三宅多留次(メケ三宅、タロー・三宅)
1881年岡山生まれ。柔道家であったが講道館系列ではない、いわゆる「柔術諸派」。1903年「全国武術選手権大会」で柔術各派、講道館代表を相手に優勝。そして神戸警察署の柔道師範に就任。ところが酒に酔って波止場の港湾労働者と大立ち回りを演じ、職を辞すことになる。
1904年ヨーロッパへ渡りフランス、イギリスとほっつき歩く。折からのプロレスブームに興味を抱き柔道半分、プロレス半分の試合をやり続ける。1910年インドのグレート・ガマと対戦。
その後アメリカに渡り、引退後のフランク・ゴッチとエキシビジョンの懸賞マッチ(1時間フォールされなかったら500ドル)に持ちこたえ、引き分ける。また、1916年頃アド・サンテル(ニューヨークで柔術を修めた世界ライトヘビー級チャンピオン)に敗れる。
1928年、帰国しプロレス興行を試みるが失敗。1930年ハワイで沖識名をスカウト。不遷流柔術や柔道、そしてプロレスの技を伝授した。
kindai
三宅太郎、明治36年大阪にて開催された「全国武術選手権」で優勝しているという。
ブラジリアン柔術ニュースブログ ブラジルブログ:高谷コラム「もう一人のコンデ・コマ」 Part.2 – livedoor Blog(ブログ)
1912年のパリで撮影された柔道(柔術)の映画?最初の演武は戸張滝三郎と三宅太郎だそうです。後半は柔道を使った護身術?昔の柔術っぽくて面白い。さっきの無拍子流の動画と違って、突き的な攻撃に対する技は一つしかないみたい。https://t.co/BQkk6q5mdt
— みんみんぜみ (@inuchochin) January 11, 2015
タロー・ミヤケvs アンディ・ベアノフ (前半)
Professional Wrestling Demonstration https://t.co/tEfEZHsmKr @YouTubeより
— 石部統久 (@mototchen) May 1, 2020
講道館柔道を再三苦しめた不遷流柔術・田辺又右衛門の腕十字。
The London police are being taught the art of ju-jitsu (Japanese wrestling) by a Japanese wrestler named Myaki. The little man has taught them two hundred arm and leg locks, and the London “bobbies” know so much now that it takes them ten minutes to decide what particular grip to get on to a hooligan. The police grip in New Zealand doesn’t need any burnishing up. It is a hard job to make them let go. You know the kind of grip we mean.
Papers Past — Free Lance — 8 April 1905 — Entre Nous
Entre Nous New Zealand Free Lance, 8 April 1905
ロンドン警察が柔術(日本式レスリング)を教わっている日本人レスラーの名を三宅と言う。その小さい男が彼らに教えたのは二百種類の腕と脚を決める技であり、ロンドンの「お巡りさん」達は今やそれ程多くを知っているので一人の与太者を捕らえる場合の掴み方を決めるのに十分かかる程である。ニュージーランドにおける警官隊の掴み方は少しも磨き上げる必要はない。彼らをして放さしめるのは大変な仕事である。我々の言う掴みの意味はご存知でしょう。
1905-1906 褐色の悪魔 三宅太郎
1904年12月、ロンドンはオックスフォード街に、日本柔術学校“The Japanese School of Ju-jitsu”が開校します。4人の日本人柔術家と1人の英国人女性が教師として居たようです。
主任教師が、三宅太郎と谷幸雄(後に平野“J. Hirano”が加わる)
柔術家・金谷正造と谷幸雄、三宅太郎
Joe Carroll Irish wrestler, beat Taro Miyake, the Jap wrestling ja-jitsu, in London. Taro had promised to wrestle the Irishman catch-as-catch-can, but didn’t come to light. His refusal created a “scene” in the Lyceum.
アイルランド人レスラーのジョー・キャロルが、ロンドンにおいて、三宅太郎を、日本式レスリング柔術で、倒した。太郎はアイルランド人とキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを闘う契約をしていたが、公にならなかった。彼の拒絶が文化会館に「騒ぎ」を生んだ。
1905-1906 褐色の悪魔 三宅太郎
Through The Economic. New Zealand Free Lance, 27 May 1905
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&d=NZFL19050527.2.15.1&e=——-10–1—-0-all
(中程から下の方の記事です)
The little brown man is a sudden sort of proposition when he takes to wrestling. The Japanese wrestler Tarro Myaki recently backed himself to throw Tom Connor in 15 minutes or forfeit £100. The match came off at Liverpool a few nights before the mail left, the Jap winning in 7min 2sec.
小さな褐色の男がレスリングを始める際に突然の提案。日本人レスラー三宅太郎は近頃トム・コナーを十五分の内に投げるかさもなくば百ポンド没収という賭けをした。試合はリバプールで手紙が出される数日前の夜行われ、日本人が七分二秒で勝利。
1905-1906 褐色の悪魔 三宅太郎
ATHLETICS Otago Witness , 12 July 1905
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&d=OW19050712.2.290&e=——-10–1—-0-all
(真ん中辺りの記事です
翌1905年
…
8月には、パリのポンチュー通り(シャンゼリゼ通りそば)に出来た柔術学校に、三宅と金谷が出張教授に行っています。その経緯について「懐想録」には、ロンドンで柔術を学んでパリに帰ったフランス人・レニエから、学校を開くに当たって応援に来てくれという招待を受けた、とあります。
柔術家・金谷正造と谷幸雄、三宅太郎
フランスのスポーツ・グラフ誌“La Vie au Grand Air”1905年12月8日号(No378)に、三宅が金谷を背負い投げしている写真と、金谷が三宅の腕を取って畳上に押さえ込む写真、それぞれ2葉ずつが掲載されています。背負い投げの写真(両人の顔がはっきり見える)1葉は、「懐想録」の口絵にも載っているものです。腕を取って押さえ込む写真2葉は、別の雑誌“Mon beau Livre”にも掲載され
柔術家・金谷正造と谷幸雄、三宅太郎
Besides lifting things, this man of muscle is jiu jitsu champion of England. He has met and defeated some of the Jap cracks. Tara Nyake, the champion jiu jitsu wrestler of the world, endeavoured to break Mr. Wray’s neck, and Wray is the only man under twelve stone who has been allowed to meet the “Devil” as Nyake is affectionately called. Don’t get angry with Mr. Wray. You might strain yourself.
Papers Past — Free Lance — 2 June 1906 — All Sports Of People
All Sports Of People New Zealand Free Lance, 2 June 1906
その他に取り上げること、この筋肉男は英国の柔術王者。彼は日本の一流選手と立ち合い倒して来た。三宅太郎、世界の柔術王者は、レイ氏の首を折るべく努め、そしてレイは「悪魔」という愛称で呼ばれる三宅と立ち合うことを許された12ストーン(76kg)未満唯一の男である。レイ氏に腹を立てることなかれ。あなた自身を疲れさせてしまうかもしれません。
1905-1906 褐色の悪魔 三宅太郎
All Sports Of People New Zealand Free Lance, 2 June 1906
http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&d=NZFL19060602.2.2&e=——-10–1—-0-all
(中程やや下の記事です)
戦績
不遷流3代目宗家 田辺虎次郎の直弟子 三宅多留次は不遷流でも相当の腕前だったらしく同門のスモール・タニ(こちらは不遷流4代目宗家で寝技日本一と講道館から恐れられた柔術家 田辺又右衛門の直弟子)と勝負して勝っていますね。
インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(5): 翻訳blog
タロー・ミヤケ(三宅太郎)。
同じ不遷流の出身であり、172センチ78キロと谷をはるかに上回る体躯。
さすがの谷も6分10秒で敗戦を喫してしまった。
三宅は所定の賞金を獲得した。
ブラジリアン柔術ニュースブログ ブラジルブログ:高谷コラム「もう一人のコンデ・コマ」 Part.2 – livedoor Blog(ブログ)
不遷流の三宅太郎(メケ・ミヤケ)は1910年、ロンドンでグレート・ガマと対戦。
その後プロレスラーに転向し、20年以上活躍した。
その技術は沖識名を経て日本プロレスにも伝わる。
柔道家の他流試合興行は明治時代から
10/20/1917
Santel meets Taro Miyake in Seattle. Santel slams Miyake so hard that Miyake has “dizzy spells for half an hour after the fall.”
Really Old School: Catch Wrestling vs Judo 1921 – Bloody Elbow
@baritsu これって復刻版があったんですね。
三宅の記事は一杯持ってるんですけど、記事を読んでも中々判別が付きませんw
逆にいつからプロレスの中で打撃を使う事が可能になったんでしょうね。 pic.twitter.com/m0yuAybXga— Leo (「拳の眼」管理人) (@Leo_thunderbolt) July 14, 2013
(アド・サンテル)
そしてメケ・三宅(別名タロー・三宅。後にオキ・シキナを発掘)にも勝つ
kindai
1920年6月3日【ロサンゼルス】柔道半分、プロレス半分の試合をやりつつ世界放浪中の三宅多留次がエド・ストラングラー・ルイスと柔術マッチを行う
プロレス界、6月3日の出来事 | プロレス桃源郷へのいざない
「アスレチック・クラブでの柔術マッチは引き分けに終わる」
エド”ストラグラー”ルイスと日本の格闘技柔術の代名詞であるタロー・三宅は昨晩ロサンゼルス・アスレチック・クラブで闘い引き分けた。試合は1ラウンド30分で10分休憩、3ラウンドマッチで行われた。
3ラウンド目はルイスが優勢。最後の15分は攻めっぱなし。彼は危険なヘッドロックとヘッドシザーズで監禁。ジャップは完全に不利であった。しかし彼は身をよじらせて悲惨な刑罰から逃げようとし続けた。
リング上のジャップ達 2 三宅対ルイスの「柔術マッチ」 | プロレス桃源郷へのいざない
(ジャック・シェリー)
1921年10月5日・ロック・スプリングス、タロー・ミヤケ(三宅多留次)に勝利
まぼろしのシューター 前編総集編3|那嵯涼介の“This is Catch-as-Catch-Can”
1923年12月31日
イリノイ州シカゴでエド“ストラングラー”ルイスとタロー・ミヤケが“柔術チャンピオンシップ・オブ・ザ・ワールド”と題された異種格闘技戦で対戦。ルイスがミヤケを破る。このイベントのプロモーターはルイス自身だった。
日本のプロレスの祖
1928年,大日本レッスリング普及会によって ママプロレスの興行が行われた。これはアメリカでプロレスラーとして活動していた三宅多留次が,大日本相撲協会の年寄,千賀ノ浦と協力し,外国人レスラーを招いて東京をかわきりに興行を打ったがどこも不入りで経営に頓挫し,この年の内に活動を終息したという。
戦後初期日本におけるプロレスの生成に関する一考察 ─1950年代におけるプロ柔道の展開に着目して─ 塩見 俊一
第43巻第4号 戦後初期日本におけるプロレスの生成に関する一考察(塩見俊一) 『立命館産業社会論集』 2008年3月 113
沖識名の師となる
1930年タロー・三宅に見いだされプロレス入りします。リングネームは相撲時代の「沖」と本名の「識名」を組み合わせて「沖識名」としました。
リング上のジャップ達 3 沖識名 | プロレス桃源郷へのいざない
(沖識名)
1932年1月13日にデビュー。1月25日には早くもMSGに進出…2月3日には師匠である三宅に「柔術マッチ」で勝利した。ここまでの三宅との二人三脚ぶりは劇画「あしたのジョー」の丹下段平と矢吹丈を思わせるものがある。
沖識名 | プロレス桃源郷へのいざない
ブラジル
不遷流3代目宗家 田辺虎次郎の直弟子 三宅多留次は不遷流でも相当の腕前だったらしく同門のスモール・タニ(こちらは不遷流4代目宗家で寝技日本一と講道館から恐れられた柔術家 田辺又右衛門の直弟子)と勝負して勝っていますね。
三宅はブラジルのサンパウロで指導したことが有るらしくリオデジャネイロでは1909年カポエリスタのシリアコと対戦しKO負けしています。
日本での多くのカポエイラ書籍やブラジル関連書籍ではシリアコの対戦相手がコンデコマだと勘いされていますがそれは誤報です
…シリアコとの対戦では英国時代にもやっていたのか握手をしてから決闘しようとした時に顔に唾を吐かれそれが目に入ったのかその隙に蹴られてKO負けしたそうです。
インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(5): 翻訳blog
エリオと三宅が戦ったのが1934年。
年齢差も有ったせいか今度は一本負け。
三宅の全盛時は20世紀初頭でしょうからかなりの年齢差です。
インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(5): 翻訳blog











