【社会学】ウェーバーの「職業としての学問」まとめ、要約

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カギ括弧で閉じた部分は私見です。基本的に興味が有るところを抜粋しています。あとで自分に興味のないところも補完していきます。最初の方のアメリカとドイツの教育制度の比較とか正直おもしろくなかったんで。随時更新します。(更新歴5/5)

▶マックス・ウェーバーとは

マックス・ウェーバー
マックス・ヴェーバー(Max Weber、1864年4月21日 – 1920年6月14日)は、ドイツの社会学者・経済学者である。マックス・ウェーバーと表記されることもある(正式な名前はカール・エミール・マクスィミリアン・ヴェーバー (Karl Emil Maximilian Weber)。マックスはマクスィミリアンの省略形である)。同じく社会学者・経済学者のアルフレート・ヴェーバーの兄である。
社会学の黎明期のコントやスペンサーに続く、第二世代の社会学者としてエミール・デュルケーム、ゲオルグ・ジンメルなどと並び称される。

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▼「職業としての学問」の要点チェック

<超ざっくりした要約>学問は”専門”として営まれる「職業」であって、事実関係を自覚し、認識するうことが目的となっている。現代の学問はかつてのように価値や世界の意味を教えるような、救いや啓示をもたらすようなものではなくなっている(脱魔術化した世界)。学者は世界がどうなっているかを教えるべきであり、どうなるべきかは教えるべきではない。どうあるべきかに答えるのは預言者や指導者である。我々はこのような時代の宿命に目を向けるべきである。

▶1 学者として生きるためには

<一言でざっくり:偶然を受け入れる覚悟が必要>

学者になれるかどうかは本人の能力以外の偶然の要因に左右されることを覚悟しなければならない。たとえば、資産、教員選考に当たる人たちの判断基準、学生のウケなど。
(絵を描くにしろ、作曲するにしろ、執筆するにそろ、偶然を受け入れる覚悟は必要ですね。金がある人はより知識を得やすいし、体験も多い。賞の選考などでたまたま価値観が違う人が審査して落ちるかもしれない。)
こうした覚悟がなければ、自分より劣った能力の人物がチャンスをああたえられ、自分を追い越してどんどん先に行くことが耐えられなくなる。

▶2 学者は専門家であるべきか

<一言でざっくり:禁欲的な専門家であるべき。>

社会学者はとくに隣接分野の縄張りを侵して面白そうなことを言いたがる傾向があるが、きちんとした仕事をできなくなる恐れがあるので我慢して自分の分野に集中するべき。
いわゆる専門家(プロフェッショナル)と対極的な概念に素人(アマチュア)というものがある。素人は安心して仕事をすることのできる方法論をもっていないが、専門家はもっている。
専門に特化したほうがその分野に固有の厳格な方法論を身につけやすいし、ひとつの対象に集中的に取り組まざるをえない状況をうむことができる。一つのことに集中し、ほかに寄り道をしないことで文章の中のたった一カ所に全力を投入し、わかったときに大きな喜びを感じるような地道な研究姿勢が培われる。このような取り組む姿勢はある意味で禁欲的である。
ウェーバー自身は法学・経済学・歴史学・社会学・政治学・宗教学とさまざまな領域を横断している。しかしさまざまな領域を横断していると、やがてはある種のあきらめを感じざるを得ない領域にくる。専門の学者ではなかなか気づかないような”有益な問題提起”をすることはできるかもしれないが、自分でその問題を解決しようとしても”力不足”であることを実感するという(これは重要)。ほんとうの意味で決定的な業績というものを持つのはつねに専門家の行った仕事である。

学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここにのちのちまで残るような仕事を達成したという、おそらく生涯に二度とは味われぬであろうような深い喜びを感じることができる。実際に価値ありかつ完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門家的になしとげられたものばかりである。それゆえ、いわばみずからめかくしをつけることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。
「職業としての学問」

▶3 学者にはほかに何が必要か

<一言でざっくり:仕事に熱中することはアイデアを生むから必要>

学者に必要なものは「情熱」である。個別の対象に集中的に取り組む「情熱」は、偉大な学問適正化につながる「インスピレーション」を生む。インスピレーションとは直観的なひらめき,霊感、おもいつき、瞬間的に思い浮かんだ着想のことを意味する。
インスピレーションはまったく期待もしていないときに突然のように現れ、デスクに向かって詳しく調べたり探し求めたりしているときには現れないもの。しかし詳しく調べたり、探し求めていない人、そして「情熱」をもって探求していない人にインスピレーションは現れない。
また、そうしたインスピレーションが訪れるかどうかも偶然なので学者はそれを受け入れなければならない。優れた仕事をしながら一度もインスピレーションに恵まれなかった人もいる。
学者や芸術家だけではなく商人にも必要。「商人らしい想像力」がない人、独創的な思いつきに恵まれない人は、せいぜい社員か技師止まりで独創的な企画を考えるようなことはない。
学問的な霊感は「才能」が必要であり、我々に理解できない「宿命(前世から定まっており,人間の力では避けることも変えることもできない運命)」のようなものが働いている。
専門家とは対照的な存在として、「ディレッタント」という言葉がある。ディレッタントとは好事家、つまり芸術や学問を”趣味として”愛好する人を意味する。ディレッタントもインスピレーションを得ることがあるが、決まった作業様式を欠いているから、そのインスピレーションがどれほどの射程をもつのかきちんを位置づけをし、評価し、現実化することができない(重要)。
また、「情熱」だけがあるだけでは駄目で、着実な「作業=労働(仕事)」が「情熱」と結合することによってインスピレーションを引き出すことができる。着実な「作業=労働(仕事)」は「学問」を経済と同じように「効率性」を追求しながら拡大するシステムを見ればいい。

▶4 学問において体験や個性は重要か

<一言でざっくり:重要ではない。ひたすら仕事のために献身しろ>

ウェーバーはそれを否定する。学問や教育を神秘主義的に捉え、カリスマ的人格(個性)や体験を神聖視すしようとするのではなく、そうしたセンセーション(体験)抜きに学問に取り組むことが必要であると述べる。「情熱」をもって研究対象に取り組むことと「体験や個性」を特別視することとは対極にある。
学問の領域において真に「個性」を発揮するのは優れた「個性」の獲得に憧れる人ではなく、”探求すべき「物=客体」に使える人”である。物=客体とは、研究対象それ自体である。自分ではなく、研究対象こそが重要である。
ウェーバーは若者が「偶像崇拝」のような考え方が流行していることを指摘する。「偶像(あこがれや尊敬妄信などの対象となっている人や物事)」とは「個性」と「体験」のことである。体験によって個性が生まれ、体験は個性に属するという考え方だ。十分な体験を積んでいない人は個性的ではないと。
しかし学問の分野において「個性」というものは”純粋に仕事のために献身している人物のこと”を指す。これは学問の領域に限られない。政治でも、芸術の場合でも同じである(重要)。

ゲーテ
ゲーテ
Johann Wolfgang von Goethe
[1749〜1832]ドイツの詩人作家。「若きウェルテルの悩み」などで,シュトゥルム-ウント-ドラング(疾風怒濤(どとう))運動の旗手として活躍。10年間,ワイマール公国で政務を担当。のちイタリア旅行の体験などを通じて,シラーとともにドイツ古典主義を完成。また,自然科学の領域でも業績をあげた。戯曲「ファウスト」「エグモント」,叙事詩「ヘルマンとドロテーア」,小説「ウィルヘルム-マイスター」,自伝「詩と真実」,自然科学論集「色彩論」など。

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自分の仕事だけに献身するのではなく、ほかの仕事もするような人が、偉大な芸術家になったためしはないのです。芸術作品として考えるかぎり、たとえゲーテのような個性のある人物でも、自分の「生活」を作品にしようとするような勝ってな真似をすれば、しっぺ返しを受けねばならなかったのです。
「職業としての学問」

とにかく、自己を滅して専心すべき物=仕事(sache)を、逆になにか自分の名を売るための手段のように考え、自分がどんな人間であるかを「体験」で示してやろうと思っているような人、つまり、どうだ俺はただの「専門家」じゃないだとうとか、どうとか、そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では間違いなくなんら「個性」のある人ではない。こうした人々の出現はこんにち広く見られる現象であるが、しかしその結果は、かれらがいたずらに自己の名を落とすのみであって、なんら大局には関係しないのである。むしろ反対に、自己を滅しておのれの課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値の増大とともにその名を高める結果となるだろう。
「職業としての学問」

▶5 学問と芸術の違いとはなにか

<一言でざっくり:学問は進歩を前提とするが、芸術はしない。>

ウェーバーによれば、学問以外のたとえば”個性や体験が神聖視されがち”な「芸術」においても「個性」や「体験」に憧れるよりも「対象」に専念すべきだという。この意味で芸術と学問は似ている。
学問は「進歩」が前提となっている。どれほど研究が優れていても、時が経てば時代遅れになる。しかし芸術は「進歩」が前提となっていない。たしかに新しい表現方法は発見されるが、それまで偉大とされていた作品の価値が下がるわけではない。
“学問は研究がどれほど偉大な業績を残せたとしても、それを土台にして誰かがそれを乗り越え先に進むような人がいなかったのならば、学問の進歩に貢献しなかったことになり、無意味になる。”(これはかなり重要)
(芸術も同じで作品を土台にして誰かに影響を与えて創造を誘発するようなものでなければ価値があるとはいえないんじゃないかと思ったり。)
学問というものは、自分自身の卓越性(他よりもはるかに優れていること)を誇示すること(自慢気に見せること)以上に、「物=対象」それ自体を大事にすることができないと、ほんとうの意味では学問に打ち込んでいることにならない。
学問を単なる収入を得るための手段にするべきではないし、自分を乗り越える「仕事」をする人が登場することを心の底から喜ばなければならない。
(漫画とか音楽の領域ではすぐ著作権だとかパクったなんだということが問題になるが、土台とされたことを光栄に思う姿勢も重要なんんじゃないかと思う。まるまるパクったみたいなものはだめだけどね)

ほんとうの意味で「達成された」芸術作品であれば「新しい時代の作品によって」凌駕されたり、古びたりすることはないものです。ここの芸術作品の重要性については、人によってさまざまな評価があります。しかし芸術家の力量にが完全に凌駕されたという意味で「達成された」作品が、他の芸術家の「達成され、」作品によって、「凌駕された」などと主張することができる人はいないのです
職業としての学問

学問的に「達成された」仕事というものは、新たな「問い」を提起するものであって、[その問いに答える後の仕事によって][凌駕され]ることを、時代遅れになることを、”望んでいる”ものなのです。学問に貢献しようとする者であれば、誰もがこの運命と<折り合い>をつけねばならないものです。
職業としての学問

▶6 学問の進歩は何を目的にしているのか。

学問の目的は「凌駕される」ことにあり、凌駕されるこの連鎖による「進歩」は”無限に”続くべきものである。では、学問には”どのような意味があるのか”。この”完成されることなく”無限に続く進歩に何の意味があるのか。これに意味があるということは自明ではない。
最初の答えは「技術的な目的」のためであるという。目的として示された「期待」を実現するために実践的(単に頭で考えるだけでなく,具体的に行動に移すさま <->理論)に行動していると。そうかもしれないが、これは実践的な人間だけに意味があることとウェーバーは述べる。
それではどのような心構えを学者はするべきなのか。

“学問は「それ自体が目的である」”と主張する。

商売で成功するから、食べ物が美味しくなるから、衣服が良くなるから、住宅の照明が改善されるから、人々をより統治できるから、有名になれるから、そういった理由で学問をするのではない。
(恋愛も同じだろうと思う。イケメンだから、かわいいから、優しいから、お金持ちだから、スポーツができるから、頭がいいから、有名人だから、といった理由で人を愛するべきではない。あなただから愛すると、そういう心構えをするべきじゃないのかと。君はそのイケメンがしわしわのジジイになっても愛していられるのかと。お金がなくても愛していられるのかと。)
すぐ時代遅れになり、専門分野に細分化され、無限に終わることのない仕事をすることに何の意義があるのか?

学問の進歩はなんのためにあるか、学問はなんのためにあるかという問いのための問いをこれから見ていく。

▶7 「6」の問いのために。「脱呪術化」とはなにか

<一言でざっくり:なにか神秘的な理由があるとは考えずに、技術によって説明できると信じること>

人間はこれまでの数千年の歴史をつうじて、すべてのことを自分の知性によって判断しようとするプロセスを進展させてきた。学問もその重要な一部を構成する。このようなプロセスをウェーバの言葉でいえば、「主知主義的プロセス」という。時が経つにつれて知性によって判断することが多くなり、合理化が進んでくる。たとえば、電車がなぜ動くのか。同じ物なのに昨日と明日でなぜ同じ金額買えないものがなぜあるのか、電車がなぜ動くのか、なぜ買えないものがあるのかは”技術的な手段と予測”によって、つまり知性によって判断できると思っている。そこになにか神秘的な理由があるとは考えずに、技術によって説明できると考えている。これが世界が脱呪術化であり、主知主義的プロセスである。
知性によって判断することが多くなり、合理化が進むことは”一般的な知識が増大するということではない”。これとはまったく別のことを意味している。

それは、[電車が動く構造とか、貨幣の価値について]知識が存在している、少なくともわたしたちが”望みさえすれば”、そのことをいつでも知ることが”できる”と信じているということですそしてその背後に原則として、何らかの神秘的で予測できない力が働いていないこと、すべてのものを原則として”予測によって支配することが”できると信じているということです。しかしそれは、世界が脱呪術化されたということを意味しているのです。
「職業としての学問」

▶8 「6」の問いのために。 「死」は意味のある現象か

<一言でざっくり:進歩は仮のものにすぎないから、死は意味のない出来事にすぎない。>

トルストイ
レフ・トルストイ
〔 Lev Nikolaevich T. 〕[1828〜1910]ロシアの小説家思想家。著作は一九世紀後半の複雑なロシア社会の実相を描き,リアリズム文学の最高峰とされる。また,人道主義の立場から社会宗教人生の問題について生涯煩悶を重ねた求道的実践的思想家として,国境を越えて多くの信奉者を得た。代表作「戦争と平和」「アンナ=カレーニナ」「イワン=イリイッチの死」「復活」「クロイツェル-ソナタ」,回想の表明「懺悔」,評論「芸術とは何か」。杜翁。
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脱呪術化、主知主義的プロセスになんの意味があるのか。このような問題を根本的に問い詰めた人物がレフ・トルストイである。

“文明人にとっては、死は意味のないものだ”

という答えに彼は収斂させた。

文明人(文字をもち,交通網が発達し,都市化がすすみ,国家的政治体制のもとで経済状態技術水準などが高度化した文化をもつ人々)の生活は進歩とともに無限に進んでいく。無限に進んでいくから終わりがない。また、生活はつねに進歩して、”今ここで死ぬものは誰も未来に控えている無限なる者の高みに達することができない”。
文明人の精神の生活は次々と新しいものを作り出し、一部をつかみとるが、最終的なものではなく、つねに”仮のもの”でしかない。

仮のものでしかないから文明人にとって「死」とはまったく意味のない出来事にすぎない。死が無意味だから文明生活の無意味である。文明は無意味な進歩のために人間の死を無意味にさせる。

アブラハム(旧約聖書に登場するイスラエルの民の祖。イスラムではアラブ族の祖。テラの子。イサクの父。神に対する絶対的信頼と服従により,「信仰の父」と呼ばれる。)も古代の農民も、「年老いて、生きることに満ち足りて」死にました。彼らは生命の有機的な循環のうちにあって、晩年にいたって、生きることによって与えられた意味をすべて理解していたのであり、解きたいと思うような謎はまったく残されていなかったのでした。こうして、人生に「満ち足りて」死ぬことができたのです。しかし文明人は、文明が絶えず豊かになるものとなるプロセスのうちに活きているために、思想においても、知識においても、問題においても、豊かになり続けるばかりで、「生きるのが嫌になる」ことはあっても、生きることに満ち足りることはないのです。
「職業としての学問」

▶9 「6」の問いのために。洞窟の比喩と学者について

<一言でざっくり:学者は真理を無知の人たちに教える役割を持つ>

プラトンの「国家」の洞窟の比喩から考えてみる。洞窟の中で鎖に縛られた人々は岩陰に顔を向けて座っている。前の壁に浮かび上がる影絵だけを見つめていて、それがどのような”関係”にあるのかを模索している。鎖を断ち切ることができた人は背後を振り向いて”太陽”を目にすることができる。太陽に目がくらんで手探りをしながら鎖でつながれたままの他の人々に口ごもりながら見たものを語る。しかし他の人々は彼が間違っていると主張する。
彼は太陽の光にそのうち慣れて、再び洞窟の中にいる人々のところに降りて行き、彼らの目を光の方に向けさせる。これは使命であるとかれはかんがえる。
この人は「哲学者」であり、太陽は学問の「真理」を意味する。学問の真理だけが見かけだけのイメージや影絵をとらえるのではなく、「真なる存在」を捉えるという。
人々を脱呪術化へと導く役割を担っているのは「学問」であり、学問の真理(太陽)を見ることが出来る人達は哲学者(学者)である。(卑近な例で言えば、幽霊がいると言っている囚人たちに学者が物理的な法則を示して幽霊などいないと言ってあげるような感じだろうか。物理的な法則を真理の一形態ととらえればなんとなく理解できる。幽霊のような魔術的、呪術的なものを脱していく過程は脱呪術化である。)
ちなみに太陽の光が最高のイデアである「善のイデア」であり、火は様々なイデアを示すという。イデアとは個々の事物をそのものたらしめている根拠である真の実在である。(たとえば完璧な円を人間は書くことができない。どこかずれているものである。円そのもの、円の本質というものは現象界にはなく、イデア界にある。そうした円そのものの本質、円を円たらしめている真の存在がイデアである。)

▶10 「6」の問いのために。概念と学者の関係とは

<一言でざっくり:正しい概念を学者は無知の人に教える役割をもつ>

科学的な認識のための偉大な手段として「概念」がある。この概念の意味を”すべての人をいわば論理の万力(工作物を挟んで締めつけて固定する道具)によって押さえつけることの出来る手段”として自覚したのはソクラテスが最初。
学問のための認識のために必要なのが「概念」であり、正しい概念を見つけることができれば真の存在を把握することができると考えられていた。美の正しい概念、勇気の正しい概念、魂の正しい概念、そういった正しい概念を把握することができれば、市民として正しく行動するにはどうすべきかを認識し、教えることができると考えられていた。
こうしたソクラテスが自覚した「概念」を継承するように、弟子のプラトンは洞窟の比喩で太陽(真理)を見ることができない囚人の話をした。正しい概念を見つけることができた人ができていない人に概念を教えることと、太陽を見た人(哲学者)は見ることができない人たちに教育をするべきということの関連が見られる。

ソクラテスの弟子たちが経験したこの体験は恐ろしいものでした。そして美にせよ、善にせよ、魂にせよ、どんなものにしてもその正しい概念をみつけだしさえすれば、その真なる存在を把握することができるということになりました。そしてこれによって人間が人生において、とくに市民として正しく行動するにはどうすべきかを認識し、教えることの出来る道が示されたのだと考えられたのでした。ギリシア人はすべてのことをまず政治的な人間として考えたので、これが何よりも重要な問いだったのでした。学問をしたのもそのためでした。
「職業としての学問」

▶11 「6」の問いのために。実験とはなにか

学問的な仕事のための第一の手段は「概念」だったが、第二の手段は「実験」である。合理的(論理にかなっているさま。因習や迷信にとらわれないさま)な実験という手段はルネッサンス時代(14世紀 – 16世紀)に生まれた。
実験を最初に成功させたのはレオナルド・ダ・ヴィンチ。

レオナルド・ダ・ヴィンチ
レオナルド・ダ・ヴィンチ
1452年4月15日 – 1519年5月2日(ユリウス暦))は、イタリアのルネサンス期を代表する芸術家。フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Leonardo di ser Piero da Vinci ) で、絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工学、発明、解剖学、地学、地誌学、植物学など様々な分野に顕著な業績を残し、「万能人 (uomo universale )」 と異名などで親しまれている。

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ダヴィンチは「芸術」の改革者だった。
実験を「学問」の領域に持ち込んだのはガリレオ・ガリレイ

ガリレオ・ガリレイ
ガリレオ・ガリレイ
ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 – グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリアの物理学者、天文学者、哲学者。
パドヴァ大学教授。その業績から天文学の父と称され、ロジャー・ベーコンとともに科学的手法の開拓者の一人としても知られている。1973年から1983年まで発行されていた2000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。

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ロジャー・ベーコンは理論的に意味づけをした。

ロジャー・ベーコン
ロジャー・ベーコン(Roger Bacon、1214年 – 1294年)は、「驚嘆的博士」(Doctor Mirabilis)とよばれた13世紀イギリスの哲学者。カトリック司祭で、当時としては珍しく理論だけでなく経験知や実験観察を重視したので近代科学の先駆者といわれる。
イギリスのサマセット州イルチェスター生まれ。生家はもともと裕福だったが、ヘンリー3世時代の政争に巻き込まれて資産を没収され、家族は追放の憂き目にあった。

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合理的な実験は経験を信頼できる形で管理する手段としてルネサンス期に発見された。

もちろん、ルネサンス期以前にも実験は行われていた。たとえば生理学的な実験としてはインドでヨガの禁欲的な技術があり、数学的な実験としては古代ギリシアにおいて軍事技術の目的で実験があったし、中世では鉱山の採掘のための実験があった。

しかし、実験を”研究の原理そのもの”まで高めたのはルネサンス期の業績だったという。

研究の原理そのもの、信頼できるような、合理的なレベルにまで高めるような道を最初に開いたのは”芸術”の分野のレオナルド・ダ・ヴィンチだった。そのあと学問の分野にガリレオが持ち込み、ベーコンがそのための理論を構築した。

▶12 「6」の問いのために。 近世における自然科学の意味とは

<一言でざっくりと:世界の意味を教えてくれる存在。真の芸術へ至る道でもあり、神へ至る道でもあった>

ルネサンス期を境に、合理的な実験という手段が発見された。ダヴィンチたちはどのように学問を捉えたのだろうか。自然科学をどのような意味でとらえたのだろうか。

彼らは学問とは”真の芸術へといたる道”ととらえていた。

彼らにとって学問は”神にいたる道”でもあった。彼らは当時、哲学の概念や推論を使っても神に至らないことに気づいていた。中世は哲学によって神にいたろうとしたが、その方法ではいたれないことに当時のピエティスム神学者らも気づいていた。近世、つまりルネサンス期以降は神の仕事を哲学的にではなく、”物理的に”把握することのできる精密な自然科学によってこそ、世界のうちに神の意図のの痕跡を発見することができると彼らは期待した。

*敬虔主義、17世紀末,ドイツのルター派教会内におこったキリスト教思潮,またその運動。教会の形式主義知識偏重主義に抵抗し,聖書を中心とし内的な敬虔と実践を重んじた

スワンメルダム
スワンメルダム
Jan Swammerdam
[1637〜1680]オランダの博物学者。顕微鏡による昆虫の精密正確な解剖図を残し,昆虫分類の基礎を築く。赤血球を初めて記載。また,リンパ管の弁を発見した。

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スワンメルダムの有名な言葉を思い出してみましょう。彼は「ここにシラミを解剖して、神の摂理を証明してみせよう」と語ったのでした。彼のこの言葉からも、その頃にプロテスタンティズムやピューリタから(間接的に)影響を受けていた学問の仕事が、どのような課題を抱いていたかが理解できるはずです。学問は神にいたる道だったのです。
職業としての学問 200p

▶13 「6」の問いのために。 現代における自然科学の意味とは

<一言でざっくり:自然科学では意味を見出せないし、意味に対する信仰を除去する。>

学問は”世界の意味”について何も教えてくれない。現代において自然科学とは、世界には「意味」がるということを””根こそぎ”にあると考えられている。つまり世界には意味なんてないということを教えてくれるだけである。神にいたる道などということは論外として考えられている。

現代では学問の合理主義や主知主義*を批判する人もいる。彼らは体験という”非合理的”なものを意識にもたらし、それを詳しく分析するという方法を採用している。

*「マックス・ウェーバーを読む」によれば、世界の意味に通じるような体験に憧れて主知主義・合理主義を否定する人たちはもう一度プラトンが比喩したような洞窟にもっどろうとしている囚人なものであるとウェーバーはいっているという。

*しゅちしゅぎ【主知主義】
① 〔 intellectualism 〕知性理性など,理知的なものを根本とする思想的立場。主知説。認識論で,真理認識の根拠を理性に置く合理的立場。心理学で,心の根本機能を,表象思惟など,知的作用に置く立場。倫理学で,道徳的行為は知性に基づくとする立場。
↔主意主義・主情主義
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▶14 「6」の問いのために。学問の無前提とは

<一言でざっくり:学問は自身の前提が正しいかどうか証明できないし、問いに答えることは出来ない。>

トルストイ

学問など無意味だ。われわれにもっとも重要な問い、すなわちわれわれは何をなすべきか、われわれはいかにして生きるべきかという問いに答えていないからだ
「さらば我々は何をなすべきか」

学問は人間が何をなすべきかについて答えてはくれない。それは疑問の余地もない。ウェーバはこれを前提として、”答えないということにどのような意味があるのか”と問いかける。

たとえば物理学、化学、天文学などの自然科学では宇宙で発生する出来事の究極の法則を解明することを目指している。また、科学が再構成できる究極の法則は”知る価値があるものとして”当然のように「前提」としている。
法則を知ることによって技術的な目的を実現できることだけではなく、科学を天職とする科学者にとって、こうした法則は「それ自体」において知る価値がある。自然科学はこの世界が存在する価値があるかどうか、意味があるのかどうか、世界に生きる意味があるのかどうかという問いをきちんと証明することはできない。自然科学はそのような問いを投げかけない。

では医学ではどうだろうか。医学の前提は”生命そのものを維持すること、苦痛をできる限り少なくすることを課題とする”ことである。しかし医者は患者が死なせてほしいと嘆願(たんがん、事情を説明して,ある事柄の実現を切に願うこと)しても自分の持つあらゆる手段を使って生き返らせようとする。(パウロ・コエーリョで自殺をしようとした少女を助けて治療した後、精神病院に入れた話を思い出した。)医者はそのような嘆願を聞くことを禁じられている。(安楽死・尊厳死の問題を思い出す。患者が死にたいといえば死なせてよいかどうかというのは議論があるが、基本的に日本では法律で容認されていない。)

生が生きる価値のあるものかどうか、どのような場合に生きる価値があるものなのかとということは、医学はまったく問わないのです。
職業としての学問 207

すべての自然科学は、わたしたちが人生を技術的に支配したいと”すれば”どうすればよいかという問いには答えてくれます。しかし人生を技術的に制御するべきなのかどうか、わたしたちは人生を技術的に制御することを望んでいるのかどうか、さらには人生にはそもそも意味があるのかどうかという問いには、自然科学は答えてくれません。むしろそこのと[すなわち人生は技術的に制御すべきであり、人生は意味のあるものであること]を科学の目的として、前提としているのです。
職業としての学問 207~208

決定的に重要な文章

美学という学問分野ではどうだろうか。

美学は芸術作品が存在すべきかであるかどうかは問うことができない。美学は芸術作品が存在するということを前提としているが、すべきかどうかを美学は問うことができないし、答えることもできない。

美学は、芸術の悪魔的な壮麗さの王国ではないのかとか、[彼岸を否定する]現世の王国であって、もっとも深い内面において、神に反するものではないのかとか、そしてきわめて強い貴族主義的な精神のために、同胞愛に反するものではないのかというような問いは、美学の問うところではないのです。
職業としての学問 208

・法学ではどうだろうか

法律はそもそも法律が存在するべきなのかどうなのか、規則を定めるべきかどうかという問いには、法学は答えられない。法学が示すことができるのは、”もしもわたしたちが法学的な思考にしたがって何かを実現しようとするならば、この法律の規則を遵守するのが最適な方法であるということだけ

・歴史的な文化科学の場合はどうか

文化的な現象が価値のあるものであるかどうか、今なお価値のあるものなおかという問いには答えようとしない。政治的・芸術的・文学的・社会的な文化現象をその成立条件に基づいて理解できるようにしてくれるだけ。

▶15 「6」の問いのために。価値判断と事実判断の関係とは

<一言でざっくり:価値判断と事実判断は区別するべきで、学者は価値判断の問題を教壇で取り上げるべきではない。>

「価値判断」とは、たとえば文化の価値について答えることや、文化的な共同体はいかに行動するべきかといったような価値の判断のことである。
それに対して「事実判断」とは、単なる事実の確定や、文化の構造、あるいは数学的な関係や論理学的な関係など、事実の判断のことである。

学者は価値判断と事実判断は全く違うものだと認識するべきである。たとえば教壇で教師は政治的な見解などは抑制するべきである。教師は自分の政治的な見解を学生に押し付けてはならない。

学者が自らの価値判断をあらわにする場合には、事実を完全に理解するという義務を放棄してしまう
職業としての学問 215

▶16 「6」の問いのために。神々の争いについて

文化にはそれぞれ相対的に価値があり、どの文化が価値が高いかという争いが起きている。。比喩で言えば神々の争いであり、価値の争いである。たとえばフランスの文化とドイツの文化を比較してどちらの価値が高いかを”学問的に”決定するためにはどうすればいいか理解できないとウェーバーはいう。昔は学問ではなく、運命が争いを支配していたという。
学問が我々に教えることができるのは、古代において神とは”何だったか”、現代において神とは”何か”などということであり、神は”何であるべきか”ということを教えるべきではないし教えることはできない。学問が価値、つまりどうあるべきかを教え用としても、多様な価値秩序の中で、中立の立場で教えることはできない。
個人はどのような価値の立場をとるかを選ばなければならない。選ばれた方は神となり、他方は悪魔となる。たとえばキリスト教の歴史を考えてみても、一人の神のために他の多くの王座から駆逐していった歴史と捉えることができる。
近代以降、脱魔術化は進行してきて、キリスト教の価値だけが正しいというような魔力はなくなってきている。ゆえに今まで駆逐されてきた多くの神々たちが再び蘇り、”我々の生活を支配する権力を求めて、再び永遠の戦い”を始めたとウェーバーはいう。
どの価値を選択するべきか、と若者は悩む。どの価値が絶対的に正しいのかという答えを学問は教えてくれないし、運命的に正しいというような魔術的な力もなくなっている。我々はそうした困難な状態、時代の宿命に耐えて生きなければならない。こうした日常において、人々は「体験」を求めるようになる。なぜ求めているかというと、さきほどいったような「時代の宿命」を正面から見つめることができないからという。数千年の間キリスト教の価値に依存してきたために、宿命を見つめることができなくなってきている。

またあるものは、善ではないが美しいものでありうるだけではなく、むしろそれが善でないがために美しいということがありうるのです。これはニーチェがすでに指摘していただけでなく、ボードレールが「悪の華」と名づけた詩集において、既に語っていたことでもあります。さらにあるものは美しくなく、神聖でもなく、善でもないのにもかかわらず、真でありうるということは、ごく日常的な叡智とされていることです。しかしこれらはさまざまな価値秩序の間の<神々の争い>のうちでも、ごく基本的な事例に過ぎません。
職業としての学問 219P

ジョン・スチュワート・ミル
ジョン・スチュアート・ミル
ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806年5月20日 – 1873年5月8日)は、イギリスの哲学者である。社会思想家、経済思想家でもあり、社会民主主義・自由主義思想に多大な影響を与えた。ベンサムの唱えた功利主義の擁護者。晩年は自ら社会主義者を名乗る。また、論理学分野においてバートランド・ラッセルら後続の分析哲学にも強い影響を与え、初期科学哲学の重要な哲学者でもある。

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人は何らかの規制の価値秩序に従って考えるのではなく、自分の経験のみに頼って自らの価値秩序を構築していけば、各人の価値秩序は全く異なったものになるだろう、ということである。・・・美しくも神聖でもない善でもないものこそが真なるものであるという考え方もあり、これが常識になりつつあるという。
ウェーバーはこうした価値秩序の乱立状態を、「神々の争い Kampt der Gotter」と掲揚する。人間を様々な呪術的な制約から解放すれば、合理的な世界観を共有できるようになるという前提で進んできた近代化が、かえって「神々の争い」を引き起こしているという皮肉な事態である。
「マックス・ウェーバーを読む」234

▶17 「6」の問いのために。指導者と教師の違い

<ざっくり一言で:指導者は価値を教え、教師は事実を教えるべき。>

講義を聞きに来る理由はたんなる分析や事実の確認のためではなく、もっと別のものを「体験」したいからであるという若者がドイツにいる。事実判断よりも価値判断のために来ているというのである。ウェーバーいわく、教授に教師ではなく指導者としての役割を求めるのは間違いだという。教壇に立つのは教師としてでしかないと。
アメリカでは反対に、講義を聞く理由は知識や技術の獲得のためである。教師から世界観を買おうとか、生き方に対して教えてもらおうとは考えない。
ウェーバーは、もし大学の教師が世界観の争いや超党派的な意見の争いが天職だと考えるならば、教室の外に出て、人生の市場において語るべきだという。たとえば、集会や新聞、所属する団体。(小説や絵なんかもそうなのかなーと思ったり)

アメリカの若者たちが他人を評価する際に重視するのは、その人物の個人的な業績だけであり、伝統にも、社会的な地位にも、その他の何も誰へも、敬意は払いません。そしてアメリカ人はそれを、民主主義と読んでいるのです。
職業としての学問 224

アメリカの学生は自分の前に立っている教師については、「八百屋の女主人が僕の母親にキャベツを売っているように、この男は僕の父親からお金をうけとって、僕に知識と方法を切り売りしているのだ」と考えるだけです。
職業としての学問 224

▶18 【ここが一番重要】学問は何をもたらすのか、学問はなんのためにあるのか(問い6)

第一に、学問がもたらしてくれるものは、「技術についての知識」だ。技術を使って我々は実際の生活で外界の事物や他人の行動を予測しつつ制御する。(科学の知識で天気を予測したり、人がどうすれば能力を発揮できるのか、どうすれば早く走ることができるのか、どうすればお金儲けをすることができるのか、どうすれば早い計算機をつくることができるのか、どのように社会はなりたっているのか、どのように電気は流れるのか・・etc。)
しかしそれだけではないとウェーバーはいう。

第二に、”学問はものを考えるための方法を提示し、そのための道具と訓練を提供する”という。

第三に、学問は”明晰さ”をもたらしてくれるという。

どのような明晰さか。たとえばある価値の問題が提起されて、ある立場を学生がとるとする。こうした立場を貫くためには、”学問の経験にもとづいてあれこれの手段”を採用しなければいけない。このとき、目的が手段を正当化するかどうかが問われるという。教師は学生が目的のための手段の選択が必然的なものであることを教えることができ、これによって学生は自らの選択について明晰さを自覚できるようになるという。
どういうことなのか。選択について明晰さを自覚できるようになるということは、”自分の行為の究極の意味に責任を負うことができるようになる”ということだろうか。まず学問の世界には限界があり、ある価値問題があり、ある立場をとろうとすれば、選んだ価値Iそれ以外の価値を侮辱することでもあるという。神々の争い、価値観の争いにおいて、ある神(価値)に奉仕するということは、他の神(価値)を侮辱することであるのだ。このような帰結は避けられない。
ある立場を選ぶということは、その論理の一貫性にしたがうということであり、誠実が求められるという。学問は学生に自分の好意の究極の意味に責任を負わせることができ、また手助けができるという。教師は学生に対して、”明晰さ”と”責任感”をもたせる義務を果たさなければならない。これは教師がある立場になるように押し付けようとしたら、この義務を遂行する能力は低くなる。

今日の若者の多くは、主知主義を最悪の<悪魔>でもあるかのように憎んでいますが、あるいは多くの場合、憎んでいると自分では思い込んでいますが、あるいはまさにこの立場にとっては、この問には肯定的に答えるべきなのです。こうした立場にも「でもお考えなさい、悪魔は年寄りだ、だから悪魔の言葉が分かるように、あなた方も歳をお取りなさい」という言葉があてはまるのです。この言葉は相手の年齢そのものを問題にするのではなく、悪魔をやっつけたいと思うならば、悪魔に出会うのを避けるばかりでなく(現在ではこちらがとくに好まれるのですが)、悪魔の進む道をその最後まで見抜いておかなければならないということです。
職業としての学問 232 233

https://matome.naver.jp/odai/2143039633799667201
2015年05月05日