日本映画全盛時代を支えた 昭和の大女優 岡田 茉莉子 松竹の看板女優だった

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ズケズケものを言うはっきりとした性格で知られ、近年のインタビューでも、「最近、テレビに出ている若い女優さんについてどう思われますか?」という質問に、「あの方たちは女優じゃありません。タレントさんです。」と発言している。
おかだ まりこ 岡田 茉莉子
本名吉田 鞠子 よしだ まりこ
(旧姓:田中)
生年月日1933年1月11日
出生地 日本 東京府東京市渋谷区代々木
職業女優・映画プロデューサー
活動期間1951年 –
活動内容映画・テレビドラマ・演劇
配偶者吉田喜重
著名な家族父:岡田時彦
母:田鶴園子
主な作品
映画
『流れる』/『秋日和』
『秋刀魚の味』/『秋津温泉』
『香華』/『エロス+虐殺』
『鏡の女たち』

若尾文子と岡田茉莉子

『映画女優 若尾文子』の中で四方田犬彦氏は若尾文子と対置できる女優がいるとしたら、それは岡田茉莉子だと言下に語っている。なるほど二人はともに昭和8年の東京生まれで女学校時代に地方に疎開し、世情の混乱が一段落してから東京にもどると相次いで銀幕デビューを飾り、日本映画全盛時代を支える大女優になるとよく一致している。ところがデビュー以前の生い立ちと撮影所体制崩壊後の処し方は正反対だ。若尾はすばらしい企画をことごとく断りテレビと舞台に転進するのに対し、岡田は映画監督の吉田喜重と結婚し、経済的に苦しい独立プロの活動を支えつづけるのである。
文芸評論家・加藤弘一の書評ブログ : 『女優 岡田茉莉子』 岡田茉莉子 (文藝春秋)

最初の研究書でも両者は好対照を見せる。若尾文子は大学の映画研究者二人の論文集発刊にあたって億劫そうにインタビューに応じただけだが、岡田茉莉子は400ページ近い大冊をみずから書き下ろしているのである。しかも全16章のうち最初の5章は自伝だが、フリーになる決意をして以降は映画論、監督論、そして岡田茉莉子論を兼ねるようになるのだ。
文芸評論家・加藤弘一の書評ブログ : 『女優 岡田茉莉子』 岡田茉莉子 (文藝春秋)

新潟で女学生時代、演劇部の友人と映画館でサイレント映画『瀧の白糸』(1933年版)を観て、帰宅後にその映画の話をすると母が泣き出したという。その時、初めてその映画の主演である岡田時彦が自分の父であることを知らされ、慌ててもう一度、今度は自分の父を見るために一人で映画館へ脚を運んだ。
1951年、叔父の山本のすすめもあり、東宝ニューフェイスの第3期として、小泉博らと共に東宝演技研究所に入所した。入所して20日後、成瀬巳喜男監督の映画『舞姫』の準主役に抜擢される。以降、父親譲りの美貌と演技力で東宝映画の主演スターとなる。
岡田茉莉子 – Wikipedia

1957年3月にフリーとなり、同年9月に松竹と専属契約する。女性映画を得意とする松竹では数々のメロドラマに主演し、先に東宝から松竹に移籍していた有馬稲子と共に松竹の二枚看板として大活躍した。1962年、「岡田茉莉子・映画出演100本記念作品」として自らプロデュースした主演映画『秋津温泉』が大ヒットし、多くの映画賞も獲得した。会社の意向で助監督に戻されていた吉田喜重を監督に起用した作品であった。翌年、吉田監督と婚約した。
岡田茉莉子 – Wikipedia

父娘とも、芸名の名付け親は作家の谷崎潤一郎である。「お父さんの芸名を付けたのだから君の名前も私が付けましょう」と言って付けてくれたそうである。しかし新聞や雑誌で「茉莉子」の「茉」の文字が、誤印刷で下の横棒が長く印刷されることが多かったという。その度に几帳面な谷崎から、岡田のもとに「君の名前の文字は上の棒が長いのです」と叱った手紙を頂戴したそうである。後年岡田は「私のせいじゃないのにね」と愉快に語っている。
岡田茉莉子 – Wikipedia

http://www.youtube.com/watch?v=dZuud5QqqQE
http://www.youtube.com/watch?v=3V_gnnCCbxo
http://www.youtube.com/watch?v=x4lqhW1bG6c
https://matome.naver.jp/odai/2141752650076159501
2018年04月25日