【幕末諸隊】侠客が多数参加してる部隊の一覧【草莽諸隊】

一瀉千里
明治維新の戊辰戦争に参加した倒幕派・佐幕派の諸隊で侠客・(ヤクザ(博徒・的屋))が多数参加してる部隊の一覧と概略。

侠客(きょうかく)とは?

この発生の源は室町時代に遡り、「かぶき者」といわれ人目に触れる行為を好み、常軌を外れた行動を誇りとした。江戸時代になると、社会に内蔵する矛盾に対し体制に反抗する姿勢の者が多くなり、
「強きをくじき弱きを助ける」とか「一諾千金より重し」として
義侠、遊侠の行為をする者が増え、これらを総称して侠客という。
その反面には正義の軌道をそれて狼藉に及ぶ無頼の徒もあった。
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戊辰戦争の経過図
(慶応4年/明治元年 – 明治2年(1868年 – 1869年))

戊辰戦争では多数の侠客(ヤクザ)が倒幕派や佐幕派に属して戦った

■ 集義隊(しゅうぎたい)

【活動期間:慶応4年閏2月から明治4年】
【倒幕派】【所属:尾張藩】【代表:平井亀吉、近藤実左衛門】【隊員数:289名】

尾張藩は親藩として幕軍側にたつべきだが、官軍側に恩を売るため藩とは関係のない地元博徒を士族にする条件に隊を編成し、越後方面に派遣した。この集義隊に参加したのが平井亀吉や近藤実左衛門などである。しかし戦いから戻ると尾張藩は彼らを士族から平民に戻した。ここに博徒らの士籍返還運動が発生する。
三河博徒 雲風の亀吉 (博徒史 その1) – 恵昭の日記 田舎町の金融談義

平井亀吉の墓
平井亀吉(ひらいかめきち) 1828-1893
亀吉は江戸で相撲取りだった。しこ名は雲風の藤八で最高位は十両。
廃業後は郷里に帰り、平井一家親分の小中山の七五三蔵の下にワラジを脱いで声望を高めた後に、
平井一家の2代目となった。
集義隊では一番隊隊長となる。

近藤実左衛門(こんどう-じつざえもん) 1825-1903
念流の剣客で、中京地方に侠名をとどろかせた北熊一家の親分。
戊辰戦争のとき尾張藩の要請を受けて博徒を糾合し集義隊を編成し、
二番隊隊長として官軍方として北陸に転戦した。
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■ 勇敢隊(ゆうかんたい)

【活動期間:慶応4年4月から明治2年7月】
【倒幕派】【所属:福岡藩】【代表:大野仁平】【隊員数:500~800名】

「勇敢隊」は博徒や喧嘩好きを集めて急ごしらえで作った隊だったそうだが、指揮官は藩の上級や中級クラスの武士が務めていて、初戦から大活躍だったということもあり、当時はとても評判が良かったとのことである。
戊辰でも実は結構強かったらしい福岡藩の勇敢隊 | S.P.Q.R.

大野仁平は博多の侠客で後の玄洋社社員。博徒を主軸とする
勇敢隊を率いて彰義隊討伐・奥羽戦で戦った。仁平は「勇敢仁平」と呼ばれ飛んでくる鉄砲玉を歯で受けたというエピソードがあった。
大野仁平とは – goo Wikipedia (ウィキペディア)

戊辰戦争で亡くなった勇敢隊や官軍戦没者のねむる全良寺の官修墓地。

■ 衝撃隊(しょうげきたい)

【活動期間:慶応4年閏4月から明治元年10月】
【佐幕派】【所属:仙台藩】【代表:細谷十太夫】【隊員数:66名】

衝撃隊(通称・鴉組)の陣羽織
衝撃隊(通称・鴉組)の隊旗
細谷直英
(ほそや なおひで、天保10年(1839年)または弘化2年(1845年) – 明治40年(1907年)5月6日)幕末期の仙台藩士。通称、細谷十太夫。
戊辰戦争の大赦令が発令されると、かつての部下を率いて宮城県と北海道の開拓に尽力した。
日清戦争では陸軍少尉となり中国に渡って千人隊長として活躍した。後に竜雲院の住職となり、戊辰戦争や日清戦争の戦没者を弔った。

戊辰戦争が始まると細谷直英は白河城にほど近い須賀川でヤクザを束ねて「衝撃隊」を結成し、自ら隊長に就任した。
黒装束に長脇差一本で夜襲攻撃を敢行し新政府軍を恐怖のどん底に陥れた。襲撃回数は30数回に及びその全ての戦いに勝利した。
細谷直英 – Wikipedia

■ 聚義隊(しゅうぎたい)

【活動期間:慶応3年10月から明治元年9月】
【佐幕派】【所属:会津藩】【代表:松宮雄次郎】【隊員数:約40名】

松宮雄次郎(通称:観音寺久左衛門)1868年~1873年
越後の与板藩西蒲原郡弥彦村観音寺一帯を縄張りとする博徒・
観音寺一家の親分。戊辰戦争が始まると自藩が官軍につくなか、配下の博徒40余名と「聚義隊」を組織して、旧幕府勢の「衝鋒隊」と共に会津藩に味方した。与板・島崎・指出の激戦に参加、島崎の戦いでは、高田・加賀両藩の兵にゲリラ戦で挑み大勝利をおさめた。
会津藩が降伏すると、故郷へ戻るも家屋敷は朝敵として焼き払われ
一切を失った。明治六年48歳で生涯を閉じた。
No.7756 観音寺久左衛門 – 歴史上人物 つながりしりとり – 学問(文系)掲示板 – textream

明治3年に松宮は、大河津分水の工事の時に県への出仕を要請されたが、「会津の殿様が謹慎中、しかも自分は賊軍で戦った罪人である」と固辞し、会津藩あるいは自分の時代であった江戸時代に義理を通した。
柏崎通信 越後の侠客・観音寺久左衛門から

松宮家屋敷跡
松宮氏の祖先は、源頼朝の家臣を開祖とする豪族で、代々久左衛門を名乗り、観音寺村に住したと云う。松宮雄次郎は十代目・久左衛門。

■ 上州隊(じょうしゅうたい)

【活動期間:元治元年5月から元治元年10月】
【倒幕派】【所属:水戸藩】【代表:田中愿蔵】【隊員数:約200名】

上州隊のリーダーである田中愿蔵(たなかげんぞう)は元は天狗党に参加していたが指揮官の藤田小四郎と意見が合わず、別働隊を組織するため上州に赴き、若い博徒や農民をかき集めた。 彼ら上州隊の全員が断髪だった。栃木で軍資金を要求し拒否されると陣屋に火を放ったことから天狗党幹部の逆鱗にふれ除名される。放火・略奪の罪で幕藩から追われる身となり組織を解散するが、やがて各藩兵に捕縛され田中愿蔵をはじめとして72名が処刑された。
クロスバイクのカローラに乗ってから~ 2008年11月

福島県東白川郡塙町の「道の駅はなわ」敷地内には「田中愿蔵刑場跡」の碑がある。
辞世は「みちのくの山路に骨は朽ちぬとも 猶も護らむ九重の里」。享年21。

上州隊は、上州・下州の農民たちからは「世直しさま」とよばれた。1876(明治9)年には、越堀宿からさらに北の畑のなかに処刑された上州隊の慰霊碑が建てられた。田中愿蔵のことを「早すぎた変革者」と評する声もあるが、豪商の多かった栃木周辺ではいまも
「盗賊」「悪党」よばわりである。
鍋掛宿

■ 伝習隊(でんしゅうたい)

【活動期間:慶応元年3月から明治2年5月】
【佐幕派】【所属:旧幕府】【代表:大鳥圭介】【隊員数:約1100名】

慶応3年(1867)1月、大鳥圭介らが江戸のやくざ、馬丁、火消しなどをかき集め、上役たちを説き伏せ伝習隊を結成。慶応4年4月、伝習隊の中の大手前大隊、小川町大隊の2大隊が官軍への恭順を拒否して、市川・宇都宮・会津と各地を転戦していく。仙台から箱館の間に、
伝習歩兵隊、伝習士官隊として再編成をする。箱館戦争においては
旧幕府軍主力として諸隊と共に各地で戦い抜いた。
伝習隊

大鳥圭介(おおとりけいすけ)
(天保4年2月25日(1833年4月14日) – 明治44年(1911年)6月15日)
兵庫の出身。緒方洪庵・江川英竜らに蘭学・兵学を学ぶ。戊辰戦争で五稜郭にこもったが降伏。のち清国・朝鮮公使として日清戦争前後の外交工作を行った。枢密顧問官。
ジュール・ブリュネ
フランス陸軍の士官で、慶応3年(1867年)江戸幕府陸軍の近代化を支援するため派遣されたフランス軍事顧問団の副団長。
横浜大田陣屋で幕府伝習隊を1年以上訓練した。戊辰戦争ではフランス軍籍を離脱し、旧幕府軍と共に箱館戦争に従軍した。

■ 赤報隊(せきほうたい)

【活動期間:慶応4年1月から慶応4年3月】
【倒幕派】【所属:官軍】【代表:相楽総三、鈴木三樹三郎、油川錬三郎】【隊員数:約300名】

官軍先鋒隊の一つ。1868年1月に西郷隆盛や岩倉具視の指令を受けた草莽の志士達が近江松尾山にて結成した。三隊編成をとり、一番隊は相楽総三とその同志、二番隊は元新選組脱隊士、三番隊は近江水口藩士を中心として編成。東海道鎮撫使付属を命ぜられ年貢半減を布告しつつ進軍したが、新政府の政策転換のために京都へ呼び戻された。
しかし相楽の隊だけは独自の情勢判断から進軍を続けたが、相楽らは3月に「偽官軍」の名の下に信濃国下諏訪にて処刑された。
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水野弥三郎(通称:岐阜の弥太郎)

京都西本願寺の御典医を勤めた水野家に生まれながらも生来剣術を好み、水野家を出て博徒となり弥太郎と名乗っていました。西本願寺との関係から京都の情報に通じ、数百人の配下を持つ弥太郎は新撰組にとって重要な人物であったようです。元新選組の鈴木三樹三郎らにより赤報隊二番隊が誕生すると、一味数十名(一説には百数十名)と
赤報隊二番隊に加わりました。
博徒と赤報隊 – 啓明さん – あつぎ地域SNS

黒駒勝蔵の碑(笛吹市御坂町上黒駒)

黒駒勝蔵(くろこまの かつぞう、1832-1871)

生家は甲斐上黒駒村の名主。甲斐を代表する親分となったが、慶応4年赤報隊に変名で参加。赤報隊崩壊後に赤報隊二番隊で作られた徴兵七番隊(第一遊軍隊)に参加し東北を転戦した。

■ 彰義隊(しょうぎたい)

【活動期間:慶応4年2月から慶応4年5月】
【佐幕派】【所属:旧幕府】【代表:渋沢成一郎、天野八郎】【隊員数:約1500名】

結成式では「大義を彰(あきら)かにする」という意味の彰義隊と命名し血誓状を作成した。結成の噂を聞きつけた旧幕臣や町人や侠客も参加し隊が千名を越える規模になった。徳川慶喜が江戸から水戸へ移ったのちも、各地から脱藩兵が参加し最盛期には4000人規模に膨れ上がる。慶応4年5月15日、大村益次郎が指揮する新政府軍は彰義隊を包囲し総攻撃を行い撃破した。残党の一部は北陸や常磐や会津方面へと逃れて抗戦を重ねて箱館戦争に参加した。
彰義隊 – Wikipedia

上野黒門の彰義隊の奮戦
渋沢成一郎

(しぶさわ せいいちろう、1838年7月30日 – 1912年8月30日)

武蔵国血洗島村の農民・渋沢文左衛門の長男として生まれる。1864年一橋慶喜に仕える。1866年に陸軍附調役に昇格した。1867年に慶喜が将軍になると奥右筆に任じられる。
1868年鳥羽・伏見の戦いに参戦。江戸帰還後、彰義隊を結成し頭取に就任する。慶応4年4月、上野からの撤退を主張して彰義隊を脱退した。脱退後、有志とともに「振武軍」を結成し官軍と戦うが敗戦。慶応4年8月に振武軍の残党と彰義隊の残党が合体し新たな「彰義隊」を結成、その頭となり箱館戦争に参戦。

https://matome.naver.jp/odai/2142454310303823101
2015年02月27日