■今も影響を与え続ける1980年代「漫才ブーム」
1980年、『THE MANZAI』の初回が放送された。出演する漫才師をはじめ、会場のセット、観客、演出にいたるまで、流行を意識した番組作りが当時の若者のハートをキャッチ。ほどなく“MANZAIブーム”となり、ツービート、B&Bらが一気にスターダムへと躍り出た。
大喜利とバラエティー番組の50年(1)『笑点』とMANZAIブーム | ORICON STYLE
翌年には、伝説的番組『オレたちひょうきん族』スタート。裏番組『全員集合』に対抗し、ビートたけし、明石家さんまがぶつかりあう“アドリブによる笑い”を仕掛け、壮絶な戦いを繰り広げていった。
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番組が終了して26年たった今なお、たけし、さんまは笑いの神様だ。そして、“ひょうきん族”を観て育ち、芸人になりたいと思った者たちが今その夢を叶えて、バラエティー番組の柱となっている。
お笑いを変えた「オレたちひょうきん族」 他局だろうがパクる面白さ – ライブドアニュース
MANZAIブームの落とし子の一つとして生まれたのが「笑ってる場合ですよ!」(1980〜1982)である。「笑っていいとも」の露払いをしてお昼の時間帯のバラエティ視聴という土地を耕した番組である。
<多様性なきバラエティ?>80年代のMANZAIブームと現在の芸人ブームの明らかな違い
現在日本の芸能界におけるお笑い部門の頂点に立つ吉本興業のトップが大﨑洋氏。漫才ブームをしかけ、ダウンタウンを輩出した吉本興業の養成所「NSC」の立ち上げに大きく関わった。
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■その中でも突出していたのが、B&Bの島田洋七
洋七は、75年に3人目の相方・島田洋八と組んだ“三代目”B&Bでブレイク。漫才ブームを牽引した当時、19本ものレギュラー番組を持っていた。
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人気の点で頭一つ抜け出していたB&B。
<多様性なきバラエティ?>80年代のMANZAIブームと現在の芸人ブームの明らかな違い
島田洋七はテンポの速さが身上である。もちろんタダ早いだけでなく、タイミングが良い、ネタ自体はたいしたことがなくてもリズムで爆笑を取る。
<多様性なきバラエティ?>80年代のMANZAIブームと現在の芸人ブームの明らかな違い
ビートたけしも「洋七のしゃべりは誰もかなわない」と絶賛する。
芸能界復帰への動きも……? “盟友”島田洋七が明かす、島田紳助の現在 – エキサイトニュース(1/2)
紳助は、第一次漫才ブームで一世を風靡した「B&B」洋七のしゃべくりの絶妙さに感激し、洋七の弟弟子として、お笑いの世界に入ったという。
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■横山やすしからたけしを紹介された洋七
洋七は、”漫才ブーム”の前に故・横山やすしさんからたけしを紹介されて、彼と付き合うようになった。
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横山やすし師匠がね、「東京にオモロイ芸人がおるから、(島田)洋七、会わせたるわ」って。「たけしっちゅうヤツや」って。若手の頃のたけしさんが、「はじめまして」って。「ツービートで漫才やってます」「B&Bです」って。
ビートたけし、若手時代に「欲しい物は何?」と質問された時の答え「おいら、芸が欲しいな」 | 世界は数字で出来ている
やすし師匠が、2人を置いて帰ってんって。「売れたら、何が欲しい?」って話になって。洋七師匠は、「俺は、カネ欲しいなぁ…たけし、お前は何が欲しいねん?」「おいら、芸が欲しいや」って。
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■銀座に二人で2000万円持って豪遊 女性関係も互いに熟知
ブームで売れて、大金が入った洋七とたけしは、お互い2,000万円を抱えて、初めて銀座の高級クラブに遊びにいった。
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ビートたけしさんがすっごい稼いでる時に。売れない時に銀座で豪遊するのが夢だったから、100万使おうが300万使おうが何とも思わないのに、酔っ払った勢いで、洋七師匠と一緒に寄ったコンビニで、ホウレンソウのおひたしが300円したのに激怒っていう(笑)
伊集院光 深夜の馬鹿ラジオ | 2012年07月16日 第873回 月曜JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力 その4 | 月曜JUNK 伊集院光 深夜の馬鹿力
たかじんさんと30年来の親交があった島田洋七。「銀座のクラブを5軒ハシゴして飲んだことがある。たかじんが来たのが土曜日だったから、銀座のクラブはほとんど休日。たけしは休みのホステスたちをかき集めて、たかじんとカラオケを楽しんだ。」
島田洋七が語った故・やしきたかじん&ビートたけし銀座豪遊秘話 – エキサイトニュース(1/2)
ふたりは、およそ7年同居していたため、女性関係も熟知。歴代の愛人をすべて言え、嫁&マスコミ対策も講じあった。
豪快コンビ、たけしと洋七 – ライブドアニュース
■たけしが逮捕された時も見放さなかった洋七
たけしの”フライデー事件”の裁判中に、たけしがマスコミの目を避けるために沖縄の石垣島に逃避行した際、洋七が頻繁に訪ねて、砂浜で延々と語り合い、潮が満ちて、膝が水に浸かるのに気づかないほどだったという。
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『フライデー襲撃事件』
1986年、ビートたけしがフライデーの取材姿勢に対して怒り、たけし軍団を引きつれて講談社編集部を襲撃、暴行した事件(懲役6か月、執行猶予2年)。
石垣島へ心配して駆けつけ、「寂しくなったら電話してや」と自宅へ…戻ったと思ったらじきにたけしから電話が…「会いに来てくれ」「えっ、今から~?」そう言いながら折り返したけしの元を訪ねる。
徹子の部屋 島田洋七「佐賀のがばいばあちゃん」 日々雑感/ウェブリブログ
当時について「唯一、洋七だけが仕事の合間を縫って何度も来てくれた。それも自腹。一生忘れないよ」と語っている。
映画『龍三と七人の子分たち』舞台挨拶を買った出た島田洋七が語る北野武監督とのヤンチャな過去 – リアルライブ
■洋七を支えたのもたけしだった
「その後、(ビート)たけしさんに声をかけてもらって『北野ファンクラブ』や『平成教育委員会』に出してもらって、2年ぐらい忙しくなりました。」
島田洋七「“佐賀のがばいばあちゃん”出版エピソード」 | アサ芸プラス
仕事がヒマな時代、夕食の準備して、たけしさんの帰りを待っていた「女房役」時代。
ほぼ日刊イトイ新聞 -担当編集者は知っている。
「たけしさんにばあちゃんのエピソードを話したら『本にして出せ』と。それで自費出版することになったのが、『佐賀のがばいばあちゃん』です」
島田洋七「“佐賀のがばいばあちゃん”出版エピソード」 | アサ芸プラス
洋七からは親交の深いビートたけしとのエピソードも続々。芸人を辞める相談をした際に「芸人辞めるんだったら友達やめる」と告げられたこと。
島田洋七がたけしとのエピソード披露「極上空間」 – お笑いナタリー
新人の頃の出会いから、漫才ブーム、頂点を極めた日々、フライデー事件、バイク事故、失意のとき、復活……と、互いに励まし合いながら栄光と挫折を重ねて、今ますます深い絆で繋がった二人。
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『THE MANZAI』
やすしきよし(横山やすし&西川きよし)