【三国志】 現代社会人にも役立つ魏の影の総責任者 ~総監督 趙儼~

KatesHero

☆趙儼☆

卓越した折衝能力

個性豊かな魏の名将・名参謀の大監督役

魏全軍の総指揮者


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趙儼伯然
趙儼は全ての魏の武将たちの調整役。名将軍に名参謀・・・ゴロゴロいるわいるわの曹操軍、これをまとめるのはかなり難しい。凄腕の集まりだからみんな自分こそが一番と我を出してしまう。それをまとめていたのがこの趙儼。

27歳のときに曹操に仕える

戦乱を避けて荊州に避難し、杜襲・繁欽と一緒に暮らした。曹操が許に献帝を迎えた報せを受けると、仕えることを決意。197年、27歳のときに許都へ赴いた。曹操から朗陵県長に任命され、刑罰と恩愛を上手く使い民心を安んじた。
趙ゲン – Wikipedia

厳格な性格

李通の親族を処刑したことがあったが、李通にはかえって評価され、親交を結んだという(『三国志』魏志「李通伝」)。
李通 (文達) – Wikipedia


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李通

武勇に優れ、侠気で知られていた。曹操に仕えた。

朗陵において陳恭と共に兵をあげ、近隣の周直という豪族と対立すると、周直の殺害を一人で計画し、宴席で周直を殺害した。その軍勢を手に入れた。さらに黄巾党の大物指導者の呉覇を降伏させ、その軍勢を手に入れた。飢饉が勃発すると部下や兵士と食料を分け合って飢えを凌いだ。

皇帝を擁立する曹操の傘下となり、振威中郎将に任命された。曹操が張繍を攻撃した時、劉表が張繍の援軍に来たので負け戦になった。この時、李通が援軍に来たので曹操はまた戦うことができた。李通は先陣を切って戦い、張繍軍を散々に撃破した。

小説『三国志演義』では、ほぼ名のみの登場である。

民の人心掌握術

袁紹が豫州の諸郡に対し、味方になるよう誘いをかけると、多くの郡がそれに応じたが、陽安郡だけは動揺しなかった。この時、李通は曹操への支持を明らかにするため、急いで徴税を実施しようとした。しかし趙儼は民心の悪化を慮り、李通には徴税の手を緩めるよう忠告した上で、荀彧に手紙を送り措置を相談した。荀彧は租税を全て民達に返還してもよいと返答した。このため民が措置に感激し、郡内が安定した。
趙ゲン – Wikipedia

調整役の初仕事

趙儼は中央に戻り司空属官の主簿となった。この時、荊州の劉表に備えるため、于禁・楽進・張遼達が各々に軍を潁陰・陽翟・長社の地に分屯させていた。彼等の仲が悪かったため互いにいがみ合うこともあったが、趙儼は参軍となり于禁らを統制した。
趙ゲン – Wikipedia

于禁
曹操が張繍に敗れた時、夏侯惇配下の青州兵が略奪を働き、これを鎮圧したことで曹操から激賛される。官渡の戦いでは後詰、赤壁の戦いでは水軍都督となる。

人材マニアの曹操のもと、優秀な人材が増えていく魏

曹操は特に人材に重点を置き、なるべく人材を正確に評価し、適任と見ればできるだけ差別なく有能な人物を抜擢し、次々と手配していきました。そして魏という大国基盤を築いた頃になると大勢の有能な人物が曹操の下で活躍している状態になりました。
トロッコ -雑記

荒くれ者があふれる魏の武将たち

優秀な将校ほど個性も激しく、それぞれの言い分が一致するはずがなく、ただ有能な人材で軍隊を固めるというだけではうまくいくはずがありませんでした。特に軍部では、実際には実力の面で甲乙つけがたい将校がたくさんおり、皆、内心では自分が一番強いと自負しているような将校ばかりでした。誇り高い将校たちはことあるごとに張り合い、揉め始め、将校同士で険悪な関係になりがちでした。これではせっかく優秀な人材を集めても、支障なく軍隊を機能させる事は難しくなってきます。
トロッコ -雑記


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多すぎる個性あふれる魏の武将
司馬懿、郭嘉、張遼、夏侯惇、荀彧、徐晃、張遼、龐徳、夏侯淵、夏侯惇、典韋、許褚、賈詡、張郃、于禁、曹仁、程昱、曹彰、李典、楽進、満寵、曹植、鐘繇、曹洪、許攸

そんな中、目をつけられた、、、

趙儼という男


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趙儼伯然

曹操が評価した、余計な事をしない趙儼の人柄

・手柄や存在感を欲しがらない
・人に責任を押し付けない(責任だけは負おうとする事ができる)
・高い地位に就いても思い上がらない(異動しても文句を言わない)
・仮想敵の設定をしない。権威保身ばかりの人脈を求めない
・周囲に流されない
・ひがまない。仕返ししようとしない
・勝手な格付けをしない
・好んで支配しない。優位に立とうとしない

http://www.trocko.jp/memo/memo201112.html

七軍を統括 (于禁・張遼・張郃・朱霊・李典・路招・馮楷)

208年、曹操が荊州を征伐すると、趙儼は章陵太守を兼任、都督護軍となり、于禁・張遼・張郃・朱霊・李典・路招・馮楷の七軍を統括した。後に丞相主簿へ戻り、扶風太守を任された。
趙ゲン – Wikipedia

諸軍の統括役に任命される

211年、曹操は潼関の戦いで馬超・韓遂らを破ると、降伏した軍を平南将軍の殷署に纏めさせると共に、趙儼を関中護軍とし、諸軍全ての統括を委ねた。彼は羌族の侵攻や呂並の反乱を鎮圧した。

樊城の戦い

219年、関羽が曹仁を攻撃すると、趙儼は曹仁の軍事に参画することになり、徐晃と共に進撃した。趙儼が「兵力の足りない現状では援軍を待ち、包囲に苦しむ曹仁殿と連絡をとることが重要だ」と進言したため、地下道と矢文を使って、幾度か曹仁と連絡をとった。関羽軍の包囲が厳しかったが、更なる援軍を得た上で戦に勝利した。

さらに孫権軍が関羽の輜重を奪ったため、関羽を撤退させることができた。関羽を追撃すべきかどうかが議題となった時、趙儼は「孫権に脅威を与える材料として、関羽を生かしておくべきだ」と述べた。曹仁はこれを受け入れ、戦闘態勢を解除した。後に曹操も、同様の追撃中止命令を出していたようである。
趙ゲン – Wikipedia

関羽
言わずと知れた三国志の名将

軍師として

222年、呉の孫権が揚州に侵攻すると、曹休が五州の軍の統率者となって撃退することになった。この時、趙儼は曹休の軍師を務めた。呉軍が撤退すると宜土亭侯となり、さらに度支中郎将・尚書へ昇進した。その後も曹丕の広陵侵攻に随行し、撤退後もそのまま留まって征東軍師となった。
趙ゲン – Wikipedia

最後まで順調に出世し最高位官職を歴任

曹叡(明帝)の時代には都郷侯に封じられ、領地も600戸増やされた。監荊州諸軍事・仮節となったが、病気のため赴任せず尚書に再任された。やがて監豫州諸軍事になり、大司馬軍師となった。後に中央へ戻り、大司農となった。

曹芳(斉王)の時代、監雍涼諸軍事・仮節になり、征蜀将軍となった。またさらに位が進んで、征西将軍・都督雍涼諸軍事となった。243年、老齢のため中央へ召還され、驃騎将軍・司空に昇進した。
趙ゲン – Wikipedia

こんな華々しい活躍をする趙儼だが、、、

『三国志演義』には登場しない。

評価を見直すべき武将の一人

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2018年05月21日