共生の文明と寄生の文明まとめ

officemiiyajima
オフィス・宮島です。今回は黄文雄氏の著書「森から生まれた日本文明」をもとに日中の文明・習慣についてアプローチしてみようと思います。そして日本人と中国人が共存できるかについて私なりの結論を出してみようと思います。

日本と中国の文明は近い?

2011年、元海上保安官・一色正春氏が自分の職責を賭けて尖閣諸島沖での巡視船と中国の漁船が衝突した映像を公開した結果、日本人が中国に抱く感情は最悪になりました。

それ以前は親中感情も高く(私もそうだった)、「日本人は中国人の子孫だった」「中国人が日本を作った」と本気で信じている人が多かったです。アーノルド・トインビーやシュペングラーといった海外の研究者もまた「日本は隋唐の姉妹文化」「中国の衛星文明・周辺文明」と述べておりました。
(実際にアメリカに行くとよくわかるが、アメリカ人は「日本文化=中国文化と融合したもの」と捉えており、和食レストランに行くと日中が融合したような店内装飾になっている)

しかし、サミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」という著書で「日本文化」を独立した1つの文明として取り上げた結果、世界中でも日本と中国の文明は違うのではないのか?という疑問が生まれてきて、日本文明を真正面から扱う学者が増え始めました。
台湾人作家・黄文雄氏の著作や中国から帰化した石平氏、韓国から帰化した呉善花氏も「日本と中国は違う」ときっぱりと述べています。

では、日本で広く膾炙している「日本と中国の文明は近い」ということについて、黄文雄氏の著書を元にいろいろな角度からアプローチしてみましょう。

日中間の感情の推移
1978年(昭和53年)~2012年(平成24年)までの両国間の親近感を感じる・感じないを調べてその推移を示したものです。黄文雄氏が述べているように、2000年代前半まで親近感を感じると答える人が多いです。しかし、2012年以降急激に「親近感を感じない」が増加しています。
アメリカでの「日本」のイメージ
最近は日本文化が大分浸透してきたので、日本の店がそのままアメリカに移転したような感じになっていますが、「日本料理が売れる」と聞いてオープンする中国人オーナの店は今でも日中折衷といった具合です。
(ちなみに料理は中華料理が出てきます)

日本人はどこから来た?・中国人はどこから来た?

いまだによくわかっていない事柄の1つとして「日本人はどこから来たのか」というものがあります。これは日本人なら結構興味をそそられるものがあります。

我々日本人は「天照大神(あまてらすおおみかみ)が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に三種の神器(水鏡、勾玉、草薙の剣)を与えて高天原から天児屋命(あめのこやねのみこと)とともに日向の高千穂に降り立った「天孫降臨」から始まったといわれています。しかし、これではどうも腑に落ちない人も大勢いるのが事実で、考古学・民俗学・古代環境学といった学問からのアプローチも盛んです。

一方、中国人に「中国人はどこから来たのか」という質問をすると…「朝鮮人、満州人、日本人、ベトナム人、いやすべての人類は中国人が先祖だ」と答えます。日本人などが「そんなわけがないだろう」と反論すると、「絶対ありえない」といって反論を許しません。
清朝末期の文化人は「西洋の思想や文物はすべて中国から与えられた」と中国の神話を使って西洋人に説明していたそうです。

ここでまずいえることは、日本人は「真実を追求する」性格をもち、中国人が「俺がルールだ」ということがよくわかります。

天孫降臨
日本人の起源を表す神話です。中央の人物が瓊瓊杵尊です。彼は天照大神の孫で、彼が杖代わりに使っているのが草薙の剣です。
すべての生みの親「盤古」

中国の神話では、「盤古(ばんこ)」という宇宙を創世した神によってすべての人間が生まれたと伝わっています。

彼が誕生したことによって「天」と「地」ができて、死後、彼の頭は五岳(中国の5つの山)に、声が雷に、血が海に、髪が草木に、左目が太陽に、右目が月に、息が風になったとのことです。

気候からのアプローチ

気候と文化は切っても切れない関係があります。文明の盛衰どころか人類・国家の興亡にまで多大な影響を与えます。現に気候が激変して滅亡した文明も数多く存在します。

今から2万年前は氷河期で、日本列島の平均気温は現在より7~8℃低かったそうです。しかし、その後地球は急速に温暖湿潤化しました。その結果、ヨーロッパではマンモスが全滅し、それを食料にしていた人たちは飢餓の危機に陥りました。それを脱するため、人類は植物に注目し、植物を「食料」として食べるようになりました。そこから人類は「植物を自分で育てれば安定して食料を得ることができる」と考えるようになり、農業が始まりました。今から1万3千年前の話です。

同時期の日本では、縄文時代で縄文土器などが作られていました。それから2000年~2500年後、地球は間氷期に移り海面が大幅に上昇しました。このころの地層を分析すると貝塚が出てきます。このことから日本は「山の生活」から「海の生活」に変わっていったことがわかります。
歴史の教科書にも書いてありますが、動物の骨で作った銛(もり)やその他採集道具がそろうのがこの時期です。

さらに時代が進んで今から6500年前、地球はピプシサーマル高温期と呼ばれる、現在より平均気温が2~3℃高かった状態が続いていました。しかし、今から3000年前にはまた寒冷期に入り平均気温が下がりました。その頃の大陸では大河の下流が乾燥して砂漠化が起こり、水を求めて人々が大河の周辺に集まるようになりました。ちょうどこの時期に日本は縄文時代から弥生時代に、中国は殷周から春秋戦国時代へ時代が変わります。

縄文土器

いわゆる「縄文土器」です。これは「火焔土器(かえんどき)」と呼ばれる、土器の周辺に炎をかたどった飾りがついているものです。

これが生まれたきっかけは、地球温暖化によって海面が上昇し日本列島と大陸が切り離され、森林が針葉樹林から広葉樹林にかわり、「食料の供給元」として森林を利用することが増加し、それに伴って調理法も変わっていったためです。

骨角器

鹿の骨や角を利用して銛や鏃(やじり)を作るようになりました。動きの遅い大型動物は絶滅し、動きの速い鹿や猪といった中型動物が多くなり、それに対処するために生まれました。

また、海面が上昇したので、海産物も「食料」として利用するようになりました。

中国人の性格の形成背景

今から3000年前の気候変動期に日本人と中国人の基本的な性格が出来上がります。
我々日本人と中国人は同じ「農耕民族」ですが、両国民の性格が大きく変わっていったのはこの時代からではないかと黄文雄氏は著書で述べています。

農業をするには最低年間降水量が1000mm以上必要になります。しかし、世界四大文明発祥の地の1つである黄河周辺は年間降水量が500mmであるため、仮に農業を行ったとしても非常に不安定になります。その結果…「食料がなければほかの土地から収奪するしかない」と考えるようになりました。

さらに中国では「三年小一飢、十二年(九年)大一飢(3年に一度小規模な飢饉が起き、12年(9年)に一回大規模な飢饉が起きる)」と呼ばれる大規模な洪水と日照りが周期的に発生し、時代とともにそれが拡大再生産されるという「中国型周期現象」が発生するようになります。それによって食料供給がおぼつかなくなり、住民の不安・現王朝の不満が極限まで増幅され「易姓革命」が発生します。


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中国の気候

黄河文明発祥の地周辺の降水量は600~1000mmであるため、農業を営むのは非常に難しくなります。

ゆえに華北で生まれた王朝が華南の王朝を攻め滅ぼして「全国統一」を行うパターンがよく見られます。

曹操

三国志ファンならご存知の曹操(字は孟徳)です。彼が生まれたのは沛国譙県(はいこくしょうけん:現在の安徽省亳州市)です。ここは前漢の創始者・劉邦の出身地でもあります。

ここの主食は「麦」です。中国史をよく見ると「麦を主食とする人物でないと天下が取れない」ということがよくわかります。

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孫権

三国志ファンならご存知の孫権(字は仲謀)です。彼が生まれたのは呉郡富春市(ごぐんふしゅんし:現在の浙江省杭州市)です。ここは雨が多く、稲作が盛んな地域です。彼は父孫堅、兄孫策の事業を引き継ぎ、華南一帯を平定しましたが、積極的に「北」に攻め込もうとしませんでした。

コーエーの「項劉記」の攻略本に「江南はコメがおいしく暖かく居心地がよいため、寒く食糧事情の悪い北に攻めあがる気力がわかなかった」というようなことが書いてありました。この記事からわかるように、「南」は非常に居心地がいいのです。だから「北」の人間が欲しがるのです。

中国史のパターンは華北で生まれた王朝が華南の王朝を攻め滅ぼして「全国統一」を達成するのが基本です。前漢の創業者・劉邦、魏の創始者・曹操、晋の創始者・司馬懿、隋の創業者・楊堅、元の創業者・フビライ=ハーン、清の創業者・愛新覚羅ヌルハチたちはすべて「北」の王朝です。劉邦と戦った項羽、曹操・司馬懿と戦った孫権、楊堅に滅ぼされた陳叔宝(南朝最後の皇帝)、元と戦った衛王、清に滅ぼされた李自成はすべて「南」の王朝の責任者です。

このように「北」の王朝が「南」の王朝を下して全国統一を成し遂げた王朝も、安定したことによって人口が大幅に増加し、大勢の人間を養うために広大な森林を切り開いて大規模な灌漑農業を長期間行った結果、土地がアルカリ化し農産物の生産量が減少するという「農作物の自然逓減法則」に従って一人当たりの食料が減少します。そして飢饉が発生し、それに不安と不満を持った住民が大規模な反乱を起こして王朝が滅亡する…というパターンを取ります。そして王朝の崩壊後、そこに住む民は「新天地」を求めて流浪しそこに根付いてその土地のものを収奪する…という「寄生」を行います。

このようにして、中国人は自分の食い扶持が無くなると「他人の懐をあてにする」という性格が作られたわけです。

日本人の性格の形成背景

では、日本人の場合はどうでしょうか。
日本の気候は、小中学校の社会で勉強している通り、適度に暖かく雨が多いのが特徴です。年間降水量は多いところで3000mm、少ないところでも1000mm以上あります。平均気温も10度以上存在します。ゆえに日本全国非常に農業に適した場所だといます。

また、気温が上昇したことで大陸と切り離されたことにより、日本列島の四方が海に覆われました。その結果、「海」という自然の防壁が外敵の侵入を防ぐことができました。「寄生の文化」を持った大陸勢力が侵入することなかったので、縄文時代から弥生時代に移り狩猟から稲作に移っていっても森林と稲作が共存していました。

弥生時代からすでに日本人は「農業を行うには森林が必要である」と考えており、土壌流出を防止し家畜の糞尿を肥料として利用する、および樹木を栽培してその間で作物を作るという「アグロフォレストリー型農業(農林複合型農業)」を始めました。これを行うにはアメリカのカール・ウィットフォーゲル氏の表現を借りると「訓練された、協調的・服従的」な大量の労働力が必要になります。

永続的に食料を供給するには定住しなければなりません。そしてそこが「安定」していなければなりません。さらに多くの人々を養うためには「訓練された、協調的・服従的」な大量の労働力が必要になります。四方が海に囲まれているおかげて、日本はほかの勢力が侵入して蹂躙されることなく、多くの人を養うために必要な「労働力」と「食料」を提供する「時間」が確保でき、労働力と食料を安定して供給できたことが「勤勉で忍耐強く、組織に忠誠を誓いチームワークを大切にする」「自然をこよなく愛する」日本人の基本的な性格を形成したものと考えられます。

日本の気候①

これは北海道の雨温図です。日本で一番少ないであろう旭川市や釧路市でも年間降水量が1042mmあります。また平均気温も7℃あり、樹木も十分育つことができます。本州や四国・九州・沖縄に比べると「寒い」ですが、十分農業を営むことができます。

(現に北海道は日本最大の農業生産高を誇る)

日本の気候②

本州・四国・九州の雨温図です。これを見ていただければ一目瞭然。これほど農業に適した場所は存在しません。

この気候は中国南部と非常によく似ています。中国南部(長江のデルタ地帯)は世界的な穀倉地帯で、日本の稲作文化もここから伝わったと最近の研究では言われています。

また、華南地方に住んでいた古代中国人の気質は日本人に近かったものと思われます。

日本の里山
これは現在の里山の風景ですが、「田畑」「川」「森林」の3点が揃った風景が弥生時代から連綿と続いているわけです。ここで日本人の性格が形成されました。

古代日本人と中国人の宇宙観からに比較

宇宙観から両国の文化を比較するのはおかしいのでは?とお思いの方もおられますが、ここにも両国の考え方が反映されています。では、見てみましょう。

中国人の宇宙観

古代中国人の宇宙観は「天は丸く地は四角い」というものです。古代ギリシャ人のように「球体」が最高の図形とは考えておらず、平面的に広がってゆくのが特徴です。

この外側には「八極」と呼ばれる八本の柱が立っています。

太陰大極図
上のモデルを図で書くとこのようになります。中国映画でおなじみの「太陰大極図」です。これが中国の宇宙観なのです。

中国の宇宙観は「自分の位置を中心に同心円状に広がってゆく」のが大きな特徴です。残念なことにここから発展することはありませんでした。

やはり、ここにも「俺が中心」という考えが出ています。

古代日本人の宇宙観
天上は「高天原(たかまのはら)」、地上は「葦原の中つ国」、地下は「黄泉の国」「根の国」という風に相対的・多元的になっているのが特徴です。

日本人の宇宙観は中国人の宇宙観のように「自分が中心」というものはなく、「高天原」「葦原の中つ国」「黄泉の国」のような三極構造、日出づる国・日没する国というような対極構造を取るのが特徴です。

仏教伝来後、国生みの物語の世界観から「粟散辺土(ぞくさんへんど)」という世界観を持つようになります。これは須弥山(しゅみせん)を中心として日本を眺めたときの世界観です。

このことからもわかるように、日本の宇宙観は常に何かと比較する、いくつかを並べて考えるのが大きな特徴です。これが「何かと他人と比較したがる」「同一性を好む」性質を作ったのではないでしょうか。

古今東西・古今中外

日本では、西洋と東洋を比較するとき「古今東西、○○は~」という風に切り出します。しかし、中国では西洋と東洋を比較するとき「古今『中外』、○○は~」という風に切り出します。先ほど述べた古代日本と中国の宇宙観と同じです。

日本人は「東」と「西」という対極の方角を比較します。中国人は「中」と「外」を比較します。
中国人にとって、最良の場所は「中央」です。なぜならば、中央だと東西南北の好きな方向に移動することができる非常に優位な場所であります。それが中国人のプライドと一致しているわけです。
将棋の駒で例えるならば「王将」の駒です。

中国人最良の場所=王将

中国人にとって「どの方位にも自由に動ける場所」すなわち「中央」というのは、最良の場所です。

将棋をやったことがある人はわかると思いますが、「王将」という駒は前後左右、右上、左上、右下、左下の8方向に動くことができます。

華夷秩序

この図は、黄文雄氏が「古今中外」を図で表したものです。中央に「中原(ちゅうげん)」とありますが、ここが「中国」です。

そこから同心円状に広がってゆき、日本は「東夷」、ベトナム、ビルマ(ミャンマー)、タイは「南蛮」、インド、中央アジアは「西戎」、モンゴル、シベリアは「北狄」になります。

中原に近いほど「中国人」という扱いになり、離れるほど「野蛮人」という扱いになります。

儒教思想と仏教思想

中国は儒教思想、日本は仏教思想です。黄文雄氏はこのように述べています。
「中国人から良心を奪ったのは儒教である」と。

なぜ彼がこのような発言をしたのか、分析してみましょう。

孔子

本名は孔丘(こうきゅう)といいます。魯という国で政治家をしていましたが、迫害を受け弟子を引き連れ諸国遊説を行います。

後でも述べますが、彼の言動は矛盾が多いことでも知られています。それが彼が作り上げた儒教にも反映されています。

朱子

本名は朱熹(しゅき)といいます。孔子が作り上げた儒教の理論を高度に発展させた人物です。

彼が生まれ育った時期は、北方を金(国名)に抑えられ、北宋の後継国家である南宋の時代です。彼が創始した朱子学は異民族に自国を脅かされ、目先の安寧にすがる民衆や官僚に嘆きながら「祖国復興」を望んで生まれました。

日本では、林羅山や松平定信が学びました。特に松平定信は自分の領土である白河でこれを実施しました。

王陽明

本名は王守仁(おうしゅじん)といいます。「陽明」は称号です。彼は朱子学を熱心に学ぶ学生でした。彼が生まれ育った時期は明の中期で、官僚にかわり郷紳と呼ばれる地域の有力者が台頭し始め、流動的な時代になりました。そして硬直化した朱子学に代わり新しい思想を求める雰囲気が出てきました。

朱子学を学んでゆくうちにそれに飽き足らず「陽明の五溺」と呼ばれる、任侠・騎射(武術)・自章(文学)・神仙・仏教に傾倒し多くの思想に触れます。それによって生まれたのが「知行合一」です。

この思想は日本にも取り込まれ、幕末の志士たちの行動規範になりました。

儒教とは?

その前に、儒教とは何かについて解説する必要があります。
儒教の特徴は次の5点を持った学問です。

①礼の主張は形式的支配秩序の論理

②忠孝の思想は家族倫理から家天下を正当化する奴隷の思想

③考は仕官の推挙基準とする漢時代の「賢能制(能力重視)」から、「四書五経」をドグマ(教義)
とする科挙制度は一極集中の官僚体制による略奪制度を確立するシステム

④人間を君子(頭脳労働者)と小人(肉体労働者)とに二分するのは、頭脳労働者が肉体労働者に
寄生するシステムを確立するための身分制度である

⑤「人は由らしめるべき、知らしめるべからず」という愚民の論理

さらに、「弟子は師匠を超えることがあってはならない」という掟まで作られ、儒教を修めた弟子が新理論や新解釈を作ることを禁じられ、ひたすら「師の教えに『忠実に』従う」ことを強制されます。

この本質を見抜いていた秦の始皇帝や前漢の劉邦は儒学者を非常に嫌っていました。

儒教が中国で広く膾炙するまで

儒教が生まれたのは春秋戦国時代で、冠婚葬祭をつかさどる孔子を中心とする葬儀屋ギルド(商工組合)集団が作り出しました。「葬儀屋集団」といっても国際情勢に通じ、礼法といった「しきたり」にも知識が豊富でした。

孔子が儒教の中心として活躍していたころ、周の王室は衰退しそれに代わる「春秋五覇(斉の桓公・晋の文公等)」が台頭しました。その結果、礼や仁義といった「きれいごと」より富国強兵の理論が重視されていました。

儒家のライバルである墨家(巧のギルド集団)や老荘思想の論客からも葬礼を主張しながら「鬼神を敬して遠ざける(先祖は敬うけれど避ける)」という矛盾や「仁義」の矛盾を指摘されていました。孔子自身が「仁」について定義できず、質問した相手に対してコロコロ答えを変えたり、弟子が孔子に「死とは?」と聞いたところ、「生を知らずに死なぞわかるか」と答えたり、孔子の友人柳下季(りゅうかき)の弟・盗跖(とうせき)という人物の行いを改めさせようとして説得に向かったが、逆に盗跖に言い負かされて逃げ帰ってしまう…というように、多くの人たちに理論が破綻していたことを見抜かれていたのです。

これが世に広まったため、中国全土から儒教はそっぽを向かれ、韓非子を祖とする法家の論客から「侠は剣を持って天下を乱し、儒は筆をもって法を乱している」と痛烈に非難された挙句、中国全土を統一した始皇帝によって「儒学者たち」という不穏分子は「焚書坑儒」という手段で排除されました。

このように絶滅寸前まで追い詰められた儒教が復活したのかというと…
前漢の第7代皇帝・武帝が中華帝国の支配理論として「最適」であると判断したため、儒教が「国教」としてよみがえったのです。

日本に入った儒教は…?

日本にも儒教が入り、江戸時代中期には広く膾炙しました。特に好んでいたのが徳川吉宗の孫である松平定信であります。彼が老中首座に就任する前は田沼意次が就任しており、商業・工業を積極的に振興させて経済発展させ、幕府財政を立て直そうとしました。

彼は中国以外の海外との交易を本格的に行うため、側近の平賀源内(彼は田沼意次のブレーンを一時期務めていた)を通じて蘭学を積極的に取り入れ、「解体新書」を著した杉田玄白や前野良沢、中川淳庵といった蘭学者が綺羅星のごとく登場して一大蘭学ブームが到来しました。しかし、華々しい活躍を苦々しく思っていた松平定信とその一派の手により、失脚させられます。そして、田沼意次に代わり松平定信が老中首座に就任します。

老中首座に就任にして彼が行ったことは、「武士の復権」です。町人が力を付けることを苦々しく思っていた彼は、「支配者の論理」として「最適」であった朱子学を「国学」と定め、これを修めないと幕府の役人になれないように法律を改正した上、田沼時代に中枢にいた蘭学者を片っ端から追い出し、蘭学を「異端の学問」として弾圧を始めました。(寛政異学の禁)

その結果…田沼時代に開花した「百家争鳴の自由な空気」が瞬く間になくなり、重苦しい空気が庶民や武士の間に漂いました。

そして…「白河の清きに魚もすみかねて もとの田沼の濁り恋しき」という強烈な皮肉を込めた狂歌が生まれ、幕府の硬直化をもたらしました。

松平定信

彼は徳川吉宗の孫で御三卿・田安徳川家の当主でした。しかし、彼の才能を妬んだ一橋徳川家によって白河藩へ養子に出されます。その命を下したのが田沼意次でした。

彼はこのことに関して非常に深い恨みを持ち、田沼意次失脚に加担します。話は変わりますが、彼が統治した白河では、朱子学を実践し「13歳以上の男女には読み書き不要」というお触れを出しました。

話は飛びますが、元NHKアナウンサーである松平定知氏は彼の子孫です。

松平定知氏
このまとめとは直接関係はありませんが、元NHKアナウンサーである松平定知氏は、上の松平定信の子孫にあたる人物です。
山田方谷
江戸時代後半に登場した備中松山藩の陽明学者です。陽明学の危うさを見抜き、彼の下に学びに来た学生の内、きちんと朱子学を理解した人物にのみ陽明学を学ばせていました。
西郷隆盛

彼の故郷・鹿児島県では「南洲翁」として現在も尊敬を集めている人物です。彼ははじめ「剣」で身を立てようと思っていましたが、上士の不意打ちにより利き腕を負傷したことにより、学問を志すようになります。

お由羅事件に連座して沖永良部島に流されたときに陽明学を勉強したものと思われます。そして、それが彼の思想の源泉になり、長州藩とともに明治維新を達成し近代日本の夜明けをもたらした立役者の1人になりました。

幕末にかけて日本には陽明学が入ってきました。朱子学が主流であったため、陽明学は「異端」扱いされていました。王陽明が提唱した「知行合一(知識と行動を合わせて1つにする、即ち実践を重視する)」「致良知(実践に当たって私欲により曇っていない心の本体である良知を推し進めればよい)」という考えが日本人に非常によくマッチしたため、元大坂東町奉行組与力・陽明学者の大塩平八郎や幕末維新の精神的な支えとなった吉田松陰、奇兵隊の創設者・高杉晋作、明治維新の元勲である西郷隆盛、北越戊辰戦争で幕府軍を手玉に取った河井継之助、日本で最も優れた科学者の1人である佐久間象山などがこれを修めています。

ただし、陽明学は「自己の正義感にとらわれすぎて、周りのことを考えない革命運動に走り身を亡ぼす」学問でもあるため、陽明学者の1人である山田方谷(やまだほうこく)は、まず朱子学を学ばせ、きちんと理解した者にのみ陽明学を教えていたそうです。

閑話休題。水戸光圀公の下に亡命してきた明の儒学者・朱瞬水は日本の姿をみて「儒教の心が日本にある」と述べて感動したそうです。

このように日本では、儒教に含まれる「毒」をきちんと除いたうえで自身に取り込んでいることがよくわかります。

「詐」の文化・「誠」の文化

このまとめを作成するときに読んだ本の著者・黄文雄氏は長年にわたり「日本人と中国人を一言で表すとどうなるか」について研究してきました。その結果、彼は「日本人は『誠』の人間で中国人は『詐』の人間である」という結論に達しました。

では、これが一体どういうことなのか、紐解いてみましょう。

①日本のメディアは「情報伝達手段」、中国のメディアは「人を騙すもの」
彼が青春時代を送った頃、台湾は蒋介石が統治しており、新聞やラジオは厳しく管理統制
されていました。彼もまた「大陸」の人間であったため、メディアは国民党に不利なことは
一切報道せず、国民党が『正しい』と思われるもののみ報道していました。
国民党に不利なことを報道すると、新聞・雑誌ならば廃刊になり編集者は逮捕、ラジオなどは
電波免許を取り上げて番組制作者を逮捕ないしは放送途中で番組を切る…ということを
平気で行っていました。現在の中国を見てもらうとよくわかりますが6月4日になると、
NHKをはじめ「天安門事件」を放送する放送局の映像は問答無用でシャットダウンします。

このように本来民衆に知らせるべき情報を「国家機密」の名の元に封殺し、党が主張する
内容を一方的に放送するのが中国の「メディア」なのです。
ゆえに、民衆はテレビや新聞のニュースより巷の噂を信じるという日本と逆の現象が起きて
います。

②ないものを教える
中国の教育は、「中国に存在しないもの」を教えるのが慣例になっています。
昔、老子は「大道廃れて仁義有り、天下乱れて忠臣有り…」と「仁義」が世の中に出回った
理由を彼の著書「道徳経」で喝破しました。また、台湾文壇の長老であった柏陽氏も「仁義は
本に書いてあるだけ」と中国社会の現実から分析しています。
世界中の人(特に日本人)が「中国」と聞いて、「道徳の国」「聖人の国」と思い込むのは、
日本人が「本に書かれていることを素直に信じてしまう」性質のためだからです。
このような「教化」の方法があまりにも中国人はうまいため、イメージ戦略に引っかかって
しまうのです。

③北京大学の博士号も「金」で買える
北京大学といえば、中国で最高峰の大学の1つです。ここを出た学生はエリート中のエリート
です。しかし、中国では学士号から博士号まで「金」を積めば誰でも手に入れることができ
ます。ちなみに北京大学の博士号の「相場」は1万元(15万円)ほどです。

日本の場合は、修士号を取得してから博士課程に進学し、そこで一定の課程を納めたうえに
3本論文を書いて指導教官のOKが出て初めて博士号が授与されます。
ですから、「金」を積んで博士号を入手することは不可能です。さらに博士号取得時に不正が
発覚すれば、老若男女・国籍を問わず容赦なく剥奪されます。現に東大で博士号を剥奪された
人がおります。(STAP細胞の発見者である小保方晴子氏も博士号剥奪の可能性が出てきている)

中国共産党員の学歴詐称が発覚した人数は約300万人にも上ります。内訳は
大卒詐称が220万人、修士・博士詐称が3600人に達しました。この中に現在の中国共産党の
ナンバー1である習近平国家主席や彼と権力争いをして敗れた薄熙来氏も含まれています。

彼らにとって「学位」は出世するための「道具」であって、学問を究めるためのものでない
ことがよくわかります。中国の学会では論文剽窃、論文捏造が横行し研究費を国からだまし
取る行為が後を絶ちません。

参考文献

このまとめを作成するために用いた文献です。

このまとめを作成するために参考にした本です。日本文化と中国文化を気候、宗教、歴史など多面的な方向から分析したものです。非常にわかりやすく書いてあり、読むと現在まで至る日中対立の原因がここにあることがよくわかります。

このまとめを作成するために参考にした本です。非常によくできた本で、ニュースなどで聞く中国人の特性とこれを照らし合わせながら読むときれいに一致することがよくわかります。

私が中学生の時にプレイしたゲームの攻略本です。ゲームの攻略本として使用しますが、それに附属している「読み物」が非常に素晴らしい出来で、今読んでも色あせないほどの出来栄えです。十数年前に発売された本なので、書店では見かけることができませんが、全国のブックオフやインターネット通販で格安で手に入れることができます。

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2014年06月10日