大河ドラマ「真田丸」に出てくる真田家の家臣団のその後の運命について、まとめてみました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー本ページはNHK大河ドラマ「真田丸」のネタバレが含まれています。
「真田丸」の結末を知りたくない方は、閲覧しないでください。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
真田 信尹(さなだのぶただ・真田昌幸の弟)
1584年から徳川家康に仕え、兄・昌幸が北条家から徳川家に乗り換える際には間を取り持っている。徳川家では5000石を与えられ、後に1万石に加増されるが浪人する。一時、会津の蒲生氏郷に使えるが、1598年(慶長3年)に再び徳川家康に甲斐で4000石を与えられて帰参。
1600年の関ヶ原の戦い、1614年の大坂の陣で御使番・軍使として功績を挙げ、それにより1200石を加増されて5200石になる。その後は幕臣として徳川家に仕えた。
1632年(寛永9年)5月4日に病死。享年86。墓所は山梨県北杜市長坂町長坂上条の龍岸寺。
子孫は代々旗本として幕府に仕え、明治維新まで存続した。
出浦 昌相(いでうら まさすけ)
真田信之に仕え、慶長7年より出浦対馬守を称している。関ヶ原の戦いのあとは、上州吾妻郡の長野原もしくは岩櫃城近くの群馬原町に住んだ。
最期は1623年8月18日に78歳で死去。法名は「円光院正辺信西」。
子の出浦幸吉は、松代藩で1000石を領する家老となっている。
高梨内記
関ヶ原の戦い以降は真田昌幸・信繁につき従い、九度山へ移った。昌幸死後ほとんどの家臣は九度山を去り旧領の上田に戻ったが、内記は息子とともに九度山に残り、信繁の大坂入城にも付き従った。
最後は1615年、大坂夏の陣にて信繁と共に討死している。
矢沢頼幸(やざわよりゆき・矢沢三十郎頼幸)
関ヶ原の戦い後には真田家当主となった真田信之に仕え、大坂の役では信之の代わりに出陣した子(信政、信吉)らを補佐した。
1626年(寛永3年)3月21日に死去。法名は「武明院殿峰厳泉雄居士」。
子孫は松代藩筆頭家老の家柄として続いた。
堀田 興重(ほった おきしげ・通称は作兵衛)
第二次上田合戦後は真田昌幸・信繁らには従わずに上田に残った。大阪の陣で真田信繁(幸村)が大阪城に入ったと聞くと信濃から49人の同志を連れて大阪城へと駆けつけた。
真田信繁と共に「真田丸」にて奮戦するも大阪冬の陣にて討死した。
河原 綱家(かわはら つないえ)
真田昌幸が九度山に配流された後は、昌幸の長男真田信幸に仕えた。
1634年(寛永11年)7月21日没。法名は「陽春院殿華 長閑大居士」。
高台院(寧々・北政所)
1603年(慶長8年)、秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾。朝廷から院号を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称した。
1624年(寛永元年)10月17日、高台院屋敷にて死去。享年については76、77、83などの諸説がある。
墓所は京都市東山区の高台寺。遺骨は高台寺霊屋の高台院木像の下に眠っている。
徳川家康
大坂夏の陣の翌年、1616年1月に鷹狩に出た先で倒れ、4月17日巳の刻(午前10時頃)に駿府城において死亡した。
阿茶局(あちゃのつぼね)
大坂冬の陣において、常高院・大蔵卿局と会見して和議の成立に尽力した。
家康の死後に雲光院と号したが、剃髪はせず、秀忠の没後に正式に剃髪したともされる。
1637年(寛永14年)に83歳で死去し、雲光院(東京都江東区三好)に葬られた。戒名は雲光院殿正誉周栄大姉。
徳川秀忠
1616年(元和2年)に家康が死去した後は将軍親政を開始し、幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易。武家諸法度を制定し、大名・公家ともに取り締まり、江戸が世界有数の都市になる礎を作った。
1623年(元和9年)に将軍職を嫡男・家光に譲る。しかし幕府内での権力は持ち続け「大御所政治」を行った。
1632年(寛永九年)、江戸城西の丸にて死去。享年53歳。











