戦国時代~江戸時代初期の間に、徳川家康へ仕え活躍した重臣四人(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)のこと。
豊臣秀吉が羨んだ徳川家康の家臣団。その筆頭ともいえるのが「徳川四天王」である。家康に采配を教えた酒井忠次、武勇で戦局を一変させた本多忠勝と榊原康政、そして、赤備えを率いた井伊直政……。
徳川四天王 | 川村真二著 | 書籍 | PHP研究所
家康を三河時代から支えた宿老
家康が人質となって今川義元のもとにいた時も、彼はそばに仕え、身の回りの世話をしていたと言います。
徳川四天王の筆頭・酒井忠次に何が?: 今日は何の日?徒然日記
忠次は三河一向一揆、三方が原の戦い、長篠の戦い、小牧長久手の戦い・・・等、徳川家の重要な戦いで数々の武功を挙げています。
人物批評コーナー第二回(酒井忠次)
特に1575年の長篠の戦いでは、織田信長に武田方への夜襲を献策し、落城寸前だった長篠城を救出するという大手柄を挙げて信長を感嘆させた。
酒井忠次の肖像画、名言、年表、子孫を徹底紹介 | 戦国ガイド
ある時、徳川家康の嫡子信康に嫁いでいた五徳姫が、父織田信長へ信康とその母に武田家との内通の疑いがあると報告した。信長は家康に対し、この真偽を詰問。
その弁明の使者として酒井忠次が選ばれ、信長のもとへといった。しかし、忠次はうまく弁護できず、結果信康と母築山殿は死罪と決まった。
徳川四天王筆頭
家康が関東に移封された時、嫡男家次が与えられた臼井三万石は、当時、徳川四天王の他の三人が十万石規模であったことに比べて小禄でした。これに忠次が抗議した際、「お前も我が子が可愛いか」と信康事件の事をひきあいに出したという逸話が残っています。
酒井 忠次 | 戦国武将の名言から学ぶビジネスマンの生き方
家康に過ぎたるものと言われた名将
幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した
本多忠勝 – Wikipedia
その後も永禄4年(1561)7月の鳥屋根城攻め、永禄6年(1563)の三河国一向一揆の鎮定戦などに従軍、永禄9年(1566)には騎馬50騎を任され、永禄12年(1569)には一手役の将となった。
本多忠勝
元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。そしてこの時必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩した。
本多忠勝 – Wikipedia
人物の評価として「徳川には過ぎたるものが二つあり、唐のかしらに本多平八」と称賛
本多忠勝 (ほんだただかつ)とは【ピクシブ百科事典】
「唐の頭」とは当時きわめて珍しかったヤクの毛皮で飾られた兜のことで「本多平八」はいうまでもなく忠勝である。
本多忠勝-家康を数々の窮地から救った功臣- – WISDOM
世に名高い「神君伊賀越え」であるが、このときにも忠勝は信長の敵討ちをしようと血気にはやる家康をとどめ、一同の先頭に立って振りかかる危難をはねのけた。
そのため、家康も「無事に戻ってこれたのは忠勝のおかげ」と感謝の意をあらわにしたと伝わる。
第22戦「武勇に彩られた本多忠勝の生涯」
武勇ばかりが際立って目立つが、桑名藩の藩政では大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行ない、実質的に桑名藩の藩政を確立した名君でもありました。
浄土宗照源寺ウェブサイト
井伊の赤鬼(赤備え)の異名を誇る猛将
徳川四天王の中では飛び抜けた年少者であるが、その卓越した武勇・忠節・才覚・美貌などから家康に特に気に入られていたと言われている
井伊直政 信楽焼 明山窯 直営通販サイト-和楽-
井伊直政は、1561年2月19日、今川氏真の家臣・井伊直親の嫡男として、遠江国 井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で誕生した。幼名は虎松。
Yahoo!検索 – 徳川四天王
父・直親は、直政の生まれた翌年に謀反の嫌疑をかけられ今川氏真に誅殺される。
井伊氏は井伊谷の所領を没収され、2歳の直政も殺されようとしたが、寺にかくまわれながら一命をとりとめた。
井伊直政〜城と古戦場〜
信玄の幕下にいた山県昌景が旗・幟をはじめ武具・甲冑まで赤一色の武装にして先鋒をつとめていた「赤備え」を、直政はそのまま踏襲した。この140人の甲州武士団こそ「井伊の赤備え」として直政を不動の地位に押し上げる原動力となった。
井伊直政-家康に忠誠を捧げた「井伊の赤鬼」- – WISDOM
1600年、関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は家康の4男・忠吉の補佐役を務め、東軍の先鋒を任されていた福島正則を出し抜いて先鋒となり戦いの口火を切った。
井伊直政の肖像画、名言、年表、子孫を徹底紹介 | 戦国ガイド
しかし、合戦終盤、敗軍の追撃戦のなかで熾烈を極めた島津軍の撤退で、直政は追撃中に敵の銃弾を肩に受けてしまいます。すぐに治療がなされましたが、経過は思わしくなく、合戦から1年半たった頃に直政は亡くなりました。
関ヶ原ブログ : 2月1日は井伊直政が死亡した日
井伊直政は、名将として小早川隆景らに
絶賛された反面、冷酷な性格で知られ「人斬り兵部」と陰口をたたかれていた。部下のちょっとしたミスを許すことが出来ず、すぐに手討ちにしたため、彼の下に配属された者たちは、毎朝出仕する際、水盃をしてから家の門を出たと言う。
人斬り兵部 井伊直政・悪い話 – 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ
内政面でも徳川家に貢献した知勇兼備の将
三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた
榊原康政 – Wikipedia
元亀元年(1570)の姉川合戦では朝倉勢に側面攻撃をかけ、劣勢にあった織田・徳川連合軍を勝利に導き、信長より褒め言葉を賜っている。その後、三方原合戦・長篠合戦などに参加する。
そして小牧・長久手合戦では先陣として尾張入りすると、檄文をして秀吉に精神攻撃をかけ、その首に十万石かけられたにもかかわらず、舅大須賀康高とともに長久手で三好秀次隊を壊滅させ、堀秀政隊に敗れるも、無事生還している。
榊原康政、同輩の影に隠れてしまった名将
康政は家康の嫡子信康に対して度々厳しい諫言を行ったことから、信康には煙たがれ、あるとき腹を立てた信康は、康政に対して弓矢を向けることがありました。
それでも康政は身じろぎもせずに毅然としていたために、信康は諫言を受け入れざるを得なかったという逸話があります。
第43回 徳川四天王榊原康政の家紋
小田原の合戦では伊豆・山中城を攻めて落とし、1592年には徳川秀忠付きとなり、秀忠の家督相続実現に尽力した。
関ヶ原の合戦において、康政は秀忠と中山道を進んだが、家康は秀忠に対し「軍事は全て康政に相談せよ」と命じている。
榊原康政〜城と古戦場〜
内政面でも活躍し、達筆を買われて家康の祐筆の一人として大名たちと文書のやり取りなどもしており、上杉謙信に宛てた手紙が現存している。
武将紹介(徳川家:榊原康政)
小牧・長久手の戦いの際に前年に信長の3男・信孝を殺害したという秀吉非難の文言も、達筆な文字であちこちに記された
榊原康政 – Wikipedia









幼名:子平次、小五郎
徳川四天王の中では最年長、筆頭に数えられる