前園真聖の現役時代ってどんな選手だったの!?

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サッカーファンだけでなくても誰もが知ってる、すっかりお茶の間の人気者になったサッカー日本代表の前園真聖さん。そんな前園さんの現役時代はどんな選手だったのか、まとめてみました

前園真聖とは

1973年10月29日、鹿児島県出身
前園真聖 – Wikipedia

4歳年上の兄の影響で小1からサッカーをはじめる

1982年W杯でのマラドーナのプレーに衝撃を受けたこともあってドリブルの練習に明け暮れていたという。

鹿児島実高では1年生時からレギュラーに定着。2年生時の69回大会では準優勝を果たす。

Jリーグへ

1992年、Jリーグの横浜フリューゲルスに加入。

1年目は加茂周の目指すゾーンプレスサッカーへの適応に戸惑い、持ち味を出せないままサテライトチームで1年を過ごす

Jリーグ初年度の開幕を控えた1993年前半にアルゼンチンのヒムナシア・ラ・プラタへ2ヵ月間短期留学

サッカーに対する姿勢を変えたアルゼンチン留学だったという、

帰国後、当時の日本人では珍しく、2人3人とかわしていく鋭いドリブルに加えて正確なパスセンス、フリーキックで多くのサポーターを沸かせた。

28年ぶりのオリンピックへ

1994年1月、西野朗監督率いるU-21日本代表へ召集され、キャプテンに就任

その中でも、キャプテンだったMF前園真聖の活躍は際立っていた。1996年3月24日に行われたアトランタ五輪のアジア最終予選の準決勝。アジア最強と言われたサウジアラビアを相手にMF前園真聖は2ゴールの大活躍を見せた。
サッカーコラム J3 Plus+  【書評】 前園真聖のあまり知られていないキャリアの後半戦

日本を1968年メキシコシティ大会以来、7大会(28年)ぶりのオリンピック本大会出場権獲得に導いた。

当時の日本サッカーは、ワールドカップの本大会に出場した経験はなかった。オリンピックからもメキシコ五輪以来、28年間、遠ざかっていた。今では、ワールドカップ出場も、オリンピック出場も、当たり前の出来事のようになってしまったが、当時のスタンダードでは、オリンピック出場は夢であり快挙といえた。
サッカーコラム J3 Plus+  【書評】 前園真聖のあまり知られていないキャリアの後半戦

そして96アトランタオリンピック本大会に出場。日本はグループリーグ初戦で金メダル候補のブラジルから大金星を挙げ、マイアミの奇跡を起こした。

試合直後、前園は「これが世界レベルか、かなわないな」と世界との差を実感し、海外でプレーすることを決意したという

そんなときにスペインリーグのセビージャから移籍のオファーがあり、本人もスペインに挑戦するつもりで準備を始めていたが、交渉決裂

当時は今のように海外移籍する日本のサッカー選手もいなければ、チーム間の交渉を行ってくれるエージェント(代理人)もいなかったという。

セビージャへの移籍の可能性が消滅したことで、前園は著しくモチベーションを落とし、結局、日本人選手としては過去最高の移籍金4億でヴェルディ川崎へ移籍。ここからキャリアは降下へたどっていくことになる

ヴェルディ川崎は1997年開幕から不振が続き、夢だったスペイン移籍が叶わなかったことにより気持ちが切れてしまい、精神的な不調がプレー全体に悪影響を及ぼしていたという。

ヴェルディ川崎はJリーグ創成期こそ強豪としての地位を保っていたが、その後ベテランから若手への切り替えに失敗。この頃は弱体化の道を辿っていくところだった。そして前園もまた、その流れに呑み込まれてしまった。
続ガチャピン随想録 |前園真聖の評価

そして、仏ワールドカップに控えた1997年、日本代表からも外れることになる。その代わりに日本代表に召集されて攻撃的MFのポジションを確保したのは、20歳のMF中田英寿だったという

1998年10月、3ヵ月間の期限付き移籍でブラジル・サンパウロ州の名門クラブ、サントスFCへ移籍。1999年には同じブラジルのゴイアスに移籍する。起用方法への不満もあって、ゴイアスとの契約が満了する前に帰国

その後、ポルトガルのギマエラスの練習に参加するも本契約には至らず。次にギリシャに向かうが、ここでも契約には至らず。

2000年、プライドを全て捨てて、J1再昇格の切り札として期待され湘南ベルマーレに移籍。

http://www.youtube.com/watch?v=pHojnH9CY1o

湘南のJ1再昇格の切り札として期待されたがチームは8位に終わったものの、チームの主力としてプレー。38試合で11ゴールを記録しかつての全盛期を戻した

その活躍が認められ、全盛期の1/10となる年俸600万円で東京ヴェルディに復帰。

松木安太郎監督の下で01年のシーズンを迎えた東京Vだったが、1stステージを4勝11敗。最下位に沈む。

前園もほとんど出番なく、シーズン途中の大怪我もあって、翌2002年7月に突然、戦力外通告を受ける。ヴェルディにおける2度目のチャレンジは、またも苦い結果に終わったのだった。

あの日韓ワールドカップから間もない頃の出来事である。

数ヶ月の浪人生活を送った後、2002年11月からプレーの舞台を韓国Kリーグへ。安養LGチータース や仁川ユナイテッドFCでプレーした。

途中でチームから構想から外れてしまい、2004年をもってKリーグでのキャリアは終了する。このとき31歳になっていた。

その後日本に復帰する噂は時々出た。03年にはJ1に昇格したアルビレックス新潟。監督の反町康治とは横浜F時代の同僚、という縁もあった。そして04年にはヴィッセル神戸。話題性だけで選手を取る三木谷オーナーなら動くのではないか、と言われた。

いずれも噂に留まり具体的な契約には結びつかなかった。

選手としての実力以前に人間性が問題視され、「トラブルメイカー」のイメージが浸透していたため、Jリーグクラブは敬遠されたという。

前園を必要とするクラブは、日本にはもうなくなっていた。

2005年にセルビア・モンテネグロ1部リーグのOFKベオグラードに1ヵ月間練習参加したものの本契約には至らず。遠いセルビアの地で、彼は引退を決意
サッカーコラム J3 Plus+  【書評】 前園真聖のあまり知られていないキャリアの後半戦

OKFベオグラードへの入団テストが不調に終わった時、現役への未練はなくなった。引退した時、彼が入団テストを受けたクラブ数は、「10」に限りなく、近づいていた。

J1での通算成績は191試合34得点。代表Aマッチは19試合4得点。

今、振り返ってみると、その期間は、かつての「安土・桃山時代」のように非常に短い時間ではあったが、それでも日本サッカー史の中には、「カズの時代」と「ヒデの時代」の間には、「ゾノの時代」があったと思っている。
サッカーコラム J3 Plus+  【書評】 前園真聖のあまり知られていないキャリアの後半戦

世界への扉を開いたという点では、アトランタ五輪代表の功績は大きい。その一員として戦った背番号7のドリブラーもまた、記憶に留めておくべき選手なのかもしれない。
続ガチャピン随想録 |前園真聖の評価

ネットユーザーの声

カズ、前園、中田ヒデの現在って改めてすごい
カズはまだ現役でエース級の活躍をして前園はこんなにバラエティーでイジられて中田ヒデは旅人として行方をくらますという

そこ右ね@a30372451

前園がまさかこんなキャラになるなんてw現役の頃とイメージ変わったわw
前園さんの会話のキレは現役時代のドリブルのそれを軽く上回っている。スペースを見つけ次第突っ掛ける姿勢が素晴らしい。

Tomoya Otsuka@tommyitaly2002

前園の顔芸は現役時代のドリブルよりキレがありますな。

たなちゅ@TANACHU_No15

最近バラエティーでネタにされまくってる前園

現役の頃は凄かったのに・・・

抜群のキレとパスセンス、ゴールへの嗅覚で相手DFを恐怖のどん底に落とし戦慄させる。
ペナルティエリア内でボールを持たせたら日本サッカー歴代選手に於いても屈指の選手でしたね。
Masakiyo MAEZONO(前園 真聖) (Yokohama Flugels) [HD] – christinayan – YouTube

https://matome.naver.jp/odai/2143001638843992301
2016年10月09日