閲覧注意です。
殺人ピエロ ジョン・ウェイン・ゲイシー
1942年3月17日 – 1994年5月10日
アメリカ合衆国生まれの連続殺人者。子供たちを楽しませるため、パーティなどでピエロに扮することが多かったことからキラー・クラウン(殺人道化、殺人ピエロ)の異名を持つ。
ジョン・ゲイシー – Wikipedia
上記の3点の絵はジョン・ウェイン・ゲイシーが描いたものであり、
コレクターには人気となっている。
ジョニー・デップもゲイシーの描いたピエロの絵を持っているとか。
ちなみにスティーブン・キングのホラー小説「IT」のモデルにもなっている。
それほどまでに(悪い意味で)影響の大きかった殺人鬼である。
ジョン・ウェイン・ゲイシーは1942年3月17日イリノイ州シカゴで生まれた。
彼はその名に当時のハリウッドスター、(※1)ジョン・ウェインの名をつけられているように父からの期待を一身に背負って生まれた。
(※1)上記がハリウッドスターのジョン・ウェイン。
連続殺人鬼は家庭環境が複雑だったりするが、彼の場合は父親が原因の一端を担ったといっても過言ではないといえる。
ポーランド系の父親とデンマーク系の母親の間に生まれる。父親である叩き上げの熟練機械工、ジョン・スタンリー・ゲイシーは貧しさの中で育ち、「人には負けない」、「弱みを見せてはならない」という人生哲学を持っていた。父スタンリーには、脳内の手術が不可能な部位に腫瘍があり、発作的な癇癪を起こすなどその情緒は極めて不安定で、やり場の無い怒りが突如湧き上がることもあり、しばしば自分の家族に矛先を向けた。
ジョン・ゲイシー – Wikipedia
ジョン・ゲイシーは幼少の頃に心臓疾患があると診断されて以来、父であるジョン・スタンリー・ゲイシーに見限られ、度々虐待を受けながら育ってきた。そして病弱な彼に向かって「クズ」「間抜け」「親の気を惹いてやがる」などの辛辣な言葉を放った中に「お前は同性愛者になるのさ」という罵りは皮肉にもやがて真実へと姿を変えるのであった。
商人の寝言: 【閲覧注意】殺人ピエロ ジョン・ウェイン・ゲイシー(John Wayne Gacy)
ジョンは心臓の発作ばかりかパニック障害もわずらうようになった。
度重なる虐待への不安からジョンはストレスや身体の不調を必死に我慢し続けて失神するようになる。
失神の直接的な原因は病院でもわからず診察した医師はこれを「再発性の失神症」と表現した。
いずれにしても精神的なものであったことは想像に難くない。
医師のアドバイスを受けてジョンの母な父スタンリーにもっと息子を大事に扱うように懇願したのだが、スタンリーは「あのガキはああやって親の気を惹いていやがる」
と吐き捨てたという。
ある日、息子のふがいなさに激怒したスタンリーはジョンの目の前でジョンが可愛がっていたバルと言う名の雑種犬を射殺した。
ジョン・ウェイン・ゲイシー
こうやってジョン・ゲイシーはだんだんと歪んでいったのだろう
こんなに虐待を受けて、心身共に父親からボロボロにされていたのに、ジョン・ゲイシーは必死に父親の期待に添いたい、愛されたいと父親から褒められる事を目標にしていた。
職業訓練校に編入し優秀な成績を上げたことで、怠学補導教官の助手として事務室で働くように勧められる。この頃のジョンは、父スタンリーの気を惹くように、スタンリーお気に入りの民主党立候補議員の応援をする。だが兵役審査で病歴があったことで免除になると父は息子を再び罵倒するようになった。
ジョンは、18歳の時、当時の女友達と性交に及ぼうとして意識を失う。それを知ったスタンリーは、「お前の中のオカマが登場した」と言ったという。最終的には家を追い出されたが、それでもジョンは自身を罵倒し続けた父親を心から愛しており、いつか父親に認めてもらおうと一生懸命に働き続けた。
ジョン・ゲイシー – Wikipedia
のちにジョンを診察した精神分析医は彼をこう表現している。
「彼は人に非難されたとき決まって言い逃れしようとする。どんなに不利な状況でも責任転嫁をし自分に都合のいいように物事を解釈する」
管理人はこのジョンの父親への依存をストックホルム症候群の亜種というべきものではないかと疑っている。
ストックホルム症候群とは犯人と人質が閉鎖空間で長時間非日常的体験を共有したことにより高いレベルで共感し、犯人達の心情や事件を起こさざるを得ない理由に同情したりして
人質が犯人に信頼や愛情を抱くようになる症状を言う。これは犯人に対して反抗や嫌悪で対応するより、協力・信頼・好意で対応するほうが自分の生存確率が高くなるため起こる
心理的反応が原因と説明されている。
ジョンも自分の虐待を少しでも減らすべく逆に父に依存していったのではないだろうか。
ジョン・ウェイン・ゲイシー
ジョン・ゲイシーの職歴
1962年(二十歳)、ゲイシーは父の車を貸してもらおうとして口論となり、「タイヤの空気を入れてくる」と言い残しラスベガスへ家出し、母が引き取りに来るまでの3ヶ月間葬儀屋のアルバイトを勤めた。昼間はここで死体に防腐処置を施すための血抜きを手伝い、夜は死体を安置している処置室の隣に置いてある簡易ベッドで寝起きした。
ジョン・ゲイシー – Wikipedia
その後シカゴへ帰郷したゲイシーは、ビジネスの専門学校へ進んだ。卒業後は大手靴販売店のセールスマンとして就職。入社して間もなく抜群の営業成績を上げたことで、若くしてエリアマネージャーに抜擢された。またゲイシーは青年会議所の有力会員でもあり、会議所の貯蓄販売券の販売でも優秀な成績を残し、その2年後には州全体で3番目の活動実績を挙げたとして第一部長に就任している。
ジョン・ゲイシー – Wikipedia
妻(マリリン)の父親が所有していたケンタッキーフライドチキンの3店舗のマネージャーを兼任するようになり、ビジネスに地域活動に八面六臂の活躍をし、人望も厚かったゲイシーは青年会議所の次期会長選出が確実視された。ビジネスマンとして多忙を極める中にあっても1年間で青年会議所の多数のプロジェクトを立案・実行にあたる。また、地元でのボランティア活動にも積極的に加わり、常に精力的に動き回るゲイシーをいつしか周囲は「眠らない男ゲイシー」と畏敬の念をこめて呼び、会頭候補にまで登り詰めた。
ジョン・ゲイシー – Wikipedia
1964年22歳の時にマリリンという女性と結婚してアイオワ州に移ります。
同性愛への目覚め
18の時にガールフレンドと初めてそういう関係になったゲイシーは、ペッティング中に癲癇の発作を起こして気を失ってしまう。それ以来、彼は女性に対してある種の恐怖心を抱くようになった。
殺人博物館〜ジョン・ウェイン・ゲイシー
セールスマン時代に酔った勢いで同僚と男色関係を結び、そっちの世界にのめり込んで行く。フライドチキンの店長になってからは、アルバイトの少年たちに常習的に手を出すようになっていたのだ。
殺人博物館〜ジョン・ウェイン・ゲイシー
つまり、結婚中も・・・
1度目の逮捕 1968年ジョン・ゲイシー26歳のとき
1男1女にも恵まれ、あんなに否定的だった父も彼のことを認め始めた矢先に・・である。
同性愛関係にあった15歳の少年ドナルド・ヴァリューズに少年への性的虐待の罪で訴えられ禁錮10年の刑を宣告された。
ジョン・ウェイン・ゲイシー
その間に妻(マリリン)と離婚。
実刑判決を受けて収監されるが、わずか7ヶ月で高校卒業の資格を取り、さらに大学の通信教育で心理学などの単位を取得する。また刑務所内の青年会議所の法律相談員として、待遇の改善に関する2つの法案を州議会に通した。実績と模範囚として態度を買われたゲイシーは懲役10年の判決にもかかわらず、わずか16ヶ月で出所となり、イリノイ州に戻った。
ジョン・ゲイシー – Wikipedia
シリアルキラーはIQが高い者が結構いるが、ジョン・ゲイシーもIQが高かったそうだ。
ところがジョン・ゲイシー(27歳)が服役中に父親が肝硬変で死亡。
ゲイシーは目標を失った。
そして殺人鬼への変貌
釈放から半年後、ゲイシーは少年に対する暴行容疑で再逮捕される。しかし原告が裁判に姿を見せなかったことで不起訴となった。その秋より、ゲイシーはパーティーで知り合った少年をあさるようになる。その翌年の1月のある夜、自分の「拾った」青年とベッドをともにする。早朝に目を覚ますと、その青年がナイフを持って立っているのを見て恐怖からパニックを起こし、格闘の末刺し殺してしまった。青年はゲイシーのためにサンドイッチを調理しており、彼はナイフを持ったままゲイシーを起こそうとしたのだった。これに大きく混乱したゲイシーは死体を床下に隠した。これ以降、殺人が習慣となっていく。
ジョン・ゲイシー – Wikipedia
1971年、彼はシカゴのノーウッドパークに家を購入し、リフォームなどの建築ビジネスに参入してたちまち成功を収める。
さらに高校時代からの知人キャロルと結婚したちまち地域の名士的存在になりおおせた。
ジョン・ウェイン・ゲイシー
そしてジョン・ウェイン・ゲイシーにはもう一つの顔もありました。ピエロに扮して小児病棟や養護施設をまわるチャリティー活動に力を入れ、地域から絶大な信頼を得ていたのです。ピエロのポゴは街中の子供たちの人気者でした。ポゴになりきるためゲイシーはピエロの正式な資格も取得。ポゴの最も得意とするのは手錠のマジック。実はこのマジックは獲物をおびき寄せる殺しのトリックでもありました。しかし、それを知らない人々にとって地位と名誉を併せ持つジョン・ウェイン・ゲイシーは憧れの存在でした。
ジョン・ウェイン・ゲイシー 33人を殺害した殺人ピエロ|実録FBIプロファイラー – テレビのまとめ
殺人の手口
ゲイシーは少年たちを家に誘って強姦した後に殺害した。被害者を誘う手口は「ポルノを観ないか」と誘って地下室に連れ込み、手錠を掛けて動きを封じ凶器で脅しながら性交し、その後、多くの殺害方法は少年達が首にかけていたロザリオにボールペンをいれゆっくりねじって首を絞めて殺害するというものであった。死体は床下に埋葬しその上に石灰を撒く。時には塩酸をかけることもあった。
ジョン・ゲイシー – Wikipedia
シリアルキラーは好みに合った特定のタイプを狙います。ジョン・ウェイン・ゲイシーの理想のタイプは15歳~25歳の若い男性で、その中からターゲットを探していました。若い獲物をおびき寄せることは人気企業の社長であるゲイシーにとってたやすいことでした。ゲイシーは面接の後、契約の話をしながらお祝いの酒をすすめ、酔ってふらふらになったところでピエロのポゴに扮し、いつも通り手錠のマジックを披露。そして相手に「手錠のマジックができたら100ドルあげる」と言います。ここで断れば殺人ピエロから逃げることができました。実際に数人の若者が魔の手から生き延びています。しかし、ここで手錠マジックに挑戦すると手錠は全く外れません。そしてロープを首にかけ、ロープの端に棒をまきつけギリギリと回しながらしめていきました。この手口には相手の苦しむ姿を見るという目的がありました。青年の首を絞め、ほとんど意識がなくなる寸前にロープを緩め意識を戻させ、それを何度も繰り返すことでゲイシーは快楽を得ていたのです。
ジョン・ウェイン・ゲイシー 33人を殺害した殺人ピエロ|実録FBIプロファイラー – テレビのまとめ
結婚し、子供もいたのによくもこんな残酷な事が出来たのだな・・
実業家であり、子供たちにも人気であった表の顔とは裏腹にジョンは少年を殺害し続けていた。
1975年に妻キャロルとの離婚が成立するとジョンの殺害ペースは一気に倍増した。
たちまち床下は少年の死体で埋め尽くされ、捨て場に困ったジョンはなんと川へ死体を流し始めた。
ジョン・ウェイン・ゲイシー
キャロルとの結婚の7ケ月前に、彼は既に最初の殺人を犯していたのだ。そして、1976年3月に離婚してからは、毎月のように殺し始めた。時には1日に2人殺すこともあったという。殺人博物館より
事件の発覚
1978年、ゲイシーの会社のアルバイトの面接へ行ったまま行方不明になった15歳の少年、ロバート・ピーストの行方を追っていたデス・プレーンズ警察の警部補ジョゼフ・コゼクサックがゲイシーの家を訪ねた際に様々な遺留品があることに気づいた。
ジョン・ゲイシー – Wikipedia
1978年ついにというべきか、ジョンはアルバイトの面接にいった少年が行方不明になった件で州警察にマークされてしまう。
すでに民主党の有力な支持者として政治力まで持っていたジョンは人権侵害であるなどと主張して警察の追求を避け続けたが、彼を疑った警部補ジョゼフ・コゼクサックは
ジョンが綿密な尾行の結果彼がマリファナをガソリンスタンド従業員に渡していた事実を突き止め、麻薬物不法所持の容疑でジョンを現行犯逮捕。
そして念願の家宅捜索令状を手にする。
ジョン・ウェイン・ゲイシー
自供を受けてゲイシー宅の強制捜査が行われた結果、29人は石灰で覆われた家の床下から発見された。死体は床下できちんと整頓されたように埋められていた。他の4人は床下にスペースがなかったので近くのデス・プレーンズ川に捨てたことが明らかになった。ロバート・ピーストの遺体もそこから引き揚げられた。被害者の多くは男娼であり、数人は彼の会社でアルバイトをした10代の青年、最も若かった犠牲者は9歳で、20歳の元海兵隊員の青年が一番年齢の高い犠牲者であった。状態が悪かったために身元がわからない遺体も9体あった。
ジョン・ゲイシー – Wikipedia
床下に埋められた死体は全てが腐敗しきっており、発生していたメタンガスに現場の警官たちは激しい目眩と吐き気を覚えた。余りに腐臭が凄まじく、一度臭気に触れた衣服は臭気が染みついて洗浄不能になったうえに衛生面でも危険とされたため着用不可能となり焼却処分された。さらに、土中に埋められていた死体が空気に触れたことで再び腐り始めた。衛生局の分析で命に関わる危険な物質が大量に発見され、さらには毒性の強い細菌が検出された。このため郡は現場の捜査員たちに、作業用に使い捨てのジャンプスーツを支給し、傷の自己申告を徹底させ傷を申告をした捜査官を現場から外し、全員に髭を剃ることを禁止した。警察署の死体保管所はガス室と化した。
ジョン・ゲイシー – Wikipedia
すさまじい・・
そしてついに殺人ピエロ、ジョン・ウェイン・ゲイシーは逮捕されました。33人もの青年を殺したゲイシーには死刑判決が下されました。
しかし、ゲイシーは自らの財力と知恵をいかし何度も上告を重ね、死刑執行を先延ばしし優雅な生活を送っていました。市民は死刑執行を訴えるデモを続けました。
ジョン・ウェイン・ゲイシー 33人を殺害した殺人ピエロ|実録FBIプロファイラー – テレビのまとめ
そんな時に最後の被害者ジェイソン・モスとの出会う
1975年アメリカネバダ州にて生まれる。10歳で大統領顕彰の成績優秀学生賞を受賞。ネバダ州立大学を首席で卒業した.。
チャールズ・マンソン・デビッチ・バーコウィッツ・ジョン・ウェイン・ゲーシー・テッド・バンディ・ヘンリー・リー・ルーカス・ジェフリー・ダーマーシリアルキラー達と 文通・面会を行う。
the last Victim *ジェイソン・モス*
モスが シリアルキラーの興味をひくために行ったことがある。それは 自分を殺人者たちの境遇に似せて演じる事だった。
同性愛者であるゲーシーには自分には同性愛者の気があるかもしれないように手紙に書き また親との確執さえも演じてみせた。
恐ろしい猟奇殺人者をコントロール出来てる自分に酔うモスだが 反対に自分がどんどん泥沼に沈んでいくのに気付くのはまだまだ後からだった。
ゲーシーは旅費等自分が持つので面会に来てほしいと言い出す。両親は反対するが モスは好奇心には勝てず矯正施設に向かう。
その時はそこで最悪の事態にあうとは想像もしていなかった。
the last Victim *ジェイソン・モス*
IQの高い殺人者は人を操る事は造作もないことだそうだ。
しかし情欲を抑えきれなくなったゲイシーは、彼を34人目の被害者にしようと企む。模範囚としての信用を利用して、仕切りなどがない面会室において看守抜きでの面会(本来は規則違反)を取り付け、少年と2人きりでの面会が叶い、彼を監視カメラの死角に誘い出して犯行に及ぶも、間一髪で看守が通りかかったことで未遂に終わった。この犯行が決定的となり、再審請求は取り下げられた。
ジョン・ゲイシー – Wikipedia
その後、シェイソン・モスは連続殺人者たちとの文通などはやめ、著書「連続殺人犯」を出版して弁護士になったが、2006年6月6日にネヴァダ州ヘンダーソンの自宅で自殺。
犯罪者の闇に飲み込まれたのだろうか。
ついに1980年3月13日、ゲイシーは死刑を宣告。1994年5月10日に薬物注射により処刑。
1980年3月13日、ゲイシーは死刑を宣告され、1994年5月10日に薬物注射により処刑された。その際に手違いが生じたのか、ゲイシーは窒息するまで意識を失わず、絶命するまで18分もかかった。つまり、彼は苦しみながら死んだのである。この件について、検察官のウィリアム・カンクルはこのようにコメントしている。
「被害者の多くはもっと苦しみながら死んだのだ。これでもヤツには不足なぐらいだ」
殺人博物館〜ジョン・ウェイン・ゲイシー
ゲイシーの最後の晩餐
揚げたエビ(12尾)、ケンタッキーフライドチキン(自作レシピ)、フライドポテト、イチゴ(450グラム)
最後の晩餐 死刑囚 ジョン・ウェイン・ゲイシー 52才 – ネットの力で風化STOP 未解決事件を追う












