BOOK1前編
p128
「もちろんリスクはある。しかしリスクは人生のスパイスだ。」
BOOK1後編
p194
その渦の中心にいるのはエリだ。渦の中心にいるものは動く必要はない。動くのはそのまわりにあるものだ。
p205
彼らはその男に命ぜられるままに動く人々です。人格や判断能力を持ち合わせていない人々です。
p228
「夫婦の間のセックスというのは、またちょっと違うことなの。」と彼女は説明した。
「それは別会計みたいなもの」
「別会計?」
「項目が違うんだってこと」
「気持ちの違う部分を使うってことかな?」
「そういうこと。使う肉体の場所は同じでも、気持ちは使い分けているわけ。だからそれはいいのよ。成熟した女性として、私にはそれができる。」
p296
そんなもの勘じゃない、しがない経験則だ
p327.328
「それでも、そこまで好きな相手がいても、知らない男とときどきセックスしたくなるんだね。」
「そうすることが必要なの。生身の人間としてバランスをとっておくために」
「でもそれによって、青豆さんの中にある愛が損なわれることはないんだ」
「チベットにある煩悩の車輪と同じ。車輪が回転すると、外側にある価値や感情は上がったり下がったりする。輝いたり、暗闇に沈んだりする。でも本当の愛は車軸に取り付けられたまま動かない」
BOOK2前編
p40
「物語の中に、必然性のない小道具は持ち出すなということだよ。もしそこに拳銃が出てくれば、それは話のどこかで発射される必要がある。無駄な装飾をそぎ落とした小説を書くことをチェーホフは好んだ。」
「そしてあなたはそのことを気にしている。もし拳銃が登場したら、それは必ずどこかで発砲されることになるだろうと」
「チェーホフの観点からすれば」
「だからできることなら私に拳銃を渡したくないと考えている」
「危険だし、違法だ。それに加えてチェーホフは信用できる作家だ」
「でもこれは物語じゃない。現実の世界の話よ」
タマルは目を細め、青豆の顔をじっと見つめた。それからおもむろに口を開いた。
「誰にそんなことがわかる?」
p64
「わたしが申しあげたいのはですね、生活のために才能や時間を切り売りするのは、良い結果を生まないということです」
p136
「あんたたちがやっていることを、無駄だと言うようなつもりは俺にはまったくない。それはあんたたちの問題であって、俺の問題ではない。しかしごく控えめに言って、無謀だ。そしてきりというものがない」
「そうかもしれない、でもそれは変えようのないことなの」
「春になったら雪崩が起こるのと同じように」
「たぶん」
「でも常識のあるまともな人間は雪崩が起こりそうな季節に、雪崩が起こりそうな場所には近づかない」
「常識のあるまともな人間は、そもそもあなたとこんな話をしてはいない」
「かもしれない。ところで雪崩があったとに連絡するような家族はいるのかな?」
「家族はいない」
「もともといないのか、いるけどいないのか?」
「いるけどいない」
「けっこう。身軽なのがいちばんだ。身内としては、ゴムの木程度が理想だ」
p138
菜食主義の猫とネズミが出会った話
「一匹のネズミが屋根裏で、大きな雄猫に出くわした。ネズミは逃げ場のない片隅に追い詰められた。ネズミは震えながら言った、
「猫さんお願いです。私を食べないで下さい。家族のところに帰らなくちゃならないんです。子供たちがお腹をすかせて待っています。どうか見逃して下さい。」
猫は言った、「心配しなくていいよ。おまえを食べたりしない。実を言うと、大きな声じゃ言えないが、俺は菜食主義なんだ。肉は一切食べない。だから俺に出会ったのは、幸運だったよ。」
ネズミは言った、「ああ、なんて素晴らしい日なんだろう。なんて僕は幸運なねずみなんだろう。菜食主義の猫さんに出会うなんて。」
しかし次の瞬間、猫はネズミに襲いかかり、爪でしっかりと身体を押さえつけ、鋭い歯をその喉に食い込ませた。
ネズミは苦しみながら最後の息で猫に尋ねた、「だってあなたは菜食主義で肉はいっさい食べないって言ったじゃありませんか。あれは嘘だったんですか。」
猫は舌なめずりをしながら言った、「ああ、肉は食べないよ。そいつは嘘じゃない。だからおまえをくわえて連れて帰って、レタスと交換するんだ。」
p234
「説明しなくてはそれがわからんということは、つまり、どれだけ説明してもわからんということだ」
BOOK2後編
p23、24
「君は怯えている。かつてバチカンの人々が地動説を受け入れることに怯えたのと同じように。彼らにしたところで、天動説の無謬性(むびゅうせい)を信じていたわけではない。
地動説を受け入れることによってもたらされるであろう新しい状況に怯えただけだ。それにあわせて自らの意識を再編成しなくてはならないことに怯えただけだ。
正確にいえば、カトリック教会はいまだに公的には地動説を受け入れてはいない。君も同じだ。
今まで長い間身にまとってきた、堅い防御の鎧を脱ぎ捨てなければならないことに怯えている」
p86
直感を行動する前に、理性を働かせる。誰かから指示を受けることに慣れてしまっている。タマルとは違う。
タマルなら、まず相手を取り押さえ、無力化しておいてからものを考えるだろう。最初に行動がある。直感を信用し、理論的な判断はあとにまわす。
一瞬の躊躇が手遅れになることを彼は知っている。
p294、295
「看護婦になる教育を受けているときにひとつ教わったことがあります。明るい言葉は人の鼓膜を明るく震わせるということです。
明るい言葉には明るい振動があります。その内容が相手に理解されてもされなくても、鼓膜が物理的に明るく震えることにかわりはありません。
だから私たちは患者さんに聞こえても聞こえなくても、とにかく大きな声で明るいことを話しかけなさいと教えられます。屁理屈はどうであれ、それはきっと役に立つことだからです。
経験的にもそう思います。」
BOOK3前編
p35
関心は日々移動する
p60
緊張が途切れなく続くと、本人にもわからないうちに、神経が伸びきったゴムのようになる。いったん伸びきってしまうと、元に戻すのが難しくなる。
「一人ぼっちではあるけど、孤独ではない。」
p62
「あなたは心温まる話をたくさん知っている。」
「それほどでもない。必要に応じてストックしてあるだけだ。俺は系統的な教育を受けてないから、実際に役に立ちそうなものだけを、ひとつひとつその度に身につけていくしかないんだ。
希望のあるところには必ず試練がある。あんたの言うとおりだよ。そいつは確かだ。ただし希望は数が少なく、おおかた抽象的だが、試練はいやというほどあって、おおかた具体的だ。
それも俺が身銭をきって学んだことのひとつだ」
「そいつは考えてみる価値のある疑問だ」
p72
出てくるものは毎日判で押したように同じ、アジの干物と卵焼きと、四つ切にしたトマト、味付けのり、シジミの味噌汁とご飯だった。
p312
自然界に真空が存在しないのと同じように。彼はふかえりのことを考えないわけにはいかない。
p320
考え方は平板で、視野が狭く想像力を欠き、世間の目ばかり気にしていた。何よりも、豊かな知恵を育むのに必要とされる健全な疑念というものを持ち合わせていなかった。
BOOK3後編
p51
「プールに飛び込む前に、水深を確認する」
「言うなれば」
p109
そして俺はその少しのことがとても上手にできるのだ。観客の拍手や投げ銭までは期待しない。
p110
翌日、特筆すべきことは何一つ起こらなかった。
p126
天吾は一人の自由な市民として、春夏秋冬好きな場所から好きなだけ空を眺める権利を有している。
p240
「人が一人死ぬというのは、どんな事情があるにせよ大変な事なんだよ。この世界に穴がぽっかり空いてしまうわけだから。それに対して私たちは正しく敬意を払わなくちゃならない。そうしないと穴はうまく塞がらなくなってしまう」
p240、241
「たぶんそこには死んだ人にしか正確には理解できないものごとがあったんだよ。どれほど時間をかけて言葉を並べても説明しきれないことが。それは死んだ人が自分で抱えて持っていくしかないものごとだったんだ。大事な手荷物みたいにさ」
p258
「わかるよ。俺も以前、同じ目にあわされたことがある」
「どれくらい、苦しいものか、こればかりは経験したことのない人間にはわからない。苦痛というのは簡単に一般化できるものじゃないんだ。
個々の苦痛には個々の特性がある。トルストイの有名な一節を少し言い換えさせてもらえば、快楽というのはだいたいどれも似たようなものだが、苦痛にはひとつひとつ微妙な差違がある。味わいとまでは言えないだろうがね。そう思わないか?」
p259
「どうやら俺達には共通点があるようだ」
「見たところお互いに一匹狼だ。あるいははぐれ犬だ。はっきり言えば、社会のはみ出し者だ。生まれつき組織には馴染まない。というか、そもそも組織みたいなところには受け入れてもらえない。すべて自分一人でやる。一人で決め一人で行動し、一人で責任を取る。上から命令は受けるが、同僚も部下もいない。自分に与えられた頭と腕だけが頼りだ。そんなところだね?」
p276
「とあんたは言う」
「しかしその提案が信用できるという根拠はない」
p277
「置かれた立場をよく考えた方がいい」
「今のところゲームのサーブ権はこちらにある。」
p279
「それから、もうひとつ指摘しておかなくてはならない大事なポイントがあります。あなたの比喩をそのままお借りするなら、たしかにあなた方はゲームのサーブ権をもっておられる。しかしこのゲームの基本的なルールをまだよくご存じないようだ」
「それも実際にやってみなくてはわからないことだ」
「実際にやってみて、うまくいかなければ面白いことになります」
「お互いに」
p280
「永遠に生きられるほど有能な人間はどこにもいない」
p283
「ゴーストライターはただのアルバイトで、自前の文学的野心がある。良いことだ。適度な野心は人を成長させる」
p286
「うまくいけば、という仮定をあてにしないことにしている。だからこそ今までいちおう大過なく生き延びてきた」
p296
「世界中の何よりも」と青豆は言う。
どの世界にある何よりも、青豆は心の中で言い直す。
p300~
p314
疑問が多すぎて、手がかりが少なすぎる
p324
時間がどこかで跳躍したみたいに、意識が覚醒したときには何もかもが既に起こってしまっていた。
p325
天吾は言葉なくその光景を見守った。ひとつの惑星の崩壊と再生を目撃している人のように。
p331
彼にも答えの持ち合わせはなかった。
p334
坊主頭は用心深く言葉を選んだ。
p343
ポニーテイルはただ短く肯いた。彼が何かの説明を求めることはない。
p353
現実の風に心の炎が吹き消されることはなかった。それより大きな意味を持つことなどどこにもありはしない。
p361
「でも今ここでは、今僕が持っている言葉では間に合わない」
p371
それでもそのゴムの木は、不安と迷いを抱え、手足を凍えさせながら不確かな階段を登っていく青豆に、ささやかながらも勇気と承認を与えてくれる。大丈夫、間違いない」
p377
生まれて初めて大洋を目にした人が波打ち際に立って、次から次へと砕ける波を呆然と見つめるように、二人は目の前にひしめきあった車の列を、言葉もなくただ眺めている。
p386
どんなに長くて退屈な話でもかまわない。この新しい世界で人々が語る物語を彼女は聞きたい。そこには新しい秘密があり、新しい暗示があるかもしれない。
p388
二人は口をきくこともなく、暗闇の中で時間をかけてお互いの身体を調べ合う。十本の指と手のひらを使って、何がどこにあって、どんなかたちをしているのかひとつずつ確かめる。
秘密の部屋で宝探しをしている小さな子供たちのように、胸をときめかせながら。そしてひとつの存在を確かめると、そこに唇をつけて認証の封印を与える。
p393
この世界にはおそらくこの世界なりの脅威があり、危険が潜んでいるのだろう。そしてこの世界なりの多くの謎と矛盾に満ちているのだろう。行く先のわからない多くの暗い道を、私たちはこの先いくつも辿らなくてはならないかもしれない。
しかしそれでもいい。かまわない。進んでそれを受け入れよう。








