沢田義一さん『雪の遺書』に見る北海道大学メンバーの雪崩事故。

misukiru
沢田義一さん『雪の遺書』に見る北海道大学メンバーの雪崩事故についてまとめました。雪崩が起こった後も生き残って遺書を書いた沢田義一さんの記録です。この予測できない巨大雪崩は、避けられない山岳遭難であったとされています。

◆1965年 北海道大学6名が雪崩で死亡

パーティーは1965年3月11日に入山した。3月13日には札内川より十の沢左岸の尾根に到達したようである(遺品のカメラに記録されていた写真より推定)。現地は13日昼頃から無風大雪となり14日未明まで続いた。14日未明、露営中に大規模な雪崩に遭遇する。
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札内川十の沢北海道大学山岳部遭難事件は、1965年(昭和40年)3月14日に北海道大学山岳部(沢田義一リーダー)6名が日高山脈札内川上流の十の沢付近で大規模な雪崩に遭い遭難した事件。参加パーティー6名全員が死亡した。
札内川十の沢北海道大学山岳部遭難事件 – Wikipedia

◆1965年3月11日から入山

登山口の途中にある「日高山岳センター」

1965年3月11日から24日までの14日間(行動9日、停滞5日)に渡る春山登山計画として立案された。北海道大学山岳部では登山計画についてよく検討したうえで登山本部に届出。
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万一事故が起きた場合でも北大内に留守本部を設置し、OB等がすぐ出動できる動態をとっていた。
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沢田義一 – リーダー。農学部4年
中川昭三 – アシスタントリーダー。文学部4年
橋本甲午 – 農学部4年
松井作頼 – 教養部1年
坂井文寛 – 教養部1年
田中康子 – 教養部2年

北札内―札内川―十の沢左岸の尾根―国境稜線―カムイエクウチカウシ岳―神威岳(カムイ岳)―幌尻岳―トツタベツ川―八千代下山
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カムイエクウチカウシ山 から幌尻岳を縦走する9日間の冬山登山です。登り始めて2日目、カムイ山に向かう札内川上流の十の沢で猛吹雪に遭ってビバークしました。雪崩に遭わないよう、安全な場所を選んで雪洞を彫りました。しかし、幅100メートル、長さ3キロ、40万トンにおよぶ大雪崩が襲ったのです。
47年前、雪崩跡から見つかった「雪の遺書」 めい展・じゃあなる/ウェブリブログ

◆1965年6月より再捜索

6月1日よりパトロールが行われ、6月13日13時10分ついに沢田義一の遺体を発見するに至った。遺体は直径2m深さ1mの雪洞状の穴に、右手を下にして斜めうつ伏せの状態であった。右のポケットより「処置・遺書」と書かれている地図を発見した。
札内川十の沢北海道大学山岳部遭難事件 – Wikipedia

地図の裏には2,000字を超える遺書が書いてあり(雪の遺書)、沢田リーダーは雪崩のデブリのなかで4日間生存していたことが明らかになった。6月16日テントが発見され、沢田リーダー以外の5名全員の遺体が発見された。
札内川十の沢北海道大学山岳部遭難事件 – Wikipedia

澤田さんが書いた遺書のコピー

雪の遺書
澤田義一(リーダー)

三月十四日(?)の深夜ニ時頃、突然ナダレが雪洞をおそい、皆寝ているままにして埋めてしまった。
皆は最初の一しゅんで死んだようだったが、私は、幸いにして口のまわりに間隔があったのを次第に広げて、ついにナタで横穴をニメートル近く掘って脱出しようとしたが、外はデブリで埋まっているためか、一向に明るくならずついに死を覚悟する。

お母さん、お父さんごめんなさい。一足先に行かしてもらうだけです。きっと、何かに生まれ変わってくるはずです。その時お母さんお父さんを見守っているはずです。

生は10%ぐらいだろう。十七日朝八時。
お母さん本当にごめんなさい。今まで育ててくれたつぐないをなさずに、先に行ってしまうなんて。
今は比較的落ち着いています。仲間が皆そばで眠っているせいでしょう。後一週間くらいならこのまま寝て待っていられるのだが、二十五日ごろ騒ぎだして、捜索隊がここにつくのは早くて二十九日。そしてここが見つかるかどうかも疑問だ。十三日にここであった山スキー部のパーティが、一緒に来てくれれば分かり易いのだが、あの時あいさつしておけばよかった。向こうのパーティも知らん振りしていってしまった。

昌子姉へ、お母さんお父さんのことよろしく。
お母さん今死んでしまうなんて残念だ。切角背広も作ったのにもうだめだ。
(「北の山脈」17号・1975年3月掲載  ネット「雪の遺書」から)

お父さんの詠んだ歌
「 義 一 」 澤田己之助
就職のきまりしときの喜びは いまもなおわがまなかいにあり
(昭和40年3月)
妻ときて悲しみあらたなり あたらしき背広の服を子の部屋にみて
(昭和40年3月)
おん身いま日高山なみ深き谷に 焼かるる夜をわれは眠れず
(昭和40年6月)
北のはて日高の谷の山旅に わらじも足に馴れて下りぬ
(昭和40年8月)
子の死してすでに十年を過ぎにしを 憶いつつ生く老いらくの身は
(昭和50年3月)
「北の山脈」17号(昭和50年3月15日)より

◆登山家の遺書として雑誌に掲載

文藝春秋2002年1月号の特集記事「遺書魂の記録」(1)
文藝春秋2002年1月号の特集記事「遺書魂の記録」(2)

◆関連リンク

https://matome.naver.jp/odai/2147981305957012601
2019年04月18日