万以上の人々が家を追われ、その結果、地域に大きな人道上の危機が引き起こされた。10万人以上の難民がジャンジャウィードの民兵に追われ、隣接するチャドに流れ込んだことで、この危機には国際的な要素も加わった。
ダルフール紛争 – Wikipedia

米比戦争

推定死者数:20万~150万人
アメリカ合衆国とフィリピンの間で1899年-1902年に起きた戦争である。

1901年9月28日、サマール島でバランギガの虐殺(英語版)が発生。小さな村でパトロール中の米軍二個小隊が待ち伏せされ、半数の38人が殺された。アーサー・マッカーサーは報復にサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じた。少なくとも10万人は殺されたと推定されている。またマッカーサーはアギナルド軍兵士の出身者が多いマニラ南部のバタンガスの掃討を命じ、家も畑も家畜も焼き払い、餓死する者多数と報告された。
米比戦争 – Wikipedia

黄河決壊事件

推定死者数:100万人
日中戦争初期の1938年6月に、中国国民党軍が日本軍の進撃を食い止める目的で起こした黄河の氾濫である。

堤防破壊の後遺症として1942年に河南省で干ばつが起こった際に飢饉が発生し、道端には凍死者と餓死者があふれ、飢えから屍肉が食べられたと伝えられる。
黄河決壊事件 – Wikipedia

日本への原子爆弾投下

■広島市への原子爆弾投下

推定死者数:16万6千人
第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍が日本の広島市に対して世界で初めて核兵器「リトルボーイ」を実戦使用した出来事である。

■長崎市への原子爆弾投下

推定死者数:7万4千人
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に対して投下した、人類史上実戦で使用された最後の核兵器である。

国民防衛軍事件

推定死者数:9万人
朝鮮戦争中の1951年1月に、韓国の国民防衛軍司令部の幹部らが、国民防衛軍に供給された軍事物資や兵糧米などを横領した事件。横領により9万名余りの韓国軍兵士が餓死したとされる。

防衛軍司令部の幹部達は、国民防衛軍のために編成された軍事物資や兵糧の米などを、不正に処分・着服した。その結果、極寒の中を徒歩で後退する将兵に対する物資供給(食糧・野営装備・軍服)の不足が生じ、9万名余りの餓死者・凍死者と無数の病人を出す「死の行進」となった。
国民防衛軍事件 – Wikipedia

ノヴゴロドの虐殺

推定死者数:6万人
当時のノブゴロドの人口4分の3にあたる約6万人もの住人が拷問の末虐殺されたとされ、死体は氷の浮いたヴォルホフ川に葬られ、その後何日も運ばれて流される何万とも知れぬ遺体のために溢れかえり、ラドガ湖の底はおびただしい遺骸で厚い層を成したと記録に残っている。

済州島四・三事件

推定死者数:6万人
1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の右翼青年団などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。

南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による大粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた。また、この事件は麗水順天の抗争の背景にもなった。
済州島四・三事件 – Wikipedia

マニラ大虐殺

推定死者数:10万人
マニラの戦い (1945年)において発生したとされる虐殺事件のこと。

この10万人はマニラの戦いを通じてのフィリピン人犠牲者の数とほぼ同数であり、その犠牲者の大半は日本軍に殺されたとする主張であるが、アメリカ 軍の無差別砲爆撃の犠牲者も多数にのぼった。
マニラ大虐殺 – Wikipedia

ヘレロ・ナマクア虐殺

推定死者数:2万4千~10万人
ドイツ領南西アフリカ(現・ナミビア)においてドイツ帝国が先住民族に対して行った虐殺。アフリカ分割の動きの中の1904年から1907年にかけて行われ、20世紀最初のジェノサイドと考えられている。

この虐殺の特徴は、1つは餓死であり、もう1つはナミブ砂漠に追いやられたヘレロ族とナマクア族の使用する井戸に毒を入れたことによる中毒死である。
ヘレロ・ナマクア虐殺 – Wikipedia

長沙大火

推定死者数:2万~3万人
日中戦争中の1938年11月13日午前2時、湖南省長沙において中国国民党軍によって起された放火事件である。中国語では文夕大火(ぶんせきたいか)とも呼ばれる。人口50万の都市であった長沙は、火災により市街地のほとんどを焼失した。

二・二八事件

推定死者数:1万8千人~2万8千人
1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、中国国民党政権(外省人(在台中国人))による長期的な民衆(当時はまだ日本国籍を有していた本省人(台湾人)と日本人)弾圧の引き金となった事件。

1947年2月27日、台北市で闇菸草を販売していた本省人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。
二・二八事件 – Wikipedia

南京大虐殺

犠牲者数:不明
1937年(昭和12年)12月の南京戦において日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間もしくは最大で2か月以内にわたって、当時の日本軍が中国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵、そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行を行ったとされる事件。戦後南京軍事法廷や極東国際軍事裁判で告訴された。

この事件については、事件の規模、虐殺の存否、戦時国際法違反か、犠牲者数などさまざまな論争が存在している(南京事件論争)。故に事件の真相はいまだ不明である。
南京事件 (1937年) – Wikipedia

ヴィルヘルム・グストロフ号沈没

推定死者数:9千人
1945年1月30日にゴーテンハーフェン(現ポーランドのグディニャ)の港から東プロイセンの避難民や傷病兵を乗せて出航した後にソ連海軍の潜水艦に撃沈され、海事史上最大の犠牲者を出した。

魚雷攻撃から約1時間後の22時15分頃、ヴィルヘルム・グストロフは沈没し、多くの人々が凍る海に投げ出された。この時期のバルト海の水温は通常摂氏 4℃だが、この日はとりわけ寒さの厳しい日で、気温はマイナス10℃からマイナス16℃にまで下がり、海上には氷が漂っていた。
ヴィルヘルム・グストロフ (客船) – Wikipedia

スレブレニツァの虐殺

推定死者数:8千人
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで1995年7月に発生した大量虐殺事件である。

スレブレニツァの虐殺は第二次世界大戦以降、ヨーロッパで最大の大量虐殺である。2004年、ハーグにある旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)での「検察官対クルスティッチ(Prosecutor v. Krstić)」の裁判において、満場一致のもと、スレブレニツァの虐殺はジェノサイドであると認定された。
スレブレニツァの虐殺 – Wikipedia

アムリットサル事件

推定死者数:1500名
1919年4月13日、インドのパンジャーブ地方アムリットサル(シク教の聖地)でスワデーシー(自分の国の意で国産品愛用)の要求と、ローラット法発布に対する抗議のために集まった非武装のインド人市民に対して、グルカ族およびイスラム教徒からなるインド軍部隊が無差別射撃した事件。

女性や子供も参加し、非武装で暴力的行為も無かったこの集会の参加者に対してイギリス人のレジナルド・ダイヤー准将率いるグルカ兵からなるイギリス領インド帝国軍一個小隊が乗り込み、いきなり参加者に対する発砲を始めた。さらに避難する人々の背中に向けて10分から15分に渡って弾丸が尽きるまで銃撃を続け、1,500名以上の死傷者を出した。この後、戒厳令が発令され、暴動は一気に収束したが、この弾圧によってインドの反英運動は激化することになった。
アムリットサル事件 – Wikipedia

老斤里事件

推定死者数:300人
朝鮮戦争中の1950年7月に起きたアメリカ軍による韓国民間人の虐殺事件。第25師団長ウィリアム・B・キーン少将による7月26日の「戦闘地域を移動するすべての民間人を敵とみなし発砲せよ」という命令に基づき行われた。

ソンミ村虐殺事件

推定死者数:500人
ベトナム戦争中の1968年3月16日、アメリカ軍兵士がクアンガイ省ソンミ村(現:ティンケ村)で非武装のベトナム人住民を虐殺した事件。ソンミの虐殺はベトナム反戦運動のシンボルとなり、また国外でも大きな批判の声が起こってアメリカ軍が支持を失うきっかけとなった。

1968年3月16日に、南ベトナムに展開するアメリカ陸軍のうち第23歩兵師団第11軽歩兵旅団・バーカー機動部隊隷下、第20歩兵連隊第1大隊C中隊の、“意地悪カリー”ウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソン・ティン県にあるソンミ村のミライ集落(省都クアンガイの北東13km、人口507)を襲撃し、無抵抗の村民504人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子ども173人)を無差別射撃などで虐殺した。
ソンミ村虐殺事件 – Wikipedia

この際、ヒュー・トンプソン・ジュニア准士官が操縦するOH-23偵察ヘリコプターが村落上空を通りがかり、多数の死者と民間人への攻撃を目撃した。彼は上官への報告・救助ヘリの派遣要請・生存者の救出を行い、さらにC中隊の狼藉を止めるため、上空から攻撃すると脅している。
ソンミ村虐殺事件 – Wikipedia

暗黒の5月事件

推定死者数:300人
1992年にタイ王国で発生した事件である。

国王ラーマ9世は武力衝突を憂慮し、スチンダーと民主化運動の指導者チャムロン・シームアンを王宮に呼び事態の沈静化を指示した。
暗黒の5月事件 – Wikipedia

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