孔門十哲とは
中国,孔子の高弟10人をいう。孔子の弟子は3000人もあり,そのうち六芸に精通した者が72人あったと伝えられるが,さらに最も傑出した人物については《論語》の先進篇に4科目に分けて,〈徳行には顔回(淵),閔子騫(びんしけん),冉伯牛(ぜんはくぎゆう),仲弓。言語(外交交渉の弁舌)には宰我,子貢。政事には冉有,季路。文学(学問)には子游,子夏〉と見える。徳行,言語,政事,文学の四つのカテゴリーは孔門の四科と呼ばれ,後世,人間の才能の表現のうち,最も重要なものとされる。
孔門十哲(コウモンジッテツ)とは – コトバンク
徳行
顔回(がんかい、顔淵(がんえん)ともいう)
顏回は、地位や名誉を求めず、ただただ、孔子の教えを理解し実践していました。
『論語』の中でも、「顔回ほど学を好む者を聞いたことがない」と記されていて、孔子から後継者として見なされていたのです。
顔回は、残念ながら早く亡くなり、孔子の後継者にしたいという望みは
果たされませんでした。
孔門十哲 | 元電通マン【藤沢涼】の挑戦
孔子君@confucianbot
閔子騫(びん しけん)
姓は閔、名は損(そん)、字は子騫(しけん)。魯の人で孔子よりも15歳若い人です。
「論語」の中にも徳行の人と称えられていますが、「孟子」公孫丑(こうそんちゅう)上でも顔淵・冉伯牛と並んで「小聖人」と称えられています。
180. 孔門十哲(5) 孝なるかな閔子騫|論語ブログ
甘依深感@mikann0080
私「今回のゲストは徳行の閔子騫さんです」
閔「閔子騫です」
私「硝子製の試験管みたいなお名前ですね」
閔「そ、そうですか?」
私「特徴的なエピソードを教えてください」
閔「継母と腹違いの弟たちにひどい扱いを受けていました」
私「そうですか、ありがとうございました」
冉伯牛(ぜん はくぎゅう)
孔子の門人で、冉伯牛(ぜんはくぎゅう)と言う人が悪疾に罹り、命が危うい状況になっておりました。
悪疾というのは普通の病気ではなく、癩病のことだといわれています。
彼は人に悪寒を与える事をおそれて、ついに家に閉じこもっておりました。
孔子はこれを聞いて見舞いに行かれたそうです。
しかし、誰にも会いたくないという伯牛の気持を察して、孔子は遠慮して室に入らず、窓からそっと伯牛の手をとって、「この人を亡くさす、それは天命でしかたのないことだ。それにしても、こんな立派な人がこのような悪疾に罹るとは・・・こんな悪疾に罹るとは・・・」と言って大いに嘆いたと言われます。
Buddha 斯(こ)の人にして斯(こ)の疾いあること・・・
仲弓(ちゅうきゅう)
仲弓の為政者としての素質を高く買っていた孔子は、仲弓が『外見上の行動が大雑把であっても、内面的な思索は深くなければならない』と語ったのを喜んだ。
『論語 雍也篇』の書き下し文と現代語訳:1
下村湖人(1884~1955)は「ある人がいった。雍ようは仁者ではありますが、惜しいことに口下手で、人を説きふせる力がありません。すると先師がいわれた。口下手など、どうでもいいことではないかね。人に接して口先だけうまいことをいう人は、たいていおしまいには、あいそをつかされるものだよ。私は雍ようが仁者であるかどうかは知らないが、とにかく、口下手は問題ではないね」と訳している(現代訳論語)。
論語:公冶長第五:4(原文・書き下し文・現代語訳) – Web漢文大系
言語
宰我(さい が)
宰予の字は子我、宰我ともいい、春秋時代魯国の人で孔子の弟子。弁舌さわやかであるが、言行が一致せず、孔子から、「朽さた木には雕刻ができず、土のばろばろになつた土塀は上塗りがきかない」とひどく叱られた。非凡な政治手腕の主で、斉国の臨菑の大夫となつたが、田常と謀つて叛乱を起こし、事敗れて一族とも滅ぼされた。孔子は深く恥とし、「わたしは以前は人の言を聞くだけで信用したが、今ではさらに行為を観察するようにしている。これは宰予がきつかけで変えたのだ」と語つた。
台北市孔子廟儒学文化網
孔子に言わせれば、宰我は弁舌に優れた、酷薄で堕落した人間らしい。孔子にそう見られてただけでも、宰我がいかに優れた人間であったか了解できるだろう。
傳疑樓雜記 宰我
子貢(しこう)
言語(弁舌の才)には宰我と子貢と言われ、魯に仕えて各国を遊説して活躍し、史記の仲尼弟子列伝では「子貢の一たび出づるや、魯存し、斉乱れ、呉破れ、晋を強にし越を覇とす」と描かれている。
また、相場に得意で莫大な富を築いたともされ、孔子の経済的支援者であったという説がある。
師である孔子と比べられることが幾度とあり、その度にうまく例えを用いて孔子の素晴らしさを称え、孔子には「往を告げて来を知る者なり」と評された。
子貢とは – 語彙
叔孫武叔が「子貢は孔子より優れている。」と話したことを子服景伯が子貢に伝えた。子貢は「屋敷の塀に例えるなら、私の家の塀の高さは肩の高さぐらいでしょう。ですから、屋敷の中の小奇麗な様子が窺えます。しかしながら、夫子の家の塀の高さは高すぎて、ちゃんと門から見ないと中の素晴らしい建物や召使の様子は知ることはできないでしょう。ですから、叔孫武叔がそういったのは無理ないことかもしれません。」(論語)と見事な例を引き、孔子が優れていることを表現した。この子貢の言葉は今でも中国のことわざとして残っている。
子貢 < 映画「孔子の教え」で見る歴史が動いた瞬間
クラボット先生@†そらちゃん推し†@dragon2318
>>孔子は弟子の子貢に、顔回と己どちらが上であるかと問う。
「顔回は一を聞いて、十を知る男。私はせいぜい、一を聞いて二を知る程度である。」と答えた。
公冶長第五より
トド松大勝利ガッツポーズポケモン@nerunek0
孔子先生は答えた。「それは恕ということになろう。自分の望まないことは、他人にするなってことだよ。」
政事
冉有(ぜん ゆう)
行政手腕に優れ季氏に用いられる。孔子からも政治の才能を認められ、大きな町や卿の家の長官として取り仕切ることができると評された。
一方、消極的な人柄であったと思しく、孔子から「聞くままに斯れこれを行え」と激励されている。
冉有 – Wikipedia
子路(しろ)
子路は貧しい家に生まれ、若いころは町の暴れん坊でした。孔子と始めて会った時、剣を使い暴力を振舞ったと言われています。孔子は礼儀で子路を感動させました。その後、子路は孔子のそばでボディーガード的な役割を果たしていました。儒家である孔子派の中で異色な存在ですね。愉快な豪傑って感じでしょうか。子路が一番早く孔子についた人間ですから、弟子といっても実は孔子の親友のような存在でもあります。孔子にはよく叱られますが、逆に孔子に対してずけずけとものを言ったり、言葉を返したりしたことがあります。
第13弾:孔子とそのもっとも有名な3人の弟子② – 中国国際放送局
一般的には、孔子が最も愛した弟子は顔淵ということになっておりますが、論語を百回以上読んでみて感ずるのは、孔子が一番可愛かった弟子は顔淵ではなく子路だったのではないか?ということです。顔淵は褒められるだけで叱られたことがない。一方子路は叱られっ放しで滅多に褒められたことがない。皆さんもご自分のことを考えてみれば分かると思うけれども、人は可愛い者程よく叱るものです。可愛くない子は叱りません、どうでも良いことですから。
顔淵第十二 300
DJ 自我太郎@mitsu_ki32
『史記』「孔子世家」によれば、衛の高官にとりたてられたが、反乱で落命した。死の直前、冠の紐を切られた彼は、「君子は冠を正しくして死ぬものだ」と言って結びなおしたという。子路の遺体は「醢(ししびしお)」にされた(死体を塩漬けにして、長期間晒しものにする刑罰)。これを聞いた孔子は悲しみにより、家にあったすべての醢(食用の塩漬け肉)を捨てさせたと伝えられる。なお、衛に乱があったことを聞いた段階ですでに、孔子は「由は死ぬだろう」と述べたと伝えられる。
子路 – Wikipedia
文学
子游(しゆう)
姓は言,名は偃 (えん) 。子游は字。魯国の武城の宰となり,善政を行なった。
子游(しゆう)とは – コトバンク
子游は礼楽の形式よりも精神面を重視したとされ、孔子の推挙で武城の代官となった際には、礼楽を重んじてその地方の風紀を刷新したという。
子游とは – 語彙
子夏(しか)
姓は卜 (ぼく) 、名は商。礼の形式を重視、また古書に通じていた。「詩経」「春秋」などを後世に伝えたといわれる。
しか【子夏】の意味 – 国語辞書 – goo辞書
謹厳な人柄で、また消極的だったらしく、孔子は師(子張)や過ぎたり、商や及ばずと評しています。孔子の死後は門人を教育し、次いで魏の文候の師となって、政治の相談も受けました。我が子が死んだ時には声を挙げて号泣し、遂に失明したと言います。
論語の中では20回も出てきます。特に子張第十九では3章目から連続して11回出てきます。壮観です。
子張と子夏が比べられた時、孔子は子張のことを「過ぎたり」と評しています。彼は積極的な派手好みの人物であったのでしょう。
193. 孔門十哲(18) 礼を重んじた、子夏|論語ブログ













