広島・長崎原爆投下の真実

KAT992
69回目の原爆の日がやってきました。永遠の平和を願って黙祷を捧げます。

69回目の原爆の日がやってきました。永遠の平和を願って黙祷を捧げます。
過去の過ちを繰り返さないため、そして永遠に事実を残すためにも、ここでは原子爆弾という兵器がどのように作られ、どのように使われたのか、という側面についてまとめます。

(1)原爆の日
(2)原子爆弾とは?
(3)原子爆弾開発の歴史
(4)原子爆弾投下への道
(5)広島への原爆投下
(6)長崎への原爆投下
(7)広島・長崎後の原子爆弾

(1)原爆の日

被爆から69年の広島原爆の日を迎えた6日、広島市中区の平和記念公園では雨の中、午前8時から「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれた。
被爆から69年、広島原爆の日 「名実とも平和国家に」  :日本経済新聞

被爆69周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を挙行します
長崎市│平和祈念式典(被爆69周年)のお知らせ

(2)原子爆弾とは?

リトルボーイ(広島型原爆)
高濃縮ウラン235を用いた「ガンバレル型」の原子爆弾。
核出力はTNT換算で約15キロトン。
ファットマン(長崎型原爆)
プルトニウム239を用いた「インプロージョン型」の原子爆弾。
核出力はTNT換算で約22キロトン。
ガンバレル型原子爆弾
核分裂を起こす臨界質量のウラン235を2つに分けて爆弾内に保存する。起爆させる場合は、小型火薬で2つのウラン塊をぶつけ、超臨界を達成させる。

仕組みが単純なため初期の核兵器に使われたが、もともと臨界量の高濃度ウランを爆弾内に保持しているため、アクシデントが起きると即座に臨界爆発の危険性がある。核分裂効率も悪く、プルトニウム爆弾に応用できないため、すぐに使われなくなった。

インプロ-ジョン型原子爆弾
プルトニウムを取り囲むように火薬を配置し、火薬の爆発でプルトニウムを圧縮、超臨界を起こします。

非常に少量のプルトニウムで原爆を作ることができるが、起爆メカニズム(爆縮レンズ)が難しいため高度な技術が必要。

(3)原子爆弾開発の歴史

1938年にはドイツ人化学者のオットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンが核分裂連鎖反応を生み出すことに成功している。
CIVILOPEDIA Online: 核分裂反応

世界で初めて核分裂反応を起こすのに成功したのは、ドイツ科学者でした。

ヒトラーの反ユダヤ主義によって、ドイツの科学がこうむった頭脳の流失は相当のものだった。
アインシュタインを初めとしてユダヤ人の科学者が亡命しただけではなく、ユダヤ人でない著名な科学者もユダヤ人の同僚や教師のあとを追った。そしてそれまで群をなしてドイツ参りをしていた外国の科学者も来なくなった。
ヒトラー以前には核物理学の研究では世界の中心はゲッティンゲンだった。それが1933年にアメリカに移った。
「ナチス製原爆」の謎

ヒトラーは原子爆弾にあまり関心がなく、しかもユダヤ人弾圧を優先した結果、優秀な科学者が大勢流出。

1942年10月、アメリカのルーズベルト大統領は、原子爆弾開発プロジェクト「マンハッタン計画」を承認した。
1943年にはマンハッタン計画の科学技術を担当するロスアラモス国立研究所が設立された。初代所長は「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーである。
ポツダム宣言�〜原子爆弾とマンハッタン計画〜

ナチスドイツよりも原爆開発が遅れていることに、連合国側では大きな危機感を持っていました。

ロバート・オッペンハイマー

マンハッタン計画は、のべ5万人の科学者と技術者が投入され、20億ドルの資金を使い切った。20億ドルは現在の貨幣価値で2兆円、当時の日本の一般会計の約35倍である。その結果、製造不可能と思われた原子爆弾がわずか3年で完成したのである。
ポツダム宣言�〜原子爆弾とマンハッタン計画〜

同時期、日本で行われていた原爆開発では、研究費2000万円だったと言われている。

最初の核実験(コード名「トリニティ」)が1945年7月16日にマンハッタン計画の一環としてアメリカ・ニューメキシコ州アラモゴード近くの砂漠で行われました。
大気圏核実験

トリニティ実験で使われた原爆は、長崎型と同じプルトニウム爆弾でした。
広島・長崎に原爆投下される前に行われた、唯一の原爆実験です。
その数週間後、世界初の核兵器が広島と長崎に投下されます。

トリニティ実験での爆発の瞬間

1941年4月、陸軍航空技術研究所は理化学研究所に原爆開発の可能性に関する研究を委嘱、仁科芳雄を中心に研究が開始された。
原子爆弾 開発

日本陸軍は「二号研究」というコードネームで原爆開発に着手。

日本海軍のF研究も1941年5月に京都帝国大学理学部教授の荒勝文策に原子核反応による爆弾の開発を依頼したのを皮切りに、1942年には核物理応用研究委員会を設けて京都帝大と共同で原子爆弾の可能性を検討した。
65年目、広島原爆の日  ~陸軍と海軍が原爆の研究をしていた

日本海軍は「F研究」というコードネームで原爆開発に着手。
F研究には、後にノーベル賞を受賞する湯川秀樹博士も参加しています。

ウラン濃縮の技術はかなり難しく、二号研究では難航した。肝心のウランも不足していた。戦時中に日本が入手できたウラン資源は推定500キログラム。山崎教授によると、原爆を作るには100トン以上が必要だったのに、200分の1しかなかった。研究費も米国の400分の1程度だった。
空襲で研究施設が被害を受けたこともあり45年6月、仁科博士は開発中止を陸軍に申し入れた。海軍のF研究は設計図作成などの基礎段階で終戦を迎えた。こうして日本は原爆開発には至らなかった。
10代がつくる平和新聞 - ひろしま国:8.6探検隊【日本は原爆を造ろうとしてたのかな】

「幸いにも」日本での原爆開発は基礎研究の域を出ず、ウラン濃縮すらまともにできないまま開発は打ち切られ、終戦を迎えます。
最後まで日本は核兵器を持つことができませんでした。

(4)原子爆弾投下への道

「ハイドパーク協定」
ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相が1944年9月18日、米ニューヨーク州ハイドパークで会談し、日本への原爆使用と将来の核管理について申し合わせたもので、1972年に初めて公開された秘密協定である。
HIROSHIMA PEACE SITE

フランクリン・ルーズベルト

米陸軍航空隊第509混成部隊は、1944年12月にユタ州の空軍基地で創設された。カーク氏らが上官から受けた任務は、ナチス・ドイツと日本への核攻撃の訓練だった。ナチス・ドイツの降伏後、第509混成部隊は太平洋上のテニアン島に移された。
広島原爆の搭乗員が死去、「後悔していない」と証言_中国網_日本語

第509混成群団とは、原爆投下任務だけを目的として創設されたB-29爆撃機部隊であり、太平洋戦線ではテニアン島に配備されました。
当時、サイパン島、テニアン島、グアム島には1千機ものB-29爆撃機が配備されており、日本本土空襲を行っていました。

テニアン島

シルバープレートとは原爆投下を専門に行う目的で改造されたB-29の仕様(呼び名)で終戦まで15機が準備された。なお戦後も含めるとその数は65機に及ぶ。
南溟の桜: テニアン島戦跡(6) B-29と原爆搭載ピット

第509混成群団には、原爆搭載専用B-29である「シルバープレート」が15機配備されていました。

原爆搭載機「エノラ・ゲイ」

大阪に原爆が落とされたのをご存知でしょうか。
昭和20(1945)年7月26日午前9時26分のことです。
投下された爆弾は、同年8月9日に長崎に投下された原爆(ファットマン)と同形の模擬爆弾です。
高度9千メートルから原爆を投下するための訓練と、爆発後の放射線から逃げるための急旋回(急転、退避)の訓練を目的として、米軍第509混成群団が投下しました。
ねずさんの ひとりごと パンプキン爆弾

パンプキン爆弾
パンプキン爆弾とは原爆ファットマンと同一サイズ・重量になるように作られた、実験および訓練用の通常爆薬型模擬原爆です。
日本各地にも49発ほどが投下されています。

1945年7月16日、本土を出港して再び前線に赴く『インディアナポリス』に、極秘の輸送任務が託されました。それは完成した世界初の原子爆弾2発を、B-29の基地があるテニアン島へ運ぶ事でした。
7月26日、『インディアナポリス』は無事に輸送任務を終えます。周知の通りこの2発が広島と長崎で35万人もの人命を奪う事になるのですが・・・
7月30日深夜、単艦で航行する『インディアナポリス』を発見した『伊58』は魚雷6本を発射。うち3本が命中して大爆発を起こした『インディアナポリス』は、命中から僅か12分で転覆沈没してしまいました。
Mc.OKAZAKIのミリタリーよもやま話

米重巡「インディアナポリス」は、テニアン島への原爆輸送という極秘任務を遂行します。
輸送任務を終えたばかりの「インディアナポリス」は日本海軍の潜水艦に発見され、魚雷攻撃によって撃沈されてしまいます。
もしもこれが原爆輸送任務中であったならば、終戦までに原爆が投下されることはなかったのです。

米重巡「インディアナポリス」

(5)広島への原爆投下

陸軍中央特殊情報部(特情部)ではサイパン,グアム,テニアンに展開するB-29の編成・機数の情報をコールサインの規則性から推測することに成功していた.
8月6日午前3時,この「特殊任務機」がワシントンへ短い電波を送りテニアンを離陸したのを特情部は探知した.
大本営はB29「エノラ・ゲイ」の情報を事前に察知していた – はてな村定点観測所

正しくは「陸軍特種情報部」ですが、8月6日未明、テニアン飛行場を飛び立った原爆投下B-29部隊を探知し、陸軍参謀本部へ報告していたのです。
広島に原爆投下される5時間前のことです。
しかしこの情報は活かされず、避難も迎撃も行われないまま、無防備な市民に向かって原爆が投下されることになります。

B-29「エノラ・ゲイ」

作戦命令35号
広島市への原子爆弾投下 – Wikipedia

第509混成群団による原子爆弾の攻撃目標は、
1.広島
2.小倉
3.長崎

第509混成群団作戦投入機:
気象観測機(広島) ストレートフラッシュ
気象観測機(小倉) ジャビット3世
気象観測機(長崎) フルハウス
特殊爆弾搭載機 エノラ・ゲイ
科学観測機 グレート・アーティスト
写真撮影機 ネセサリー・エヴィル
予備機(硫黄島待機) トップ・シークレット

昭和20年(1945年)8月6日広島。
空襲警報 午前〇時二十五分発令
午前二時十分 空襲警報解除
午前二時十五分 警戒警報解除
警戒警報 午前七時九分発令
午前七時三十一分 警戒警報解除
8月6日、広島の朝 – かつて日本は美しかった

当日朝は、空襲警報や警戒警報が何回も発令・解除されており、ちょうど警報がすべて解除されていた8時15分に原子爆弾が投下されました。
もし空襲警報が発令され、人々が防空壕に避難していたならば、幾人かでも生き延びられる人がいたのではないでしょうか。

8月6日、アメリカ軍によって広島市に「新型爆弾」が投下されると、8月8日に政府調査団の一員として現地の被害を調査し、レントゲンフィルムが感光していることなどから原子爆弾であると断定、政府に報告した。
仁科芳雄 – Wikipedia

「ニ号研究」で原爆開発も行っていた仁科芳雄博士が広島を調査。
正式に、未知の新型爆弾が原子爆弾であったと断定・報告されたのは8月8日でした。
しかしその8月8日には、既に次の事態が動き始めて・・・。

(6)長崎への原爆投下

ソ連対日宣戦布告
モスクワ時間1945年8月8日午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフから日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされた。事態を知った佐藤は東京の政府へ連絡しようとしたが、領事館の電話は回線が切られており奇襲を伝える手段は残されていなかった。
ソ連対日宣戦布告 – Wikipedia

日本はソ連の仲介による講和に最後の望みを掛けていたが、完全に打ち砕かれます。
この正式な宣戦布告は日本に届かず、放送の傍受などを通じて日本政府が宣戦布告を受信するのは、翌8月9日未明だったようです。

8月9日午前1時(ハバロフスク時間)にソ連軍は対日攻勢作戦を発動した。
ソ連対日参戦 – Wikipedia

ただちにソ連軍は満州、千島、樺太などの日本軍に対して攻撃を開始していく。

作戦命令17号
長崎市|平和・原爆|原爆の記録|原爆投下の指令

第509混成群団による原子爆弾の攻撃目標は、
1.小倉
2.長崎

第509混成群団作戦投入機:
気象観測機(小倉) エノラ・ゲイ
気象観測機(長崎) ラッギン・ドラゴン
特殊爆弾搭載機 ボックスカー
科学観測機 グレート・アーティスト
写真撮影機 ビッグ・スティンク
予備機(硫黄島待機) フル・ハウス

B-29「ボックスカー」

9日の午前2時47分にテニアン北飛行場を離陸
9時44分に攻撃始点に到着、3回の爆撃航程を試みるが目視できず、小倉上空で45分を費やしたのち長崎に向う。
10時50分長崎に到着、レーダー接近し、雲の穴を見つける。
10時58分に目視でF31(ファットマン)を投下。
長崎市|平和・原爆|原爆の記録|原爆搭載機の進入経路と投弾

ソ連軍の攻撃開始から1時間半後には気象観測機が長崎に向けて離陸、2時間半後には原爆搭載B-29「ボックスカー」がテニアンを離陸。
ボックスカーは第一目標の小倉が雲および煙で目視できず、第二目標の長崎へ投下します。

長崎に原爆が投下された1945年8月9日、米軍爆撃機B29の来襲に備え、福岡県八幡市(現北九州市)の八幡製鉄所で「コールタールを燃やして煙幕を張った」と、製鉄所の元従業員が毎日新聞に証言した。
<原爆>投下の日「煙幕」…八幡製鉄所の元従業員が証言 (毎日新聞) – Yahoo!ニュース

第一目標であった小倉を爆撃できなかった正確な理由は不明ですが、製鉄所を空襲から守るために行われた煙幕作戦も影響を与えていた可能性があります。

ボックスカーはテニアン島を離陸する時から、爆弾倉に装備した予備タンクの燃料ポンプが故障しており、残燃料に余裕がなかったことから爆撃航程をやり直す余裕はなく、1回目の爆撃航程の際に雲の切れ間から目視できた地点(本来の投下予定地点より西寄りの地点)に原爆を投下した。
ボックスカー – Wikipedia

原爆搭載B-29「ボックスカー」は、離陸以前から予備燃料タンクの故障があり、燃料に余裕がありませんでした。
そのため第一目標小倉から第二目標長崎へ最短距離で移動しており、それでも長崎爆撃後にテニアン島まで帰還するには燃料が足りません。そのためボックスカーは沖縄へ飛び、燃料補給後テニアン島へ帰還しています。

07:50 空襲警報発令
08:30 空襲警報解除
10:58 ラジオが「敵機が島原半島上空を北西に侵入」と放送
11:02 原爆投下。松山町上空500メートルで爆発
11:09 空襲警報発令
12:05 空襲警報解除
14:45 西部軍管区司令部「敵大型機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり」と発表
朝日新聞の紙面から – 広島・長崎の記憶〜被爆者からのメッセージ – 朝日新聞社

6日の広島のときと同様に、長崎でも空襲警報発令・解除が繰り返される混乱の中、警報発令数分前に原爆が投下されてしまいました。
全く同じ過ちを繰り返してしまったのです。

8月9日午前10時半~ 最高戦争指導会議構成員会議(結論出ず)
1945年8月15日 – 歴史〜とはずがたり〜

そんな事態の裏側では、日本政府首脳がポツダム宣言受諾に関する不毛な議論を繰り広げるのみ。
そこへソ連軍侵攻、長崎原爆投下と凶報が舞い込んでいく。

8月9日午後11時50分~10日午前2時20分 御前会議
1945年8月15日 – 歴史〜とはずがたり〜

ついに天皇のご聖断が下る。ここで「国体護持」という条件付きポツダム宣言受諾が決定され、連合国へ通知されます。

8月14日午前10時50分~正午 御前会議
1945年8月15日 – 歴史〜とはずがたり〜

ポツダム宣言受諾決定後も、「条件付き」について延々不毛な議論を繰り広げ、ついに天皇の二度目のご聖断が下る。ポツダム宣言受諾、無条件降伏が決定されました。
ブレーキの壊れたダンプカーのように暴走し続けた日本が、ついに止まった。

(7)広島・長崎後の原子爆弾

長崎市への原子爆弾投下後、テニアン島に原子爆弾はなかったが、プルトニウム以外の原子爆弾の部品は用意されており、プルトニウムをアメリカ本土から運んでくれば原子爆弾をすぐに組み立てて完成させることができる状態であった。8月14日にロスアラモス基地からプルトニウムが出荷され、8月20日前後には第三の原子爆弾を投下することが可能であったが、8月14日に日本から降伏通告が来たため、第三の原子爆弾が日本に投下されることはなかった。
第三の原子爆弾投下候補地は小倉市、京都市、新潟市など諸説あるが、1945年8月14日に投下された7発のパンプキン爆弾の愛知県への投下は、3発目の原子爆弾の投下訓練であったとされ、いずれも爆撃機が京都上空を経由した後に愛知県に投下していることから、第三の原子爆弾の標的は京都市であったと考えられる理由の一つとなっている。
日本への原子爆弾投下 – Wikipedia

夏がやってきた。陽光が冴え渡るビーチの風物詩と言えば、女性達の着るカラフルなビキニの水着だが、あなたはその起源が南太平洋で行われた原爆実験だということをご存じだろうか?
「ビキニの水着」を生んだ米軍のクロスロード作戦とは?【動画・画像】

クロスロード作戦
https://matome.naver.jp/odai/2140730441500409601
2014年08月07日