日本初のストリートカルチャー 竹の子族
日本, 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前1丁目6−15
ボートハウスのトレーナーがヒット
1980年、女子大生を中心に大ヒット。ちなみに今ではスウェットと呼ばれることも多いが「トレーナー」と命名したのはVANの創業者石津謙介だった。
ボートハウスのショップがあった青山学院大学の周りには数百人が行列を作り、トレーナーを購入していた。地方都市には関係の無い流行でしたが。
ピンクハウスブーム
1980年代のファッションを語る上で外せないのはコムデギャルソンに並び、金子功がデザインするピンクハウスの存在。
日本各地に根強いマニア的なファンを持つピンクハウスだが、それを模倣、もしくは影響を受けたブランドが数多く見受けられた。
1980年代半ばDCブランドブームのさなか、一般的に数多くの女性に支持されたのはピンダイ的ボディコン・ファッションやニュートラでは無く、ピンクハウス的なフォークロアファッションであったと私は感じている。
モノトーンファッションのブーム
1980年代のハウスマヌカンのファッショントレンド「モノトーンファッション」に影響され、コムデギャルソン、ワイズ、ヨージヤマモト等がお洒落な人々に流行。
モノトーンファッションを好む女性の化粧品はシュウ・ウエムラ一択だった。カラス族と揶揄する言葉もマスコミでは使われた。
コムデギャルソンのデザイナー川久保玲、ananの人気モデル甲田益也子、パリコレモデル山口小夜子らのヘアスタイルの影響でモノトーンファッション派の女性にはボブカットも流行。
80`Sヤンキーファッションとは何か?
トロイのカーディガン、ハイネック、タックパンツが田舎のヤンキーの三種の神器でした(笑。コンプリートコーディネートされた画像が見つからなくて残念。ヤンキーは写真が大好きだったのでアルバムにはあるはずですが…。
靴はとんがったエナメル靴なら激シブ。ベルトも海外ブランド風のバックルのついたものなら大人の風格バッチリ。
Vネックのセーター+シャツ+タックパンツというコーディネートも流行。ポケットが少ないコーディネートなのでセカンドバックは必須。
私は中学生のときからチャックテイラーを履いてたアメリカかぶれのガキでしたからこっちのヤンキーファッションをした経験はありません。ちょっと残念(笑。
ミノルタX-7のCMのせいでビキニが売れない!
1970年代から日本で流行し始めていたビキニや女性のジーンズファッションの一般化に貢献。
芸能人水泳大会の番組でビキニのタレントがおっぱいポロリのハプニング。盗撮まがいのアクションカメラが流行し、ハプニングシーンを狙いカメラを構える番組観覧者が激増。
アイドルは出演を拒否。もしくは安全を考慮し、ワンピースタイプの水着を着用することが多くなり、次第に一般の女性もビキニを敬遠。水着業界の黒歴史。
また、当時の女性がフォークロア、トラッドな洋服を好み、センス的にビキニが一致しなかったのもその理由。
宮崎美子 – ミノルタX7 CM
https://youtu.be/Um1FjRFzJWQ
アイビーとプレッピーはホントに流行したのか?
プレッピーはアメリカの一流大学に通う上品な高校生達に影響を受けたファッションスタイル。80年代初頭はアメリカの大学生に影響を受けたアイビーを打ち出していた雑誌ポパイがその後、若い世代を意識したプレッピーを提唱。
北関東や地方都市にはヤンキーが溢れかえり、普通の男性が今で言うオタクファッションの時代。70年代、一世を風靡したIVYの大御所ブランドVANジャケットは 1978年に倒産。
80年代初頭にアイビーやプレッピーが日本中で流行していたと思う人もいるだろうが地方都市在住者にとって、それはポパイとBEAMSが描いた渋谷限定ファンタジー。地方都市の若者は未だファッションに興味は薄かった。
ニュートラ、ハマトラの流行
ニュートラは1975年頃、雑誌ananが提唱した海外高級ブランドを取り入れた神戸的なお嬢様的ファッション。その後80年代に入るとJJ、CanCam等の赤文字系雑誌が追従し、全国的な広がりを見せた。ルイ・ヴィトン、セリーヌ、フェンディのバッグが流行。
ハマトラは横浜元町発祥のトラッドなファッションとされる。ニュートラに対抗して、雑誌JJがフクゾー(洋服)ミハマ(靴)キタムラ(かばん)を中心に「横浜的お嬢様スタイル」を打ち出したものとされるがニュートラ、インポートブランドブームに押され短期で終息。
80年代のJJのスタイルは他の赤文字系雑誌より、良家のお嬢様的でコンサバティブな印象が強かった。
ダウンベスト、ダウンジャケットが日本で紹介される
1970年末頃のポパイでLL Bean、North Faceなどのダウンベストを紹介する記事が掲載されたと記憶しているが、時期が曖昧で申し分けない。
1985年のバック・トゥ・ザ・フューチャーでマイケルJフォックスもダウンベストを着用したが、この頃でもまだ日本では馴染みが薄く「救命胴衣みたい」と感じる人も多かったがやがてオシャレアイテムに。
その一方、袖のあるダウンジャケットは「アノラック(昔の綿入り防寒着)みたいだ」とされ全国的な流行の兆しはなかった。
1980年に東京でモンクレールのダウンジャケットがヒットしたとネットに記事があるけど本当?それ1990年じゃない?
DCブランドブーム
1980年頃から1990年頃まで続いた国産デザイナーズ・ブランドおよびキャラクター・ブランドのブーム。全国的なブームとしての時系列的な地域差が若干ある。
デザイナーズ・ブランドはシーズンごとにコレクションを行うデザイナー主導のアパレルブランド。
キャラクターズ・ブランドはコンセプトに基づいた商品企画によりシーズンごとに展開されるマーケティング主導型のアパレルブランド。まとめてDCブランドとされたが、当時マニア以外で明確な区別が出来る人は殆どいなかった。
DCブランドのロゴ入りスタジアムジャンパーは(おそらく地方都市の若者だけの)強力なマストアイテムだった。
コムサ・デ・モードが急成長
DCブランドブームの波に乗り、コムデギャルソンと混同されそうなブランド名とモノトーンカラーを中心にしたアイテム展開でコムサデモードが1980年代初頭から全国展開を拡大。
ファッションビルが全国に数多く出来た時期でもありました。
実は私は当時FCショップで働いていたことがあります(笑。コムサデモードもスタジャンを売りまくっていましたね。
BEAMS・ユナイテッド・アローズ誕生
1976年に原宿に6坪のショップとしてスタートしたBEAMSは雑誌ポパイとの連携で売上を大きく伸ばし、80年代に入ると更に店舗、自社ブランドを拡大。
1989年に一号店の店長だった重松理をはじめとする社員30名が辞表を提出し、ワールド資本によるユナイテッド・アローズをスタートさせた。いわゆるお家騒動。
1980年 ガンプラ発売開始
放映時「リアルロボットアニメ」と呼ばれた機動戦士ガンダムを忠実に再現した画期的なプラモデルとして大ヒット。
ガンダムブーム自体は初回の1979年の放映時は熱心なアニメファンだけの支持にとどまり、ブームは翌年以降の再放送から全国的なものとなった。
1977年にOUT、1978年にアニメージュが創刊。盛り上がりを見せつつあったアニメファンや同人(ファン・グループ)が中心になり、放送局にガンダムの再放送を要請していた。
1983年、スポンサーだったクローバーが倒産。ガンダム以降の作品が低迷した為とされる。
ガンプラブームはアニメ作品に傾倒する若者が生み出した文化「オタク」黎明期の現象だった。
聖子ちゃんカットの流行
小泉今日子、松本伊代、堀ちえみ、早見優、中森明菜も同じ髪型で1982年にデビューした効果で「聖子ちゃんカット」が全国的なブームに。
「聖子ちゃんカット」の元ネタは1980年の映画「リトル・ダーリング」で人気だったテイタム・オニールのヘアスタイルだろうね。
松田聖子 – 80年代CM集
https://youtu.be/sYfGzuvobCI
ポニーテールの流行
人気絶頂のたのきんトリオの近藤真彦が主演した1982年公開の映画「ハイティーン・ブギ」のヒロイン、桃子役で一躍脚光を浴びた武田久美子。彼女のトレードマークのヘアスタイルポニーテールが流行。
特にヤンキー男性にはポニーテールの似合うかわいい彼女を持つことが最高のステータスとなった時期。人気漫画の映画化だったこともあり「ハイティーン・ブギ」は映画、楽曲ともに大ヒット。
中学生時代、東大のアイドルコンテストで優勝している武田久美子だが、それから数年で貝殻ビキニで世間の度肝を抜くのだから素晴らしい。
ハイティーン・ブギ - 近藤真彦
https://youtu.be/uMnk5sqU460
ボディコンファッションの誕生
「ボディコンシャス」は1981年のミラノ・コレクションでアズディン・アライアが提唱した女性のボディラインを生かしたファッションスタイル。
ボディコンブームはジュリアナ東京の誕生の1991年から終了迄の90年代半ば迄続いたが、いわゆるディスコの「ボディコンブーム」は80年代末から90年代のトレンド。
80年代中盤のディスコに来る人のファッションはニュートラ系カジュアルが中心。ドレスコードのあるMAHARAJAでは男性はジャケットもしくはDCブランドのスーツ着用が基本だった。
ワンレン+ボディコンブームの始まり
日本でサンエーが1981年「ピンキー&ダイアン」と姉妹ブランド「NOVESPAZIO」「プライベートレーベル」をスタート。大きい肩パッドが特徴のボディコンスーツやワンピースがニュートラ卒業組のOLや水商売の女性に普及し始める。全国的な流行は1980年代半ば以降。
ファッション的にはアライアの提唱したボディコンとは別物だが、当時は「ボディコン」とされた。
1980年代末の芝浦GOLD、祇園MAHARAJA、1991年ジュリアナ東京から始まる「ボディコンブーム」では肌の露出の大きなアライア的なボディコンドレスも流行。
80年代の力強い女性 服装企画展
http://goo.gl/Xgv6Ej
横浜銀蝿ブレイク
1979年に結成した横浜銀蝿が1980年9月21日 アルバム「ぶっちぎり」シングル「横須賀Baby」の同時発売でデビュー。1981年のツッパリHigh School Rock’n Roll (登校編) でブレイク。
校内暴力が急増し、地方都市にも不良が大量発生する時代だったが、横浜銀蝿は彼らの学歴からもツッパリではあったものの不良ではなかった。ライブでは若者達の悩み相談コーナーも。
皮肉な話、横浜銀蝿は「覚せい剤撲滅キャンペーン」でイメージキャラクターになり、当時の中曽根康弘首相に総理官邸にも招かれた。ファンの中心層は意外にヤンキー男性ではなくハマトラ風の女の子が多かった。
横浜銀蝿の対抗軸
不良のカリスマと言うよりファン層から見ると当時の横浜銀蝿はアイドル的なバンドだった。絶頂期の横浜銀蠅のライブはヤンキーや暴走族では無い女性ファンがかなり多かった。ホンモノ志向のヤンキー、暴走族の多くはキャロル(1975年解散)、COOLS(バンドとしての)、ブラックキャッツを支持した。彼女を大切する気合の入った不良がモテた時代。
ノーヘル(当時は合法)カワサキ ZⅡをぶっ飛ばず若者達を率いるのは若き日の岩城滉一。キャロルの親衛隊的バイクチーム「クールス」の副団長だった。リーダーは舘ひろし。
なめ猫大ブレイク
横浜銀蝿のブレイクに便乗するカタチでツッパリブームを当て込んだ「なめ猫」が大ブレイク。
一枚100円で販売された「なめんなよ」免許証が1200万枚の大ヒット。カレンダーやポスターもヤンキーの部屋の必須インテリアに。
80年代に入ると暴走族は全国に多かったものの警察の取り締まりも厳しく80年初頭の勢いは徐々に失われ、80年代後半には暴走族やツッパリというスタイルが若者に支持されなくなった。
ちなみにヤンキーは着崩したファッションを好む怠惰な不良。ツッパリは芯の通った男らしい不良と定義されたが明確な区別が当時あったとは思えない。
トシちゃん効果でレッグウォーマー、ナイキ コルテッツ流行
1981年、田原俊彦がザ・ベストテンに「グッドラックLOVE」でレッグウォーマーを着用し登場。その影響でレッグ・ウォーマーを求めて洋服店をめぐる若者が日本中に大量発生。
エアロビクス用のアイテムなので女性はどこに売っているのかはわかっていたと思うのですが、当時メンズのショップ担当だった私もお店で何人にも「レッグ・ウォーマーありませんか?」と尋ねられた記憶があります。
当時のナイキのコルテッツの流行もトシちゃん効果。今見てもあの当時のトシちゃんはかっこいい。
グッドラックLOVE – 田原俊彦
https://youtu.be/I97tLMV8jGA
フラッシュダンスからのエアロビ・ブーム
1980年代のアメリカで空前のエアロビクス・ブームが起こる。当時は「エアロビ」と略されることが多かった。
1983年に公開された映画フラッシュダンスの影響。当時の日本人にはダンスもエアロビも違いはよくわからなかった。
いち早く、ボディコンファッションを取り入れた女性達はスポーツ・ジムへ。地方都市にスポーツクラブはまだ少なく、全国にエアロビ・ブームが拡散するには数年のタイムラグある。
マイケル・センベロ – Maniac
https://youtu.be/0DN37VU0zKs
アイリーン・キャラ – What A Feeling
https://youtu.be/VzALZjoIx0g
フットルースからのダンス・ブーム
1984年に公開された映画「フットルース」で70年代に終息していたディスコの復活に拍車がかかる。いわゆる第二次ディスコブームが地方都市へ拡散。
70年代のサタデーナイト・フィーバーとは違い、Tシャツ+スニーカー+ジーンズで自由にダンスする主人公や劇中のブレイク・ダンスのシーンはその後の日本のダンス・カルチャーとファッションに大きな影響を与えた。
Footloose – Kenny Loggins
https://youtu.be/ltrMfT4Qz5Y
プロデューサー巻き流行の起源
カーディガンやセーターを羽織る「プロデューサー巻き」は既に1970年代末には存在。画像は1983年結成されたオシャレ音楽ユニット「スタイル・カウンシル」。石田純一が流行らせたのではありません。
夏場でも半そでポロシャツにラムのニットを肩にかけたり、腰にまいたりするコーディネートも。ラムのニットは海外では昼夜の温度差が大きい為、年中手放せないアイテムだとされていました。1982年に日本に上陸したベネトンの日本上陸の影響も。
The Style Council – You’re The Best Thing
https://youtu.be/0HMAVU1k7kg
MAHARAJAが全国各地でオープン
1982年の大阪1号店を皮切りに全国展開を開始。70年代に終息していたディスコブームをMAHARAJAが再び巻き起こす。私の地元金沢では一階がMAHARAJA、二階がKing & Queenという変な状態も。
ドレスコードにより、不良ファッションで入店できなかった為、女性客が増え、更に男性客が来るという好循環を引き起こす。入店したい為にDCブランドのスーツを買う男性も急増。
肌の露出の多い過激なボディコンファッションがディスコで流行するのは90年代以降のこと。過激なボディコンの流行は芝浦GOLD>後期のジュリアナだったと記憶している。祇園マハラジャ、名古屋アビームも当時はそんな感じ。
アニエス・ベー 青山1号店がオープン
1984年、東京青山にアニエス・ベーの1号店がオープン。日本でのアニエス・ベーは当時、サザビーが運営。
DCブランド以降の日本での本格的な海外ブランドブームの先駆け的存在だった。
80年代中期 スーツの流行
ワイズ、コムデギャルソン等のモノトーンを中心にしたブランドとYMOの影響によるヘアスタイル、テクノカットを好む男性やボブカットの女性がお洒落な存在として注目を浴びる。画像はJ事務所のアノ人。
ズートスーツは当時は供給不足で、DCブランドやインポートブランドのオーバーサイズのスーツを肩パッドを追加したり、大きなものに直したりしてズートスーツ化していました。
パンツ丈はソックスが見えるくらいがかっこいいとされ、裾幅を細く「お直し」するのも流行。
この着こなしはスーツ+ツイードのコートなので二重肩パッドで巨大化してますが、パッシュ、テットオムもしくはアーストンボラージュかな?
テクノブームからのスーツの流行
トーキング・ヘッズのボーカル デヴィッド・バーンが1984年の「STOP MAKING SENSE(ストップ・メイキング・センス)ライヴ」で着用した異様なオーバーサイズのスーツで歌い踊る姿に憧れたテクノファンが大きめのスーツを最初に着た、もしくは影響を受けたデザイナーが作ったのが最初だと思われます。
トーキング・ヘッズは今でこそロックバンドとされているが当時の日本ではテクノミュージックとして紹介されていた。
Talking Heads – Stop Making Sense 1984
https://youtu.be/VKNYJx9Ekpw
一世風靡セピアからのスーツの流行
ズートスーツの流行には哀川翔、柳葉敏郎が所属していた一世風靡セピアの影響も。彼らが着たスーツのブランドは大口広司のインアンドヤン。もしくは加藤和孝のテットオムだった気がするけど記憶が曖昧(笑。
コムデギャルソン・オムのスタッフだった友人が当時、「一世風靡セピアみたいなスーツありますか?」と客に言われるとボヤいていたのを思い出します。
前略、道の上より – 一世風靡セピア
https://youtu.be/JK2Zs3LFab8
あぶない刑事からのスーツの流行
1986年10月5日から舘ひろし、柴田恭平主演「あぶない刑事」がスタート。
コートを着ているから尚更なんですが、今見るとやっぱり肩幅が大きい。憧れた若者の中には似たようなサングラス、KAZUTAKA KATOHやMENS TENORASでスーツを買った人も。
二人が乗っていた日産レパードも人気。ノーヘルでバイクをぶっ飛ばす舘ひろしがカッコ良かった。だけど、アメリカかぶれの私は白バイ野郎ジョン&パンチにドップリはまってました(笑。
イタリアブランドからのスーツの流行
80年代初頭をヤンキーとして過ごした少年達も大人になり、80年代後半はアルマーニ、ジャンフランコ・フェレなどのインポート物のスーツにセカンドバッグを持つことが流行。
イタリアブランドはズートスーツではなく、単に日本人にはオーバーサイズだったのが真相なんですが…。更に1985年に発売されたショルダーフォン(初期の携帯電話)を持てば羨望のまなざしを受けることが出来た。
参考動画 – 平野ノラ
https://youtu.be/9KLNnahZr1k
二代目プレリュードがヒット
HONDAが1982年末に発売した二代目プレリュードがヒット。同じくリトラクタブルライトを装備した日産パルサーエクサもヒット。その後、1994年にトヨタの初代MR-2が後を追うように発売。若い女性にもシビッククーペやCR-Xがヒットする。
逆輸入車、BMW、ベンツ等のドイツ車の流行。バブルな人々はフェラーリでディスコへ。暴走族的なクルマとの付き合いではなく、お洒落してデートを楽しむ人々が増えた時期。
TOYOTA MR-2 CM
https://youtu.be/lYvA11gg7xw
HONDA PRELUDE
https://youtu.be/F9mStZUr71M
フリル、リボン付きブラウス
画像は当時のものではありませんが、地方都市ではおおよそこういったタイプのお嬢様風のブラウスが80年代中頃にヒットしました。
ピンクハウスは高級だった為、値ごろな類似したカワイイデザインのブラウスやワンピースが数多く売れました。
ボトムではプリントのロングスカートで。多くの女の子がロングスカートを好んだ時代。80年代前半から中盤にかけてのピンクハウスが与えた影響でした。
モノトーンファッションより、フォークロアなファッションの方が地方都市では受け入れやすかったのでしょう。
1983年 チェッカーズがデビュー
1984年「涙のリクエスト」が大ヒット。その後、デビュー曲「ギザギザハートの子守唄」もスマッシュヒット。コンスタントにヒット曲を連発し、1992年の解散まで人気を保つ。
チェッカーズの衣装に45RPMやPERSONSが採用されたことがあり、その影響でブランドもヒット。
街角でERSONSのロゴ入りブルゾンを着た人を見ることが多かった。藤井フミヤの髪型を真似る人が男女問わずいたねえ…。
涙のリクエスト – チェッカーズ
https://youtu.be/nEGyVVA_y7Y
吉川晃司で「モニカスーツ」がヒット
1984年にデビュー曲「モニカ」でメジャーデビューした吉川晃司。彼がザ・ベストテン出演時に着用したピンクのジャケットやスーツを欲しがる人が全国各地で出現。
当時メンズのショップを担当してたのですが、たまたまそのメーカーがピンクのセットアップを作ってたのでたくさん売りました。全国的にはさほど売れてなかったそうで追加オーダーは沢山できました。
ちなみに「モニカスーツ」という言葉はピンクのスーツのことをうちの店でそう呼んでいただけ。地方都市の若者はテレビからダイレクトにファッションの影響を受けた時代。
モニカ – 吉川晃司
https://youtu.be/dL2iQGpCTEw
1985年 C-C-Bがブレイク 男の化粧が流行
1985年1月C-C-B三枚目のシングル「Romanticが止まらない」がTBS連続ドラマ「毎度おさわがせします」のテーマ曲に。2月21日「ザ・ベストテン-今週のスポットライト」出演後ブレイク。
「ニューロマンティック」の影響を受けたC-C-Bのスタイルは衝撃的だった。
流行に与えた影響は髪型を真似する人や化粧をした男性がディスコにたまにいた。メンズティノラスが当時、派手なカラースーツを販売(おそらくタイアップ)していたがC-C-Bを真似て購入した人も多かった。
Romanticが止まらない – C-C-B
https://youtu.be/Gc4t0rR2kJ8
セイラーズのトレーナーがおにゃんこクラブ効果で大ヒット
おニャン子クラブは、1985年、フジテレビのテレビ番組「夕やけニャンニャン」から誕生した女性アイドルグループ。
国生さゆり、後に後藤次利と結婚した河合その子。秋元康と結婚した高井麻巳子が所属していた。
プールバーが全国に開店
1986年末、ポール・ニューマンとトム・クルーズ主演の映画「ハスラー2」が公開され、ビリヤードブームに。全国各地にプールバーがオープン。
ビリヤードが好きでもなかった若者達が毎晩一生懸命練習していましたよ(笑。
トム・クルーズ主演 トップガンが大ヒット
1987年正月に日本で公開されたハリウッド映画「トップガン」が大ヒット。カワサキNinja、レイバンのサングラス、MA-1ブルゾンがバカ売れ。
実際に映画でトム・クルーズが着ていたのはMA-1では無くG-1という革ジャンですがそんな細かいことは誰も気にしない時代。
ケミカルウォッシュジーンズにMA-1。頭にバンダナというスタイルは当時でもヤバかった(笑。
ケミカルウォッシュ・ジーンズの流行
オタク的なファッションアイテムとして嫌われるケミカルウォッシュジーンズですが、1980年代後半から存在。
フランスのマリテ+フランソワ・ジルボー、イタリアのBALL等はオシャレなケミカルウォッシュジーンズを発売していましたが、量販店でも様々なケミカルジーンズが売られ、ヤンキー的センスから抜け出せない人達や「勝手に母親が買ってきてしまう服」としてもヒット商品に。
80年代後半は日本の若者の多くが海外の洋服に憧れ始めた時期でした。
フランスのマリテ+フランソワ・ジルボーやBALL等と量販店の服の違いは素人目にはわからず、ディスコで入店出来ない(私の友人)ケースも。
W浅野から始まるワンレンブーム
1988年7月7日から9月22日まで放送されたテレビドラマ「抱きしめたい!」で浅野温子と浅野ゆう子のダブル浅野が大ブレイク。
都会的なファッションとライフスタイルが日本中の女性に大きな影響を与えた。二人は80年代から90年代のファッションリーダーとして君臨。
今井美樹 ソバージュ+ジーンズ+シャツが流行
1983年、雑誌エムシー・シスターでモデルデビュー。1988年、今井美樹4枚目のシングル「彼女とTIP ON DUO」が資生堂の秋のキャンペーンソングとしてテレビCMに流れると、髪型とファッションを真似る女性が急増。
W浅野と双璧を成すファッションリーダーへ。第5回ベストジーニスト賞を1988年に受賞。
今井美樹 – 彼女とTIP ON DUO CM
https://youtu.be/bMAsWvLxi-o
今井美樹 – 彼女とTIP ON DUO ライブ
https://youtu.be/mOs-LNDDE3Q
ダンガリーシャツの流行
「若者達のカリスマ」と呼ばれた尾崎豊の1988年9月にリリースされたアルバム「街路樹」でもダンガリーシャツ(写真の尾崎豊のシャツは薄手なので、おそらくシャンブレーシャツ)+ジーンズというコーディネート。
ダンガリーシャツ、シャンブレーシャツは1985年頃の流行。DCブランドでも製品化されたが、オシュコシュ等のワーク系、当時まだ日本に店舗が無かったGAP等のインポート物もヒット商品に。
今では「ありえない」と言われそうな「上下デニム系ファッション」だけど、当時は男女問わずオシャレなコーディネートだった。
渋カジ・アメカジブーム
「渋カジ」という言葉も80年代後半から使われる様になったが渋カジというトレンド自体をスタイルで定義することは難しい様に思う。全国的に認知されたのは90年代版の渋カジであり、そのアイコンは江口洋介。
DCブランドでは無く、アメリカ製の製品(ヘインズ、リーバイス、バンソン、ラルフローレン等)を中心にした着こなしであった。
渋谷で流行っているカジュアルとして80年代初頭ではプレッピースタイルの影響の強いものを意味し、80年代中盤ではモッズ風のファッションが台頭。80年代後半はバイカーズアイテム等を取り入れた不良っぽさを加味にしたものに変化。
バイカーズアイテムの普及を後押しした映画
1983年のフランシス・フォード・コッポラ監督のアメリカ映画「ランブルフィッシュ」にバイクボーイ役で出演したミッキー・ロークの影響がバイカーズ・ファッション普及の背景。主演のマットディロンを食う程の存在感だった。
日本でも1984年の夏に封切られ、興行的に成功したといいがたいがファッション関係者やお洒落な若者達がこの映画を高く評価していた。
映画でバイクボーイが乗っていたバイクはKawasaki Z440 LTD。日本ではZ400 LTDが販売されていたが1981年に発売された400LTD-Ⅱは4気筒。
紺ブレブームが拡散
不良っぽくなりすぎた「渋カジ」のカウンタートレンドとして、89年頃にダブルブレスト+金ボタンの紺ブレザーが渋谷を中心にブーム発生。
日本中に90年代以降、男女問わず日本中に拡散。これもポパイとBEAMSが仕掛けたブームだろうけど。
マストアイテムはラルフローレンの紺ブレだったが、各DCブランドも追従したが、品不足から金ボタンに付け替えることで対応するメーカーも。
私のショップでも金ボタンに付け替えた紺のジャケットを売ったり、金ボタンに付け替えてあげたりしていました。
ナイキ エアマックス初代モデルが発売
1985年、マイケル・ジョーダンにちなんだバスケットボールシューズ「エアジョーダンI」が発売。1987年、高性能ランニングシューズ「エア・マックス」の初代モデルが発売。ファッション関係者がいち早く注目。
その後、エア・マックスは人気を高め1995年発売の3代目、エアマックス95で社会現象と呼べる一大ブームへ。エアマックス+年号は当初正式な名称ではなかったが、日本のファッション雑誌から始まり、のちに正式名称へ。
古着ブーム
DCブランドが衰退しつつあった80年代後半になると原宿表参道のサンタモニカ等の古着屋が人気を得る。ファッション雑誌のコーディネートにも古着が組み合わせられた時期。
この頃、DCブランドブームを作ったメンズビギの主力デザイナーの菊池武夫は 1985年にビギグループ代表の大楠裕二と意見が対立し、ワールドへ移籍。TAKEO KIKUCHI、モールラックなどのブランドを立ち上げた。
タケ先生はいち早く時代の変化を感じてたのでしょうね。
マイケル・ジャクソン、マドンナが初来日
1987年9月9日に初来日したマイケル・ジャクソンは親日家でもあり、なんと40日間も日本に滞在する前代未聞の来日だった。
初来日公演は、全14回の公演で42万9000人を動員。まさに桁外れのスーパースター。翌年にマドンナも来日。
二人がファッションに直接与えた影響としては日本人が強くアメリカを意識する様になったことと、マドンナのファッションは過激なボディコンブームのベースとなったかもしれない。
87年マイケル来日滞在秘話&離日
https://youtu.be/RNzA7r0qQPw
HipHop DJがテレビで紹介される
ディスコのDJくらいしか認知の無かった日本で1988年Tinnie Punxの藤原ヒロシと高木完が深夜番組でヒップホップDJのテクニックを紹介。
その後、藤原ヒロシは音楽のみならず、90年、グッド・イナフの立ち上げに参加し、裏原宿ブームの生みの親的な存在へ。
既に全米では1986年、エアロスミスとRUN DMCの「Walk This Way」がヒット曲となり、日本でもヒップホップが新しい音楽ジャンルとして認識され始めた頃だった。
Tinnie Punx 1988 – How to scratch –
https://youtu.be/QM2_dHFlRLM
ルーズソックスでコギャルが発生
1980年代末期にワンレンボディコンの年上の世代に対抗するかの様に東京都内を中心に発生。
極端に短くした制服のスカート+ルーズソックスにローファーという「コギャル」的スタイルは1990年代に入ると日本全国に広がるが学校によっては禁止された。ブームのピークは1993年頃。
BOOWYとジャン・ポール・ゴルチエ
BOOWYの解散は前年に行われていたのだが、1988年4月4日と5日に東京ドームで行われた「LAST GIGS」にて活動を終了。
1987年、ヒット曲、MARIONETTをリリースした時期から、オンワード樫山がジャン・ポール・ゴルチエの衣装をBOOWYに提供していた関係でLAST GIGSを記念したタンクトップが限定発売された。
私の勤めていた会社もオンワード樫山とも付き合いがあり、タンクトップを50枚ほど限定販売で用意していたのだが、開店時間前にはビルの前に100人以上の客が待機していて驚いた。
LAST GIGSはおそらく、オンワード樫山から持ちかけられたイベントだったのだろう。
オンワード樫山とすればズート・スーツやイタリアのインポートブランドのスーツの流行をジャン・ポール・ゴルチエとBOOWYのコラボ効果で流行を変えたいとの思惑があったに違いないが、90年代に入っても一般的にゴルチエ的なタイトなシルエットの洋服は一部のマニアを除き男性には受け入れられることは無かった。
1991年「ハウス・クチュール」というタイトルのCDをリリースする程のクラブ系カルチャーに傾倒していたゴルチエ。オンワード樫山の狙ったBOOWYとのコラボレーションにはどこか無理が生じていた様に感じる。ゴルチエはその後、エルメスのデザイナーにまで上り詰め、ファッション業界で大成功を収めた。
オマケ記事:真実のBOOWY
氷室京介にはBOOWYとしてのデビュー前、歌謡曲歌手として別名でソロ・デビューを試みた黒歴史がある。YouTubeにもその動画が無くなっているので紹介できないのは残念だが。
YouTubeに現在、1984年のライブの音源を「暴威」時代の音源としてアップロードされたものが存在するが、BOOWYは1982年にはメジャーデビューしている。横浜銀蝿を意識して「群馬暴威」もしくは「暴威」とバンド名をデビュー前に決定したものの1982年のデビュー時に改名。
つまり、BOOWYというバンドはインディーズとしての活動期間は存在せず、氷室京介をボーカリストとしてビーイングがメジャーデビューを前提として、群馬県高崎市のミュージシャンを中心に編成されたバンドだった。1980年迄、スピニッヂ・パワーというバンドに氷室京介は在籍していたが、そのバンドもBOOWYと同じくビーイングに所属していたのが証拠とも言える。
布袋寅泰もBOOWY加入前のプロフィールは不明。あれだけ長身でテクニックのある目立つギタリストの過去の履歴が不明というのも不思議な話だ。ついでに意地悪を書くが、布袋は既に17歳で上京しているのだから群馬県高崎市でBOOWYは結成出来ない。
過去にYouTubeにアップロードされていた小さなライブハウスでの「暴威」としてのライブ動画は「暴威」としてインディーズ時代活動したという既成事実を作る為に一回限り行われたものだと噂されている。
デビュー当時6人だったメンバーが直ぐに二人脱退し、活動期間も短く終わったBOOWYだったが、企画されたバンドだったから結束力も殆ど無かったというのが実情だろう。これらは売り出す為のプロフィール作りであり、詐欺的とは言えないし、私自身はBOOWYも氷室京介も大好きなので誤解の無いように。
また芸名の氷室は少年マガジンの「ワル」の主人公から引用したと本人が発言している。金沢にいる親戚が危篤状態の時に忙しいスケジュールのさなか東京から氷室京介が自ら運転するポルシェで病院に駆けつけた。病院では「氷室京介が来た!」と大騒ぎになったと、当時病院で看護師をしていた女の子に聞いた。芸名は金沢の氷室万頭とは無関係らしいので訂正。
このまとめについて
このまとめについて読んだ方の中には流行の時系列が若干違うと感じる場合があるかもしれません。私は当時、ショップにいたので世間で言う流行している状態より若干早く捉えていたということが影響しています。
また当時のファッションの流行は東京限定とも言える流行も多く、即時、日本中に広がるものでは無く、数年かけて徐々に影響していくものも多く、廃れるまでの時間も地域差がありました。東京では80年代末の流行だったボディコンは地方都市では90年代の流行といった様に時差が大きかったのでした。
日本ではカラオケと異なり、ブームで終わってしまったディスコ。ボディコンブームはディスコに一時的な拍車をかけましたが、逆に言えばバブルの徒花として、散る運命を自ら招いたとも言えます。ディスコの歴史、90年代ファッションに関しては別にまとめを作ってみたいと思います。
金沢MAHARAJA King&Queenの映像
https://youtu.be/rjw9AgBsGwQ
コカ・コーラ80年代 CM
https://youtu.be/pacCZ6pJXoc
竹の子族は渋谷神宮前の「ブティック・竹の子」で購入した衣装を着てラジカセを囲み踊ったのが最初とされる。音楽はYMOなどのテクノミュージックが中心。竹の子族出身の芸能人に清水 宏次朗、故・沖田浩之。竹の子族は原宿ホコ天限定のブーム。
現在も「ブティック・竹の子」は存在し、海外の観光客が訪れる有名スポット。著名ファッションデザイナーやレディガガを始めとするセレブも訪れるお店に。
ホコ天にはローラー族、ローラースケーター、ブレイクダンサー、バンド、パフォーマー、劇団などが混在していた。