[八重の桜]水原希子が演じる『大山捨松』って実はすごい女性[大河ドラマ]

omaty
2013年大河ドラマ「八重の桜」に登場する大山(山川)捨松という女性についてまとめました。「ノルウェイの森」にも出たモデルの水原希子が演じます。

水原希子


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父親がアメリカ人、母親が在日韓国人のハーフ
モデルが本業だが、映画では「ノルウェイの森」や「ヘルタースケルター」に出演

大山捨松は日本初の女子留学生、津田塾大学の開学を援助した。


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同級生には津田梅子もいた。


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津田梅子
明治政府が派遣した最初の女子留学生。当時最年少の6歳。
教育で女性の地位向上を目指し、津田塾大学を設立。

岩倉使節団とともにアメリカへ渡る


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永井繁子(10歳)、上田悌子(16歳)、吉益亮子(16歳)、津田梅子(9歳)、山川捨松(12歳)

国費留学して帰国した彼女たちに当時の文部省は与えるだけの仕事がなかった。母えんをはじめ山川家兄姉はよく迎えてくれたが、明治10年代の日本の生活はあまりにも貧しくアメリカの生活とは勝手が違っていた。

幼くして日本を離れ、文化の違いに苦悩した日々も多かったようです。

十代をアメリカで過ごした3人は、日本語をほとんど忘れ、考え方もアメリカ的になっており「アメリカ娘」と呼ばれた。男尊女卑の風潮の残る日本では、高等教育を受けても、女性では活動の場がなかった。命がけとも言える10年の留学の結果、待っていたのは失望だった。

会津藩の出身。山川家の五女として生まれる

幼名は咲子。わずか8歳で家族とともに会津籠城戦を経験する。美貌と知性に秀で、11歳の時に、のちに女子教育の先駆者となる津田梅子らと日本初の女子留学生として1871年(明治4年)、岩倉具視の使節団に加わりアメリカに渡る。
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捨松は彼女を12歳で留学させる時、「あんな小さい娘を海外に追い出すなんて、母親は鬼だ」と噂された母が、「一度は捨てるが将来を期待してマツ」という意味で改名させた名である。

兄弟には山川浩、山川健次郎


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山川浩(やまかわひろし)
会津藩士。会津戦争では伝統芸能・彼岸獅子を先頭で舞わせながら入城するという離れ業を演じて知恵の大蔵と畏れられた。
山川健次郎
17歳でアメリカの名門・イェール大学に留学。その後は学者として東京・九州・京都の各帝国大学の総長を歴任した。

夫は薩摩藩出身の大山巌(おおやまいわお)

大山巌 – Wikipedia
薩摩藩士で西郷隆盛の従兄弟。会津戦争では砲兵隊を率いて会津藩に攻撃をしかけた。西南戦争をはじめ多くの士族反乱を鎮圧。日露戦争でも大役を果たす。

留学生仲間の永井繁子と海軍武官瓜生外吉の結婚パーティで、「ベニスの商人」を演じたが、この時美しい捨松を見初めたのが、薩摩出身の陸軍中将で大臣の大山巌、42歳であった。

山川家から最初は猛反発を受けた大山巌

山川家にしてみれば、親戚や一族を殺し、会津若松城に砲弾を打ち込んでいた砲兵隊長に娘を嫁がす訳にいかなかった

初デートは捨松のほうから。しかも英語で会話

捨松は大山巌の薩摩言葉が理解できませんでした。そこで捨松は英語で「閣下の日本語がわかりません。閣下さえよければ英語かフランス語でよければお話しをさせてください」と提案したのです。大山巌は流暢な英語で返事をしたのです。捨松と大山巌は英語で、会話を始めたのです。
日本語を話さなかった大山巌と捨松夫婦:宮司の論文:So-netブログ

明治の社交界で活躍するスーパーレディ


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鹿鳴館の華と呼ばれる捨松
反町隆史と社交ダンスを踊るシーンにも注目したい。。。

ある時病院を見学された捨松さんは、病院に看護婦の姿がないのに気づき、看護婦の必要性を説き看護婦養成学校の設立に動いた。
資金難で学校設立が困難とみるや、明治17年(1884年)6月12日から三日間にわたって「鹿鳴館慈善会」を開いた。日本初のチャリティーバザーです。その売上金(かなりの金額になった)を
全額を共立病院へ寄付している。この資金をもとに、二年後には日本初の看護婦学校・有志共立看護婦教習所が設立された。

日露戦争でも銃後で活躍

米国新聞にも日本の置かれた苦しい立場を投稿され、また日本軍の総司令官の妻が米国の大学卒ということも手伝って、アメリカ人は捨松さんのこうした投稿を好意的に受け止め、これがアメリカ世論を親日的に導いた。
明治の群像・大山巌、捨松ご夫妻の功績 – 蘇る日本! 日本を良くすることができるのは、わたしたち日本人です – Yahoo!ブログ


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晩年の大山巌と捨松
仇敵同士の薩摩と会津での異例の結婚は、結果として良きパートナーとして支え合うステキな夫婦関係を築けたようです。
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2013年10月21日