日本の歴史においては、惜しまれた人物ほど「実は死んでいなかった」という説が後世に残されたりします。その典型が源義経であったり真田幸村などです。その生存説を紹介したいと思います。
西郷隆盛
当時の鹿児島新聞には、次のような記事を載せていました。
「西郷、桐野、村田などは、九月二十二日の夜、官軍の囲みを突き破って串木野の島平に着いた。そこから舟で甑島にわたり、桑浦からロシヤの軍艦に乗り込んで、ウラジオストックに上陸。今、シベリヤの兵営にとまってロシヤ兵の訓練をしている。
西郷隆盛は生きている 西郷さんにまつわる言い伝え2: さつまの国の言い伝え
「西郷はロシアへ逃れ、日露戦争の原因になった」と言うデマは当時盛んにあったようです。
西郷隆盛は西南戦争後も自刃せず、生きていたと聞いたことがあるのです… – Yahoo!知恵袋
西郷の死後、遺体が西郷のものだという確実な証拠がなかったこと。
西郷が民衆に慕われていたことなどから、西郷が海外に逃れて生き延びていたという
説が当時多数流れたといいます。
大塩平八郎
反乱は鎮圧され、養子の格之介らとともに逃亡。
逃亡40日後、隠れ家を発見され、大塩は爆薬に火を放って自害したはずですが…
大塩が実は死んではおらず、他国へ落ち延びて生存しているという風聞が事件直後から流れたとされている。どこへ落ち延びたかは諸説あり、九州に逃げてから船で大陸に渡った、あるいはシベリアへ行った、直後に浦賀に来日したモリソン号の船上にいた、単純に江戸に潜伏しているというものもあった。
『大塩平八郎(おおしおへいはちろう)』の意味と定義(全文) – 辞書辞典無料検索JLogos
大塩と息子格の助之助は、天草に逃れ、更に長崎から中国に渡ったとされています。
中国からヨーロッパに逃れたとの話もありますが、
一方、中国で太平天国の乱を起こしたとの話もあります
大塩平八郎の生存伝説 – 天然居士のとっておきの話
大塩の遺体は黒こげになっていて、誰だか分からない状態だったようです。
大塩の塩漬けの遺体は翌年磔刑に処せられますが、
この時には風貌も分からなかったようで、この辺が生存伝説の元になったようです。
安徳天皇
最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平氏と源氏が激突。平氏軍は敗北し、壇ノ浦の急流に身を投じ崩御となっていますが…
いろいろな場所に生存したという伝承があります。
高知県のほぼ中央部、高岡郡越知町に横倉山という山がある。標高744メートル、その山頂に県下で唯一の宮内庁所管地がある。昭和元年、国から安徳天皇御陵参考地として指定された陵があるのだ。
伝承では、安徳天皇は横倉山で23歳の短い生涯を閉じたという。むろん定説での天皇の生涯はもっと短かった。
安徳天皇生存説 – 小説の孵化場
平家物語などでは、二位の尼に抱かれて壇ノ浦海中に身を投じたとされています。しかし、「それは替え玉で、実際は…」という生存潜幸説は各地に残っており、それは、全国で18ヶ所、その後の崩御の場所8ヶ所とか、安徳天皇が潜在された場所30余りあると書かれたものもあるようです
安徳帝1
硫黄島では、安徳天皇は64歳まで生きたと伝えられ、さらには島の人々から「天皇さん」と呼ばれ、安徳天皇から三十五代目の子孫だと伝えられる人もいるという。さらに「天皇さん」の家には「開かずの箱」と呼ばれる家宝があったが、中身は未確認のまま薩摩藩に奪われたらしい。
歴史の意外な結末
明智光秀
本能寺の変後、秀吉軍に敗れて敗走する途中、落ち武者狩りに合い命を落としたというのが定説ですが…
有名な光秀=天海説というものが根強く存在します。
実は明智光秀は生きていて 天海と名前を変えていた。
という説が存在しているのです
明智光秀は天海として生きてた!?その理由は何? | トレンド情報をお届けします
光秀=天海説の根拠はいくつかあります。
天海の謚号(死んだあとにおくる名前)は『慈眼大師(じげんだいし)』というらしいのですが、光秀の居城があった京都は北桑郡周山村にある『慈眼寺』というお寺には、光秀の木像と位牌が安置されているのだそうです。
歴史の知識:明智光秀の最も熱い日々〜本能寺の変から山崎の合戦そして最期までの13日間と生存説を追う〜
もしも明智光秀=天海なら山崎の戦いのリベンジを徳川家康のブレーンとして豊臣家に果たしたと言えます。歴史ミステリーの面白いところだと思います。
武田勝頼
高知県吾川郡仁淀川町に残る影武者説では、武田勝頼は織田軍からの敗走後、当時の土佐の武将・香宗我部氏を頼ってこの土佐に落ちのび、その後、この大崎村川井(現仁淀川町大崎)に入り、以後、名前を「大崎玄蕃(おおさきげんば)」と変名し、この地で25年ほど活躍し、慶長14年(西暦1609年)8月25日64歳で逝去され、鳴玉神社に葬ると記録(仁淀川町及び佐川町に残る武田家系図に記載)があります。
武田勝頼の会
豊臣秀頼
一般の定説ですが…江戸時代に書かれた甲子夜話や甲子夜話続編でも
薩摩に逃れたとされている。
豊臣秀頼の逸話
甲子夜話によると谷山には、昔からある言い伝えがある。それは、秀頼が大阪から出航して薩摩に上陸した地点は、障子川の河口であり、しばらくはその南にある古屋敷に住んでいたが、その後、木之下に移り住んだというものだ。秀頼は島津家では手厚くもてなしていたが、なにしろ六尺豊かな大男で、酒好きである。おまけに酒癖が悪く、度々乱暴な振る舞いもした。
幸村薩摩落ち伝説 -豊臣秀頼の逸話 / 真田氏の館 三代録 ——幸隆、昌幸、幸村 真田三代の記録
秀頼は、薩摩島津氏の庇護の下、谷山で隠棲するが、酒を飲んで暴れまわるうえ、酒の代金を払わず、鼻つまみ者として嫌われていた。
秀頼は、貴人として生まれ育ったため、金銭感覚が欠落していて、飲み屋で飲んだあと、「よきにはからえ」と金を払わずに帰ってしまい、飲み屋では、あとで藩にその代金を払ってもらっていた。
歴史の意外な結末
真田信繁(幸村)
大阪夏の陣の際、四天王寺近くの安居神社の境内で、傷つき疲れた身体を休ませていたところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「わしの首を手柄にされよ」と最後の言葉を残して討ち取られた…はずですが。
惜しまれた人物ほど、生存説があるというのは、やはり民衆の願望もあるのではないでしょうか。
幸村は大坂で死なずに嫡男・大助幸昌とともに豊臣秀頼を守って薩摩(鹿児島県)へ落ちのびたという伝説がある。
幸村薩摩落ち伝説
「花のようなる秀頼様を鬼のようなる真田が連れて退きも退いたり加護島へ」
上のわらべ歌は、大坂夏の陣の終戦後に流行したものです。豊臣秀頼は、元和元年(1615年)に大坂城で自害し、真田幸村も戦死したことになっています。
しかし、実は、幸村は大坂夏の陣で戦死せず、秀頼を連れて鹿児島に落ち延びたとも伝えられています。
豊臣秀頼と真田幸村の最期の地は大坂だったのか? | 京都観光旅行のあれこれ
島左近(清興)
島左近生存説というのがあります。
関ヶ原の後、島左近は戦場から逃れ、主君・三成の居城佐和山城を目指していたというのです。
関ヶ原ブログ : 島左近生存説
読売新聞(2013年7月16日夕刊)を見てとても興味をそそられたのは「島左近、関ヶ原後も生存?」という記事である。大阪城天守閣が購入した島左近の画像の箱の蓋に、左近は関ヶ原を逃れ、京都北山に隠れ住み、後に徳川家康と会って仕官を勧められたものの固辞し、伊吹山に隠棲、寛永9年に死んだと書かれているのだそうだ。
石田三成の遺臣、島左近の生存説 : 熊本幸夫のブログ「退屈夜話」
島左近生存のストーリーは隆慶一郎氏作の影武者徳川家康でも登場します。
外国人編
楊貴妃
実は楊貴妃には処刑されずに生き延びていたという説があり、密かに日本に流れ着いていた、という伝説が残っているのだという。
実際に楊貴妃が埋葬されたとされる場所には楊貴妃の亡がらはなく、歴史的に見ると本当に楊貴妃が死んだかどうか定かではないという。
埼玉県に残る「楊貴妃の鏡」に謎の顔が!? – リアルライブ
日本の山口県の二尊院にはその名もズバリの「楊貴妃の墓」というものもある。もっとも、墓自体は後に作られたものであるが寺には「楊貴妃伝」という楊貴妃が日本に流れ着くまでの経緯が記載されているという。
芸能裏情報ニュース : 埼玉県に残る「楊貴妃の鏡」に謎の顔が!?
侍女を身代わりとして差し出した後、本物の楊貴妃には、食糧などを乗せた大きな船を用意し、現在の上海の港から逃がした・・・というのです。
そして、その船が、なんと山口県は油谷湾の久津というところに漂着したのだとか・・・。
楊貴妃は日本で生きていた?~安禄山の乱: 今日は何の日?徒然日記
ジャンヌダルク
その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、
異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を閉じた
何年か前、「ジャンヌ・ダルクの遺骨とされていたものが、実はエジプトのミイラだった」というニュースが流れた。
ジャンヌ・ダルクの神話 …作られた像と歴史の中の 現在位置を確認します。/ウェブリブログ
彼女は1430年、コンピエーニュでブルゴーニュ勢に捕らえられ、イングラン
ド軍に引き渡された。そして翌年、ルーアンにて火刑に処せられる。その
際、民衆の前に引き出された彼女の顔がすっぽりと覆われていたという証
言がある。そこから、実はジャンヌはすでに秘密の地下道から脱出しており、かわりに
ルーアンで呪術を行なった罪で処刑されることになっていた別の女とすり換
えられていたのだ、という「伝説」が生まれた。
救国の聖少女ジャンヌ・ダルクは王女様だった!?
彼女が五年後に忽然と姿を現し、結婚して二
児の母になったという記録が残されているんです。1436年、フランスのメッツという町にジャンヌを名乗る女性
が現れ、ジャンヌの弟のプティジャンとピエールが半信半疑で
確かめに行きました。
彼らは、馬上武術試合に出場していたジャンヌを見て、
「間違いなく姉のジャンヌだ!」と叫んだそうです。
ジャンヌ・ダルクは処刑の後に復活した?:歴史上の人物の意外な雑学!
アドルフ・ヒトラー
ベルリンの総統官邸の地下壕で、全ての終わりを悟ったアドルフ・ヒトラーは、一夜の妻エヴァ・ブラウンと共に、自殺したとされています。
スターリン自身、ヒトラーの自殺をほとんど信じていなかったようだ。なぜなら彼は、ドイツ降伏直後の5月26日にモスクワを訪れたアメリカのトルーマン大統領の特使ハリー・L・ホプキンズに対し、ヒトラーは生きており、側近のマルチン・ボルマンと一緒にどこかに隠れているのではないかとの見解を示している。
ハリー・L・ホプキンズが「ヒトラーはUボートで逃走したのではないか」と質問すると、スターリンは「それはスイスの黙認により遂行された」と答えたという。スターリンは、ポツダム会談でも繰り返し一貫してヒトラー逃亡説を語って関係者たちを困惑させていたという。
「ヒトラー逃亡説」の実態
アイゼンハワー元大統領までも、新聞に掲載されたヒトラー逃亡説に対し、
ヒトラーの死を証明する確かな証拠は、今までまったく発見されていない。そしてヒトラーはベルリンから逃亡したと多くの人が言っている。私はこれに対して反証を挙げることはできないだろう。
ヒトラー生存説の信憑性www : 腹筋崩壊ニュース
ヒトラーが自殺を遂げたはずの4月30日の夕方、ベルリン近郊のテンペルホフ空港にドイツ兵を乗せた輸送機が着陸したそうでしてね、この輸送機にはベルリン防衛の為の部隊が乗っていたそうで、給油作業待ちの時間で通信兵と砲兵が機外で話をしていたところ、100m程離れた場所にヒトラーが立っているのを目撃したそうなんですよ。
ヒトラーはナチス高官と話し込んでおり、給油を終えた輸送機はそのまま空港から飛び立ったそうなんですがね、2人は戦後しばらく立っても、空港で見たのは間違いなくヒトラーであったと主張し続けたそうです。
超魔界帝国の逆襲 : ヒトラー逃亡説〜総統閣下は生き延びていた?〜
目撃されたのはいいけど、その後連合国に復讐するために何かを企んだとか、そういう後日談がないのがこの説の弱いところだと思います。













西郷隆盛ですが…