エピソード 大隈重信 伝説集

greenmail
早稲田大学創設者 大隈重信 元総理大臣のエピソードをつづる。とことん歴史紀行「大隈重信~信念の教育者が育まれた地 佐賀~」

若き日の大隈

早稲田大学の創設者・大隈重信は、1838(天保9)年2月16日、佐賀藩士大隈信保と三井子の長男(幼名:八太郎)として生まれました。藩校弘道館に学びますが、佐賀藩独特の葉隠思想に反発、蘭学寮に入り蘭学を修めます。また、長崎に出て米国宣教師のフルベッキに新約聖書と米国独立宣言を教わり、大きな影響を受けます。明治維新に際して、副島種臣とともに脱藩し上京、大政奉還運動に加わりましたが、送還され、謹慎処分を受けました。
大隈重信小伝|創設者 大隈重信|大学案内|早稲田大学

エピソード 人生125歳説

「人間は125歳までの寿命を有っていると言うのが、我輩の説である。しかし、之には敢えて深い論のあるわけではない」

生理学の泰斗永井潜博士にその学問的根拠如何を聞くと、「大隈侯の125歳説は100年前ドイツのフルーランが唱えた処から来ているのであろう。尤も、同氏より前1749年バッホンが人間の成熟期を14歳としてその6、7倍が寿命である、と唱えたのに始まって、フルーランが更に之を修正し、成熟期を25年として、其の5倍、125歳説を立てたのであるが、その後、動物の大小と寿命の長短の関係から論じたものや、身体における各種器官の構造上の相違から寿命の長短を説くもの」などが現れたということです。しかし、大隈の真の説は、生理上の寿命もさることながら、「精神の力が体力に克つ」というところにありました。

「肉体を支配する精神、例えば肉体が健全であっても勇気のない者は病気である──意思の力の閃きが絶えず五体を支配して自己と言う精神が生々して来れば、必ず肉体はこれによって支配される。勇気、反抗力、活動、この三ヵ条を補うに適当なる摂生を以てすれば、必ずしも人生僅か50年というような情けない弱音を吐く必要はない」。これが大隈の125歳説を唱えた理由です。
日常の生活もいたって規則的で、早朝5時には起床、庭を1、2時間かけて散歩し、夜は9時には就寝しました。貴族富豪にありがちな放埒なところはありません。何事も修養である、というその修養とは、「なにごとも楽観的にみること、怒るな、貪るな、愚痴をこぼすな、そして、世の中のために働け」でした。

エピソード2 伊藤博文をライバル視

大隈重信は第8代・第17代の内閣総理大臣でもあり、現在の早稲田大学である、東京専門学校の創立者として、歴史に名前を残しています。伊藤博文をライバル視していて、別邸を構えた60m先に伊藤博文が住んでいて、別な場所に別邸を建て直した話や、伊藤がハルビンで暗殺されると、華々しい死に方をしたと、本気でうらやんだとのエピソードが残されています。
大隈重信 – 【日本の歴史巡り】

早稲田大学開校式典において、伊藤博文が『大隈君とは色々競ってきたが、教育機関を自ら作ったという点ではかなわない。』と述べたことに、とても満悦しました。
大隈重信 – 【日本の歴史巡り】

エピソード3

エピソード4 お金のサイン?


https://matome.naver.jp/odai/2141172139118197601/2141172255719635803
お金のサイン
お金のハンドサイン、考えたのは大隈重信大隈がお金を表すハンドサインを発案した理由は、通貨を説明するときにお金は円だったから。いたって単純な理由だ。

エピソード5 日本初のメロン栽培


https://matome.naver.jp/odai/2141172139118197601/2141172255719636003
初のメロン栽培者・大隈重信大のメロン好きで知られた大隈。あまりにも好きだったので外国から持ち帰り、日本で初めて栽培したそうだ。

エピソード6 日本における最初の始球式を行ったのは大隈重信である。

1908年11月22日、アメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の試合が行われたが、その試合前に早稲田の創立者である大隈が始球式を行った。しかし彼の投じた一球はあらぬ方向へ飛んでいく。早稲田の一番バッターは「このままでは先生の投げた球がボールになってしまう!」と考え、とっさにバットを振ったそうである。以来、始球式のボールはわざと空振りするということが習慣になった
大隈重信について【2】 | 机の下の秘密基地

https://matome.naver.jp/odai/2141172139118197601
2014年10月05日