◎野村再生工場とは?
野村克也氏の監督時代の采配の1つを指す。
伸び悩む選手や他球団で戦力外となった選手、トレードで移籍した選手を再生させ、コンバートや起用法を変えて活躍の場を与える事から命名された。
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◎野村が「どん底」の選手を「再生」出来るのは壮絶な過去を経験したためか??
野村の壮絶な過去をご存知だろうか。
まさに「どん底」とも言える少年時代を過ごしている。
3歳の時に父が死去。
母子家庭ゆえに野村の家は貧しく看護師であった母もガンを患ってしまう。
家族を養うために野村は兄とともに毎日新聞配達を行う。
野村克也 – Wikipedia
中学校は野球部に所属する。
高校進学は兄の大学受験を断念する代わりに京都府立峰山高等学校に進学。
貧しくバットも買えないため、海水を一升瓶に入れ持ち帰り、素振りをしていた。
野村克也 – Wikipedia
高校卒業後の進路は顧問がプロ球団の監督に手当たり次第に推薦状を送り、南海監督・鶴岡一人氏(当時は山本姓)だけが返事をくれた。
南海に入団した時はテスト生としてであり契約金などはもらえなかった。
野村克也 – Wikipedia
野村克也 弱者が強者に勝つ方法 4/4 は削除されていたため紹介できません。
◎その野村に「再生」された主な選手
田畑一也
肩痛により一時は社会人野球をやめる。
家業であった建築業を行いながら草野球(軟式)でプレーする
ダイエーの入団テストを受け92年度のドラフト10位で指名される。
しかし、起用法は主に敗戦処理。
ヤクルト移籍後、キレのある変化球と抜群の制球力で頭角を現す。
96年12勝12敗、97年15勝5敗。
飯田哲也
元々は捕手であったが90年古田敦也などと正捕手を争う。
91年センターにコンバートされ7年連続ゴールデングラブ賞、92年盗塁王。
俊足と強肩をいかした外野守備は史上最高の外野手といわれる事も…
野村の「ID野球」は”IIDA”の略であると言われるほどの野村の申し子。
高津臣吾
高津の代名詞といえば”伝家の宝刀・シンカー”であるが
92年日本シリーズで西武に敗れた後野村から「潮崎(西武)のシンカーを覚えられないか」という言葉が野球人生の転機。元々は先発投手であった。
小早川毅彦
1996年 広島 8試合 .125 0本 0打点
1997年 ヤクルト 116試合 .249 12本 33打点(この年の開幕戦、巨人斎藤雅樹から3連発本塁打)
辻発彦
1995年 西武 107試合 .238 2本 20打点
1996年 ヤクルト 103試合 .333 2本 41打点
西武を自由契約になった後、野村監督の下で野球をしたいという気持ちでヤクルトへ入団。
◎その他にも偉大な選手がたくさん!
金沢次男(1990~1994)
広永益隆(1994~1997)
大野雄次(1994~1998)
吉井理人(1995~1997)
金森栄治(1993~1996)
( )内は野村の下でプレーした年






