憲法 わかりやすい二重の基準論 まとめ

ponypon
学習者向け

憲法上個人主義により人権を保障され侵すことのできない永久の権利として絶対的に保障される。自然権思想によるところでは人権は不可侵の権利であるとしてもそれは、個人と他の個人の人権が衝突した場合や国家によって人権制約がやむを得ないということも生じ、このようなときは「人権の侵害」ということとなりうる。
そのため、絶対的に人権が保障されるとすることは建前上のことであり、飽くまで不可侵性から「絶対的に保障が及ぶ」ところであり、憲法上の文言としても公共の福祉に反しない限りとして、立法その他の国政の上で最大限の尊重がされるということとなる。

その侵される人権としては、国家からの自由を筆頭に社会権や参政権なども公共の福祉に照らして侵害される虞は十分にある。それが、近代的な権利となる社会権であるときは、国家による自由であり国民が国家に請求したがそれが受けられないということによって「受けられる」といった性質ともなる人権の侵害となる。
その人権が侵されるときに一番重要な権利としては国家からの自由である「自由権」の侵害として「権利」として基本的でもっとも重要な権利の侵害ともなる。人権は誰もが保障される権利となるが人権相互において衝突が生じるときは、憲法の個人の領域における私益的側面とそうではない公益的側面を調整することでもあり調整の方法や制約の具合としては人権の種類によって人権に応じて制約がされることとなる。

すべて自由であることを前提として自由を制約するということとなり、自由権が侵害されたときは、侵された権利に対して防御権として自由の侵害を排除することを行う。
人権制約が自由権ではなく社会権であるときは、社会権としては国家による自由というところであり、侵害を排除するということではなく国家から受けられないことや参加することができないといった性質から、それに関して積極的な働きかけを必要とするところでもあり、自由権のときのような侵害の排除を行うということではない。
そのため、国家に積極的に働きかけることが必要となる社会権等としては、公共の福祉によって制約がされるとした規制ではなく、自ら代議制民主主義として積極的な参加をしないことで受けられない権利であるということともいえ、社会権等が侵害されているということではなく、そもそもなく受けられないことに関して積極的な行為の欠如による部分ともなりうる。

勿論、社会権としての制約は、政策的な部分であることは否めないということもあり積極的な参加によって受けられる権利ではなく、そもそも国家による自由としての性質を有している権利となり広汎な立法裁量による部分は否めない。
人権が公共の福祉によって制約されることに関しては、国家から制約がされることとなるとしても、私人相互においても人権が衝突することとなり人権の衝突が生じたときであっても原則的に私的自治における原理に内在するが、資本主義の発展による社会の矛盾の顕在化、安全や自由を脅かすような場合その利益調整を図ることが必要であり人権衝突においてやむを得ず制約をすることができる。
しかし、国家から保障がされる人権が制約されるということは、国家との関係ではない私人間では関係ないのではないか、公共の福祉によってなぜ私人間でも人権を制約することとなるのかともなる。

人権の享有主体としては人と法人ということとなるが、その人権をすべて人に不可分的に不可侵性として享受することができる権利となる。公共の福祉によって制約がされることは、人権の享有主体相互で人権の種類に応じて同じように受けられる人権となるが、人権の種類によって異なった領域の人権が衝突したとき両者を同じように人権保障ができることに越したことはない。
しかし、人権の衝突が生じたときは人権の利益の調整をすることが必要となるところ、人権としてはすべての人(法人)が享受することができるという公の権利であり人権享有主体相互が共に受けることとなる権利となる反面、「公共」として公を共にする権利となるどのような個人であっても人権として充足がされ、そして、相互に譲り合いをすることも必要となる、公を共にしていることからの個別的な利益の追求をすることに当たっての条件としての幸福(福祉)として制約をすることが必要となる。

それが、国家から自由権が侵害される純粋な人権の制約というところであれば「人権侵害」であり、その制約をすることに関して国家が主体となるが、他の自由権との兼ね合いをするための制約として人権を侵害するということともなる。
そうであれば、国家自身によって侵害されることのほかに、社会権の人権相互の衝突は通常起き得ず、生存権等の社会権は自由権のように人権相互に衝突することは直接的にない。
生存権等の社会権が私人相互間で生じるときは、国家による自由として国家の政策によって人権相互による衝突となる。国家の政策によって生じるとしては、国家の政策は財源等によるところでもあり財源としては国家の税収によるところ、税の使用は各方面にわたり使用されることが必要であるため、社会権(生存権))による税の分配面によって多方面に分配をすることとなると他の人権と衝突が生じうることから、そのときに人権相互で利益を調整することによって受けることができないことが十二分にある。

また、社会権としての参政権においては、参政権そのものは国家によって侵害の対象となるものの、参政権的意義を有している性質である表現の自由としての制約もある。参政権としては、国民の積極的な関与が必要となる部分ともなる。
このような社会権であるときの人権相互の制約としては、人権相互の衝突が生じたとしても自由権の侵害とは本質的に異なり、国家行為による社会権の制約であるときは、自由権の制約と類似している部分があるとしても立法措置による立法裁量としての部分も存在する。

また、自由権による表現の自由とプライバシーとの衝突といったような直接的な人権相互の利益調整が生じる部分ではなく、生存権のような国家を介した人権の侵害として間接的な人権相互の衝突が生じる。
公共の福祉によって人権が制約されるということは人権の享有主体相互での人権侵害が生じたときに利益を調整することに関することと国家が主体となり純粋に人権を制約すること、国家が主体となるが他の人権を保障することから人権を侵害されるというところともなる。

人権享有主体の人権相互の人権を保障することが必要となるところであれば、自由による自由権の侵害というところが筆頭に存在する。自由権のほかには、国家に対して請求することとなる社会権であったとしても、純粋な社会権の侵害として単に受給権を打ち切りによるといったこともあるとしても、社会政策的に他の人権を保障することから社会権として認めることができないといった性質として人権侵害も生じる。
それが参政権等の自由権以外の人権であるときも同様の性質を有している。従って、人権が侵害生じることに関しては、文言となっている自由権以外の人権のカタログであっても侵害が生じることは当然あり、そのようなときに「人権侵害」として権利の救済を求められなければならないところとなる。

憲法上の人権の侵害が生じうる制約としては、自由が制約されることを予定し、12条により、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」として、13条により、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」として公共の福祉による制約に服する。
また、22条によって、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」29条によって、「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」とする。

このように公共の福祉による制約はすべて自由であることを前提となるが、12条や13条によって自由と権利が公共の福祉によって制約がされる関係となり、22条29条によって経済的自由権に関しても自由権の中で他者と衝突が生じることや、国家によって歴史的に侵害がされてきたところであるため特に規定しているともいえ、国家からの自由であるが国家によることと他者との関係で自由を制約することができる。
自由権は人権の最も基調的な部分であることから自由権が侵害されることがより甚大な人権の侵害ともなる。憲法の文言として公共の福祉によって制約がされることとしては、このようなところから規定されているといえる。

また、自由や権利には自由権以外の権利も内在的に含まれ、上記のように自由権以外の社会権等であったとしても人権の衝突が生じることがあるため公共の福祉によって制約が入るということを前提としている。
このようなに人権が制約されることとなるが、自由権と社会権のように人権の種類によって排除をするか、求めることができる権利であるかといったように個々別に異なる。単に排除を求めることなどに近いことであれば、自由国家的公共の福祉としての基本的人権をすべての人に同じく保障がされることが必要であることから、必要最小限度の規制をすることと、基本的人権として同じく保障されることであると、必ずしも公平となるような人権の保障に資することとはならない経済的裏づけがあるといった、社会権の実質的保障としての経済的自由権の国家権力の介入として社会国家的公共の福祉という二つの性質に分けられる。

上記のように自由権以外でも人権の純粋な侵害や衝突が生じるという観点からみれば、包括的な権利としても人権の相互の権利として認められることが必要であり、そのための公共の福祉として人権相互の利益調整をすることも必要となり、公共の福祉として法律によって人権が制約することができることと類似することとなる。
憲法上の権利としての人権は普遍的に不可侵的な権利となるが、その人権が制約されることを当然に予定して、それを公共の福祉として制約をすることができる。そして、人権は保障されるが人権保障の埒外として「法律」によって人権を制限でき、「国民は」として13条によって公共の福祉によって制約されるも道徳的責務として法的責任を意味しないとする。

そして、その他の公共の福祉として制約されるときは、国民の権利としての包括的な権利行使や経済的自由権に関しての権利行使を調整するための規定であることを示した22条や29条による公共の福祉の制約を示している。
この法律の留保は、代議制民主主義において議会に信任を寄せた国民が国家権力から自由と財産を守ることから司法と行政を法律に準拠させようとしたものとなる。そして、行政による執行には議会の同意を必要として、自由な行政において今でいう法律による行政の原理として限定を加えることを目的としていた。

それから、議会の勢力が増すことで議会の意思が一般性抽象性という形式で顕在化したものを法律として議会は自ら自由に行動できるということになり、そこにおいて、禁止規定がなければ権利を法律により制約できると考えられた。
そのため、法律がなければ基本的人権を制約することができないという意味で、基本的人権の制約から法律によれば権利を制限できるということに代わっていった。その後においては、行政の法律適合性原則のみならず、基本権は法律によっても制限されないという法秩序の段階構造を組入れられるようになった。

しかし、そうであるとすると、公共の福祉によって権利が制約されることとなるが公共の福祉としては、包括的な権利として人権を制限することができることと比較して、法律の留保によって制限されることとなるときは、法律の留保としての文言があるが、人権を制約することができる性質としては、法律の上位概念としての憲法であるにもかかわらず下位法規による範囲によって制約されることと法律の留保と同義的な制約となる。
公共の福祉としては、法律の留保と異なり人権相互で、法律によらずに人権を制約することができる万能な部分があることから公共の福祉と法律の留保としては類似しているものの同義的意義を有していないはずともなる。
従って、公共の福祉としての文言としては意味をなさないものであり、文言による制約は生じずに、憲法に保障されているとはいえ憲法以外に憲法の外から制限することができる。

尤も、基本的人権の保障の例外であり、法律によれば制限することができるという形式的法治主義は排除し、法律の留保を排除して基本的人権は憲法の力をもつことで、これを制約するにあたって法律という形式を満たすだけでなく正当な根拠を持つ法律であることを求めている。
さらに、公共の福祉は多義的であり、集団主義の影響により多数者である捉えると個々人を超越した共通の観念に終着することになるため、実際には共通の利益の名の下で多数者の利益のために権利を犠牲にする正当化根拠となり個人の権利を蔑ろにする。
そのため、公共の福祉という不確定概念によって人権を制約することができるとすると、そもそも人権制約としての精密な基準を形成することが困難になり、判例の集積に頼ることになる。

また、法律の留保において人権を制限することができることと同様に個人主義的な人権を保障したということが失われうることとなり、多大な人権侵害を招くおそれが生じることとなる。従って、人権として私益であり全体主義的要素として常に優先する思想と結び易く結果的に憲法の精神に反することになりかねない。
そこで、このような法律の留保を回避することから、憲法13条によった公共の福祉は意味のない訓辞規定であり、22条や29条による経済的自由権と社会権においての規定による公共の福祉によることを、ある意味資本主義の修正されたところからのような社会の進展により制約させることとなる。

また、それ以前に人権を制限することができることにおいて人権保障はしつつも制約することができることは内在的に服することとなる。しかし、包括的基本権として訓示規定としてしまうこととによって、新しい人権として保障することができなくなってしまうことになる。
しかし、上記のように自由権と社会権等が制約されることとなるが、社会権としての性質がある権利であったとしても自由権としての性質がある部分ともなるため両者の権利としては相対化しつつあることから、これにおいては特に区別する必要がないということとなる。また、内在的に服することは法律の留保の承認の危惧観があり、それを公共の福祉とも呼べるということもある。

このことから、人権各々において人権の衝突を招くため、それの回避するためにすべての人権に論理必然的に内在的服し、人権相互の間の矛盾・衝突を調整する実質的公平の原理を意味し一般的制約することとなることで、公共の福祉自体に特別の意味はないとする。
そして、公共の福祉においては、多義的で曖昧な概念であることからこれを正当化事由として明確化すると、人権として保障されることとなるとしても人権相互においての利益を調整する観点から人権と対立する社会連帯の原理であり配分的正義の理念といわれる。そして、自由国家的公共の福祉と社会国家的公共の福祉に分けられる。
さらに、全体として各個人に平等で豊かな人権を享受させる原理で、自由国家的公共の福祉として人権享受を保持するとう、消極的な目的のために必要とされる必要最小限の秩序となる。

自由主義的国家としても最小限の秩序による制約は求められ、個人の自由人権の矛盾や衝突を調整するというところで人権の共存が重要な公共の福祉である以上、調整的機能を行う国家が人権制約することとなる。そして、自由国家による最小限度の社会秩序維持と危険の防止となる。
これと伴に、社会国家的公共の福祉は国家の政策に基づき福祉的な観点から積極的な目的としての内容となる。これにおいては、積極的社会政策による内容となり、これによって公共の福祉の制約は甘受されるものとなる。

このように、自由権として必要最小限度の規制をされ、社会権においては、必要な限度において規制を認めるというものとされる権利の性質によって判断基準が変化されることになるため、一元的に内在的に服するとしても基本的人権の性質に応じて外在的制約としての権利の制約がありうることとなる。その意味で、外在的制約原理が含まれるとされる。
この必要最小限度等による基準としては、曖昧な基準であるということがあり、実質的には外在的制約と同様となりうるが、個別的に人権の内容において観念することができるため個人主義的要素として併存することとなる。
この違憲審査基準としては、公共の福祉における人権相互間の衝突に関しての調整となるところ、自由権の制約として精神的自由権については、自由国家的公共の福祉においては自由権を各人に公平に保障するための制約であり必要最小限度の規制がされ、民主主義により代表民主性の表現の自由など重要な役割を果たすことから厳格な基準が必要となる。

これに対して、経済的自由権は、社会国家的公共の福祉においては社会権を実質的に保障するということからなる制約であり必要な限度の規制であり、代表民主制によって是正することを可能とするため厳格な基準までは必要はないとなる。
優越的地位にある精神的自由制立法の合憲性は、立憲民主主義における政治過程として必要不可欠の権利であり厳格な基準によるということから、合憲性の推定は働かず、むしろ違憲性が推定され厳格な基準によって判断し、他方経済的自由権規制立法の合憲性については、精神的自由権よりは違憲基準としては後退するゆるやかな基準により合憲性の推定が働くゆるやかな基準によって判断する。
この違憲審査基準においては、立法事実を踏まえ規制対象たる行為と憲法上正当な関連並びに規制目的と規制手段との関連がどの程度であれば合憲となるかというところ、その関連性が極めて厳格な意味において存在しなければならず、基準が合憲か違憲かの結論が変わる。

これには、利益衡量の枠組みを目的と手段の連関構造に再構築され、規制される権利の重要度と制限の強度の態様に応じた基準を掲示され、裁判所の及ぼす程度の審査の方法と程度においての基準と、個別的に法令等の憲法適合性判断の審査基準がある。
前者においては、上記のように立法府との兼ね合いとなるところ、二重の基準においての表現の自由と経済的自由権においての審査基準としての物差しの度合いが異なることは、このことを意味する。これは、裁判所が憲法判断をするときの基準としてとなる(最判平7.3.7)。

後者においては、厳格度の高いところから、厳格審査基準、中間審査基準、合理性審査基準となる。事前審査としての文面審査、表現内容規制には厳格な審査基準 (明白かつ現在の危険)や「定義づけ衡量」、表現の時・所・方法の規制(内容中立規制)には内容規制にほぼ準ずる基準(LRAの基準)。
経済的自由規制については、合憲性推定の原則と結びついた合理性の基準を基礎に、消極目的規制には「厳格な合理性」基準、積極目的規制には「明白性の原則」、社会権やプライパシー権・自己決定権や「法の下の平等」なども、その性質・内容に応じて以上に準ずる基準。
これらについては、内容中立的規制と経済的自由の消極目的規制とは、合憲性推定原則を除き同レベルの基準が想定されており、実際には3種の基準(厳格審査基準と「厳格な合理性」基準、そして合理性基準)の適用が想定されている。

違憲審査を行う権限を下級裁判所であったとしても行使することができるが、司法権によって違憲審査権を行使することができるとしても、具体的争訟によって行使することができるとしても三権分立構造上民主主義によって確立した立法を覆すこととなる。そこで、憲法判断をする前に回避をすることや、合憲限定解釈、運用違憲などによって極力違憲とすることを避けることとしている。
ブランダイスルールとして、①当事者の紛争そのものよりも談合的な構造であるときは、立法の合憲性に判断しないこと、②職権によって憲法問題を予め取り上げることはしないことと、③立法等によって侵害を受けた者の証明がないときは判断の対象としないこと、法律等によって利益を受けた者からの合憲性判定をしないこと、④憲法の準則を、適用される事実以上に公式化しないことが上記のほかにある。

参考文献

https://matome.naver.jp/odai/2145143368907245701
2016年01月21日