
https://matome.naver.jp/odai/2142444306820134101/2142444341920302103
ジョヴァンニ・バッチスタ・ジャンニ・カプロニ(Giovanni Battista “Gianni” Caproni 、1886年7月3日 – 1957年10月27日)は、イタリアの航空技術者、土木技術者、電気技術者、航空機設計者である。カプロニの創業者として知られる。
業績
1907年と1908年、カプロニは航空用エンジンの開発実験を行った。
同じ頃、リエージュ・モンテフィオーリ研究所でグライダー建造中に出会った[要出典]ルーマニア人航空機技術者のアンリ・コアンダと共同で作業をおこなった。1908年、ミラノのタリエド地区に複葉機製造の為カプロニ社を創業した[1]。1909年、カッシーナ・マルペンサ近郊に工業用空港(現在のミラノ・マルペンサ国際空港)を開いた。1910年、イタリア初の実用航空機であるカプロニ Ca.1を設計、製造したが、これは同年5月27日の初飛行中に損壊している。
1911年(この年、彼の会社がソチェタ・デ・アゴスティニ・エ・カプロニ(Societa de Agostini e Caproni)と名付けられている)、カプロニは単葉機製作へと方針を転換し、さらなる成功を収める。1914年にはイタリア初となる全動力式航空機を試験、これは後にカプロニ Ca.31と命名される三エンジン式複葉機であった。1915年にイタリアが第一次世界大戦に参戦した後は、爆撃機の設計及び製造に尽力した[1]。その後、彼の会社はソチェタ・カプロニ・エ・コミッティ((Societa Caproni e Comitti)と改称している。
カプロニは旅客機開発の草創期における提唱者であり、爆撃機Ca.4を基に旅客機Ca.48を開発した。これは最初に公開された時には非常に好印象を与えたものの、Ca.48は一度も航空会社による運用に就航することなく、1919年8月2日にヴェローナ近郊に墜落して全乗員(資料により14人、15人または17人とばらつきがある)が死亡するという、イタリア初の民間機災害にして、最古かつ当時最悪の旅客機事故の一つを起こしている[2] [3][4][5]。1921年、彼は大西洋横断用の巨大旅客飛行艇としてカプロニ Ca.60(旅客定員100人)を試作したが、初飛行の時点で不安定な挙動を見せた後に大破した。同じ頃にグライダーも設計している[1]。
第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、カプロニは努力の大部分を爆撃機と小型輸送機の設計製造に注ぎ込み、カプロニ社はジェット機の原型となるダクテッドファン方式の実験機であるスティパ・カプロニ及びカプロニ・カンピニ N.1を製造している。この頃、彼の会社はカプロニ・ベルガマスカ(Caproni Bergamasca)やカプロニ・ヴィッゾーラ(Caproni Vizzola)等の子会社を創設しながら大手複合企業のソチェタ・イタリアーナ・カプロニ(Società Italiana Caproni, Milano)へと成長していた[1](レッジャーネ社を子会社化するべく買収したという主張も存在するが、これは都市伝説である。[6])。カプロニは両大戦の間にタリエド伯(Conte di Taliedo)の称号を付与された[1]。
カプロニ社は第二次大戦中、子会社であるカプロニ・ヴィッゾーラも戦闘機の試作機を建造する一方で、イタリア王立空軍(Regia Aeronautica)に対して航空機製造(主に爆撃機、輸送機、水上機、練習機など)を行った。
ソチェタ・イタリアーナ・カプロニは1950年に消滅したが、カプロニ・ヴィッゾーラは1983年までの間、グループ内では最後まで生き残っていた[1]。

https://matome.naver.jp/odai/2142444306820134101/2142444341920302603
カプロニ
航空機メーカーとしては、1911年にイタリアで初めて実用航空機を製造した。胴体全体がダクテッドファンとも言えるカプロニ・スティパや、イタリア初のモータージェットエンジン機となるカプロニ・カンピニ N.1、三翼機ながら全9枚の主翼を持ち、わずか18メートルの浮揚後墜落した無尾翼飛行艇カプロニ Ca.60など、非常にユニークな航空機を輩出した事で知られる。
1908年、創業者、ジャンニ・カプローニ伯爵(Giovanni Battista “Gianni” Caproni)が航空機会社として起業。航空機産業黎明期にあって、結果失敗に終わったが、まず双発複葉機カプロニ Ca.1(1910年)を開発、航空機メーカーとして研究・開発を続けた。第一次世界大戦が勃発すると、アメリカやイギリス、フランス等の連合国の需要に応え、爆撃機や輸送機の生産で躍進。1930年頃には、自動車・船舶用エンジンの生産など事業の多角化に成功し、イタリア有数の企業に発展した。これに併せ、ソチェタ・イタリアーナ・カプロニ (Società Italiana Caproni, Milano) へと社名を変えた。また、小企業の買収も行った。
わずかな戦間期をはさみ、第二次世界大戦時には、イタリア軍や枢軸国向けの中型・大型機の生産を行ったが、この頃になるとカプロニ社の中核となる航空機部門は、フィアットやマッキなどの国内他社と比較しても、すでに時代遅れの感は否めずに競争力を欠き、戦後には劇的に進歩した航空機業界の中で販路を失い1950年消滅した。
戦後しばらく、カプロニグループのカプロニ・ヴィッゾーラ(Caproni Vizzola)が、カプリオーロ(鹿の意)等のオートバイの開発・製造などを行っていたが、1983年に同国の航空機メーカーであるアグスタに吸収された。


