[真田丸]真田昌幸・真田幸村父子の参加した合戦まとめ

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来年の大河ドラマ「真田丸」の主人公は真田信繁(幸村)です。信繁の戦歴は父である昌幸と重なっているので、ここでは真田昌幸・真田幸村父子の関わった合戦についてまとめました。

「信玄の眼」と呼ばれていた真田昌幸

昌幸を表現した言葉として、「小信玄」「我が両眼の如し(信玄から)」「表裏比興の者(くわせもの、秀吉から)」「信玄の懐刀」などがある。
真田昌幸とは (サナダマサユキとは) [単語記事] – ニコニコ大百科

真田昌幸の初陣は川中島の戦い?

初陣は『甲陽軍鑑』に拠れば永禄4年(1561年)9月の第四次川中島の戦いと言われ、足軽大将として武田家奉行人にも加わったと言われている。ただし『軍鑑』以外の史料が無く、昌幸が川中島に出陣したかどうかの傍証は無い。ただし昌幸は15歳であり、元服前後の年齢で出陣していた可能性も否定はできない
真田昌幸 – Wikipedia

信玄に従い三方ヶ原の戦いにも参加

元亀3年(1572年)10月から信玄の西上作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加しているが[10]、この際に昌幸は浜松城に敗走した徳川家康らを追撃・総攻撃すべきという意見に反対したとされている[11]。『軍鑑』によれば、昌幸は「武藤喜兵衛尉、騎馬15騎、足軽30人」を率いて出陣したとされている
真田昌幸 – Wikipedia

長篠の戦いで昌幸の二人の兄が戦死、家督を継ぐことに

真田氏の家督は長兄・真田信綱が継いでいた。しかし天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、昌幸は真田氏に復して家督を相続した
真田昌幸 – Wikipedia

真田昌幸が独立勢力となった天正壬午の乱

「天正壬午の乱」は戦国時代屈指の諜報戦・調略合戦であり、真田昌幸は上杉・徳川・北条・羽柴の列強と諸豪族らを手玉にとって織田家滅亡→上杉→北条→徳川→上杉→羽柴とコロコロと付く相手を変えつつ、登場人物全員悪人のバトルロワイヤルを生き残って武田家の一部将から独立した戦国大名にのし上がった。
「真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る」平山 優 著 | Kousyoublog

真田氏と徳川家が最初に激突した第一次上田合戦

閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる[1]。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。
上田合戦 – Wikipedia

真田幸村(信繁)のデビュー戦・小田原攻め

。天正18年の小田原征伐に際しては父昌幸と共に従軍し、石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに参戦したと伝えられる。文禄3年(1594年)11月2日、従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜される。
真田信繁 – Wikipedia

真田幸村は豊臣政権下で大谷吉継の娘を娶っており、豊臣姓まで賜るなどかなり厚遇されていたことがわかります。

真田幸村と兄信幸が敵同士となった「犬伏の別れ」

犬伏の話し合いの内容ははっきりとは分からないが、おそらく信幸ははじめから徳川軍につく気持ちでいたと思われる。信幸は徳川四天王の一人・本多忠勝の娘(徳川家康の養女)を嫁にしていたことと、一時期徳川家に出仕していたことから、徳川家につきたいと思うのは当然である。犬伏では信幸が昌幸に対して徳川軍につくことの得を説いていたのであろう。しかし、昌幸は徳川につくことには反対であった。
犬伏の別れ(父子兄弟の離散) / 真田氏の館 三代録 ——幸隆、昌幸、幸村 真田三代の記録

真田昌幸・幸村父子が共に戦った第二次上田合戦

犬伏の話し合いの内容ははっきりとは分からないが、おそらく信幸ははじめから徳川軍につく気持ちでいたと思われる。信幸は徳川四天王の一人・本多忠勝の娘(徳川家康の養女)を嫁にしていたことと、一時期徳川家に出仕していたことから、徳川家につきたいと思うのは当然である。犬伏では信幸が昌幸に対して徳川軍につくことの得を説いていたのであろう。しかし、昌幸は徳川につくことには反対であった。
犬伏の別れ(父子兄弟の離散) / 真田氏の館 三代録 ——幸隆、昌幸、幸村 真田三代の記録

徳川勢が上田城の大手門へと迫ったとき、突如として門が開き、門の向こう側で待ち構えていた真田の鉄砲隊が一斉射撃を浴びせた。さらに城内からも銃矢が降り注ぎ、徳川方の先鋒は大混乱に陥った。功を焦った徳川勢は逃走する真田勢を遮二無二追撃していたため、大手門に到達した時は隊列・陣形共に型を成さない状態に陥っていた。このため、反撃を浴びて崩された先鋒隊が撤退しようとするも、勢いのままに前進してきた後続の軍勢と鉢合わせになり進退窮まったところへ、城内から真田勢が討て出て徳川軍を散々に打ち破った。
上田合戦 – Wikipedia

朝鮮出兵の拠点・名護屋城に真田父子が出陣

文禄元年(1592)、秀吉の朝鮮出兵時には幸村は父兄と共に備前名護屋(佐賀県鎮西町)へ兵700人を率いて在陣、名護屋城を守った。
真田幸村

大阪冬の陣・真田丸の戦い

12月4日、前田勢は、篠山からの妨害に悩まされていたため篠山の奪取をもくろんだ。前田勢の先鋒本多政重、山崎長徳らが夜陰に乗じて篠山に攻め上がったが、真田勢は城内に撤収しておりもぬけの殻だった。夜が明けると、肩すかしを食った前田勢を真田勢がさんざんに愚弄した。前田勢はその挑発に乗ってしまい、真田丸に攻めかけた。真田勢は、前田勢が充分城壁にとりついたところに銃撃を浴びせ、前田勢に大損害を与えた。前田利常は、将達が命令なく攻撃したことに怒り、兵を撤収させようとした。

前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢もそれにつられる形で八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けた。この時、城内で火薬庫が誤って爆発する事故がおこったが、その音を聞いた幕府軍は南条の内応によるものと勘違いし、さらに激しく攻めかける結果になった。豊臣軍は城壁に殺到する幕府軍に対しここでも損害を与えた。
真田丸の戦い – Wikipedia

真田軍と伊達軍が激突した道明寺の戦い

伊達勢の片倉重長は、真田勢を見るとこれに攻め寄せた。

片倉は部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃した。これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢の接近を待って迎え撃った。片倉自身が馬上4騎を切り伏せたり、渡辺糺は負傷するなど激戦が展開されたが、真田勢が伊達勢を道明寺辺りまで押し込んだ後、自身は藤井寺まで後退し、毛利勢と合流した。
道明寺の戦い – Wikipedia

家康の本陣に突撃、死を覚悟させた天王寺口の戦い

また真田信繁は自隊を先鋒・次鋒・本陣など数段に分け、天王寺口の松平忠直隊と一進一退の激戦を続けていたが、忠直隊は真田隊を突破すると大坂城に直進、一方真田隊は入れ違う形で徳川本体方向へ進軍した。さらに「紀州(浅野長晟)が裏切った」という虚報に徳川方諸軍勢が動揺するのに乗じ、それらを突破すると、毛利隊などに苦戦する徳川家康の本陣へ強行突破を図り、三度に渡り本陣へ猛突撃を加えた。

これらの攻勢に家康本陣は恐慌状態に陥り、後退。三方ヶ原の戦い以降倒れたことのない家康の馬印を旗奉行は倒した上、家康を見失い(後に旗奉行は詮議され、閉門処分となる)、騎馬で逃げる家康自身も切腹を幾度もなく口走ったという(一説に、平野方面に逃げたと言われている)。また、旗本の中には三里も逃げたものがいたという。しかし真田方の損害も決して少なくなく、数で勝る徳川方に次第に追い詰められていく。大和路勢や突破された諸隊も側面から攻め立て始めた。

真田信繁は三度の突撃の後、疲労のため安居天神で休息をとっていたところを討ち取られた。
天王寺・岡山の戦い – Wikipedia

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2015年03月29日