【無条件で泣ける】母の味ってありますか?

punpunmaru
誰でも懐かしい味ってありますよね。母の味にまつわる泣ける話をまとめてみました。

私は遠足の時に食べられる母の手作り弁当が大好きだった。

(いつもは給食だったし)

うちは共働きだったし、母の料理が朝昼晩と食べれるのも嬉しかった。
待ちきれなくて前日から「お弁当のおかず何ー?」って母に聞いてたりしてた。
遠足当日、仲の良い友達と弁当を食べてたら
近くに座ってたクラスの子たちが「おかず交換せえへん?」と遊びに来た。
その中にクラスで少し嫌われている大将的存在の子の姿もあった。
その子は私の弁当を覗くと

「わっ、○○ちゃん(私)のお弁当汚~い!ぐしゃぐしゃに作ったみたい」

他の子の弁当は、冷凍食品が多く、母は冷食を使わないというのがモットーだったため
どうしても色的に見劣りしてしまっていた。
「えっ…」という顔つきになる友人たち。私は苦笑いしか出来なかったが
前日から準備してくれて、早起きして私の好きなおかずを作ってくれた母を思うと
泣きたくなった。でも頑張って堪えてた。

本当に弁当好きだったんだよなぁ。

「ほな、残ったごはんで、おにぎり作って」

おととしの、秋の話しです。
私が小学校5年の時に家をでて、居場所のわからなかった母に、祖母の葬式の時、23年振りで、顔をあわせました。
その時、母の家に遊びに行く約束をしました。

その日は、私が料理を作りました。
ハンバーグと肉じゃがと、簡単なサラダです。
2人で食事をして、お酒を飲んで、はじめはあたりさわりのない話しをしてましたが、だんだん、「何故いなくなったのか?」という話しになりました。
母はたんたんと話します。
私も、母がつらくならないように、途中、冗談を入れながら、聞きました。

帰る時、「今日はおかあちゃん、なんもできひんかってごめんな。」と、
言ったので、私は「ほな、残ったごはんで、おにぎり作って」と言いました。
母は、「そんなんで、ええんか」と笑いながら作ってくれました。

帰り、駅からタクシーに乗りました。
今日のことを思い出しているうちに、不覚にも涙がててきました。
運転手さんがびっくりして、「気分悪いんか?」と聞かはりました。

「いえ、なんか、嬉しくって、泣けてきちゃったんです」

泣き笑いしながら、運転手さんに、今日の事を短く話しました。
すると、運転手さんも一緒に泣き出してしまいました。
「よかったな、よかったな」と鼻水まですすってました。

家に持って帰ってきたおにぎりは、冷凍庫にいれて、元気のない日に、1コづつ、大事に大事に、食べました。

俺が小さい頃一番好きだった母さんのサンドイッチ

ある日、母さんが事故にあった。どうやら曲がり角のところで車に跳ねられたらしい。幸い命に別状はなかったが右腕と右足がほとんど動かなくなり、さらに動くと首にも激痛が走るらしかった。元々活発だった母は、動いたり外に出ることができなくなって、段々うつ状態になっていった。

地獄のようだったよ。 俺が今まで見たこと無い母さんが現れるんだ。毎日毎日、その日によって性格が変わるんだ、 暴れだしたり、かと思えば泣きだしたり、俺に暴言をはいたり…帰ってきたら母さんが首に縄巻いてんだぜ? 包丁持ってたり、俺に包丁つきつけて

「一緒に死のうか…まさ君…」って言ったこともあった。

ホントに辛かった。

親父は親父で仕事が忙しくて、ほとんど海外にいた。頼れる親戚も兄弟もいなかった。おまけに俺は受験だった。いろんな不安で心が押しつぶされそうになった。

行動的なところだけは昔のままで、歩けないのに歩こうとして転んで血を流すなんてしょっちゅうだった。

入試前日、俺が学校から帰ってくると、母さんがいろんなところに擦り傷作って台所になっていた。足もとには大きな買い物袋… どうやら買い物行って来て、そこらじゅうで転んで擦り傷作ったらしい。

そしたらさ、

色んなとこから血出しながらサンドイッチ作ってんだよ。
俺が小さい頃一番好きだった母さんのサンドイッチ

「まさ君喜ぶかな? まさ君…まさ君…」 って泣きながら俺の名前呼んでんだ…

「明日は一緒に、お出かけしようね」 とか、「明日は運動会だね」とか色々言ってんだよ。なぜか知らないけど明日は特別な日ってことだけは知ってんだな… とか思いながらさ、

そしたら急に泣き出してこう言うんだ。

「まさ君… お母さんはどうなっちゃうんだろ… まさ君…まさ君…」 ず~っと俺の名前を呼ぶんだよ。 立ってるのも辛いはずなのに、泣きながら…

ホントに切なかった。

次の日、母さんのサンドイッチを持って入試に行ったよ。 昼飯食った後の5時間目の社会。なんでかわかんないけど眠くなっちまって、一問もとかずに眠っちまったよ。

そん時見た夢はいまでも覚えてる。 俺が母さんに抱きしめられてた夢だった。

きっと元気だったら母は朝から御馳走作って大喜びしてた日だろうな

自分も丁度大学受験の時期に母親が死の床に居た。
父親に「お前の結婚式はもう見せてやる事は出来ない…
だからせめて大学の入学式のスーツ姿を母さんに見せてやってくれ」
と請われて、必死に勉強した。
余命半年で受験までは3ヶ月。浪人したらもうアウト。
幾ら何でも受験校のレベルを下げる訳にもいかない(自分の将来の事だし、母親もそれでは納得すまい)。
病院と会社の往復で疲れ切った父親と自分の家事をやりながら、
夜食にお湯でといた片栗粉を飲みつつ(一番手軽で身体が温まった)3ヶ月を机にへばりついて過ごし、
何とか志望校に合格を果たした。

けど、入学式の頃には頭に出来た腫瘍の影響で母は昏睡状態だった。

一応式に行く前にスーツ姿で病室によったけど、
きっと元気だったら母は朝から御馳走作って大喜びしてた日だろうなと思うと、
鼻からチューブ通して流動食を流し込まれてる母の姿が切なかった。

俺にとって母親のおやつがマズイなんてことはありえなかった

子供のころ、母親が作る牛乳寒天とコーヒー寒天が大好物だったもんで
しょっちゅうねだって作ってもらってた。
で、ある日友達が来たときに「マジうまくてコイツ絶対に感激するべ!」と思いつつ
寒天出してやったら、ものの見事に食べ残された。

母の作る弁当はお世辞にも華やかとは言えないほど質素で見映えの悪い物ばかりだった。

私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、
母の作る弁当はお世辞にも華やかとは言えないほど質素で見映えの悪い物ばかりだった。
友達に見られるのが恥ずかしくて、毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。
ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。
私は生返事でそのまま学校へ行き、こっそり中身を確認した。
すると確かに海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし、彩りも悪いし、とても食べられなかった。
家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこく尋ねてきた。
私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜っていたので

「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」
とついきつく言ってしまった。

母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。

それから半年後、母は死んだ。私の知らない病気だった。母の遺品を整理していたら、日記が出てきた。
中を見ると弁当のことばかり書いていた。

「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」
日記はあの日で終わっていた。

https://matome.naver.jp/odai/2139753223149699801
2014年04月15日