「で、清州会議ってなんなの?」実はよく知らない、天下統一への重要局面。

momokan1981
絶賛放送中の「黒田官兵衛」でも登場した、ポスト本能寺の変を描くドラマに必ず盛り込まれる場面の一つ「清洲会議」。三谷幸喜さんによってコメディタッチの映画も公開されましたが、実際の所よく分かっていない人も多いと思うのでまとめてみました。

三谷幸喜さん監督の「清州会議」が地上波初放送

土プレ、三谷幸喜監督・脚本・原作、役所広司主演『清洲会議』が6日地上派初登場!
土プレ、三谷幸喜監督・脚本・原作、役所広司主演『清洲会議』が6日地上派初登場!あらすじと予告動画 – ナビコン・ニュース

映画『清洲会議』(2013)は全国430スクリーンで公開され、公開最初の土日の動員は38万人、興行収入4億8,371万6,600円、初登場1位を記録した。最終興収は29.6億円の大ヒットとなった
土プレ、三谷幸喜監督・脚本・原作、役所広司主演『清洲会議』が6日地上派初登場!あらすじと予告動画 – ナビコン・ニュース

見どころは、強面の柴田勝家がお市様にメロメロになり、ダメ男丸出しになるところ。そして一方の秀吉は、飄々としながらも着実に足下を固め、根回しをし天下取りに向けて動いているその対称的な2人が実に面白く描かれている
土プレ、三谷幸喜監督・脚本・原作、役所広司主演『清洲会議』が6日地上派初登場!あらすじと予告動画 – ナビコン・ニュース

三谷幸喜さんならではのコメディー映画

でも、よく聞くけど「清州会議」って一体なんなの?

清洲会議とは、天正十年(1582年)6月、明智光秀討伐後に、豊臣秀吉・柴田勝家ら織田家宿老たちが、織田家の後継者問題・領地配分問題を清洲城で話し合った会議
戦国ドラマの定番「清洲会議」はどこまでが史実なのか : 戦国万華鏡

例えるなら
社長死去→次男と三男を、それぞれ常務と専務が後継者に推して、それを決める
そんな会議です。

会議開催の原因は、有名な「本能寺の変」

天正10年6月の本能寺の変において、織田家前当主織田信長は京都で家臣の明智光秀によって討たれ、信長の嫡男で織田家当主であった織田信忠も二条新御所で死亡した
清洲会議とは – goo Wikipedia (ウィキペディア)

織田信長が打たれたこの事件はあまりにも有名すぎますね

光秀は山崎の戦いで討たれ、織田家後継者及び遺領の配分を決定することを目的に、尾張国清洲城(愛知県清須市)で開催された
清洲会議とは – goo Wikipedia (ウィキペディア)

本能寺の変を仕組んだ明智光秀もその後直ぐに討たれ、織田家の後継者選びを決める為に行われたのが、この「清州会議」です。

会議の参加者は

集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席した(直前の神流川の戦いでの敗戦を口実に、参加を拒まれたとの説もある)
清洲会議とは – goo Wikipedia (ウィキペディア)

柴田勝家
織田信長の父・信秀に仕え、のちに信長の弟である信行(信勝とも)の家老となった。はじめは「うつけ」と呼ばれた信長を嫌い、彼を廃嫡して信行をかつごうとしていたが、稲生の戦いにて信長に敗北し、それ以降は信長派に転じた
丹羽長秀
丹羽長政の次男として天文4年(1535年)に生まれる。元服する1550年頃には織田信長に仕えていたと言われている。
羽柴秀吉
言わずと知れた豊臣秀吉。
当初今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信忠の遺児三法師を擁して織田家内部で勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た
池田恒興
幼少の頃から小姓として織田氏に仕え、桶狭間の戦い、美濃攻略などで戦い、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで活躍し、犬山城主となり1万貫を与えられた。母は織田信長の乳母であり、信長の父の織田信秀と再婚して側室となっているため、恒興は信長とは乳兄弟であり同時に義理の兄弟にあたる。

揉めに揉めた後継者選び

一番の争点であった織田家の後継者問題では、信長の三男・織田信孝を擁立する勝家と、信長の嫡孫にあたる信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を擁立する秀吉との対立が起こった
清洲会議とは – goo Wikipedia (ウィキペディア)

しかし秀吉は光秀討伐の功労者であり、長秀らの支持や、三男であり神戸氏へ養子に出ている信孝よりも血統的な正統性が強いこともあって、三法師が後継者として決まり、織田信孝はその後見人として収まった
戦国ドラマの定番「清洲会議」はどこまでが史実なのか : 戦国万華鏡

領地の再配分も決められた

領地再分配では、次男・信雄は尾張国を、三男・信孝は美濃国を相続し、信長の四男で秀吉の養子である羽柴秀勝は明智光秀の旧領である丹波国を相続した。家臣団へは、勝家が越前国を安堵の上で、勝家の希望から秀吉の領地である長浜城と北近江3郡を割譲され、長秀が若狭国を安堵の上で近江国の2郡を、恒興は摂津国から3郡を、それぞれ加増された。新当主である三法師は近江国坂田郡と安土城を相続し、秀吉には山城国が与えられた
清洲会議とは – goo Wikipedia (ウィキペディア)

この会議により、その後の「天下」の行方を左右しました

清洲会議では、それまで織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた勝家の影響力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなど、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられた
清洲会議とは – goo Wikipedia (ウィキペディア)

この時の対立が翌年の賤ヶ岳の戦いにつながり、織田家の内紛と秀吉の天下取りへ影響する
清洲会議とは – goo Wikipedia (ウィキペディア)

その後、秀吉が天下統一へ

ちなみに、何故清須で開かれたのか?

岐阜城ではなく敢えて清洲城が選ばれた理由・・・それは、ほぼ後継者に確定していた三法師が、当時清洲城にいたから
戦国ドラマの定番「清洲会議」はどこまでが史実なのか : 戦国万華鏡

あくまで可能性です。

史実上、本当にあった会議なの?

「天正記」等の記述と、現在ドラマなどで定番化されているストーリーとの間には、かなり違いがある。どうも、定番のストーリーが完成したのは、江戸初期成立の「川角太閤記」あたりかららしい
戦国ドラマの定番「清洲会議」はどこまでが史実なのか : 戦国万華鏡

天正記とは、秀吉の伝記のこと。

両者は全くベツモノというわけではなく、むしろ大枠では驚くほど同じだ。「天正記」などが書いている清洲会議後の後見人の地位争いを、清洲会議席上の後継者争いにスッキリと置き換えればほぼ内容は同じ
戦国ドラマの定番「清洲会議」はどこまでが史実なのか : 戦国万華鏡

多少脚色はあるようですが、ほぼ当時の記録どおりらしいです。

こんな事前知識を持っていると、今後もきっとたくさんのドラマに登場する「清州会議」をより楽しめるかも

https://matome.naver.jp/odai/2141777440051794201
2014年12月06日