■朝永振一郎(ともなが しんいちろう)って誰?

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日本の物理学者。
朝永振一郎 – Wikipedia
東京生まれで京都育ち。
朝永振一郎 – Wikipedia
生誕 1906年3月31日
朝永振一郎 – Wikipedia
死没 1979年7月8日 (満73歳没)
朝永振一郎 – Wikipedia
■…….で、どんなことした人?
湯川秀樹に次いで、日本では2人目のノーベル賞受賞者となった。
「朝永振一郎(1906~79)」(1965年 物理学賞) – エピソードで知るノーベル賞の世界
受賞理由は、やはり「極微の世界の理論構築」に貢献したことにある。
「朝永振一郎(1906~79)」(1965年 物理学賞) – エピソードで知るノーベル賞の世界
■では具体的になにをしてノーベル賞の受賞に至ったのか?
それまでの物理学では、粒子の世界を説明するにあたって、それぞれの粒子ごとに固有の時間があるものとして、そこから方程式を導き出そうとしていた。しかし、それではうまく理論化できなかったのである。
「朝永振一郎(1906~79)」(1965年 物理学賞) – エピソードで知るノーベル賞の世界
朝永は、そこにアインシュタインの「相対性理論」を考慮に入れて、これをそれまでの量子論に適用させるといった手法で、1943年には「超多時間理論」というものを考案する。
「朝永振一郎(1906~79)」(1965年 物理学賞) – エピソードで知るノーベル賞の世界
さらに戦後の47年、48年には、「くりこみ理論」と呼ばれる理論も発表。これによって、その後の量子論の世界が大きく開かれるキッカケを作ったのだ。
「朝永振一郎(1906~79)」(1965年 物理学賞) – エピソードで知るノーベル賞の世界
これが1965年のノーベル物理学賞受賞へとつながった。
「朝永振一郎(1906~79)」(1965年 物理学賞) – エピソードで知るノーベル賞の世界
■うーん・・・・・よくわからないです・・・朝永博士・・・

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■もっとザックリ説明すると。
①当時の物理学の数式によると、電子のエネルギーは無限大になる。
②しかし、実験では無限大にはならない。
③この無限大になってしまう問題を世界中の物理学者が解決しようとした。
④しかしだれも解決させることができなかった。
⑤そして第二次世界大戦に突入し多くの物理学者が研究をすることができなくなった。
⑥第二次世界大戦が終わって”無限大の問題の解決方法を発見した!”という人が現れた。
⑦それが朝永振一郎であった。
⑧その解決方法は「くりこみ理論」と呼ばれる。
⑨この「くりこみ理論」によってノーベル物理学賞を受賞することになる。
■朝永振一郎の頭の良さを知る人たちが多く証言している。
朝永君という人は、まずこの上もなく頭のいい人ですね。そしてその頭のよさに力がともなっていましたね。混濁して力がある場合と、澄み切っていて力がある場合とがありますね。朝永さんの場合は後者ですね。いわゆる清濁合わせ飲んでどろどろで馬力があるという政治家は、もちろん学者の中にもありますね。そういうのではない。しかし自分は必ずしも濁を排除しない。つまり排他的ではない。しかし自分の思想なり考えていることを人に強制するところは全くないですね。
まぜもの 『回想の朝永/振一郎』
三高時代の朝永君は、一口でいえば、「ひ弱い秀才」であった。それほどに虚弱な生徒であった。定期身体検査のときに、検査をしていた医師が、「栄養」の欄に記入する手を止めて、「君が大先生の御曹司でなかったら、家で何を食っているのだ、といいたいほどだよ」と言いながら「不可」と書いていたことが思い出される。
まぜもの 『回想の朝永/振一郎』
湯川秀樹さんと朝永振一郎さんは三高と京大理学部の同期であり、湯川さんは高等学校時代の印象を「体はあまり丈夫ではなかったが、実に明瞭で緻密な頭脳の持ち主だと直感した」と述べている。朝永さんを理化学研究所に誘った仁科芳雄さんは「彼は頭がいい、特別な人間だよ」と語ったという。
朝永振一郎さんのことを知って立派な人がこの世にはいるものだと思うのであった | 「計量計測データバンク」運営責任者からのご報告 – 楽天ブログ
朝永君の学力については、私は専門違いで分かりませんが決してガツガツと勉強しているようには見受けられませんでした。ただ、高等学校1年生、1 学期の試験が済んだ時、ちょうど雨が降っておりまして、私は野球部の選手をしておりましたので練習が休みになりまして、彼の家に活動写真を見に行くべく誘 いに行ったのでありますが、彼に断られたのであります。その理由が、試験が済んだ日は一番気が落着いて、全科目がよくわかっているので、何ということもな く全科目を読み直すのを楽しみにしているのだから、今日だけは勘弁してくれ、とのことでした。私はこれを聞いて、これは我々とカテゴリーの違う人間だとし みじみ感じたのであります。これは単に勉強家というのではなく、学問を楽しむ人でばければ言えないことだと存じます。成程、彼は決してガツガツ勉強する人 ではなかったと思いますが、彼が好きな酒をたしなみながら、悠然と楽しむように勉強していたのではないだろうかと思います
大学受験勉強法 「試験が終わったから勉強しよう」朝永振一郎の話 – 相転移プロダクション相転移プロダクション
出典は『物理なぜなぜ事典 1 力学から相対論まで』の P.264-265
■そんな朝永振一郎さんですが・・・・・・・

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■難しい数式や計算を扱っている物理学者ということから連想されるイメージとは逆に、とても人間味にあふれる人であった。

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■人間味あふれるエピソード その1
・根が暗い。気が弱い。そして自己評価が低い。

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その左は湯川秀樹。
今から思い出してみても、学生時代に楽しかったこと、生きがいを感じたことなど、一つもなかった。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
数学演習というのは、毎週十題ぐらいの宿題が出て、次の週に黒板の所で解いてみせるものだが、大いそぎで黒板に出て、やさしい問題に手をつけてしまわないと、乗物にのってまごまごしている間に席をとられてしまうように、あとは手ごわい問題ばかりが残ってしまうものである。しかしすばやく席をとろうなどとすると、胸はどきどきするし、それは何とも浅ましいことのように思われた。そこでいっそのこと、一番むつかしい問題を一つか二つだけやっておくという手を使うことにした。そうしておけば、そんな問題にあまり手をつける者はないので、そうあわてないですむことになる。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
大学入学以来病気ばかりしていたので、たくさんの試験が受けないままに残っていた。一年生のとき受けるべきものを二年に残し、二年生のとき受けるべきものを三年に残し、三年生になると、もはや次の年に残すわけにいかないので、試験が山のように積み重なって、巨額な借金を前にした債務者の心境もかくやとばかり思われた。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
同級生に湯川秀樹くんがいたことは、大きな力ともなり刺激ともなった。時には刺激が強すぎていささか閉口したこともあったが・・・。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
湯川くんのこの勉強の進行ぶりに対し、自分は何とふがいないことだろう。不健康と無理な試験勉強ですっかり疲労困憊し、劣等感はますますつのるばかり、とてもそんなむつかしい分野に進める自分ではないという気もちはますます強くなる一方であった。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
当時教室は農学部のキャンパスに移ったが、教室の前に七面鳥の飼育場があり、毎日々々、ホロロホロロ、という鳥の声が人を馬鹿にするように聞こえた。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
今さらせっかく始めた仕事を思い切る勇気も出ない。今やめてしまったのでは、今までの苦労が全部無駄になってしまうではないか。だから、とにかく何でもよいから、どんなつまらないものでもよいから、たった一つだけでよいから、何か仕事をし、そうしたら、そこでくぎりをつけて、あとは、どこかの田舎でささやかに余生を送ろう、などと本気で考えていた。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
何度かのためらいの後、そして大変な決心の後、講義のあとに質問や、こちらの考えなどを述べてみた。質問しようと思ってみたり、やはりやめておこうと思ってみたり、またそうしながらそんなにえきらない自分をはがゆいと思ってみたり、あとから考えると、自分ながら何と愛すべき若者であったことよと思われる。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
東京へ出てこないかそして自分と仕事をしてみないか、というお手紙がやってきた。しかし、何しろ田舎で余生を送ろうなどと本気で考えていた者にとって、これは全く力にあまる仕事のように思われた。理化学研究所は日本でも有数な学者の巣であって、そこには天下の駿才が雲のように集まっているので、とても自分のような能力のないものがその仲間に入れそうには思われなかった。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
まだ誰も友だちができないので一人ぼっちの感じであった。もともと人みしりのくせがあったので、こちらから友だちを求める勇気もなかった。ひるの食事もこの部屋で一人配給のコッペパンですませた。帰るときパンの残りを机の下に置いておくと、夜の間に例の鼠がきれいにかたづけてくれた。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
外国でも同じことをやっている人たちのいることがだんだんにわかってきた。しかも、こちらが仕事をしあげる前に、それらの論文が発表されてしまった。それだけならまだよいが、その論文の完ぺきさ、われわれの仕事よりはるかに巧妙にかつてってい的にやってあるではないか。
こうなってみると、あれしきの成果に得意になっていた自分のつまらなさが骨身にしみて感じられる。自分のような非力なものが、いくら精魂をかたむけて何かやってみても、結局それぐらいのことは、もっとえらい学者がどこかでやってしまうのだ。そうなってみると、自分の存在に一体、何の意味があるのであろう。自分のようなものはいてもいなくても、学問の進歩に何の影響も与えないのではないか。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
今だから白状するが、湯川理論ができたときには、してやられたな、という感情をおさえることができなかったし、その成功に一種の羨望の念を禁じ得なかったことも正直のところ事実である。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
ほんとうのえらい学者はこんな雑念になやまされることはないはずだ。それにくらべて、まるで邪念妄想のかたまりのような自分の何とつまらない者であることよ、こんなことをくりかえしくりかえし考えたものである。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
■人間味あふれるエピソード その2
・ドイツに留学していたときの日記がセンチメンタル過ぎる。そして相変わらずネガティブ。
4月13日
学校へ行って講義をきく。それがすんで十一時ごろハイゼンベルクの部屋に行って、ぼくの仕事を書いたものを渡す。彼は読んでおくから一週間後にそれについて話をしようということになる。大変長い計算を大変だったろう。読ませてもらって色んなことを知ることができてありがたい、などと彼はお世辞をいう。しかし、こちらはこのころ何やかやで微少妄想をおこしているから少しもうれしくなく、彼は定めし読んで、何だ、つまらなかったと思いはしないかという気がしてくる。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
4月21日
ハイゼンベルクの部屋に行く。ぼくの仕事を読んで批評してくれる。テキストをもう少しくわしく、たくさん書けといわれる。物理の論文で大事なところは、数式よりもむしろテキストにあるし、人の読みたがるところもテキストだといわれる。ハイゼンベルクはお世辞がいいけれども、これくらいの学生のような仕事では、ぼくは情けない気がしている。そうしてドイツに来ても研究室の連中となかなかなじめないで、人みしりばかりする自分を悲しんでいる。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
4月30日
今日も結局、何もしないようなものだ。このごろ、いかにも理屈に合わない気分がぼくの行動を支配している。その気分の根本は時間のたつのをおそれるということらしい。それが妙なことに、だから何もしないでいた、というふうに作用する。何かすることによって、せっかくの時間が消えてしまうような気がするのだ。つまり、何かをやることによって「時間のたつのを忘れる」ことがいやなのらしい。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
6月12日
フツカヨイ。夕方ふろに入ってベットにころがって外の雨をきいているうちに、なおってくる。何となく心がうるおってきて、人恋しい気もちになってくる。少しばかりエロス的な気もちになってくる。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
6月30日
ゼメスター(管理人注・学期)終りで、ゼミナールのあと、夜、大学でポーレの会がある。ハイゼンベルクのあいさつがあり、オイラーがドクトル・ハビルに、パッゲがドクトルになったおいわいをいう。また極東からきたお客さんが、一つの論文を仕上げたお祝いをいう。ぼくの論文のことだ。例によってお世辞がよい。その次、教室の連中はピンポンをやり、ポーレを飲む。ハイゼンベルクもピンポンに加わる。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
8月2日
妹から手紙。日支戦争について大ぶん悲観的なことがかいてある。その他、うちのこと絢々と。そして私の手紙はどうせはすかいにしか読まないでしょうけれど、などとかいてある。はすかいどころか、何べんでも読む。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
9月12日
雨ふり暗い天気。夜よくねられない。少し物理を考えるが、だめだ。そこで雨の中を外に出る。さて公園のベンチにしばらく腰をかけている。雲がひくくたれこめて、エルスター川の白い水面を残してあたりはけぶり、暗く、寒く、万物みなぬれている。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
9月17日
考えごとはうまくいかない。夕方、あきて散歩に行く。公演を通りすぎて小チョッハー村の方に行き、少年団のキャンプ場の方に行く。ベンチに腰かけていると、うしろの大きなかしわの木からドングリがぽつんぽつんとおちて土をたたき、見ている間にそれが十ばかりになる。これを拾ってポケットに入れてもち帰る。途中で六時の鐘が方々の教会からひびきわたる。夜めしのあと、ドングリでコマを作って食たくの上でくるくるまわしっこをしてドイツ人学生たちと遊ぶ。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
9月18日
ひさしぶりで上天気であたたかく風がさわやかに、また夏がもどってきた。そこで散歩に出かける。エルスター川にはボートをこぐ若者が多い。あたたかいので、夫々裸体または軽装して肉体を日にやいている。小メツセの遊園地に行く人が向う岸をぞろぞろ行く。子どもが楽しそうに前へ行く。母おやがうしろに来る。川の上に岸近く一そうのボートがあって、その中に半裸の若者が日にやけた脚をひざ立て、組んだうでの上にあおむけに顔をのせて、空を見ながら舟を流れにまかせている。一人でそうしているのかと思ったら、彼の脚の間に彼の腹をまくらにして、もう一人の少女があおむけになっている。これは甚だ目をひく光景である。エロス的であって、しかし決してみにくくはない。帰るときいささかつかれて、また鼻血がでる。バルコンに出ると今日は競馬があって、川の向うの競馬場からの音楽を風が流してくる。その音楽が周期的に大変近く聞える。夜へやで昼のエロス的光景を反すうしていると少しばかり物がなしくエロス的感がいが起ってくる。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
10月16日
このごろは心がかなしくていけない。気をはらそうと思って、カピトルでアジアたんけんの映画をみる。ペルシア、トルキスタンからインドに入り、ヒマラヤを越えてゴビの砂漠に出てモウコから北京へ出る。アジアは偉大な大陸だ。
帰って物理の本を見ている。よくわからない。そのうち心の中が黄疸のように重苦しくなってくる。自然はなぜ、もっと直さい明瞭でないのだろうか。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
11月17日
朝からいんうつな天気。湯川、坂田、小林、武谷の共同論文送ってくる。彼等ははりきっているのに、こちらはドイツまで来てくさっている。ひるから渡辺君来て、学校へちっとも来ないが病気ではないかという。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
11月22日
仕事の行きづまりをうったえて、少しばかり泣きごとを仁科先生に書いたのに、先生から朝がたに返事がきた。センチだけれども、読んでなみだが出てきた。
いわく、業績があがると否とは運です。先が見えない岐路に立っているのが吾々です。それが先へ行って大きな差ができたところで、あまり気にする必要はないと思います。またそのうちに運が向いてくれば当ることもあるでしょう。小生はいつでもそんな気で当てに出来ないことを当てにして日をすごしています。ともかくも気を長くして健康に注意して、せいぜい運がやって来るように努力するほかはありません。うんぬん。これを読んでなみだが出たのである。学校へ行く路でも、この文句を思い出すごとに涙が出たのである。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
11月23日
ゆうべはねどこに入ってから、いろいろなことが頭にうかんで困った。涙もろい弱々しい考えばかりである。自分ひとりとりのこされて人々がみな進んでいるような気もちである。さてそんなことで、すいみん不足で、朝起きて、はみがきようじに、はみがきとまちがえてポマードをつけたりした。ひるから久しぶりに公園に散歩に行くと、もうすっかり冬だ。
T夫妻がぼくに早く結婚しろという。ぼくがこのごろゆううつそうな顔をしているので、こういう処方せんをくれたらしい。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
12月9日
どうも日記を書くのがおっくうになってきた。書けばとにかく泣きごとになるからだ。学問とか芸術とかいう崇高なものに反撥心が起っていけない。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
2月9日
天気よく暖かいから窓をあけておくと、鳥の声や教会の鐘の音が入ってくる。教会の塔が日にきらきら光っている。
仕事はうまくいかない。何が何だかわからなくなった。ひるからくらくなって来て雨となる。なまぬるい、しめっぽい風が吹いて来る。W夫妻のところへ行く。帰りは日がとっぷりくれてやみになる。そのくらやみの中で雨がさあっと風といっしょに降っていて、風が耳もとを音をたてて過ぎていって、路ばたの生垣がさあさあと鳴っている。電車ののるのがいやで、どこまでもそのくらやみの中を歩いて行く。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
2月16日
朝から雨がしとしととふっている。仕事がうまくいかないから雨の中を公園に行った。みちがぬれている。無数の雨足が池の面を一面に白い色にして木からしずくが落ちてくる。エルター川に近い細みちを行くと、妙なものを見つけた。それは、灌木の小枝にひっかってぶらさがっている。だれかが昨夜ここで情熱をかたむけたとき使ったゴムの袋である。そこを行きすぎて半町ばかり行き、他の面の雨足を見ていると、身も心もさみしくなって、それをもう一度見たい気がしてくる。そこでひきかえしてよくよく見ると、雨にぬれて枝にじっとぶらさがっているものが、非常にこっけいに見えてくる。さて、そんなことをしているうちに帰ってくる。ひるからは、また仕事だ。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
2月22日
計算が少し進んで、自己場によって陽子の磁気能率が大たい実験と合うように出るように思えだした。2月23日
計算をなお進めてみたら、やはりだめだ。磁気能率はこの近似ではゼロになってしまった。つくづくと情なくなる。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
3月27日
今日はもう三月二七日である。このごろまた、例の時間のたつのがこわくてそのためかえって何もしないという病気が起こっている。従ってその後仕事は一向にすすまず、気がめいってしかたがない。一日何もしない。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
3月30日
二月廿三日の計算の誤りなことを見出す。その間に一か月たっているのだ。バカもこうなると甚しい。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
5月18日
昨日仕事はまた行きづまった。もうどうでもなれという気がする。朝バルコンから下を見ていると、今日は耶蘇昇天の祭日で、少女がきれいに着かざって遊んでいる。それを見、木々の芽を見、そこにさえずっている鳥を見ていると涙が出てくるのである。何とセンチメンタルなことだろう。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
■人間味あふれるエピソード その3
・お酒が大好き。

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研究所には、よく学びよく遊ぶ連中が大ぜいいて、アルコールの味や、寄席の妙味、ハイキングその他、演劇や音楽を鑑賞する楽しみ、そんな一般教養を京都出の田舎者にしこんでくれる有能な先生がたには事欠かなかった
理化学研究所はその名のように物理と化学の研究が中心になっている。その中で、物理部門は金を使う一方であるが、化学部門ではビタミンの発見で有名な鈴木梅太郎先生をはじめとし、いろいろな薬品の発明などで収入の方に一役買っていた。また薬品のほかに合成酒の発明なども化学部門から出ていて、地下室の倉庫にいくと、実験用のガラス製品、試薬類、文房具などのほかに、ビタミン剤や合成酒なども売っていた。そこで勉強につかれるとビタミンを買ってのんだりする一方、合成ウイスキーを買ってきて、こっそり机の中にしのばせておいたりすることをおぼえた。このくせは教育大の学長になってもぬけず、学長室の戸棚の中には、いつも同様の品物が鎮座ましましていたものである。
朝永振一郎教授の「思い出ばなし」
ノーベル物理学賞(1965年)の授与が決定して、朝永は祝い酒で酩酊して風呂場で転んで肋骨を折ってしまい、その年のストックホルムでの授賞式に行けなかった。そこでお弟子さんに一言。「ノーベル賞をもらうのは骨が折れるよ」
緑井レディースクリニック 【広島・産婦人科・更年期・妊婦検診・不妊症・子宮癌検診・漢方・健診】
(科学者という仕事―独創性はどのように生まれるか:酒井邦嘉著、中公新書、p110、上野:国立科学博物館)
■人間味あふれるエピソード その4
・女装が似合う!?
編集者の御依頼によって旧いアルバムを片っ端から繰って見ていた所、やっと目的の一葉の素人写真が見付かった。六人の武士の姿はまずまず様になっているが、後列の女共の恰好がまことに珍妙である。ただ中に一人、武士の隣りに可愛らしい女性が立っている。これが大正十二年五月一日の朝永/振一郎君の扮装なのである。
まぜもの 『回想の朝永/振一郎』
■貴重な音声も残っています。

https://matome.naver.jp/odai/2145675301434602601/2145700042809748903
以下のサイトに約80分ほどの音声ファイルがあります。
http://members.jcom.home.ne.jp/lionsboy/tomonagatokaryo.htm
以下のサイトにノーベル賞受賞時のNHKの映像と本人のコメントがあります。
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030069_00000
■そんな人間味にあふれる朝永振一郎さんは、このような詩を残しています。

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